双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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「2006年10月1日 第85回凱旋門賞(ロンシャン 芝2400m): ディープインパクト ――


そして、『英雄』になる――Longchamp; Prix de l'Arc de Triomphe (Groupe 1)(12T, Droit, BS)

 とうとう、その日がやってきた。

 フランスはパリ、ロンシャンレース場のターフは、前日に降っていた雨の影響か、少しばかり重さを含んだままだった。

 フランスクリールの発表では、稍重(Bon Souple)である。ただその響きが齎す印象よりも、今ダイナファントムが立つ路面の感触はよほどに重かった。

 

 もともと反発力は生まないのが欧州の寒地型芝のコースだ。体重の乗った足はそのままコースの中に埋まってしまい、自らの力で抜かなければそこから脱することもままならない。

 しかし今日の芝のコンディションは、そんな表現すらも生温かった。

 彼女の足から伝わってくるのは、もはや湿地にすら近いほどの感触である。ずぶずぶという音すら幻聴に聞くほどに足は無抵抗に沈んで、そこに確かにある湿り気をも大いに感じさせた。

 まるで水を含んだスポンジの上にでも立っているかのようだ。この程度のバ場状態でこれなのであれば、重バ場や不良バ場と発表された時にはどれほどの環境になるのかと、思わずダイナファントムは苦笑を禁じえなかった。

 

 しかし何にせよ、彼女のやらねばならないことには変わりがない。そして怖気づくはずもない。

 兎に角、この日はダイナファントムの、そしてディープインパクトのずっと目指してきたものへの、答え合わせに近かった。

 この一年において追い続けてきた夢の旅路の終着地でもあった。

 

 ここまで拾い集めてきたすべての思いと夢を抱えて、そしてこのレースを今一度制覇したうえで、日本へと帰るのだ。有記念へと出向くのだ。錦を飾るのだ。そうでなければ、ならなかった。

 このレース、ダイナファントムとディープインパクト、どちらが勝つかは分からない。しかし()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そう、強く心の中で誓っていた。

 

 それは不遜な考えではあるのだろう。去年に引き続いて今年もやってきた日本からの()()に、またこの年もみすみすと凱旋門賞の栄誉を奪われてはたまらない。そう考える欧州のウマ娘たちから発せられている刺すような戦意をも、ダイナファントムは感じ取っていた。

 

 その中心にいるウマ娘が、今ダイナファントムに近づかんとしている。

 

 彼女の勝負服は、ウェルシュ・コスチューム(ウェールズの民族衣装)をベースとしながら、しかしそのペチコートからガウン、そしてショールに至るまで、多少の濃淡はありながらもその全てが濃紺の色彩で統一されている。そのモノトーンはマクブライアン師のチームのウマ娘のなかでも特に有力な者にだけ許された実力者の証だ*1

 その頭にはミニチュアに意匠化されたウェルシュ・ハット*2がワンポイントのように載せられている。彼女のウマ娘としての名前の起源となった詩人「ディラン・トマス」の出身地たるウェールズの趣深く、しかしそれでいてどこか威圧感を覚える装いでもあった。

 

 芝を踏みしめて、ダイナファントムの眼前には今、これで都合三度目の激突となるウマ娘が、ディラントーマスが立っていた。

 

"いよいよ、だな。ミス・ダイナファントム"

 

 その声の中には、押し殺そうとして、しかし隠し切れない興奮の色がありありと見えていた。

 文字通り、待ちかねていたのだろう。昨年の晩夏、九月の初めの頃にはじめてかのウマ娘とぶつかって、そしてダイナファントムは二度の戦いにおいて、ともに勝利をおさめていた。

 故にこそ、きっと彼女は、ダイナファントムが欧州遠征を通して幾つもの勝利を、栄誉を頭に戴いてきたのを、ずっと見ていたのだ。

 

"負け惜しみではないが、私は今年、この日のためにずっと備えてきた。他のグループ1を取れずとも、とにかくここにピークを持ってきたいと、ずっと考えていた"

 

 ダイナファントムは、何も言わない。何となればそれは、この時間がディラントーマスにとって意思表明の場であるからだ。それに水を差すべきではない。そういう分別を、ダイナファントムはよく弁えたウマ娘であった。

 

"我々にとって、あなたたち二人はもはや「最強の敵」だ。極東から来たことが、何だというのか。今年パートⅠに上がったばかりの新興国のウマ娘などと、思うわけもない"

 

 向ける目線は鋭く、しかし謳われる言葉はどこまでも真っ直ぐな賞賛で、故にそこに偽りなど一つもないのだと、ダイナファントムは感じ取った。

 そして、かのウマ娘は、ディラントーマスは、言葉を結ぶ。

 

"だからこそ――あなたたちの快進撃は、ここまでだ。今年の凱旋門賞は、我々が、()()、いただく"

 

 出てきたのは、ともすればどこまでも陳腐な台詞であった。

 ウマ娘として当然の宣言でもあった。

 

 ――このレースに勝つのは、私だ。

 

 欧州のウマ娘はチーム戦で、必ずしも勝ちを求められているウマ娘ばかりではない。それでもターフの上に出てくる以上は、チームにおける役回りを果たしても、それでもその上で、誰もが勝利を望んでいるのだ。そうであるべきで、その思いは誰にも否定できない。

 

 だからこそ、結局ウマ娘たちがレースの前に交わす言葉は、ぶつける闘志は、そこにこそ行きつく。他の全てのウマ娘に、「勝つのは私なのだ」と、声を大にして主張するのだ。

 当然にそれは、ダイナファントムにとっても同じであった。

 口の端に浮かんでいただけの笑みが、顔の全てに広がる。まさに相好を崩して、小さな笑い声すらも上げて、ダイナファントムは頷いた。

 

