二月が、終わろうとしている。
あとひと月もすれば春がやってくるというのが俄には信じられないほどに、未だ朝夜の底冷えはひどい。
皐月賞の前哨戦、弥生賞の開催を一週ののちに控えたこの日、府中の街はとうとうその朝の気温が氷点下を割り込んでいた。
つまり、弥生賞一週前の日曜日である。
ダイナファントムは前の週の水曜日に一週前追い切りである程度の時計を出し、その後はコンディションの維持を務めるようにと福井トレーナーから指示を受けていた。よってその日の朝もそこまでの早起きをすることなく、トレセン学園内のバ場に入ってからも筋力と体重維持のための軽い調整とフォームの確認程度の流しで済ませていて、昼食をとる頃にはその日のトレーニングメニューはすべて消化しきってしまっていた。
ルームメイトでかつチームメイトのシーザリオは、三週後の土曜日に控えている桜花賞前哨戦のフラワーカップのために、今がトレーニングのし所と準備に余念がない。
つまり当座の午後において、ダイナファントムはどこまでも暇であった。
となれば、彼女の意識というのは必然的に
トレセン学園は全寮制の寄宿舎学校の体をなしている。故に生活圏はその敷地の中で完遂するように設計されてはいるものの、一方で彼女たちは学園の中に
レースのたびに日本各地にある中央やローカルのレース場に出向く必要があるのだから当然だ、という向きも確かにある。しかしそれ以上にこのトレセン学園という教育機関は、端的に言えば自由な校風を持っていた。つまりあまり厳しい校則を、自らの生徒に対して課してはいないのだ。
ウマ娘という生物が基本的には規則や指示に対して従順な傾向が強いという種族的特性ゆえのものもそこにはあるのだろうが、それよりはむしろ戦前から続く競争ウマ娘、いや競走
ともかくそういうわけで、トレセン学園の生徒は比較的自由に学園の敷地の外に出ることができる。当然外の世界においてはウマ娘に課されている数々の法律――主にそれは交通法規ではあるのだが――の遵守を求められ、それに違反して行政ないし刑事罰を受けるようなことがあれば、最悪の場合トレセン学園からの退学を余儀なくされるわけだが、最低でも戦後、この学園の名前が「日本ウマ娘トレーニングセンター学園」となって以降、そういう不手際によるウマ娘の退学処分という事態は起きていない。事程左様に、ウマ娘というのは基本的には「行儀のよい」生物であった。
いずれにせよ、つまりダイナファントムという暇を持て余して持て余して仕方がないウマ娘が、ならば校外へでも出向こうかと考えるのは、至極自然のことであったわけだ。
ともあれそういうわけで、彼女はトレセン学園の敷地から外へとわざわざ足を伸ばしたわけだが、そこで一つの難題にぶち当たっていた。
それは、トレセン学園のある府中という街の特性に起因するものであった。
トゥインクル・シリーズが国民的娯楽として人口に膾炙するこの日本という国において、その一大拠点であるここ府中は、まさにトゥインクル・シリーズのためにあるような街となって久しい。
トレセン学園は私鉄駅であるところの「東府中」と「府中」駅のちょうど中間地点、北側に位置している*1のだが、その私鉄の線路を挟んで南側の東京レース場こそが府中のまさに中心であって、人の流れも必然的にそこに集中することを想定して街の構造までもが作られていた。
そういうわけで、この街で何かしようと思えば必然的にトレセン学園から南の方へと向かうしかないのだが、その日の東京レース場周辺は非常に静かだった。今週から東日本における中央レースの開催場が中山替わりになっていたからである。
人通りも少なく、東京レース場の中でも何か催物が開かれているわけでもない。一応ターフビジョンには中山レース場の様子が中継されているわけなのだが、そこで開催されてもいないレースの内容をわざわざ東京レース場くんだりまで出向いて見るというのは、かなりのもの好きか、地元民か、或はトレセン学園の生徒か、それぐらいのものであった。
つまり、外へと繰り出してもいまいちやることがないのである。
どうしたものかと考えて、彼女は取り敢えず走ることにした。東京レース場のさらに南、多摩川の河川敷辺りならば、いい気分転換になるだろうと、そんなことを考えていた。
