『中山レース場、今日のメインレース。グランプリ有馬記念の発走が、いよいよ迫ってきています』
暮れの中山、冬の晴れ空に、実況の声が響き渡っている。中山のスタンドには十五万人を優に超える人々が集まって、その空間の悉くを埋め尽くしていた。
『今年もフルゲート十六人のウマ娘が、ファンの夢を託されたウマ娘たちが、この中山のターフの上に立っています』
その言葉の通り、特に今年はファン投票で上位に選出された十人のウマ娘が、揃っての出走を決めていた。特別登録をしているウマ娘のうち人気投票分の優先出走権の枠が投票上位で全て埋まるというのは、少ないことではないが、それでもここ数年のトゥインクル・シリーズのレースシーンがそれほどに恵まれていた、バラエティに富んでいたことの証左でもあった。
その一人一人をかみしめるように、レースの全てを振り返るように、前口上はまだまだ続く。
『今年も日本の――いや、世界のウマ娘レースを沸かせ続けたのは、この二人を措いて他にはいないでしょう。日本が世界に誇る至宝、時代の中核、「双子星」の二人は、今年文字通り世界中をめぐって、その強さを、速さを、証明していきました』
カメラが、思い思いに返しウマを続ける二人のウマ娘の上にフォーカスする。
青鹿毛、漆黒の髪色が存在感を主張する大柄のウマ娘に、暗褐色の鹿毛と白皙の肌、小柄なシルエットであっても等しく抜群の存在感を誇る、もう一人のウマ娘だ。
幾度となくレースにおいてその姿を見せてきた彼女たちは、もはやトゥインクル・シリーズ全体の顔であった。日本のウマ娘が、世界に雄飛するに足る資質を持っていることを証明する、希望でもあった。
『三年ほどのキャリアの中で、彼女たちは実に七つもの海外GⅠタイトルを、日本へと持ち帰りました。そのうちの五つは、ウマ娘レースの起源の地、ヨーロッパで勝ち取ったものです』
改めてそう聞いてみれば、この二人が世界の中でなした功績の大きさは、計り知れないものがあるのだろう。
取ったGⅠはどれも歴史と格式を持つ偉大なレースばかりである。二年前の夏のキングジョージに始まり、アイリッシュチャンピオンステークス、インターナショナルステークス、そして
『そしてなにより、日本勢による凱旋門賞連覇、連続ワンツーフィニッシュの快挙は、まさに空前のものと言えましょう。しかしこれを
そしてその、まさに「これからのウマ娘」に、実況の視線が向く。カメラも、またそちらへと焦点を合わせていた。
『その新時代を担うべきウマ娘たちもまた、この場には集っています。……今年のクラシックは、記録的なものとなったと言ってよいでしょう』
併走して、どこか競うような形で返しウマに入っている二人のウマ娘が、そこには映る。今年のクラシック戦線の主役を張った、ティアラの二大巨頭だ。
『まずは、なんといってもダービーでしょう。ティアラ路線からの果敢なる挑戦者が、見事その栄誉を頭上に戴きました。実に六十四年ぶりの快挙でした。そしてその傍らでは、そのウマ娘に桜花賞において勝利したもう一人のウマ娘が、史上三人目のトリプルティアラウマ娘に輝きました。「ティアラウマ娘の可能性」を広げたこの二人の雄姿は、まさにこれからやってくるティアラ路線のウマ娘たちにとっても、励みになったに違いありません。トゥインクル・シリーズは、新たな時代を迎えたとも言えるでしょう』
強さを競うクラシック路線と、華やかさを競うティアラ路線。「実力と華」という断絶が暗黙のうちに生まれていた二つの路線は、しかし今やその垣根を越えつつある。超えられるのだということを、二人のウマ娘が身をもって示した。
先達に憧れ、その走りを、背中を追ってきた彼女たちは、しかし今この時において、確固たる自己の価値というものを、ターフの上に打ち立てていたのである。
それこそが、ある意味においては「時代の継承」、なのかもしれなかった。
そして継承する者がいるのであれば、継承
『新たな時代が始まるにあたっては、それまでの時代の締めくくりにも、触れねばなりません。このレースは年末の総決算でもあり……そして別れのレースでもあります』
そしてまた、カメラが戻る。
『「連星の時代」を彩ったウマ娘たちが、このグランプリを最後のレースにすることを、相次いで発表したことは、記憶に新しいと思います』
その向く先は、つまるところ今年限りでのトゥインクル・シリーズからの引退を表明した、幾人かのウマ娘たちであった。
『私は感謝したい。本当に、そう思います。「連星の時代」は、世界への雄飛の時でありました。この時代を彩ったウマ娘たちは、世界中の国々で、日本のウマ娘の強さを示し続けてきた。今年パートⅠ国入りという念願を果たしたわが国のウマ娘レースのレベルが、決して他の国々に劣るものではないことを、いや互角以上に渡り合えるのだということを、積み上げた二桁にのぼる海外GⅠのタイトルによって、彼女たちは証明してくれました。ですから改めて、私はこの場所にいる、この時代を生きたウマ娘に、そしてここには来ておらずとも、同じ時を駆け抜けていったすべてのウマ娘に伝えたいと思います。――ありがとう。そして、お疲れ様でした』
拍手が巻き起こる。ひときわ大きな歓声が、スタンドから浴びせかけられた。みな、思い思いに自らが応援していた、いや、応援して
大きなうねりの如くのそれがスタンドを、中山の空気の全てを揺らす。それがおさまるまで、凡そ二分、三分もの時間を要した。