"光栄です。何度も、あなたは私にそう言ってくれましたね。ミス・ディラントーマス"

 

 そうだ。彼女はいつだって、ダイナファントムのことを侮りはしなかった。この近代ウマ娘レースの本場の一線級のウマ娘であることを誇りとして、故にこそ極東からの一挑戦者であったダイナファントムのことも、一度たりとて下には見なかったのだ。無論、彼女と初めてぶつかった時に既にダイナファントムはキングジョージウマ娘の栄誉を得ていたが、そうであってもかのウマ娘の真っ直ぐな態度は、誇りある態度は、ダイナファントムの胸の中を常に暖かく照らしていた。

 

"初めて私に真正面から話しかけてくださったウマ娘が、あなたでよかった。本当に、そう思います"

 

 毒気が抜かれたような、面食らったような、それでも闘志そのものは未だ心の中で燃やし続けているような、そんな趣で自らのことを見るディラントーマスのことを、ダイナファントムは改めて正面から見る。その目を、しっかりを見据えた。瞳を、覗きこむようにして。

 

"だからこそ、挑み甲斐があるんです。――ええ、私は未だに、挑戦者ですから。彼女も"

 

 そこで自らの隣にどこか所在なげに佇む()()()()()()()()()に、ダイナファントムは初めて目線をやった。

 それを受けて、ディープインパクトが頷く。無言で、ダイナファントムの言うことは、正しいのだと。

 

"私は、()()()は、最後です。この場所に、ロンシャンに現役のウマ娘としてやってくるのは。だからこそ、そっくりそのままお返しします"

 

 軽く息を吸って、目の前を眼光鋭く見据えて、笑顔を以て言い切った。

 

"()()()()させてもらいますよ。今年も、凱旋門賞を制覇するのは、日本のウマ娘です"

 

 それはまさに宣戦布告で、そして通過儀礼でもある。

 互いの戦意を確認して、それを高めて、その精神状態のままでゲートに至るのだ。

 果たして不敵に笑い合ったディラントーマスは、そしてダイナファントムは、そこから互いにもはや目線を合わせておく意味などないと、あっさりと別れた。そのまま一足先に、ディラントーマスが自らの割り当てられたゲートに、六番の枠に向かって歩いていく。

 

 それを見届けて、ダイナファントムもいよいよ枠入りへと向かうことにした。

 その寸前に、彼女はちらりと己の隣を見やった。つまり、ディープインパクトの方をである。

 

 ディラントーマスの前でも、そしてそもそもバ場入りの前にあっても、彼女は何も言わなかった。もともと寡黙なウマ娘ではあるが、しかし意思の発露を一切しないというわけではない。少ない言葉の中に鮮やかな感情を映し出し、よくよく観察すればその実は雄弁とも言えるのがディープインパクトというウマ娘である。

 しかし今日この日、彼女は文字通り何一つとして言葉を発そうとはしなかった。彼女はただ、自らの内面と向き合って、その延長においてこの場所に立っているようにすら、ダイナファントムには感じられた。

 

 兎にも角にも、いつもと違う。しかしそれは同時に、ディープインパクトというウマ娘がこのレースに対して、今までに類を見ないほどの()()をその心に懐いている、ということの証左でもあるのだろう。

 その内面はただ一人ディープインパクトのためのもので、故にダイナファントムは、その「何か」を質すようなことはしなかった。したいとも思わなかった。

 

 ただそれでも、視線だけは向ける。見られていることを感じたか、ディープインパクトの方もまた、ダイナファントムにその顔を向けた。

 無言のうちに中空で、視線がぶつかる。互いになにかを口にしようと思うこともない。沈黙を破るつもりはなかった。

 それでも、どこかで思いは伝わる。

 

 ダイナファントムが頷いて、そしてディープインパクトもまた頷いた。

 言語化の難しい、それでも確かなつながりで以て、二人のウマ娘は今、意思を通わせた。そして、それで十二分であった。

 

 視線を外し、ダイナファントムが自らの枠へと向かう。ディラントーマスの一つ外枠、七番のゲート*3へと、するりとその身を潜らせた。

 程なくして、ディープインパクトも静かにゲートの前に立つ。ディラントーマスの一つ内枠、五番のゲート*4だ。そして小さな息遣いをダイナファントムの鋭い聴覚が拾ったすぐあとに、かのウマ娘もまたその中に納まった。

 

 

 

 誰もが妥協をしない、十四人の優駿たちの戦いである。思い思いにその全てが発バ機の中に落ち着けば、そこには静寂がやってきた。

 昨日のそれとは打って変わっての陽光がターフを白に染め、そして吹き抜ける風が奏でる漣が如くの葉擦れの音が、場を満たした。

 

 斯くして、刻は満ちる。

 

 スターターが静かに掲げた赤旗が、開いたゲートの音が、決戦の二分三十秒の嚆矢となった。

 

 

 

 今年の凱旋門賞は、()()()と始まった。

 理由は一つであった。つまりダイナファントムがいつものように抜群の飛び出してゲートから出た後に、()()()()()()()()()()のだ。

 青天の霹靂と言うほかない。文字通りこのレースに参加しているすべてのウマ娘にとってである。

 

