十二回目の晩夏にて
――九月の半ば、阪神レース場。
漂う暑気は未だ凄まじいまでの猛威を振るって、上天から照り付ける日差しもどこまでも高く、また強い。
眩い陽光の映し出す濃い緑が茂るコースの上で、
ポケットの前方に据えられたゲートは未だ誰の姿も中に受け入れず、それを見る彼女たちの様子は、どこか落ち着きがないようにも映った。
なんとも初々しい反応である。ただそれもそのはずだろう。
この日これから執り行われるは、四回阪神四日目の第五レース、芝千八百メートル戦の、「ジュニア級メイクデビュー」なのだから。
発走の準備が整いファンファーレが鳴り響くまでの間、今日を初陣とするターフの上のウマ娘たちは、やはりと言うべきか若駒らしい緊張感を身に宿しつつその場に佇んでいる。
しかしその中でも一人二人のウマ娘は、これから始まるレースに向けての心意気というものを、しっかりと裡に持っていることが窺えた。
特に衆目を集めているのは、一人の漆黒の、青鹿毛の髪色をしたウマ娘である。前髪に浮かぶ
そして纏っている白いゼッケンにかかれた数字は「9」、つまり大外の一つ手前の枠を、彼女は配されていた。
今年一の素質ウマ娘。三冠候補。そう評されるかのウマ娘の名を、「
そんなウマ娘たちの様子を眼下に納めながら、スタンドの観客席――「関係者ブース」には二人のウマ娘が隣り合わせで座っている。
ウマ娘とはいっても、成人して久しい女性だ。その姿は未だ若々しく美しく、しかし身に纏うオーラとも呼ぶべきものが、彼女たちの人生の中で重ねられた経験というものを、深く強く物語っていた。
そのうちの一人が、口を開く。
「そろそろ、かな」
落ち着いた、女性の声だ。その主はコースの上のコントレイルと同じ青鹿毛の豊かな髪を腰の下まで伸ばしている。
背丈も高く、纏う空気も佇まいも、見るものの遍くに凛然としたものを感じさせる。そんな様相で、声色で、そして挙措であった。
「……うん」
対するは、涼やかでありつつも、少しばかりの幼さが未だ内包されているような色の声をしたウマ娘だ。話しかけたウマ娘とは対照的な小柄な体躯に、しかし伸びている暗褐色の髪は同じように長く、背中の辺りで緩くまとめられていた。
「――因果なもの、なのかな」
「因果?」
呟く青鹿毛のウマ娘に、こてんと首を傾げつつ、小柄なウマ娘が訊ねる。それを受けた彼女は、小さく苦笑した。
「ほら、あの子。『コントレイル』ちゃんのことだよ。……あの子、確か担当
そのままに訳を説明してやれば、その言いたいことを理解したであろう鹿毛のウマ娘が、小さく頷く。ああ、と、そんな呟きも漏れ聞こえた。
「私たちの現役時代のことを考えれば、そういう巡り合わせって、ある種の運命なのかなって。そう思わない? ねぇ、」
――
そう言って、大柄な青鹿毛のウマ娘――
時が経つのは、本当に速いものだ。
ダイナファントムは、その実感を身に沁みて持つようになっていた。
特にそれは、彼女がレースの世界から身を退いてから特に思うことであった。
トゥインクル・シリーズのウマ娘として、最後の有馬記念を勝利する形で自らのキャリアの幕を引いたダイナファントムは、その後進んだドリームトロフィーリーグにはそう長く居座ることはなかった。
一般の人間と、そしてウマ娘が大学を卒業する年頃とほぼ時を同じくして、彼女はとうとう、「シャダイの次期当主」としての役回り――即ちURAの理事職へと自身の活躍の場を移した。偉大なる先達、「最強の戦士」シンザンや、「永遠なる皇帝」シンボリルドルフと同じような道を、ダイナファントムは選んだのである。
そしてその中で、海外ウマ娘レース業界とのより活発な交流に、ウイニングライブも含めた興業の国際化と、URAの懸案にしてシャダイの目指す「日本のウマ娘レースの地位向上」に向けた精力的活動を行っているうちに、ダイナファントムがトゥインクル・シリーズを引退してから、いつの間にやら