そしてその末、再び静けさを取り戻したレース場に、今ひとたびの実況の声が、大きく響いた。
『さて、願わくばいつまでも語っていたいところではありますが、もう発走の時間がすぐ近くにまでやってきています。ですからあとの主役はウマ娘たち、我々は年末最後の彼女たちの雄姿を、これからしっかりと目に焼き付けることといたしましょう。……それではいよいよ、中山第九レース、グランプリ有馬記念の、ファンファーレです』
その言を最後に実況は一度口を噤み、それからほどなく、スタンドカーの上のスターターが、リフトアップされたお立ち台の上で大きくその手の赤旗を振る。
そして――今年最後の東京・中山共通GⅠファンファーレが、冬の寒空に大きく響き渡った。
――これが、トゥインクル・シリーズの現役生活における、コースからの最後の景色になる。
外回りの向こう正面、グランプリコースの出発点たるゲートを前にして、ダイナファントムはその実感というものが、少しずつ芽生え始めていた。
これで競走ウマ娘としての全てのキャリアから足を洗うのかとなると、そういうわけでもない。引退後にはすでにドリームトロフィーリーグ移籍の打診は来ているし、それに参加することは全くやぶさかではない。シャダイの施設において後進の育成を行う中で、あるいはシャダイの次期当主としての教育をこれから積んでいく中でも、競走ウマ娘であるという自分のアイデンティティは、まだ暫く手放すつもりはなかった。
それでも、「トゥインクル・シリーズ」の名の示す通りの「
そして今、彼女は思い返す。レースの始まる前、パドックでのパレードから本バ場入場に移るまでの少しの間に、幾人かのウマ娘と交わしたやり取りについてである。
「……やっと、走れますね」
改めて声をかけてきたのは、言わずもがなである。栗毛、その中でも紅さが勝つ赤銅色の豊かな髪を靡かせて、青と白の勝負服に身を包んだダイワスカーレットが、いつもよりいくらか勝気な表情でダイナファントムのことを見上げていた。
「そう、だね。……結局一戦だけになっちゃったのは、ちょっと残念、だけど」
それは、凡そありとあらゆる面において「やりきった」自覚のあるダイナファントムにとって、唯一と言ってもいい心残りであった。
一般に、ウマ娘が最も能力としての成熟期を見せるのは、シニア期一年目の秋シーズンであるとされている。翻って今のダイワスカーレットは、まだクラシック級だ。あと一週間そこそこでシニア級に上がることを考えればほとんどシニアのそれであると言っていいのかもしれないが、そうであっても彼女の能力の全盛には、未だ遠い。
本当であれば、来年の一年を通して彼女と競うことで、初めてダイワスカーレットというウマ娘の真価と向き合うことになるのだろう。その成長を、栄華の極みを、同じターフの上で目の当たりにできたのだろう。
しかしダイナファントムは、それを選ばなかった。だからその仮定には、もはや意味がない。それをきっと、ダイワスカーレットの方も理解していた。
「ええ。……正直、アタシもです。でも、ファントムさん」
だからだろう。彼女はそうダイナファントムに呼びかけて、そのまま軽く目を瞑る。
そして暫くののちに開いた目は、その中の瞳は、挑みかかるが如き輝きを宿していた。
「
きっぱりと言い放ち、ずい、とその身を乗り出す。浮かべる微笑みは少しだけ攻撃的で、そこに宿った志向性を持った闘志すらも、ダイナファントムは知覚した。
そのなかで、彼女は思う。それは挑戦状であり、そして同時に、きっと激励でもあるのだろうと。
「そんなくだらない感傷に浸っていないで、全力を出してくださいよ」、と。
「これが最初で最後なんだから、あなたの全てを、私に見せてください」、と。
「……そっか。それなら、負けられないね、私も」
自然と、ダイナファントムもまた小さく笑んでいた。
当たり前のことだ。そう、彼女は自答していた。誰に言われずとも、ここに挑む自らにとって、出し惜しみなど断じてするものではないのだと。
なんとなれば、ここまで世代の、否「世界の旗手」となってきたウマ娘としてのプライドが、そんな後悔をすることなど断じて許しはしないのだから。
「それじゃ、次はレースのあとだね」
「ええ。……対戦、よろしくお願いします」
そしてその一言が、終わりの合図になった。
互いにもう一度だけ小さく笑みを向け合って、ダイナファントムとダイワスカーレットの二人はそれぞれに踵を返す。これ以上の言葉は、要らなかった。
しかし、ダイナファントムにはまだこの機会に話をしておかねばならない者達がいた。
その次に足を向けたのは、彼女にとっては最も近くにいた一人のウマ娘の許である。その彼女は地下バ道の入り口、検量室との境界のあたりで、一人胸に手を当てつつも気息を整えていた。
近寄って、そして注意を向けるように、ダイナファントムは声をかけた。
「ザリオ」
小さな響きである。しかし程近くで発された己の名前を呼ぶ声に、ダイナファントムの目の前のそのウマ娘は小さく身を震わせる。長い睫毛もふるりと揺れて、ゆっくりとした所作でそれが開かれる。
翡翠の瞳が、声の主へと向けられた。
「……あら、ごきげんよう」
いつものように嫋やかな立ち居振る舞いと、そして声色である。
つまりダイナファントムが声をかけたのは、今眼前に立っているのは、チームメイトにしてルームメイト、シーザリオであった。
「ここまで来た。……来れた、と言うべきなのかな」