 ダイナファントムを後ろからつつくために、あるいはつかまえるために一気の脚を使って前に出ようとしたソングオブハイアワサとイエローストーンの二人が、自らの視界の先に目指すべきものがないと知った時、彼女たちの真後ろには()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そしてはっきりと、真後ろからプレッシャーをかけ始めていたのだ。大外十四番の位置から前に寄せてきたソングオブハイアワサの丁度後ろ、三番手の位置に、彼女はするりと納まっていた。

 

 欧州のウマ娘たちが、マクブライアン氏が自らに対する策を練っているというのに、己がなにも工夫せずに戦いに当たるというのはむしろ失礼というものであろう。ダイナファントムに言わせれば、そういうことである。

 つまるところそれは、昨年のアイリッシュチャンピオンステークスでやったことの焼き直しであり、あるいは改良版であった。そしてこの逃げを捨てた「完全なる先行策」の根源は、ダイナファントムにとって三か月ほど前のレースにあった。即ち、小雨の中の宝塚記念である。

 

『これは面白い展開になった! 先頭は二人、内に九番イエローストーン、外に十四番ソングオブハイアワサ、その後ろ! ここです、この場所にダイナファントム。今日はペースメーカーの二人を行かせて、その後ろ三番手から先行策ということでしょうか』

 

 スタンドが、またあるいはテレビの向こうの誰かが、驚きに声を上げるさなかを、ダイナファントムは淡々と往く。一列を形成してペースを作ろうとする二人のウマ娘にじっとりとプレッシャーをかけ続け、彼女たちが作り上げたいペースからはやや早めの、しかしダイナファントムにとって全力と言うほどではない、トータルにおいてはやや緩めの流れが、そこには出来ていた。

 

 そうなると、後ろのウマ娘たちも判断を迫られる。

 

 つまり今の状態は、()()()()であった。先頭がダイナファントムで、そしてそれをペースメーカーが破滅覚悟でつつきに行く絵面ならば、それは無視してしまえばよい。過去の幾度ものレースの中でダイナファントムの限界のペースを測っていた――最低でもそう判断していた――マクブライアン氏とそのチームは、ダイナファントムに後ろからプレッシャーをかけてオーバーペースで無理やり走らせることを徹底するであろうことが確実であったからだ。

 そして逆に、ダイナファントムの頭を押さえてペースを鎮めにかかることに成功していたならば、今度はダイナファントムを包むように動きつつ固まったバ群を形成すればよかった。ダイナファントムのことをウマ娘たちの「檻」に閉じ込めて、そして自分たちだけはいい位置取りで先頭を見る。ディープインパクトは後方ゆえに、最善の位置取りを欧州勢だけで確保して弾き飛ばしてしまえば足りる。そういう目論見もあった。

 

 しかし今は、どちらでもないのだ。ダイナファントムの出足に対抗すべく一時的に加速して、バ群を形成するそのほんの直前、時間にして三秒とないそこを、まさに狙いすましたように狙われた。

 ぽっかりと空いた先頭のペースメーカー二人の外目すぐ後ろで、一度加速してしまったその身体に合わせるように張り付かれると、ルールの範囲内でペースを落とすことはもはや難しい。

 内に寄せて一度ダイナファントムを前へと押し上げようとしても、今度は二人のペースメーカーによってダイナファントムを捕まえようとしたフォーメーションが裏目に出ることになる。つまり二人のラビット、ソングオブハイアワサとイエローストーンは、この瞬間において互いが互いを内に寄せて退くことを、完全に邪魔する位置取りになっていたのだ。

 

『さあ三番手ダイナファントムの後ろは少し、大体四バ身から五バ身空いて、四番手最内ドラゴンダンサーとソルジャーオブフォーチューンがまた二人並んでといった体勢です』

 

 こうなると、前は完全に膠着状態である。一度ついてしまった三番手ダイナファントムと四、五番手の二人のウマ娘の間は、ペースを大きく崩さない限りは縮まらない。そしてペースメーカー役以外のウマ娘は、自らをして勝ちに行かんとしているわけで、他人のためにペースを整えようとすることは決してしない。その辺りは日本のウマ娘レースと似通っていた。

 つまりダイナファントムたち逃げの位置取りの三人は、四番手以降の一団のバ群から五バ身離れた辺りで、ひとまず放置されることになった。捕まえることは難しく、しかし放っておいても大丈夫な位置取りとはいいがたい。しかし追いかけるのも難しく、結局その位置取りはわずかながらにこれから変えていかざるを得ない。そんなまさに絶妙な位置を、まんまと確保せしめたのである。

 

 つまりダイナファントムとマクブライアン氏のチームのウマ娘たちとの知恵比べの第一ラウンドは、ダイナファントムに軍配が上がった。その象徴的な出来事が、ここまでの凡そ六百メートルほどの攻防に集約されていた。

 

 

 

 しかしこの()()における勝利が、直ちにダイナファントムの凱旋門賞での勝利を意味することはない。

 否、日本からのウマ娘は、()()()()()()()()。誰かなど、今更言うまでもない。

 

 その彼女は、小柄な鹿毛、葡萄茶と紺、金色で彩られた勝負服のウマ娘は、レースの始まりにおいて早速に、また一人のウマ娘に照準を定めた。

 眼前に捉えるは、濃紺に染まった勝負服の影である。つまりディープインパクトは、ゲートに出たその瞬間からディラントーマスのことを完璧にマークしていた。

 理由は単純である。今回ディープインパクトは、そして奈瀬トレーナーは、ダイナファントムがペースメーカーと無理やり先を競って逃げる展開にはならないと最初から踏んでいた。

