双子星の円舞曲   作:厳冬蜜柑

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其れは、試金石――2回中山4日11R・弥生賞(GⅡ)(芝右2000・曇・良)

「特に小細工はなしで行こう」

 

 その日の前日、担当たる福井トレーナーは、自らのトレーナー室の中、ダイナファントムに向けて端的にそう言った。

 

「今回は、トライアルだからね。私たちは共同通信杯勝ちで権利自体は持ってるし」

「そう、ですね」

 

 賛意を示すダイナファントムに、彼女は我が意を得たりと頷く。

 

「あの子が……ディープインパクトが、メイクデビューのあと()()なったのか、どういう風に来るのか、それを測りたい」

 

 それはつまり、福井トレーナーにとって今回のダイナファントムは()()()だと言っているに等しかった。

 ある種傲慢というか、「道具扱い」しているような言葉なのは、確かである。ただそれでも、ダイナファントムからしてみれば十二分に誠実な態度であった。

 

 勝てるならば、勝ちたい。それは嘘偽りないダイナファントムの心情である。ただ彼女は、そして福井トレーナーも、この期に及んで今のディープインパクトに対する勝ち筋を見つけられていなかった。

 ――見つけられないなら、探すしかない。

 それは両者の見解の一致するところではあった。故にこその物差しであり、故に小細工なしなのだ。

 

「ハロン十二秒か十一秒九。とにかく刻んで。相手関係は考えなくていい」

「分かりました。……それで勝つなら、その時はその時。それで、いいんですよね」

 

 ダイナファントムの台詞に、福井トレーナーは笑った。

 

「それで勝てるなら、それに越したことはないね。ただ……」

 

 ――それで勝てるとは、思えない。

 二人の言葉が、唱和される。

 思わず、ダイナファントムも笑っていた。全くその通りだ。ディープインパクトは、底が知れない。

 だが、それがいい。挑み甲斐がある。そういうことだとも言えた。

 

「……ま、何とかやってきますよ。勝てるなら、勝ちます。負けたいとは、思わないので」

 

 たとえ前走で勝っていようが、やはりダイナファントムのマインドセットは、挑戦者のそれであった。

 そしてそれに、福井トレーナーはサムズアップして、頷く。それが、答えであった。

 

 

 

 皐月賞トライアル、弥生賞がやってきた。

 ダイナファントムに配された枠番は、六枠六番である。ちょうど真ん中で、どちらに転ぶ展開にも対応できる。つまりトライアルという意味では、これ以上のものはないと言えた。

 そして対するディープインパクトはといえば、八枠十番、つまり大外であった。十人立てと比較的少人数の今回の弥生賞においては、彼女自身の脚質を合わせて、どちらかといえば望ましい場所を引き当てたと言えるのだろうか。

 走る重賞も二つ目となると、ダイナファントムにはある種の慣れがあった。中山レース場は彼女にとって初めて走る場所であったが、それで彼女の中の何かが変わるというわけでもない。淡々と地下バ道を進み*1、芝を確かめ、そしてゲートに入る。

 どこか流れ作業のような意識の中で、最後、大外十番のゲートにディープインパクトが入ったのを横目で見た。

 そして直後、ゲートが開くとほぼ同時に飛び出すのも、また彼女からすれば当たり前の流れの中にあった。

 

 

 

 最初の直線、三百メートル前後を使ってしっかり前へ出る。今回は内から競りかけてくるウマ娘は誰もいなかった。ダイナファントムに次いで出の良かった四番ダイワキングコンが一瞬前に出ようという素振りこそ見せたものの、ダイナファントムの出足の良さに競るのはあきらめた様子であった。

 テンで加速し、二ハロン目はその助走でペースを速く、三ハロン目で落ち着く。いつもの流れの中、また後ろとは五バ身ほどの距離が開いた。

 ステップレースとしてはある種当然の流れとも言えたが、やはりダイナファントムのほかはあまりペースを早くしようとはしていない。故にこのままではダイナファントムを除いてその前半千のタイムが一分二秒か三秒になりそうな調子であった。

 ただ何にせよ、当のダイナファントムには関係のないことである。経済コースである内ラチにぴったりとつけて、ハロン十二秒を刻むことだけを念頭に、ほかの全てを頭の中から追い出した。

 足音が、遠ざかる。やはり自らのほかはペースを落とすようにしたらしい、とダイナファントムは直感した。振り返って確認する必要こそ感じていなかったが、しかしこれはたっぷり二秒ほどの間隔が空いているのだろう、というのがその読みである。つまり自らと後続勢の間には、またぞろ十二、三バ身ほどの距離が開いているということであった。