自然と出てきたのは、そんな台詞である。これはどちらかと言えば、ダイナファントム自身というより、シーザリオに対してのものであろう。
「そうね。……三年、かしら。『思えば遠くに』、ね」
賛意を示すように、シーザリオが頷く。クラシックの夏、ともすれば現役生活を退くことを意識する類の故障を起こした彼女の脚は、それでも彼女自身の「諦められない」という熱意に応えて、とうとう今に至るまでその寿命を永らえていた。
「約束」
そんなシーザリオの足元に視線を落として、ダイナファントムはぽつりと呟く。小さく首を傾げたシーザリオに、彼女はその続きを口にした。
「ダービーの前の、ほら」
「……ああ。あったかしらね、そんなことも」
ダイナファントムの促すような言葉に、シーザリオが微笑んだ。そして記憶をたどるように、指を折る。
「私は……六つ、かしら。ファンさんは、数えきれないほどよね」
つまりそれは、獲ったGⅠの数のことである。どこか呆れたような、しかし称えるような声色で問われたそれに、ダイナファントムも苦笑する。
「巡り合わせだよ。あとは、脚が持ってくれたから。……ザリオはあんなことがあって、それでも六つなんだから。それも、海外が三つ」
正確には、アメリカで二つ、香港で一つ、そして日本で三つである。ダイナファントムとディープインパクトの影に隠れている向きは少しはあるかもしれないが、しかしその実、シーザリオほど地球儀を横断しながら頭上に冠を戴き続けたウマ娘は、過去に例がないだろう。
いずれ必ずその功績を、称えられる機会はやってくる。ダイナファントムは、そう固く信じていた。
しかし、シーザリオにとってはやはり心残りはあるものらしい。小さく首を振って、ダイナファントムの賞賛の言葉に答えた。
「そう? ありがとう。……けど、やっぱり六つじゃ物足りないわ。あの時も言ったけど、
そこまでいって、あら、と声色を変える。何かに気づいたかのような、しかしその実
「そう言えば、これから走るのもGⅠよね。グランプリですもの、ねぇ?」
急に転換した話題に、何のことかとダイナファントムは目を丸くする。
しかしそれも束の間のことであった。目の前のウマ娘が何を言わんとしているのかについて、彼女が察するのにそう時間はかからなかった。
それは私生活においてもずっと時間を共にしていたからということでもあるが、それ以上に「これから同じレースに挑むライバル」としての自分が、全く以て等しい意気込みを持ってこの場に臨んでいたから、という方が、ずっと大きいものであった。
その意思を汲み取って、ダイナファントムもほうもまた、シーザリオへと笑んで見せた。今まで浮かべていた穏やかさを内包したものとは違う、不敵と評すべき表情であった。
「――上等だよ。ま、いい勝負にしよう」
果たしてそれが、ダイナファントムとシーザリオの交わすレース前の最後の言葉となった。
愛すべき後輩と、生活を共にしてきた僚友と、レースに臨む前の最後の言葉を交わした。
しかしダイナファントムには、まだやり残したことがある。言うべき言葉を、言うべき相手に、未だ伝えられていなかった。今彼女が最も話をせねばならない相手が、まだ残っていたのだ。
そしてそれは、「相手」の方からしても、きっとそうであったのだろう。シーザリオと互いに手を小さく振り合って別れ、いざ地下バ道の方へと歩を進めようとダイナファントムが身を翻したその時を見計らって、彼女の死角から声がかかった。
「ファン」
小さく、しかし澄んだ声だ。その声色も、そしてその名でダイナファントムのことを呼ぶのも、彼女には一人しか心当たりがない。それを疑うことも、また必要なかった。
立ち止まり、そして振り返る。
「……そこにいたんだ」
ダイナファントムの視線の先に立つのは、もはやどこまでも慣れ親しんだ、葡萄茶と紺、そして金色の意匠の勝負服を纏った、小柄な鹿毛のウマ娘であった。
ディープインパクトであった。
黙したまま、二人ただ向き合う。互いに言葉にすべきことはいくらでもあるはずなのに、しかしどうにも言葉にならなかった。
言うべきことが、きっと多すぎたのだろう。
暫くの沈黙が場を支配して、それでも結局その静寂を破るのは、いつものようにダイナファントムからであった。
「三年、か」
かけられたそれに、少しばかり黙したまま首を傾げたディープインパクトが、それでもそう時をおかずに頷く。何を言いたいのか、そして何を理解したのかは、互いによくわかっていた。
「何回、やってるんだっけ」
問うたダイナファントムをちらりと見て、そのあとディープインパクトが指を折り始めた。それを追うようにダイナファントムも記憶を辿る。
自らのキャリアの中で、直接ディープインパクトと戦ったのは、何度のことであったか。
メイクデビューに始まり、そしてこの有馬記念で終わる。その総数は――
「
声が、重なった。
十五回だ。それはこれからのレースを含めての数字である。そして同時に二人は、その激突の歴史の中で互いに挙げた勝ち星の数も、覚えていた。
「私が七勝で――」
「――私も七勝」
ダイナファントムの言葉を、ディープインパクトが継ぐ。
レースの格という意味では多少の出入りこそあったが、しかし何であれ、ダイナファントムとディープインパクトが共に相手に対して挙げた勝利は、等しく七つである。そして同時に、互いは互い以外のウマ娘に対して、一度たりとも先着を許したことはなかった。