 それは結局のところ宝塚記念でダイナファントムが選んだ走りが関係している。つまり今のダイナファントムが、()()()()()()()()()()()()()状態にあることを、看破したのだ。

 

 その条件においてダイナファントムのやりそうなペースメーカー対策は、その後ろにつけてプレッシャーをかけ続け、自らの最適なペースとペースメーカーにとって望ましいペースの()()()()あたりを実際のペースとするであろうと、奈瀬トレーナーは洞察していた。

 果たして今目の前で繰り広げられているのは、まさしくその光景である。ディープインパクトにとってやや誤算なのは、それが「四番手以降の集団と五バ身」というやや開きのある展開になっていることだが、しかしそこまで深刻な影響があるわけではなかった。

 

 ディラントーマスが勝てると目論む位置取りは、勝手に作ってくれる。ならばその後ろにつけて、そこからダイナファントムを射程にとらえることのできる仕掛けのタイミングをこちらで探りつつ、いいタイミングで外に出せばよい。初めからそう心に定めていれば、それ以上思い悩むこともなかったのである。

 

 結果、前方で実質的なペースの支配者となったダイナファントムと、後方からそのダイナファントムとの最適な距離感を一人だけ確保するディープインパクトという構図が、すでに今年の凱旋門賞の骨子となっていた。本当に、「いつの間にか」と言ってよいほどの神業である。ダイナファントムとディープインパクトは、互いに互いの勝利のことしか考えていない行動をしつつ、しかし同時に他の欧州勢のウマ娘に対しては、完璧な()()()()()()のようにそれぞれに動きやすい、有利な展開を押し付けていた。

 

 ――こいつら、いよいよチーム戦術に舵を切ったか。

 そう考えるウマ娘が出てくるほどにである。

 

 

 

 ただ、ディープインパクトに真後ろからマークされた形のディラントーマスは、そんなことは全く考えていなかった。

 日本のウマ娘が、ディープインパクトとダイナファントムが、高潔だからではない。

 よくよく観察すれば、それはあくまで自らの勝利のみを追いかけている個人最適の行動であることは、容易に見抜くことができた。「フランスのGⅠの中で日本のレースのやり方を押し通そうとしている」ことが、「チームプレイ」のように見えているだけなのだ。

 

 もしそうなのであれば、ディラントーマスが取らなければならない動き方は決まる。

 

『さあバ群は六百メートル、十メートルの坂を登っていって、四番手集団から後ろは固まっての進行、外目後方四番手ぐらいの位置にディラントーマス、その後ろにディープインパクト、今年の英ダービーウマ娘オーソライズドは最後方からとなっています。おっと、ここでディラントーマスが動いたか、その前ザンベジサンの真後ろ、内に入れるようにすーっと動いて、ディープインパクトをやや外へと押し出すように動いています』

 

 つまるところそれは、マークされないように思い切って内ラチ沿い、バ群の中に入れる選択であった。

 ロンシャンの直線は、横に大きく広がる特徴がある。そしてスパートからのウマ娘のスピードがバラバラで、それぞれの間には空白ができやすい。普段ギチギチのバ群の中で仕掛けどころを探り、多少ぶつかってでもバ群を割ってスパートに入ることを苦にしない欧州のウマ娘たちにとって、ウマ込みに入れるという行動それ自体は、そこまでリスクのある行動ではなかった。

 

 一方で日本のウマ娘はそうではない。いわゆる「行儀のよい」レースぶりを好む日本のウマ娘は、レース中にあまり他のウマ娘との距離を無理に詰めようとはしない。

 それは日本のレース場が、その地理的条件において強い風にさらされることがなく、スリップストリーム効果を使わずとも一定の速度で走れることも理由の一つではあった。ただいずれにせよ、極端なウマ込みを経験しない日本のウマ娘たちにとって、そういう「極端なバ群で揉まれる」ことはリスクであった。特にバ格としては小さいディープインパクトの場合は、なおのことである。

 ディラントーマスはその辺りまで見抜いて、この行動に出ていた。

 日本のウマ娘のことを、日本のレースのことをよく調べていた。そして、それに真っ向から勝とうとしていたのである。

 結果ディープインパクトは、ディラントーマスを見るような位置でありながらもその後ろではない、やや斜め後方の位置でレースを進めることを余儀なくされた。

 

 その辺りが丁度坂の頂上、千メートル通過のタイミングであった。

 

 総じて虚々実々の応酬と言えよう。それほどまでにこのレースの中では、誰もが本気であった。本気で勝ちたいと、願っていた。

 

 

 

 射し込む陽光に煌めくターフの緑が、丘の頂点、右手に見える木立の風に揺れるざわめきが、それすらも塗りつぶす蹄鉄の重さを内包した音が、十四人のウマ娘の感覚をも研ぎ澄ましてゆく。位置取りを競う激流が過ぎ、仕掛けのタイミングを窺うべきフォルスストレートまでのしばしの間に、彼女たちは己が心中と向き合う。

 

 

 

 ダイナファントムにとっては、ここは連覇のかかる舞台である。彼女にとってそれは、未だ強く目指すものであった。目指すべきものであった。

 ――「誰もが成し遂げてこなかったことを為したい」。それは彼女の原点であり、そして今なお続くレースに対する原動力、そのものだ。

 結果としてダイナファントムは、日本のウマ娘として初めてイギリスのGⅠを勝ち、凱旋門賞を勝ち、気づけばGⅠの勝利も十を数えていた。戴いたクラシックの冠こそ一つでも、今や彼女は日本のどのウマ娘も成し遂げてこなかった頂の座にいる。その自覚は、確かにあった。