固いアスファルトを全力で踏みしめて走るのは、競争ウマ娘にとっては自殺行為もいいところである。そういうわけで駈歩、つまり軽いジョギング程度の速度*2を心掛けながらも府中街道をひたすら南下すること十五分弱、彼女はある種馴染みともいえる多摩川の河川敷へと辿り着いた。
かなり幅の広いその場所は、その中に野球場が数面設けられるほどの規模を誇っている。右手に川に架かる橋を眺めながらも土の道を踏みしめて川っぺりへと進むのに、そこから更に二、三分ほどの時間を要するほどだ。
ともかくもそれだけの時間をかけて、彼女は川岸へとやってきた。見晴らしの良い砂利道と、そこから少し手前側はよい塩梅に雑草が生える土の道で、外で走るにはもってこいと言えるだろう。
ともあれそこで一つ深呼吸をし、ダイナファントムはいよいよ以て走り出そうとする。
しかしそのタイミングで、彼女は先客の姿をその視界に認めた。
「……あれ」
「……ん」
それは、彼女に向かう相手からしても同じであったらしい。互いに出てきた声は、意外さを帯びたものであった。
目が合った彼女は、鹿毛のウマ娘であった。
小柄なウマ娘であった。
「ディープ、インパクト……」
つまり、ディープインパクトであった。
「珍しい、のかな」
先に言葉が出てきたのは、ダイナファントムのほうだった。
とは言え、その言葉の歯切れはよくない。
まともに顔を合わすのはこれで二度目なのだ。つまり何を話すか、とっかかりというものがない。当然と言えば当然だった。
ディープインパクトは、なおも無言だ。そして小首をかしげた。言いたいことが伝わらなかったらしい。
「いや、ここ。……河川敷、よく来るの?」
今度は、首を縦に振る。そして、ようよう口を開いた。
「ん。結構、くる。……落ち着くから」
らしい台詞だ、とダイナファントムは思わずにはいられなかった。
どこか浮世離れして見える彼女だ。雑然としたトレセン学園という空間から離れて、こういう場所に一人佇む風景というのは、何かとてもさまになっているような、そんな気がしていた。
と、そこで、意外にも今度はディープインパクトのほうから話題が投げ込まれた。
「あの」
そう切り出してダイナファントムの目を向けさせて、そして言葉を続ける。
「この間の、見た。共同通信杯」
ダイナファントムの目が、見開かれた。
意外な言葉だったからだ。府中開催であったとはいえ、まさかあの場所に、ディープインパクトがいたとは。
静かな驚きを以てそれを迎える彼女を、その紅の双眸を、すっとアイスブルーの瞳が射抜いた。
「……強かった。すごく」
真っ直ぐな賞賛だった。嘘偽りのない言葉であろうことは、間違いなかった。
同じ世代、同じクラシック戦線を走る者として、目下最大のライバルであるところの目の前のウマ娘からの素直な言葉に、思わず彼女は頭の後ろに手をやっていた。
「それは、どうも」
嬉しいのは、間違いない。それでもどちらかといえば、彼女はどこか少し居心地の悪さを感じていた。
確かにあのレースは、ダイナファントムにとって一定の収穫のあるものではあった。着差にせよ内容にせよ、完勝と言っていいだろう。
その日一緒に走ったウマ娘には悪いことを言うが、百回やっても百回勝てる勝負だった。それもまた、事実だ。
けれども彼女は、あの内容をして目の前のウマ娘に「強い」と賞されることを、相応しいものだとは思っていなかった。
「けど、あの内容だと、きみには勝てないだろうって」
そうなのだ。あの溜め逃げは、叩きという意味では上々の成果を生んだが、本番の府中、つまり三か月後のダービーのような舞台で通用するほどの完成度は、誇っていない。
というより、あの走りを成就するために番手逃げに甘んじていたことを、彼女は悔いていた。ペースコントロールを他人任せにして、あれではレースそのものを制御することなど到底できない。そしてそれでは、目の前にいるウマ娘に、ディープインパクトには勝てない。そう考えていた。
しかし、当の彼女はそれに首を傾げ、しばらくののちに首を振った。
「そうでもない。トレーナーとあのあと、話した」
「奈瀬トレーナーと……」
ダイナファントムの脳裏に、ディープインパクトの担当トレーナーであるかのレジェンドの面影が浮かんだ。
――「奈瀬文乃の秘蔵っ子」。
――「レジェンドの最高傑作」。
ディープインパクトの
「『両方やれるのは、武器だ』。トレーナーが言ってた。『ハロンコンマ一秒の積み重ねで、どっちにも転びうるのは、厄介極まる』って」
その言葉に、しかしダイナファントムは舌打ちしたい気持ちであった。