ディープインパクトはダイナファントムに七度負け、七度二着になった。
ダイナファントムはディープインパクトに七度負け、七度二着になった。
それだけである。それ以外の全てのレースで、二人は白星しか得てこなかった。
「じゃ、今日が『決着』なわけだ」
そしてつまりそれは、今日の有馬記念こそが、トゥインクル・シリーズにおけるこの二人の最終的な戦績においてどちらが勝ち越しで終えられるかを決定づける、まさに「最終決戦」に他ならないことを意味していた。
ダイナファントムが言い放ったそれを、ディープインパクトは無言で肯定する。そして、口の端で小さな笑みを浮かべてみせた。
「ちょうどいい」
「……そうだね。分かりやすいか」
勝ち越したことで、どちらかがどちらかを上回ったとは、断定はできない。したくもなかった。勝敗のアヤなどいくらでもあるし、それがウマ娘のレースであることは、どちらも重々承知していたからだ。
それでも、この二人の永い永い名勝負数え唄の終着点こそが、互いの「十五番勝負」の勝者を決めるこの戦いに、それも年末の大一番になるという構図それ自体は、疑いようもない事実であった。
ディープインパクトの言う通り、それはとても
「まあ、今更な話だけどさ」
軽い調子て、ダイナファントムが声を上げた。そして少しだけ勿体ぶってディープインパクトに向き直り、右手を掲げる。
「最後なんだ。……楽しくやろう」
ディープインパクトも、それには無言で頷く。そのままダイナファントムの意を汲むように、小さなモーションでその右手を等しく掲げた。
互いに今一度頷きあって、そして右手を振りかぶる。
瞬後、乾いたハイファイブの音が、地下バ道の中に響き渡った。
ゲートの向こうからやってきた風が、静かに頬を撫でた。
ダイナファントムはそれを知覚して、しばし閉じていた目を開ける。
そのまま、想起していた記憶を頭の片隅にしまい込んで、改めて自らに用意されたゲートに向き合った。
――三枠五番*1。それが、自らに割り当てられたトゥインクル・シリーズにおける最後の枠番である。先入れとなる奇数番の内枠だ。ダイナファントムにとっては、願ってもない場所であった。
他のウマ娘はと言えば、ダイワスカーレットは二つ隣の四枠七番、ディープインパクトはさらに二つ隣の五枠九番*2、そしてシーザリオはその一つ隣、五枠十番*3が割り当てられている。彼女たちもまた、それぞれ思い思いに、心を落ち着けるようにしながらもどこまでも平静に、己に用意されたゲートへと入っていっていた。
それぞれのウマ娘が枠に入るガチャガチャとした音を、慣れ親しんだその雑音を耳にして、郷愁混じりの感慨が、ダイナファントムの胸に俄に湧き上がってくる。
しかしそれは、まだ尚早に過ぎる。レースは終わっていない。始まってもいないのだ。
ならば今は、今ばかりは、ただ一人真っ直ぐに、ターフと向き合うべき時なのだ。
そして、
だから――さあ。
『大外十六番、ウオッカ納まって――己の心の炎を燃やして、いざ見届けよ、二分三十秒の夢舞台。グランプリ有馬記念……今スタート!』
緊張の頂点、ダイナファントムの意気込みが最高潮に達したその場所が、今年の有馬記念、最後の有馬記念のゲートが開く、その瞬間であった。
『これは好発だッ! 飛び出した飛び出した、ダイナファントム抜群のスタートッ! ほかも全体的に揃ったスタートで、さあ出ていくのは……やはりこのウマ娘です、七番ダイワスカーレット。ダイナファントムの後ろからぐいぐい前に出脚を使って、そしてその横から十五番チョウサンも押して押してダイナファントムの横に並びかけようとしているか』
ダイナファントムは回顧する。
思えば、自らは結局トゥインクル・シリーズのウマ娘としてのキャリアにおいてはその最後まで、ゲートの出をしくじることはなかった。
この自負して憚らないゲートの出の良さは、完全に天性のものだ。特に訓練をした結果と言うわけではない。山元のジュヴェナイルパークで初めて模擬ゲートを使って行ったゲートスクーリングからずっと、ダイナファントムはゲートには全く苦労してこなかった。
そしてそれを無駄にしないようにとそこから磨き上げてきた出脚によって、ダイナファントムは今日の逃げ戦術を確立させた。基本的には後続の目標にされやすいこの戦術そのものを、逆にペースを支配することによる「強みの押し付け」へと昇華させていたのだ。
メイクデビューの時、大逃げとすら思われるほどの逃げを打ったあの日に、己のウマ娘としての戦い方の全てが、きっと定まっていたのだ。それを、ダイナファントムは今更ながらに思い返していた。
横から競りかけようとする十五番のウマ娘、チョウサンの姿を視認するも、しかしダイナファントムは意に介さない。彼女に取って今「出たなり」の脚でつけている位置に、外枠分の不利もあるか、チョウサンはかなりの脚を使って競りかけてきている。
残酷なことだが、それは地力の違いでもあった。そのまま一切ペースの調整をすることもなく悠々と先頭を走っていれば、左斜め後ろからかけられていたプレッシャーが和らいだことを感じた。
チョウサンが、ハナを叩くことを諦めた。そのまま一バ身半後方を追走するダイワスカーレットの左前方、ダイナファントムをマークする位置に落ち着いて、前方のハナ取り争いは決着した。
ダイナファントムからしてみれば、海外二戦ではやることのできなかった逃げである。海外のように自滅覚悟で競りかけてくるペースメーカーと言う名の