 ただだからと言って、ペースを落とすようなことは考えない。

 今回の自分は、物差しである。当然その範疇において全力は尽くすし、競りかけられれば粘ろうとはする。勝ちを捨てたわけではない。絶対にない。しかしそれ以上のことをするわけにはいかなかった。

 それもこれも、「(皐月賞)」のためである。

 

 淡々と進む流れの中、向こう正面半ばで前半千メートルを迎える。

 ――やはり、一分丁度。

 ダイナファントムの体内時計に狂いがなければ、それもまたいつもの通りの時計であった。

 ただ実のところ、彼女には余裕があった。どういうことかといえば、この時計であってもなお脚は溜まっているのである。このままハロン十二秒、合計タイム二分丁度で走破することはそう難しいことではなく、彼女の中には更にスパートをかけられるだけの余力というものが存在した。

 後ろに気を配る。残り八百の標識を通り越し、三コーナーへと入らんとするのにもかかわらず、後ろは未だ差を詰めてこようとしていなかった。多少はペースアップしているようだが、それでも十バ身程度は開いているか。

 

 しかしその辺りで、ようやく後ろ側が動き始めたことをダイナファントムは察知した。急激にペースが上がる。後ろから複数の足音が近づいてきていた。左後方、外々を回りつつも近づいてくる音を聞く。――ディープインパクトだ。

 そろそろ仕掛けどころだと思ったのだろうか。一瞬のキレが強いと思っていたばかりのところで、しかしそれは四ハロンのロングスパートのようにも、ダイナファントムからは感じられた。

 もしそうだと言うのであれば、ディープインパクトはこの前哨戦で新たな手札を見せてきたということになる。

 道中スローに進むのであれば、ロングスパートという選択肢も取れると、つまり彼女は、或は陣営ひっくるめて、そう無言であっても主張していた。

 

「面白い……!」

 

 思わず呟いて、口角も上がっていた。

 最後方のディープインパクトが位置取りを上げて、それに引っ張られるようにバ群が縮まっていく。しかしそれでもなお外目を突くかのウマ娘の脚は一級品で、ダイナファントムの耳が確かならばもうすでに三番手ほどの位置につけている。ここからは七バ身ほど後ろだろうか。

 四コーナー手前、L3標識が過ぎてゆく。ならばここから、こちらもスパートをかけるべき時だと、そう思って彼女は強く足を踏み出した。

 コーナー途中の加速ゆえ、どうしても身体が外へと振られていく。特に中山レース場は小回りのカーブが特徴であり、その傾向は特に強い。

 内枠でずっと粘るというのは、つまりコーナー途中のスパートになるこのレース場においてはそういうデメリットを生む。しかしダイナファントムはそれをわかって、今の戦略を取っていた。

 そのまま外に振られつつもどうにか内目を保つ。しかしじりじりと後ろの、というよりはディープインパクトとの差は縮まっているのが分かった。このままだとコーナー出口では差は五バ身を割り込むだろう。

 

 つまりこれは、脚の差であると同時に、加速しやすさの差でもあった。道中外々を回っていたディープインパクトにとって、アウトから入る中山の小回りカーブは、距離ロスと引き換えに十分な助走を可能にしていた。

 それに引き換えダイナファントムは、明らかにそのアクセルに鈍りがある。トップスピードにしてもディープインパクトに勝つのは難しいが、やはりそれ以上に内ラチ沿いを加速しながら進むというレースのやり方に、はっきりと無理が出ていた。

 

 ただいずれにせよ、今回は良くも悪くもそういうプランなのだ。貫徹するよりほかにない。無意識のうちに歯を食いしばりながら、ダイナファントムは誰よりも早く四コーナーを超え、最終直線へと入った。

 

 ――足が重い。うまく加速しきれなかった。

 ダイナファントムは思わず歯噛みした。

 それは前走が府中であったことも原因かもしれなかった。彼女にとっての「三ハロン戦」の何たるかは、つまり府中の、共同通信杯にこそあった。仕掛けのやり方をあのままでここに来てしまったことが、見事に裏目に出ていた。

 外に膨れないように抑え込んだ足が、スタミナにダメージになる。回せど回せど、あの時の速度まで上がってくれない。ディープインパクトを除けば後続は十分以上に後ろにあるが、しかしかのウマ娘は着々とダイナファントムに迫っている。大外を通って悠々と、ディープインパクトは持ち前の脚を活かして伸びてきていた。