 それでも、彼女はそこで満足してはいなかった。するべきではないと思っていた。凱旋門賞を勝ったのちの虚脱の日々の中で、レースへの活力を置き去りにすることの愚かしさを、ダイナファントムは知ったからだ。

 だからこそ今、彼女は「日本のウマ娘による凱旋門賞の連覇」という、実現されれば向こう三十年は出てこないやも知れぬ偉業を、最大のモチベーションとしていた。「このレースの連覇を狙う」ことが、「王者としてこのレースを楽しむにあたっての、最も誠意ある在り方だ」と思っていたのだ。

 王者は王者らしく、他の全ての考えを捨てて、無心で連覇のために頭を絞る。それこそが、そうやって走ることこそが、このレースに出てきた自分のやるべきことで、そしてやりたいことであった。

 

 

 

 ディラントーマスにとっては、日本のウマ娘の快進撃を止める千載一遇の機会である。

 今や欧州に乗り込んできた二人の日本のウマ娘は、時機を逸したun grand Roi d'effrayeur(恐怖の大王)そのものであった。或はそれは、歩く災害と言ってもいいかもしれない。

 幸いにしてシーズンの中で参加するレースは多くて二つではあるが、すでに彼女たちに――というよりは専らダイナファントムにであるが――四つものGⅠタイトルを奪われている。しかもその全てが、欧州のウマ娘にとって最大の名誉となりうるレースなのだから、たまらない。

 

 無論、この二人のウマ娘が抜きん出て強いことは理解している。チームを組んで当たることの多い欧州のウマ娘に対して真っ向から挑んで、それを粉砕してきているのだから当たり前のことである。それは素直な賞賛の対象で、ディラントーマスにはどこまでも輝かしく、そして高潔にも映っていた。

 しかし、いやだからこそ、それを止めるのは自らの役目であると考えていた。シニアに入り、文字通り欧州のウマ娘の中では世代の頂点に立った己は、この偉大なる日本からの()()()を食い止める役割があると自認していた。それができるのは、自分以外にはあり得ないとも考えていた。

 レースの始まる前、ダイナファントムに宣言した誓いの言葉は、何一つ嘘ではない。挑戦者の心意気で臨むが、それでも、それ故に、負けてやるつもりなど一欠片もありはしなかった。

 

 

 

 そして――ディープインパクトにとっては、このレースにかけるものは、あるいは祈りにすらも似ていた。

 ダイナファントムとは違えども、彼女もまた「望まれた」ウマ娘であった。常にその資質を期待され続けていた。デビューの前から、「三冠の器である」とも言われてきた。

 結果として彼女はライバルたるダイナファントムの出現によって三冠を逃し、次の年、つまり去年挑んだこの舞台、凱旋門賞で、日本のウマ娘として初の栄誉をも、ダイナファントムに取られてしまっていた。

 

 それに恨み節を言うつもりはない。ダイナファントムと走るレースの時間は、いつだって楽しかった。いや、今もなお楽しい。丁々発止の駆け引き、最後の壮絶な競り合い、花開く「領域」の中で心通わせるひとときも。そのすべてを、好ましく思っていた。愛していると言ってもよい。

 それでも、もはやそれだけではいられなかった。自らとダイナファントムとの競走ウマ娘としてのキャリアを見比べて、ダイナファントムに対して誇れるウマ娘としてあるためには、今年の凱旋門賞ばかりは勝ちたかった。勝たなければならなかったのだ。

 故にディープインパクトは己の在りようを枉げてでも、このレースに勝ちを得ることを望んだ。レースに対する勝利を、それへの渇望を、「走りを楽しむ気持ち」の上に置いた。彼女の心の中で、その優先順位が置き換わっていた。

 

 

 

 互いの胸中に掲げる思いが、望みが、世界に溶け出していく。緩い下り坂を駆け下りつつ仕掛けに入る手前の場所、フォルスストレートのただ中で、抑えきれるはずもない衝動はいつしか現実をも塗り替える力を生んだ。

 「潜る」までもない。己の内心を、その心象を解き放つようにひとりでに、知覚する世界の全てが、いつしか彩りの中で爆ぜた。

 

『坂を下り切ってフォルスストレート、残り八百メートル手前でさあじわりじわりとバ群が動き始めて、四番手ドラゴンダンサーやや前へ前へと位置を上げているか。ドラゴンダンサーその後ろに続くようにしてソルジャーオブフォーチュン、サデックスとザンベジサンもつれて上がって、四、五番手とダイナファントムとの差は今一バ身から二バ身といったところ。後ろゲッタウェイ、マンデシャ内につけて、その外から回っていって上がっていくぞディラントーマス! そしてその後ろ! その後ろディープインパクト動く! ディープインパクト動く! ここでディープインパクトディラントーマスの後ろから、横から動いて、すーっと上がっていって六、七番手! 外からディラントーマスに並んで、さあ最後の直線だ!』

 

 

 

 心にすら触れ合えるようだった。芝の上を駆ける自らの実存と、五感の境界すら熔け合うが如くの、「領域」の交差する世界のレイヤーが、気づかぬうちにひとりでに重なって、しかし併存している。

 直線早々で前を走るソングオブハイアワサとイエローストーンは内に退避しながら落ちてゆき、開いた進路をダイナファントムが爆発的な加速で前に抜け出した。無限の力すら湧き上がってくるほどの強力な後押しが、それまでのキャリアで一度も出したことがないほどの差し脚をダイナファントムにもたらしていた。