――読まれている。いや、当然か。相手はレジェンドなんだ。
そう、何度かの自問自答を重ねる。
そもそも奈瀬文乃というトレーナーは、ペース読みに関しては神域に達するほどの天才として有名だ。故に麾下のウマ娘に関してもレース戦略を大きく外してしまうということはほとんどない。それが重要なレースであれば猶更のことであった。
だからこその、選択肢なのである。さらに言えば、「定速逃げ」と「溜め逃げ」の間にグラデーションをつけ、どちらとも読みにくくするような展開を作ることができるのが、ダイナファントムと福井トレーナーにとっての理想の形ではあった。尤も、最低でも弥生賞までの間には、その戦法の完成は間に合いそうにはなかったが。
ただそのあたりのあれこれは、ダイナファントムにとってはどのみち内に秘すべきものである。故に彼女はその考えを、そしてそこから出でる感情を、自らの表情の上に出すようなことはなかった。それもまたきっと、シャダイの一族として世を渡るための教育の賜物であった。
「まあ、その言葉はありがたく受け取るよ。けど、私たちの勝負は、これからだ」
「ん」
賛意を示すように、ディープインパクトが首肯する。そして、小さく笑顔を作った。
「……楽しみ、だね」
屈託のない表情と、そして声だった。ダイナファントムは思わずその目を瞠っていた。
ディープインパクトが、笑った。いつかの好戦的なそれではない、どこまでも無邪気なその反応が、その相貌が、ひどく新鮮なものに映ったという事実ももちろんある。
ただそれ以上に、彼女の発した言葉こそが、ダイナファントムにとっては予想の外にあるものであった。
レースを「楽しい」、と彼女は言う。それはダイナファントムにとって、全く新しい価値観であり、そしてものの見方だった。
ダイナファントムとて、ウマ娘である。その本能に刻み付けられている「走り」への欲求というものに、逆らおうという気はさらさらない。
つまり――走るのは、楽しい。それは確かであった。
そして誰かと共に走ること、走りを競うということもまた面白いと、そう考えているのも事実である。
その末にある勝利は、何よりも己の気を昂らせるものだと、そういう意識も、確実に存在した。
ただそうであっても、トゥインクル・シリーズで走るということ、そこでレースに参加するということそれ自体を、とりわけ「楽しい」ものであると、そういう風に考えたことは、彼女はなかった。
トゥインクル・シリーズは、あくまで夢をかなえる舞台である。最低でも、彼女にとっての定義とはそれである。そしてその夢というのは、彼女にとっては誰かの期待であり、願いであり、祈りであった。自らはレースにおいて、それを載せて走る。そして勝利で以て、その夢をしかと誰かに届けるのだ。
そういう役回りを期待されているのが自分なのだと、そうとばかり考えていた。
「楽しみ、か……」
気づけば彼女は、そうつぶやいていた。そして己の前に立つディープインパクトが、またもこてんとその首を傾げるのも、目にする。
「楽しみじゃ、ない?」
物問いたげな、否、それは少し
今日は、どうにもディープインパクトの見てこなかった側面を、やけに目にしているなと、ダイナファントムとしてはそれは大変に貴重な経験にも感じられていた。
ただいずれにせよ、彼女はディープインパクトの問いに答えなければならなかった。
少しだけ思惟に沈んで、しかし顔を上げて言葉を返す。
「どうなんだろう。……だけど、ディープインパクト」
一呼吸入れる。以前首を傾けたままのその小柄な身体めがけて、ダイナファントムは努めて笑みかけてみせた。
「きみと走ることは、だからなんていうか、きみに私の走りをぶつけること、なのかな――それは、すごく
言えることは、それだけだった。最大限の誠意で以て、彼女はディープインパクトの問いに答えた。
その思いを、しかしディープインパクトは確かに汲んだらしい。傾げていた首を立て、そして大きく頷いた。
「ん。なら、私もうれしい。私も、ぶつける。走りを、あなたに。そして――」
そして、にやりと笑った。
「次は、勝つ」
釣られて、ダイナファントムも笑っていた。
「聞いたよそれ、前も。……けど、そうだね。せいぜい、受けて立つよ」
その応酬によって、どこか闘志のようなものが静かに二人の中に漲っていくように、ダイナファントムには感じられた。