 

 そしてあと二百の標識を通過した辺りで、とうとうダイナファントムはそのほぼ真横にディープインパクトの姿を見た。

 残りゴールまで大体三十完歩ほどの中、一完歩毎に差を詰める彼女の姿は、バ場の中ほどに強烈な存在感を放つ。

 

 ――これはまずい。このままだと一瞬で抜き去られる。

 ダイナファントムは直感した。

 それも当然だろう。ここまでの二ハロン、四百メートルで七バ身あった差を詰められきったのだ。ならばそのままのペースなら逆に三バ身差ほどをつけられて突き抜けられてもおかしくはない。当たり前の理屈である。

 やはりメイクデビュー戦は、虚を突いた作戦勝ちだったというわけだ。つまり拾った勝ちだ。あちら側に入念な準備があれば、このざまというわけか。

 そう、一瞬だけ彼女の胸中を諦念が支配した。トライアルレースであることへのある種の()()も、そこにはあっただろうか。

 

 しかしその瞬後、ダイナファントムの心を激情が駆け抜けた。

 ――けど、負けたくない。このままでは、終われない。

 それは執念であり、根性であり、そして意地であった。

 ディープインパクトは強い。もっとずっと前から、それは認めていた。ただそうであっても、自らをして彼女より力量が下だと、そう簡単に決めつけてしまいたくなかった。

 たとえトライアルであっても、このまま手を拱いて、ディープインパクトにあっさり差されて完敗するなど、自らのプライドが許さなかった。

 

 ダイナファントムの喉の奥から、唸り声が響く。負けるものかと、全身が主張していた。なけなしの気力を振り絞り、なお速く、なお先にと脚を回す。

 そしてそれは、確かに功を奏した。残り百、すでに頭一つ抜け出していたはずのディープインパクトを、逃げウマ娘であるはずのダイナファントムが捉える。そして、()()()()()()()()()()()

 しかしそれにダイナファントムは気づかない。もはや彼女の視界は極限にまで狭まり、ゴール板がどこにあるのかすらもほとんど認識していなかった。横に立つディープインパクトの存在を、忘れ去っていた。

 つまりその瞬間、彼女の頭の中からは、間違いなく今回のレースの意義というものの全てが抜け落ちていた。

 それは本能であり、野性であり、渇望であった。「勝ちたい」という、どこまでも素朴な欲求であった。

 

 しかし――その欲が強いのは、ディープインパクトとて同じである。

 差し返されたという事実が、ディープインパクトの心に火をつける。そしてそれは、力となった。

 

 ドン、という音が、聞こえる。地が爆ぜた。並走するダイナファントムの隣、ディープインパクトの方からである。

 そして彼女は、()()()。そこから、なお加速した。

 残り五十メートル、半バ身ほど前に出ていたダイナファントムを、瞬く間に捉え返す。そしてそのまま一気に突き抜けて、ディープインパクトが決勝線を通り過ぎる頃には、逆に彼女に対して半バ身ほどの差をつけていた。

 

 斯くして、たたき合いというには些か以上に並ぶ距離が離れていたが、しかしそのラスト一ハロンの攻防の末、ディープインパクトは明確にダイナファントムを上回った。

 故に勝者はディープインパクトであり、敗者はダイナファントムであった。

 

 皐月賞前哨戦、この日の弥生賞は、ディープインパクトに軍配が上がった。

 それが、中山に詰めかけた満座の観衆と、出走していたすべてのウマ娘の中の、唯一の真実であった。

 

 そしてダイナファントムがそのことについて理解するのは、自らがゴール板を駆け抜けて数秒たってからのことであった。

 

 

 

 ――負けた。

 それはシンプルな事実として、ダイナファントムの頭の中に入ってきた。

 彼女の中には、いくつかの感情が入り混じっていた。

 

 一つは、後悔である。今回のレース、自らの力を百パーセント出せたとは言い難かった。

 いや、それもまた己の力であるのかもしれない。つまり彼女は、レース運びを誤った。ロスの大きい走りをしてしまった。

 「無策でいい」という福井トレーナーの言葉に甘えたのだ。そして、見せるべきパフォーマンスを出しきれなかった。

 そしてそんな彼女のことを、ディープインパクトが逃すはずがない。つまりこれは必然の敗北であった。

 