 

『ここで抜け出したダイナファントム! ダイナファントム一気に先頭に変わって突き放す! 後ろを突き放す! 今年もダイナファントムか! 日本の夢を、ファンの夢を、また叶えるかダイナファントム!』

 

 しかし、それだけでは終わらない。その後ろで、それをまるで待っていたかのように、ディラントーマスが前を走るサンベジサンとサデックスの間を()()()()()()

 立ち塞がる障害の悉くを粉砕するかのような、ぶち破るかのような勢いで前に、前に出てゆく。

 

『――しかし! しかしその後ろから飛んでくる! 突っ込んでくるディラントーマス! 今年のキングジョージウマ娘、バ場の三分どころから飛び出して、ダイナファントムとは五バ身六バ身の差、追っている追っている!』

 

 実況の緊迫した声色が、その猛威を雄弁に語る。

 一人だけ、脚色がまるで違うのだ。一完歩ごとに彼女は、間違いなくダイナファントムとの差を詰めていた。追いつこうとしていた。

 

 そんな彼女が心に描く表象は、宵闇と瞬く光だ。

 星も見えない夜を切り裂いて、消えゆく光を燃やして、沈みゆく宵の全てに抗う。

 

 ――夜の腕の優しきに、身を任せることなかれ(Do not go gentle into that good night)

 ――怒れ、消えゆく光に憤れ(Rage, rage against the dying of the light)

 

 それは彼女の名の元となった詩人による最も有名な詩の一節だ。その言葉の示す、活力への強い激励をなぞるように、勝利への渇望を爆発させて、ダイナファントムの影を猛追する。

 差し切る。差し切れる。そんな明白な勝算にも近いものを、ディラントーマスは心に持った。それほどの勢いであった。

 

 

 

 ――しかしその時、そのさらに後ろで、無声の咆哮が轟いた。

 

『ディープは! ディープインパクトは来ないか! 来れないのか! ――来た、来た来た来た来た! ディープインパクト大外から! 大外から()()()()()!』

 

 前の争いを、繰り広げられる模様の張り合いの全てを見下ろすように、飲み込むように、目を灼く光が、その形作る翼が、矢の如く迫りくる一人のウマ娘の存在を知らしめた。

 ただ白いばかりではない。同じターフに立つウマ娘たちの網膜に焼き付くのは、かのウマ娘のごちゃ混ぜになった胸中を、そこから出ていく情動を象徴するかのような、極光の如き輝きであった。

 外に持ち出し、無人の野をただ一人、彼女は周りが止まって見えるほどの速さで駆け抜ける。

 

『四番手、四番手から三番手、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! あと二百ッ!!』

 

 そしてディープインパクトは次の瞬間、一歩先に前へ抜けていったディラントーマスを()()()()()()、そして残り二百メートルの手前の位置で、もはやダイナファントムの背中にすらも追いつこうとしていた。

 今までの彼女がみせてきたパフォーマンスなど児戯にも等しいような、超常的と評してもいいほどの異次元の加速と、そして脚であった。

 

 

 

 その存在感を背中に覚えて、ダイナファントムもとうとう心象の中に、己の裡から今にも零れ出しそうであった光芒を、それが刻む輝ける轍のシルエットを投影した。

 寄り添い、絡まりあい、無限の果てに伸びる線路が、今一度ダイナファントムの身体を強く強く押す。

 一気の加速で使った脚が少し鈍ったディープインパクトと、横一線に並んだダイナファントムの歩調が合う。身体を併せ、互いに一歩でも先んじようと、その他の全てはいつか意識から追い出された。

 そしてその後ろから未だ諦めることなく二人の背中を追うディラントーマスも、まだ少しだけ持続力の余地を残しているか、一完歩ごとに少しずつ、先頭との距離を詰めていっていた。

 

 それはまさに、原始的な闘志のぶつけ合いだった。技術や戦術の彼岸にある、殴り合いにも等しい追い比べとも言えた。

 しかしそうであるが故に、その三人の競り合いを目にしているスタンドの観客の、あるいはモニタ越し、テレビ越しにそれを見守る数多のウマ娘レースのファンの心を揺さぶっていた。掴んで、そして離してはおかなかった。

 国を超え、ファンの垣根を超え、もはや誰もがその三人に分け隔てなく声援を送っていた。

 

 ――差せ。

 ――粘れ。

 ――突き抜けろ。

 ――押し切れ。

 

 ――出来るのなら、この競り合いが永遠に続けばいいのに。

 

 その全てがマーブルとなった先の場所で、後ろのウマ娘たちからは隔絶された世界に立ち入って、永遠に続くかと思うほどの叩き合いを、三人は演じた。

 意志も、意地も、夢や祈りも、そして走りそのものを、繕うこともなく真っ直ぐにぶつけ合い、殴り合い、削り合っていた。

 

『ディラントーマス内に入れる! 内から並ぶか! ダイナファントム粘って、ディープインパクト差し切るか! いや粘っているかダイナファントム! ダイナ! ディープ! ディラントーマス少しだけ苦しいか! しかし譲らない! 一線! 一線だ! これは分からない! これは分からない!!』

 

 それを伝えるべき実況も、もはや悲鳴にすらも聞こえる叫びを発するばかりであった。もはや己が領分を、半ば放棄しているに等しかった。

 しかし同時にそれは、つまり今目の前で繰り広げられる情景が、それほどまでの全てを擲つが如き死闘であるということを、何よりも雄弁に語っているとも言えた。

 

 

 