そしてどちらかというと、それに堪えられなかったのはディープインパクトのほうだったらしい。彼女がダイナファントムのジャージの裾を引っ張る。そして川沿いの道の向こう側を、ぴしりと指さした。
「じゃ、今」
前哨戦だと、並走をしようと、そう言いたいらしい。ダイナファントムもこの二度の邂逅の中で、ディープインパクトの言動の意味するところをいよいよ理解してきていた。
というより、ディープインパクトというウマ娘は言葉少なであるだけで、思ったより感情表現は豊かであった。そしてどこか、人懐っこさというものすらも、その内に宿していた。
なんというか、末っ子気質とでもいうのだろうか。故にダイナファントムはそれに頷こうとして――しかしすんでのところでそれを自制した。
「待って、ディープインパクト」
もはやすぐに駆け出すつもりでいたらしい、進む方向、河川敷の向こう側を向いていたディープインパクトが、そこで振り返る。どうしたのと、目が問うていた。
そこに向かって、ダイナファントムは落ち着かせるように言葉を投げかけた。
「きみのところ、一週前と当週追い切り、どうなってる」
というよりは寧ろ、「気づかせるように」、であったかもしれない。
その言葉に、ディープインパクトは小さく、けれど確かに目を見開いた。
「私ときみだと、多分加減が利かないよ。ホントはこういうの、訊くのどうかと思うけど、けどさ」
そして続けられた台詞に、ディープインパクトから発されていた灼けるような闘志が、急速に萎んでいくのが感じられた。
どうやら彼女も理解したらしい。ダイナファントムは内心で安堵した。
最近のトレーニングの主流は、レースの一週前に強めの負荷で追い切って、それからは当週、開催日までそのコンディションを維持することを意識するというメソッドである。直前の追い切りに負荷の強い調整を行うと、開催日に調子が下降しやすいという傾向が、ウマ娘の間に強くみられることが近年分かってきたからである。
最新のウマ娘研究にも明るい奈瀬トレーナーが、そのメソッドを取っていないはずがない。そしてダイナファントム陣営、福井トレーナーとてそうであった。
そういう視点に立てば、今この場で全力で並走をすることは、この場二人のコンディション調整にはあまり良い影響を齎さないことは明白である。
彼女とてここでディープインパクトと気兼ねなく走りを競うことはまさしく心躍る提案に他ならなかったが、それでもそれに首肯できない理由というのは、つまりそこにあった。
ぱちりぱちりと瞬きをして、その末にディープインパクトがダイナファントムに身体ごと向き直る。そして、口を開いた。
「……忘れてた」
ずっこけそうになったダイナファントムを、誰も責めることはできまい。
言うに事欠いて「忘れた」とは、彼女もどうにもマイペースなことだと、ダイナファントムはそう思わざるを得なかった。或はそれは年相応のものなのかもしれずとも、彼女からすれば随分と牧歌的なものだとしか、評しようがなかった。
だからだろうか、彼女は思わず訊ねていた。
「好きなの? 並走。誰かとするの」
「好き」
答えは間髪入れずに返ってきた。力強い頷きを伴っていた。
「楽しい、から。誰かと走るの」
――楽しい。また、楽しい、である。
野生の如くの素朴な感慨の発露ではある。しかし同時にそれは、きっと彼女の強さの源泉でもあるのだろうなと、ダイナファントムは漠然と考えた。
レースに生きるウマ娘として好ましい在り方に違いはないのだろうとも、考えた。
「そっか。……じゃ、今度やろう。皐月のあととか」
彼女の提案に、ディープインパクトがこくん頷く。
その目が、きらりと光って見えた。
「ん。約束」
「うん。約束だね」
どちらともなく手を出して、小指を絡ませる。
二度三度振られたそれが下ろされて、果たしてそれは、二人の間の約束になった。
その後、今日の暇つぶしがまるで済んでいないことに気づいたダイナファントムがディープインパクトをカラオケに連行したり、またその結果として夕方まで喉を酷使し続けた二人の声が掠れに掠れ、次の日互いのトレーナーに怪訝な目で見られるようなこともあったりしたが、兎に角そんな一日の結果として、彼女たちは互いの呼び名を「ディープ」「ファン」と改めるに至った。
互いにクラシックの冠を競い、奪い合う関係にある二人のウマ娘の、それは間違いなく誼結ぶひとときに相違なかった。
激突の日も近い、或る春の休日のことであった。