時が経てば、新世代、新時代というものは次々と現れてくる。
「連星の時代」が終わってすぐに立ち現れた、二人の直接的な後輩でもあるダイワスカーレットとウオッカによる「女王の時代」は、ティアラウマ娘たちのシニア王道路線における大躍進として人々に記憶された。両グランプリをダイワスカーレットが、秋の府中の二戦をウオッカが制圧し、ドバイではダイナファントムとディープインパクトのように、芝の両GⅠが彼女たちの手によって平らげられた。彼女たちの常識を塗り替えるが如くの活躍は、のちのティアラウマ娘たちの意識を転換させていく、その決定的な一打となった。
それからほどなくして、とうとう人々の前に、伝説が再臨した。
――中央クラシック三冠。後に「金色の暴君」とも評されたその小柄な栗毛のウマ娘の偉業もまた、人々に新たな時代の到来を強烈に意識させた。
そしてかのウマ娘はその翌年、自らの先達が、つまりダイナファントムとディープインパクトの二人が成し遂げた一大功績に、自らもまた挑むことになる。
「五年ぶりの、凱旋門賞の制覇」。遠征に関するノウハウをまさしくその「成功した先達」から――というよりもそのトレーナーたちから十全にアドバイスされた彼女は、遡ること二年前にナカヤマフェスタが挑み、わずかアタマ差で敗れて夢を掴み損ねたロンシャンの舞台で、見事「
凱旋門賞の制覇とは、神話の中の奇跡そのものではなく、再現が可能な現実的な目標になりつつあるのだと、そのウマ娘は、
その後も、綺羅星の如くの才能が表れて、次々にターフを彩り、そして去ってゆく。
幾たびか繰り返されたそのサイクルの果てに、彼女たちは今また一つの「新たな門出」を、見届けにやってきていた。
URAの理事であるダイナファントムと、シャダイのとある外厩施設で
それでも、特に用もなく二人してレース場に出向いて、更に平場のレースを観戦するなどと言うことは、流石にない。あるいはディープインパクトは職業柄そういう経験も少なくはないのかもしれないが、ダイナファントムはそこまでディープインパクトの普段の仕事ぶりに首を突っ込むような気はさらさらなかった。
しかし、それでも、今日だけは違っていた。
こんな、何の変哲もない、一年の内に何度あるかも分からないメイクデビューの舞台をわざわざ見に来るだけの理由が、この二人のウマ娘には存在していたのである。
そしてつまるところその理由というのが、その理由の
「あの子って、ディープが見つけてきた……んじゃないんだよね」
「うん。……あの子の方から、だったんだ。『ずっと、あなたみたいになりたくて』って」
問いを投げたダイナファントムに、ディープインパクトが頷いて返す。
つまりコントレイルというウマ娘は、他でもないディープインパクトの肝煎りとして今あの場に立っていた。
その話を聞く限りにおいてはどうやらきっかけを作ったのはむしろコントレイルのほうであったらしい。たまたまディープインパクトが副場長を務めている外厩のプレ育成施設に体験入所の形でやってきた彼女が、これもまたたまたま居合わせたディープインパクトを目ざとく見つけて、凄まじい熱意でもってディープインパクトに自らの熱意を伝えたのだという。
ずっと憧れていたのだと、あなたのようになりたいと考えていたのだと、そのためにここまでずっと努力してきたのだと。
ダイナファントムは現役時代の後輩の、ダイワスカーレットとのことが思い起こされてどこか懐かしい気分に駆られたが、兎も角ディープインパクトはそのコントレイルというウマ娘の熱意をどうやら随分と買ったらしい。
そして同時に彼女は、かのウマ娘の中に宿る確かな資質にも目をつけた。結果としてディープインパクトは、自らの副場長という立場すらも超える形で、コントレイルに対して手塩に掛けるが如くの指導を施した。