 そして彼女たちが、互いに譲らず、退かず、縺れに縺れ、何が勝利で敗北かすらも分からなくなりかけたそこで――しかしそれでも唐突に、終わりはやってくる。

 

『並んで、三人並んで、並んだままゴール! ――全く分かりません! これは全く分からない! 中ダイナファントム、内ディラントーマス、外にディープインパクト! 三人並んで、しかし内ディラントーマスだけは少々体勢としては不利でしょうか! それでもこれは三人まとめての写真判定でしょう!』

 

 なぜならそれは言うまでもなく、ラスト一ハロンの中の物語であったからだ。三人が並んで、なだれ込むように決勝線を通り過ぎるのは、故にそれからわずか十秒ほど先のことであった。

 

 勝敗の決着は兎も角として、彼女たちにとってのこの年の凱旋門賞は、その瞬間に終わりを迎えた。それだけは、事実であった。

 

 

 

 全く以て余裕なくゴールして、故に暫くの間三人の助走は続く。結局彼女たちが足を止めたのは、凱旋門賞のスタート地点である二千四百メートルのポケットのほど近く、ロンシャンの風車小屋の辺りであった。

 

 まさに総力戦で、そして消耗戦である。立ち止まってからの三人は、それぞれが大きく息を切らしていて、すぐに互いに言葉を交わすことも難しい。しかしその間に、つい先刻までの夢の如きひとときのことを回顧して、そして三人がそれぞれ何かを言えるほどに息を整えたその時に、まず最初にディラントーマスが声を上げた。

 

"また……届かなかった、か"

 

 つまりそれは、今回の勝敗についてである。傍目には横一線に見えて、しかし確かにゴールの一瞬、ディラントーマスはそのほかの二人からほんの少しだけ遅れていた。

 実況の述べたことは正しい。「恐らくは短アタマ差。ハナ差までは迫れなかっただろう」。ディラントーマスはそう、自らの着差について結論付けていた。

 ダイナファントムも、そしてディープインパクトも、軽々に言葉を返すことはできなかった。競い合う中で叩きつけられた感情の大きさが、かのウマ娘がこのレースにかけていた思いの大きさを、否応なしに悟らせていたからだ。

 故にダイナファントムは、ただ無言でディラントーマスめがけて頭を下げた。

 「確かに、私もそう思います」。つまりそれは、そういうことであった。

 

"――悔しいなぁ"

 

 それを見て、いよいよ己の負けを悟ったディラントーマスが、しみじみとそう口にする。しかしその声色は、裏腹にどこか晴れやかにも聞こえた。

 

"悔しい、本当に。しかし、後悔はない"

 

 そのままディラントーマスはダイナファントムへと向き直り、右手を差し出してきた。

 意図を察して、ダイナファントムもまた己の右手を差し出してそれを握る。そして、二人は結んだ右手を中心に、身体を寄せた。

 自由に動くその左腕で、互いの火照った身体を軽く抱き合う。スタンドから、喝采が上がった。

 

 

 

 そこから、かれこれ一分ほどそのままの姿勢でいただろうか。二人がその末に、名残を惜しむように身体を離す。

 そしてまた、向かい合った。

 

"これが、最後だったか"

 

 誰の、何が。その辺りのことは、もはや言葉にする必要もない。黙って頷いたダイナファントムに、ディラントーマスはふわりと笑みかけた。

 

"そうか。なら、敢えて言わせてもらおう"

 

 ――壮健なれ、神の祝福あれ、我が最強の敵手よ。私はあなたを、生涯忘れないだろう。

 

 そう言い残し、そして彼女は一足先に、コースから引き揚げていく。

 その姿は次第に遠くなり、声もまた届かなくなる。それでもダイナファントムは、ディラントーマスの姿が完全に見えなくなるまで、彼女の方を向いたままに、その姿をターフの上から見送った。

 

 

 

 そしてその場には、ダイナファントムとディープインパクトだけが残った。

 

 

 

 そんな彼女たちをよそに、写真判定もまた同じような経過で進んでいた。即ちほぼ同時の入線となった三人のウマ娘のうち、内のディラントーマスに関してはスリット四本分程度、つまり短アタマ差という、写真判定で行うには明白なる着差でもって、三着であると決定された。それに異論を挟むものは当然に誰もいなかった。

 

 問題はダイナファントムとディープインパクトである。二人の写真上の入線時の差は、最低でもスリット一本分もない。

 否、一本という表現すらも正しくない。彼女たち二人に関しては、写真上ですらもほとんど差を確認できなかった。全く同じ姿勢で、全く同じ腕の振りで、全く同じ身体の傾きで、全く同じように入線を果たしていた。

 

 当の本人たちも、互いのうちどちらが今回のレースの勝者であるのか、判断するのは難しいと考えていた。勢いという意味で体勢を語ろうにも、それすらもまるで双子のそれであるかのようにぴったりと重なっていた。主観的にも、ダイナファントムとディープインパクトの二人のどちらにおいても、「負けたとは当然考えていないが、同時に勝ったとも到底思えない」と、そう相手との差について考えていた。

 

 故に、議論は紛糾する。入線してから十分以上も、着順が確定しなかったほどである。つまり次のレース、ティアラ限定GⅠたるオペラ賞のための準備をそろそろ始めなければならない時間でも、何の結論も出せていなかった。

 当然に対象となった二人のウマ娘もコースから引き揚げられない。二人がともにウイナーズサークルで結果を待ち受けるという、奇妙な光景がそこにあった。

 