そして同時に、彼女は背中で語ってみせる。相手は無論、初めてにして最後に争うことになる、ダイワスカーレットだ。
ダイワスカーレットに番手戦術を教えたのは、ダイナファントムである。恐らくこのレースも、ダイナファントム自身が出走していなければ、外から張り合ったチョウサンはあっさりと前へ行かせて、自らはそれをマークする位置につけたに違いない。
ダイワスカーレットは優等生で、それゆえに教え込んだことは寸分の狂いもなく、完璧に遂行する能力を持っていた。
しかし、それはダイワスカーレットではない逃げのウマ娘を、ダイワスカーレットが十分に目標にできることが前提だ。基礎スピードが逃げのウマ娘を上回るか、ペース配分の能力に関して自らの方が有利であるならば、番手に控える戦術は粘り込みの力がありさえすれば最も安定しているといってもいい。
そして実際のところ、GⅠのような大舞台における逃げのウマ娘というのは、緩まない流れの中で後ろを常に意識しなければならない関係上、どうしてもその辺りの能力配分に難を抱えるのが常だ。短距離戦はまた別であるが、特にマイルから中距離の、ダイワスカーレットが主戦場とする距離レンジにおいては、そうである。
しかし、前受けしつつも後ろのペースを引っ張り、そこから強靭な二の脚を発揮できる逃げのウマ娘が出てきてしまえば、状況は一変する。ペースを作り出す主導権を前のウマ娘に握られてしまえば、番手のメリットは消失してしまうからだ。精々前のペースコントロールを後ろからつつきながら邪魔することができるかどうかで、それは同時に必ずしも自らの勝利にはつながらない。
つまりダイナファントムがあっさりを前を取り、更に手ごたえという意味ではダイワスカーレットを初めとする後方勢を
――さあ、どうする。
そう、ダイナファントムは問いかける。
『四コーナーを抜けて一度目のホームストレッチ、スタンドから伸びる影にウマ娘たちが入ってゆきます。先頭はダイナファントム後続をやや離した逃げ、二バ身から三バ身。その後ろにダイワスカーレットとチョウサンほぼ併走の形で入っています。その後ろにいるのがマツリダゴッホ中山巧者、その後ろに十一番コスモバルク今日は中団やや前目のレースです、この一線に外デルタブルース中ダイワメジャー。姉妹対決となったこの有馬記念どう思っているのでしょうか。そしてその後ろ、その後ろにウオッカがつけています。不利と言われる大外枠からウオッカ、いつの間にか中団内々に入れて、経済コースを確保している』
丁度それが、正面スタンド前のことである。ダイワスカーレットは、そのダイナファントムからの問いかけに対して、
実際のところ、それは正しい選択であると言えた。
ウマ娘のレースにおいて最も大事なのは、そのウマ娘ごとの適正なペースをどれだけ守れるかにかかっている。それはたびたび「追走能力」という形で表現されるが、追走ができれば偉いというものではない。自らの適正ペースを知り、その範囲でスムーズに走ることこそが、結果への近道である。それはよろずウマ娘レースにおける真理であった。
兎も角、ダイワスカーレットは形上の二番手ではあるものの、ダイナファントムの番手追走に関しては半ばそれを放棄した。結果としてダイナファントムは、完全な形でこのレースのペースを支配する権利を確立した、ということになる。
そのままダイナファントムは、後ろのウマ娘たちが追走しようとするペースを半ば無視するように、悠々とした一人旅を始めた。
前にも、後ろにも、誰もいない。スタンドからの歓声は遠くに響いて、自らの脚が、蹄鉄が冬枯れの中山の芝を刻む音ばかりが、大きく聞こえた。
ダイナファントムにとって、それはどこまでも慣れ親しんだ情景であった。だからこそ今、無心で駆ける彼女の内心に、これまで走ってきた数々のレースの記憶が、浮かび上がっては消えていく。
同じこの中山、初めて挙げたGⅠの勝利も、その次の日本ダービーで得た一つ目の挫折も。
そこから「視野を広げる」ためだと、己のトレーナーに誘われて向かったアメリカを、イギリスを、そしてニューベリーにてようやく自覚した、自らの走りたいと思う理由と、開眼した「領域」のことを。
そんな駆け巡る記憶の数々が、ダイナファントムに一つの事実を自覚させた。
彼女はその現役生活において、度重なるレースの中で、常に二つのことに向き合い続けてきたのだと。
己の走るに足る理由を、トゥインクル・シリーズを走りたいと思う理由を、探し続けていた。
そしてそれを胸に抱えることで、最後まで好敵手たり続けたウマ娘を、
そしてそれは、今もまたそうであった。
『第一コーナーへと入って前半千メートル、時計は五十九秒八というペース。これは例年の有馬と比べるとやや速めでしょうか。先頭悠々とダイナファントム一人旅、その後ろ六バ身七バ身ほど開いてダイワスカーレットが二番手、そのすぐ後ろにチョウサン、マツリダゴッホと続いています。ディープインパクトは後ろから四、五番手といった辺り、メイショウサムソンとシーザリオは更にその後ろで一線、最後方はドリームパスポートといった体勢です。先頭のダイナファントムを除けば他は一団、二番手ダイワスカーレットからシンガリドリームパスポートまで凡そ十バ身程度といったところで第二コーナーから向こう流しに入ります』