そしてその結果として、今があるのだと、そうディープインパクトはダイナファントムに説いた。
「そんな子だから。頑張り屋だから。……見に、来てやらないとって。『見に来てください』って、言われたし」
「そっか」
「それに」
首肯したダイナファントムに、矢継ぎ早にディープインパクトが言葉を投げた。
その表情は不敵な笑みを模っている。また現役時代のことを、ダイナファントムは想起した。
「強いよ、コントは。すごく強い」
「きみよりもかい?」
「……さあ、どうだろうね?」
そんな風に、またも意味深な笑みを浮かべながらダイナファントムの問いをはぐらかしてみせたディープインパクトが、そこで俄に真面目な表情に戻る。
身体ごとダイナファントムに向き直って、改まったような風情で、逆に問いかけてきた。
「けど、ファン。あなたのほうも」
「私?」
「うん。……ファンのほうも、コント目当てじゃ、ない。違う?」
その瞳は、現役時代と変わることのない深みを帯びたアイスブルーだ。それがすっと、ダイナファントムの心の底すら覗くが如くに、まっすぐに向けられた。
思わず、ダイナファントムは肩を竦める。ただ、無駄な韜晦をしてみせるつもりは、全くなかった。
「……まあ、コントレイルちゃんにも興味はあるよ、当たり前じゃない。でもそれは、
ライバル。小さく呟いたディープインパクトに、ダイナファントムは笑んでみせる。そしてレース場の方に、また視線を向けた。
「今日のレース、奈瀬トレーナーのところの子が、いるでしょ。一人」
「え? あ、うん。確かに」
「それがね、
「私の」。つまりディープインパクトにとってのコントレイルと同じような存在が、その子であるのだと、彼女は言っていたのである。
「確かドリームトロフィーを引退する一年ぐらい前だったかな。送ってきてくれた子がいてね、ファンレター」
ディープインパクトの促すような目線を受けながら、ダイナファントムもまたその経緯を話し始める。
トゥインクル・シリーズやドリームトロフィーリーグのウマ娘とは、アスリートでありパフォーマーであり、ともすればアイドルだ。結果として彼女たちの中でも人気のある者には相応のファンがつくし、そして特にダイナファントムやディープインパクトのような「時代を作った」ウマ娘には、見た目の麗しさや歌舞音曲の腕前以上に、その走りに魅了された多数の熱狂的なファンができるのは世の道理であった。
よって彼女たちがファンレターのようなものを受け取るのは日常茶飯事であって、それだけならば特別なきっかけと言えるようなものでは、決してない。
ならば何故それが、という話には当然なるところであって、つまるところその送られてきたファンレターの中身こそが、ダイナファントムの目を惹いたのである。
「
ダイナファントムがドリームトロフィーリーグを引退したのは、今から七年前のことだ。つまりその一年前というのは、即ち八年前のことになる。
「それで、何でそういうことを書いたかも、書いてあった。……ディープ、きみとコントレイルちゃんとの話と、同じだよ。『ダイナファントムさんみたいになりたい』って、だから『ダイナファントムさんがどういう走りをしてきたのかを、勉強してきたんです』って、そう書いてあったんだ」
なるほど、勉強熱心なウマ娘だ。トレセン学園に所属する前にそういうところにまで気を配るようなタイプのウマ娘は、そうは、いや殆どいない。どちらかと言えばそれはトレーナー側に求められる素養であるから、という意味ももちろんあるが、それにしてもである。
ただいずれにせよ、そういう奇特なウマ娘も、決していないわけではない。
「……
それを聞いて、ディープインパクトも思わず目を見開く。それがどれほどの知識に、そしてそれを得るための努力に、熱意に裏打ちされたものなのかと、歳のほどを考えればそれは常軌を逸したものとしか思えなかったからであった。