 そのさなかに、一度だけ裁決委員が彼女たちの許を訪れた。

 用件は一つである。つまり、「今回の結果を同着として処理してよいか」という話だ。それほどまでに、今回のレースの結果に主催者は結論を出せていなかった。

 しかし、二人は口を揃えて答えた。

 

 ――いえ、可能な限りどちらかの勝ちと決めてください、と。

 

 同着は全てを丸く収める無難な策ではあっても、どこかに確実に不完全燃焼を残す玉虫色の決着であるとも言えた。

 ここまで積み上げた功績が妥協の必要を失わせているダイナファントムと、勝つにしろ負けるにしろ確固たる結果を求めているディープインパクトの双方にとって、それは歓迎すべきでない結末であったのだ。

 

 故にそれから更に十分、レース終了後から二十分にもわたって裁決委員同士の話し合いは続くことになり、そしてその末に、やっと彼ら彼女らは今回のレースの結果を確定させた。

 

 

 

 ――()()()()()()()()()()で、ディープインパクトが一着。

 それが、今年の凱旋門賞に下された、結論であった。

 現代の写真判定技術のギリギリ、検出下限といってもよい、過去に類をみないほどに微細な差によって、勝敗は決した。

 

 

 

 それを聞いたときのダイナファントムの心境を、一言で表すことはとてもできない。

 

 まず頭をもたげたのは、悔しさであった。

 当然だろう。もはや文字通りと言っていい紙一重の差で、彼女の持っていた凱旋門賞連覇の夢は叶わなかったのだから。負けて嬉しいウマ娘など、どこにもいないのだ。

 

 しかしそこには確かに、清々しさともいうべき感慨もまた同居していた。結果は幸いせずとも、このレースにおいてしっかりと二人の間に決着がついたことは、のちにたらればを残すこともない、あるべき結末であった。そう、ダイナファントムは考えていた。

 

 

 

 そしてその二つをも覆いつくすが如くに今彼女の胸中を満たし、溢れんばかりにこみ上げてくるものの正体はきっと、()()()()()()()()()()()()()()

 だからこそ今ダイナファントムは、その心の促すままに、隣に立つディープインパクトにその身を向けて――そして気づけばその小柄な体躯を、己の腕の中におさめていた。

 

「っ……ファン?」

 

 当惑するように声を上げたディープインパクトに、しかし気にすることなく、ダイナファントムは声をかける。

 

「おめでとう。……おめでとう、ディープ」

 

 発する声は、震えている。どこか濡れたように、涙すらも堪えるような色であった。

 

 彼女の前に敗れたのは紛れもなくダイナファントム自身であるのに、それでも心の内から湧き出る情動と衝動を、その温かさを、偽ることなどできはしない。

 何となれば恐らく、ディープインパクトというウマ娘の存在は、ダイナファントムにとって半身にも近しいものへと至っていたから、なのだろう。

 

 共に勝ちを競い、そして世界に「日本のウマ娘ここにあり」と存在を刻み続けてきた、己にとって連理の如くのウマ娘が、この瞬間に世界の頂点に最も近い場所で輝きを放っているという事実が、どうしようもなく嬉しかったのだ。誇らしく映ったのだ。

 

 「それみたことか」、と。

 「ディープインパクトというウマ娘は、これほどまでに強いのだ」、と。

 今ダイナファントムは己すらも差し置いて、世界の全てにその事実を叫んで回りたいという衝動すらも、心の内に抱えていた。

 

 そんな、どことなく奇妙な、それでも力強い思いを胸に、ダイナファントムは今一度、ディープインパクトの小さな体躯を強く抱きしめた。

 

 

 

 抜ける青さで澄みわたる空が、そこから一際輝いて照り付ける陽光が、ウイナーズサークルの二人を照らし出す。

 それは紛れもなく、天よりの無上の祝福であるように、彼女たち二人を見る誰もが思った。

 

 

 

 ――その日、ロンシャンのターフの上で、ディープインパクトというウマ娘は、まごうことなき『英雄』となった。

 

 

 


 

 Résultat de la course: Longchamp; Prix de l'Arc de Triomphe (Groupe 1)(12T, Droit, Bon Souple)

 1er: Deep Impact

 2ème: Dyna Phantom nez

 3ème: Dylan Thomas cte tete

 4ème: Youmzain 3.L

 

 3F dernier: Non mesuré

 Temps total: 2:25.3*5

*1
現実世界においては、クールモアの馬主としての名義人の中で、ジョン・マグナー夫人が代表となっている馬に割り当てられる勝負服。他にはガリレオなどがいる。なお最近ではマイケル・テイバー氏の方に有力な馬が行くことも増えていて、その代表的な例にはオーギュストロダンがいる。

*2
山高帽を更に縦に伸ばしたような帽子。

*3
史実ではソングオブハイアワサのゲート番

*4
史実ではこの年の愛ダービー馬にしてニエル賞の勝者、ソルジャーオブフォーチュンのゲート番

*5
史実のタイムは2:28.5。史実における走破タイムは稍重としては標準的であり、今回のタイムがどれほど常軌を逸しているかを物語っている。




本文中のディラン・トマスの詩ですが、2024年は1953年没のディラン・トマスの没後70年が経過し、パブリックドメインになっています。ということでせっかくなので引用してみました。


そしてこの話ですが、唯一元のダイススレとダイナファントムとディープインパクトの勝敗を入れ替えました。
これは本作を書き始めたタイミングで決めていたことでした。ダイススレSS化の趣旨に反するものの、ここばかりはディープインパクトに勝たせるべきだと考えた次第です。
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