有馬記念の向こう正面は、後方勢にとっては大抵のケースにおいて仕掛けの始動点となる場所だ。流れがスローならば向こう流しのちょうど中間点、残り千メートルからのロングスパート戦が演出される。
しかし流れが速いときは、かならずしもそうではない。そのポイントが三コーナーの入り口、七百メートルから六百メートルほどの地点へと移れば、コーナー加速と立ち回りの器用さが求められるレースへと早変わりするし、更にペースが速いときは追い出しを最後まで我慢しての短い直線での決め手勝負になる。
ならば今年のレースはどうなっているのかと言えば、これがまた微妙なところであった。
確かにダイナファントムは前で飛ばしていて、彼女自身の千メートルラップははっきり速い。しかし二番手以降に関しては、もはやそこから七、八バ身ほど離れていることを考えれば、展開としてはややスローよりのレースであるといえなくもなかった。
問題の焦点はたった一つである。つまり現状のペースを維持すると仮定したときに、ダイナファントムが垂れてくるのか来ないのか、だ。
それによって勝ちを得るために必要な位置取りの是非が大きく入れ替わる。後方勢にとっては難しい選択を迫られているといえた。
何度も彼女と同じレースで彼女の走りを見続けてきた、一人のウマ娘を除いては。
『向こう正面半ばで残り千メートル、ダイナファントムと二番手ダイワスカーレットとの差は未だ六バ身から七バ身。先程からすこし詰まったがそれでも後続を大きく引き離しての逃げを打っているダイナファントム。ここが引退レース、見せられるか「らしい」走り。さあ、さあそして行った! 行ったぞ
スタンド席から歓声が上がる。それは迷いのない走りであり、選択であった。
ダイナファントムは基本的に破滅逃げはしない。どんなに遅くても、末の三ハロンで三十五秒の後半より鈍った脚を見せたことなど過去に一度もない。
それが今回のレースで覆るわけもない。ディープインパクトにせよダイナファントムにせよ、「ここから先のレースを考えなくてもよい」「キャリアの未来が、続きがない」ということで、今回の調整には全く余念がなかった。
そんな彼女が、本番のレースでペースの読み違えから自滅するような走りをするなどありえない。
だとするならば、最低でもここからエンジンを吹かし始めて仕掛けに備え、コーナーで一気に捲って外から強襲する以外に、勝ち筋はなかった。最低でもディープインパクトのような脚質のウマ娘にとっては、それは間違いのないことであった。
故に、仕掛ける。ディープインパクトは、ダイナファントムを信頼していた。あの前半でも後半千メートルを確実に一分かそれを切る勢いでまとめてくるという確信があった。
そして、それに対してこの位置からのロングスパートをかけても問題なく走れると断じるぐらいには、自らのことを、そして自らの師である奈瀬トレーナーのことを信じていた。
当然ながらディープインパクトのその行動は、今まで平穏を保っていたこのレースの流れを激変させた。
隊列の動きは一気に慌ただしくなり、前を走るウマ娘はたちはディープインパクトに押し出されるようにダイナファントムへの接近を余儀なくされる。
そしてディープインパクトに置いていかれた後方ウマ娘たちも、ディープインパクトに倣ってやや位置取りを上げていくか、それともまだ待つか、その選択を早急にすることを求められた。
――これが、GⅠ。これでこそ、GⅠ。
レースを走るあらゆるウマ娘の思いが、重なる。それは特に、先頭をかっ飛ばすダイナファントムと、それをロングスパートで捕まえに行くディープインパクトという構図が現れるようになった去年のシニア級から、日本の、そして世界のGⅠのスタンダードとなっていた。
生半可な追走力と末脚などあざ笑うが如くに逃げるダイナファントムと、四ハロン世界レコードの暴力的なロングスパート能力で周りの同じ位置のウマ娘たちをことごとくレースから脱落させてきたディープインパクトの競演である。
これが始まったが最後、それ以外の全てのウマ娘の勝機は消える。フランスの凱旋門賞でダイナファントムとディープインパクトの短アタマ差につけたディラントーマスはだからこそ強さは本物で、それ以外のウマ娘たちなど三バ身差以内で収まれば健闘したほう、などと外部のメディアからは真面目に評されるほどになってしまっていた。
そんな現状を、甘んじて受け入れることのできるウマ娘などいない。そうでなければ、引退を控えて文字通りのメイチ*4で仕上げてきたであろうダイナファントムとディープインパクトの二人に、真正面からぶつかろうとなど考えるわけがないと言えた。
『さあディープインパクトが動いて、後続もつられるように上がっていく! バ群がぎゅーっと圧縮され始めてスタート地点の辺りを通過しての第三コーナー、しかし先頭ダイナファントムは未だ六バ身後続を離したまま、そこにダイワスカーレットが二番手から、上がっていこうという構えか! その後ろダイワメジャー、姉妹がそろってここで動くか、六百の標識を、今通過!』
びりびりとした戦意、闘志の類が後続から俄に湧き上がったのを、ダイナファントムは知覚する。足音は未だ遠く、それでも我を先にと先走り続ける、「勝ちたい」という思いの矛先が、すべて己の背中に刺さり始めていることだけは、はっきりしていた。
――こうでなくては。
だからだろうか。殆ど無自覚の内に、ダイナファントムの自らの口角を上げていた。