 また一つは、申し訳なさである。それは福井トレーナーにもそうだし、或はディープインパクトに対しても、そうであった。

 まさに、不甲斐ないレースだった。次走の作戦立案に影響しかねない。福井トレーナーの判断基準を誤らせる原因にだって、なりそうであった。

 そしてディープインパクトに対しても、あれだけ直前で「楽しみだ」と言っていたのに、最後の直線のワンミスで、それを台無しにしてしまった。最後に張った意地の一伸びが、多少は埋め合わせになったかもしれずとも、こんな悔いの残る走りを彼女に見せたこと自体、ダイナファントムとしては恥ずかしくてならなかった。

 

 そして、それよりも何よりも――彼女は、悔しかった。

 あらゆるものに対してである。

 前哨戦とはいえ、あるべきパフォーマンスを出して走れなかったことが。

 福井トレーナーの信頼に、背いたことが。

 ディープインパクトに、くだらない走りを見せたことが。

 ――ディープインパクトに、負けたことが。

 その全部が、悔しくて悔しくて仕方がなかった。今もう一度走り出したくなりそうなほどに、叫び出したいほどに、悔しかったのだ。

 

 

 

 掲示板を横目に、少しずつ息を整えながら、ダイナファントムはターフの上に佇む。そして自らの胸に手を当てて、荒れ狂う心中を収めようと苦闘していた。

 しかし彼女はその横に、一人のウマ娘の気配を察した。

 小柄の、鹿毛。何度見たことだろう。その正体など、目をやらずとも理解していた。

 

「今日も、強かった」

 

 ぼそりと、しかし澄んだ声が聞こえた。

 ダイナファントムがそちらへと目を向ける。上目遣いで彼女の方を見上げながら、ディープインパクトは真っ直ぐに、言葉をぶつけてきた。

 

「速かった。最後、思わなかった。抜き返されるなんて。予想外」

「ディープ……」

 

 ダイナファントムの喉から、掠れた声が出る。口にしたい言葉は山ほどあれど、しかしその全てが胸につかえて、ただその名前を呼ぶ音しか、出てこなかった。

 

「やっぱり、分かった。私の横を走るのは、あなただけ。だけど……」

 

 体操服の裾が、引かれる。伏し目がちだったダイナファントムの視線が、ディープインパクトに吸い寄せられた。

 薄氷(うすらい)の光宿す双眸に、ダイナファントムの顔が、確かに映り込んだ。

 

()()()()()()()

 

 そう言って、口角を上げる。

 不敵な笑みであった。同時に、それを見たダイナファントムの中、渦巻いていた幾つもの感情が、なぜか氷解していくのを感じ取る。

 そしてそれはやがて、一つの感情に結実した。

 

「……そうだね、私の負け。だけど」

 

 映り込む瞳に、笑顔が映る。

 浮かんだそれは、しかし朗らかなものでも、穏やかなものでもありはしなかった。

 

「――次は、私の番だ。クラシックの一冠目は、私がもらう」

 

 獰猛で、好戦的な笑みに、相違なかった。

 ――次は、勝つ。

 それはつまり、決意であった。

 

「その意気。だけど私も、譲らない。……次()勝つ。皐月賞は、私のもの」

 

 ぬかせ。そう言って、二人笑い声をあげる。

 気づけば互いに握った拳を、相手のそれへとぶつけていた。

 

 その後、勝利を告げるためにウイナーズサークルへと去っていくディープインパクトを、ただダイナファントムは見送る。

 負けた。言い訳のしようもなく、負けた。

 それは事実であるはずなのに。それに対する悔しさは、未だ胸中に燻っているはずであるのに。

 

 それでも今のこの一瞬、ダイナファントムの心の中は、不思議と晴れがましかった。

 ディープインパクトに背を向けて、検量室へと向かう。

 

 ――さあ、トレーナーと作戦会議だ。

 そう意気込む彼女の心は、もうすっかり次のレースへと、皐月賞へと向いていた。

 

 

 


 

 レース結果:2回中山4日11R・弥生賞(GⅡ)(芝右2000・曇・良)

 一着・ディープインパクト

 二着・ダイナファントム 1/2身

 三着・アドマイヤジャパン 7身

 

 上がり3F: 34.8 (12.0-11.8-11.0)

 なお、ディープインパクト: 33.7 (11.4-11.3-11.0)

 ダイナファントム: 34.9 (12.0-11.8-11.1)

 レースタイム: 1:59.2*2

*1
現在の中山競馬場は「グランプリロード」というパドックから本馬場へ直結する地上の道があるが、2014年のコース改修までは中山も地下馬道を通って本馬場入りしていた

*2
史実における本レースのタイムは2:02.2。

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