「ね、でしょう。それで、興味を持ってさ。……あとはまあ、だいたいきみと同じかな」
そう言って話を切り上げて、ダイナファントムはディープインパクトに向けて意味ありげな視線を向けた。
「まあつまり、『巡り合わせだね』ってのは、そういうあたりのこともあるんだけど。だってほら、ちょっとおかしいじゃない」
「……確かに」
苦笑交じりの笑い声が、二人から漏れる。
互いが互いに、現役時代において自らのトレーナーとしていた方に、相手方の送り出してきた――という言い方はやや語弊があるように思われるが――ウマ娘が師事している。
自らの熱意を傾けてきた、目を掛けてきたウマ娘が。自らに強い憧れを持ってくれているウマ娘が、自分の恩師
それは見事なまでのねじれ構造のように、二人には感じられてならなかった。
「何かの巡り合わせの違いがあれば、互いに相手のウマ娘を担当してみたかった」。いつかどこかの機会で、ダイナファントムとディープインパクトは、それぞれのトレーナーからそんなようなことを言われてもいたのだ。たしか、同期の同窓会兼謝恩会のような場でのことであったと、二人は記憶していた。
ただそれがこのような形での結実を見たとなれば、まさに「因果な話だ」としか言い表しようのないことである。その辺りが、この二人のウマ娘が苦笑を漏らさざるを得ない理由になっていたのは、確かなことであった。
そんな風に笑い合っているうちに、出走の時刻は着々と迫りくる。
路面の準備が整って、スターターが梯子をよじ登り、リフトカーの上にその身を納めた。
そして台は静かにせりあがってゆき、程なく至ったその頂点で、スターターによって天高く掲げられた赤の旗が大きく振られ、関西一般競走ファンファーレの響きが、程なくしてダイナファントムたちの耳にも届く。
「時代が、変わるね」
ぽつりと呟くダイナファントムに、ディープインパクトが静かに頷いた。
「変わるよ、時代は。そうじゃ、ないと」
そこには、万感の思いがきっと含まれていた。
記憶が遡ってゆく。彼女たちが同じターフの上に初めて立った、十一月の京都レース場の上に。
そこから始まった激動の毎日と、それが生み出した明白なる新時代のことも。
「ああなればいい。私たちがやったみたいに。私たちができたみたいに。次はきっと、あの子たちが」
それはまるで祝詞のように、祈りを込めた言葉だった。言ったのは、どちらだったか。あるいは、どちらもだったのかもしれない。
そのまま、係員に促されて一人一人ゲートに納まっていく彼女たちの姿を見届けながら、しかしダイナファントムはそこで、はたと思い至る。
「そうだ」
ディープインパクトの方を見る。向いた視線の先で、ディープインパクトの方もまた、「どうした」と言いたげな瞳でダイナファントムを見ていた。
「いや。『あの子』の名前、言ってなかったなって思って」
ああ、と小さな声が漏れる。確かに、訊いてなかった、と。
互いに小さく笑って、またターフのほうへと顔を向けた。
そしてその瞬間が、ゲートが開かれるときと、重なる。
わっと上がった歓声を背に受けて、ウマ娘たちが一斉に飛び出していく。
それはキャリアのスタートだ。ここから始まる、自らの築き上げるべき時代の、始まりの一歩だ。ダイナファントムが、ディープインパクトが、そしてトゥインクル・シリーズに籍を置いた古今のウマ娘の全てが、等しく通ってきた瞬間なのだ。
故にこそ、その姿をはっきりと目に焼き付けながら、ダイナファントムは唄うように、それを口にした。
「あの子の名前はね――」
『双子星の円舞曲』 了
本話をもって、拙作「双子星の円舞曲」は完結です。
今までご愛読いただきました方々に置かれましては、本当に感謝してもしきれません。
それでは、また機会があれば、次の作品でお目にかかれれば幸せです。
重ねて、ありがとうございました。
厳冬蜜柑 拝