何となれば、世界の中で日本のウマ娘の価値を証明し続けてきたダイナファントムにとって、その肩書に気後れして戦いを挑むことを避けようとするウマ娘が続出することこそが、真に憂うべきことだったからだ。
ダイナファントムが、そしてディープインパクトが、日本のウマ娘レースの中においてただの特異例でしかなく、その他の日本のウマ娘は未だ大したことがないのだと、そう思われてしまうことほど口惜しいものはなかったのである。
ならば今、引退を前にしたこの最後のレースの中で、「勝ち逃げは許さない」とばかりにすべてのウマ娘の強烈な意思が叩きつけられている現状は、ダイナファントムにとってはどれほど待ち望んできたものであろうか。
僚友が、後輩が、それ以外のウマ娘たちも、そして
ここから四百メートル先にあるゴール板だ。それだけだった。
第四コーナーの後半、残りの三百十メートルの最終直線は、すぐそこの場所にある。背後に迫りくるディープインパクトの足音も、ダイナファントムにはどこまでも慣れ親しんだものだった。
その音に、幾つもの思い出が重なり合ってゆく。そして幾人ものウマ娘の蹄跡も、また。
――結局最後まで、私ときみの一騎打ちか。
ひとりごちるがごとくにダイナファントムが己の心中で漏らしたそれに、返ってくるはずのない「答え」がやってくる。
――私だけじゃない、みんなも。……それに、『最後』だから。
やや驚くように目を見開いて、しかし後ろを振り返ることはしない。
心が、直感的に理解していた。それ以上の何ものも、必要ではなかった。
分かり合えるのであれば、心が通うのであれば、それ以上の何を言うべきであろうか。
――そうだね。『最後』なんだから……。
胸に更に深く、大きく広がる歓喜は、漣からうねりとなって、ダイナファントムの満腔を満たしてゆく。
これが最後であることは寂しく、これ以上をトゥインクル・シリーズに求められないことは、口惜しい部分もあるのかもしれない。
それでも、私は決して後悔しないだろう。今日の日を走ったことを、必ず誇りにするだろう。
凱旋門賞を勝った日と同じように、ディープインパクトがその次に、自らを打ち破って凱旋門賞の栄誉を手に入れたあの日とも、同じように。
そうであるためには、そうであるためにこそ――。
――だから私も、行かせてもらうよ――最後らしくッ!
昂り切って、もはや抑えることも難しい衝動の全てを、そこでダイナファントムは、「叩きつける」ように解き放った。
世界に、光が満ちた。
『さあ最終コーナー回って直線、ダイナファントム未だ先頭三バ身四バ身のリード、寧ろここから
溢れ出した激情は、もはやダイナファントムの心象を一つの「象徴」に束縛することさえ許さない。
ターフの緑が、空の青さが、そばを走る仮柵の白ささえもその彩度を増すが如くに輝いて、中空に舞う金色の光の粒は、さながら蛍のそれであった。
その中を無心に駆けるダイナファントムの背後で、その光満ちる世界に共鳴するかのごとくに、思いの色が撚り合わさっていく。
誰しもが持つ負けられない理由が、勝ちたいという渇望が、いつか虹色の光芒となって一本の糸になる。
後ろから一歩一歩迫りくるその意思を、色を、熱を感じて、ダイナファントムはそれでも、ただ笑っていた。
――ああ、名残惜しや。これで最後だなんて。
――こんなに楽しいのに、今のようなひとときが、夢のようなひとときが、これからずっと続いてくれるならば、どれほどよかったことだろう。
それを残念だと思う自分のことは、偽れはしなくても。
それでも今この場で、この立場で、終局の地に立つ自分は、立つことのできる自分は、きっとそれほどまでに恵まれているのだから。
ならばその最後の時まで、笑おう。笑って、誰より先に決勝線を跨いでみせよう。
それが、何よりの証明になるのだから。ダイナファントムというウマ娘の、競走ウマ娘としての生きざまへの、この上ない餞なのだから。
『先頭ダイナファントム! 後ろからディープインパクト伸びて迫って一バ身から二バ身差! 詰め寄るか、詰め切るか、まだまだ粘ってダイナファントム! 後ろダイワスカーレット、マツリダゴッホ、ウオッカにシーザリオが横一線で来ているがこれは抜けている! やはり最後はこの二人だ! ダイナファントムとディープインパクト! あと百ッ!』
ただ一人抜け出して、ただ一人捲り上げて、最後まで勝って、最後まで負けて、それでも互いに敵する相手は、互い以外に許さなかったから。
ならば私たちは最後まで、最強であり続けよう。最強の二人であり続けよう。そうあれた互いのことを、いつまでも誇りに思おう。
それでも、それでも今日は――。
『粘るダイナファントム! 一バ身リードが詰まらない! ディープインパクト必死に追って、しかしこれは、しかしこれは!』
ゴールの二完歩手前の場所で、ダイナファントムは世界の全てに誇示するように顔を上げて、そして声を張る。
「私の――」
『ダイナファントム、やはりダイナファントム! ディープインパクトと、やはり最後もこの二人、それでも最後は、
「――勝ちだッ!!」
中山のスタンドが、爆発した。
はたしてその、万感を込めた「勝利宣言」と共にダイナファントムはゴール板を駆け抜ける。
それはトゥインクル・シリーズにおいて最後に、そしてこのレースの勝者として、かのウマ娘が最強のままターフを去ることが決まった瞬間でもあった。
『二着ディープインパクト、三着は体勢微妙です! そしてなんと、
そしてそこへ立て続けにやってきた「レコード決着」という事実もまた、その結末に花を添える一つの要素となる。
「世界で最も強い二人」の、「遍く世界に時代を築き上げた二人」の、恥じるところなどない引き際の姿が、そこにはあった。
ゴール板の向こう、夢見心地のままに余力を以て駆け抜けて、ダイナファントムはゆっくりとスピードを落とし、そのまま立ち止まる。
風を切る音が薄れれば、その奥に隠されて霞んでいた歓声が、ずっと大きく聞こえた。
振り返り、仰ぎ見る。スタンドから聞こえてくるその音は、勝者たる自らを讃えるための声か。それとも他のウマ娘たちを労う声だろうか。
しかしその中で、彼女はただずっと、耳ではなく心で聞いていた。
今日が最後だと、ここで最後だと、それを知って応援してくれている、数多の人々の言葉を。
それでも、それを受け取るに値するウマ娘として最後まで戦い抜いた、それをやり通せた事実を今、ダイナファントムはただ、誇りに思った。
感慨に目を瞑り、大きく息を吐いてから、視線の高さをゆっくりと戻す。
彼女の見るその先の景色の中、ともにレースを走ったウマ娘たちが、同じようにこちらのことを見ていた。
一歩一歩、ダイナファントムはそちらの方へと近づいていく。
ダイワスカーレットにとっては、これが初めてのダイナファントムたちとの衝突であって、結果としては初めて連対を外す苦い経験にもなっただろう。
それでも、そういうウマ娘と当たったことは、「前目を走る強いウマ娘」とどう戦っていくか頭を使った経験は、絶対に無駄にはならない。
こちらを見るダイワスカーレットの瞳にはいくらかの悔しさと、未だ消えぬ闘志が同居している。その炎の消えぬ限り、彼女はまだまだ勝つだろう。そう、信じた。
シーザリオは、ダイナファントムやディープインパクトと同じように、これが最後のレースだ。
ずっと寝食を共にして、悩みを聞いて、聞かせてきた。挫折も栄光も、全てを側で感じてきた。
一時は志半ばで潰えかけた彼女のキャリアが、それでも道を繋げて、幾つもの栄誉を運びながらもここまで至ったことは、偏にシーザリオというウマ娘の意志の力であった。
それを思い返し、尊敬の念を湛えて、そして二人互いに小さく目礼を交わす。
「おつかれさま」、「そちらこそ」、そんな軽い調子のやり取りの裏にはしかし、その一言になど到底収まり切らぬ万感の思いが、確かに塗りこめられていた。
そして――最後の一人に、ダイナファントムは視線を向けた。今まで共に立ち、伴走者となり続けていた「双子星」の片割れに、ディープインパクトに。
二人の双眸が、正面から向かい合う。歩き続けるダイナファントムに誘われるように、ディープインパクトの方もまた、確かに一歩、二歩と進み出ていた。
互いの距離が、縮まってゆく。隣人の距離感を過ぎ、友人の距離感を超え、家族の距離に互いを迎え入れて、彼女たちはただ見つめ合った。
そこまで至れば、もはや二人の間には、言葉など必要ではなかった。
――私の同期が、
目は口ほどに物を言い、故に今ダイナファントムとディープインパクトは、互いが重なる思いを抱えていることを知る。
果たして彼女たちは無意識に、自らの身体を動かしていた。
更に一歩歩み寄って、腕を広げて、そして互いに、互いの身体を抱き寄せた。
メイクデビューの時に初めて
今、有馬記念に結実した、我が最後のライバルと、歓喜を共有するためにと。
スタンドから、一際大きな歓声が沸きあがる。
それは祝福の声であり、そしてきっと惜別の声でもあったのだろう。
その中で、互いの小さな声が、一つずつ重なってゆく。
「ありがとう」
「おつかれさま」
「だけど、ずっと」
肩越しに掛け合う声はどこまでも似た色をしていて、そして二人はその果てで、最後に同じ一言に至った。
――楽しかったよ、と。
西日が山吹色に染め上げる中山のターフの上、身を寄せ合う二人のウマ娘に投げかけられる歓声の雨は、いつまでも已むことなく続いていた。
『双子星の
宿命。
そう呼ぶことすらも、陳腐だった。
いつも、一緒だったんだ。初めてターフに降り立った、あの日から。
どこまでだってついていった。どんな場所でもついてきた。
距離の壁も、国の壁も、互いの間には何一つ意味を成さなかった。
勝っては負け、負けては勝つ。
戯れに交わる影は、世界を二人だけのものにした。
十五度にわたる激突にあって、他の全ては目にも入らなかった。
三冠の夢を語る声は、雑音にも等しく。
優駿の門の前に堆く積もった祈りと願いすらも、きっと取るに足らない些事に同じ。
なぜならば。
勝利の凱歌を唄うのは。頂点の栄冠を掴み取るのは。
いつだって。いつだって。いつだって。
――そう、
「私と、あなただけ。」 「私と、きみだけ。」
名バの肖像 Vol. XXX
【ディープインパクト】 【ダイナファントム】
レース結果:5回中山8日9R・有馬記念(GⅠ)(芝右2500・晴・稍重)
1着: ダイナファントム
2着: ディープインパクト 1身
3着: 想像にお任せします 2 1/2身
上がり3F: 34.9 (12.0-11.3-11.6)
レースタイム: 2:29.1R*5
本話については、三着は決めませんでした。皆さんのご想像にお任せします。
あとは終章一話で、この話は終わりになります(このあと、0:45に予約投稿済)。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。