週明けの放課後、ダイナファントムはチーム《ポルックス》のトレーナー室にやってきていた。
言わずもがな、先日の弥生賞の敗因分析と、そして次走の作戦を練るためである。
当然にその場には福井トレーナーもいたし、同時に次走のフラワーCを二週間後に控えたシーザリオも、どういうわけか同席していた。
いつぞやと同じように、談話ブースにラップトップが広げられる。そしてレース映像を流しながら、福井トレーナーは口を開いた。
「私は」
言葉を切り、ダイナファントムに目を向ける。彼女が自らに視線を向けていることをしっかりと見定めて、言葉を続けた。
「あなたとディープインパクトの間に、力の差みたいなものはほとんどない、と思う。いや、ない。良くも悪くもね」
同意を求めるように、ダイナファントムを見据える。その目を向けられた彼女が、難しい表情をした。
「そう、ですかね」
「うん。ホントはトレーナー贔屓で『あなたの方が上だ』って言いたいんだけど」
バツの悪そうな表情だ。ダイナファントムは、苦笑いを浮かべた。
「それは、結構です。お世辞で、足は速くなりません」
「道理だ」
うまいことを言われたと福井トレーナーは笑う。しかしすぐに、真顔になった。
「力の差がないということは、展開で勝ち負けが変わるということ。『強い逃げは展開問わず』とは言うけど、あなたはディープインパクトに対して、それを押し付けることはできない」
そして、レース映像に視線を戻す。
映しているのはちょうど向こう正面の終わり際、前半千を通り越して三コーナーに入ろうかというところであった。
「あなたは今回、ハロン十二秒で走ることを心掛けた。ラスト三ハロンまでは、そうだった。そうだね?」
福井トレーナーの問いに、ダイナファントムが頷く。
しかし福井トレーナーは彼女の方へと目線を向けない。八百標識を通過したところで、目を細めた。
「『二千メートルなら、ハロン十二秒で脚が溜められる』。それは確かに収穫だった、私にとっても。すごいウマ娘だよ、あなたは本当に。けどね」
そして、
「分かってるでしょ、ダイナファントム。今回の敗因」
咎めるような声、ではなかった。淡々と事実を確認するかのような、そんな無味乾燥な問いであった。いや、事実それは確認であった。ダイナファントムとて、今回のレースの敗因については、それが終わった直後には既に分かっていたからである。
「分かっています。敗因は二つです」
自らの方を向いて、傾聴の態度を示す己のトレーナーめがけて、ダイナファントムは右手を向けた。そして一つ目、親指を折る。
「トレーナーの言う通り、『ハロン十二秒なら脚を溜められる』と思って、出せるペースを出し切らなかったことが、一つ目です」
つまり彼女は、その気になればハロン十一秒九を通して走ることも可能であった。そうなれば、その合計タイムは一分五十九秒フラットと、今回のレースの勝ち時計である一分五十九秒二を上回る。当然、そうなったときにディープインパクトが更に上回る脚を使わなかった保証はないが、ただダイナファントムに限って言えば、結局己の持てるスペックの全ては出し切れていなかったということにしか、ならないのは確かであった。
「原因には、前哨戦に全力を出すことを頭のどこかで拒否していた部分があったことは、否定しきれません。というより、全力のラップ刻みがあいつに、ディープインパクトに通用しないとなったとき、
なるほど、と福井トレーナーが頷く。
「まあ、それは分かる。いくら
実際のところ、ダイナファントムとてそうであった。というより、彼女の場合は先月の共同通信杯から中三週スケジュールのレースが続く関係で、皐月賞にピークを合わせる形の段階的な調整をせざるを得ない事情があった。
それもまた今回のレースでディープインパクトに負けた理由ではあったのかもしれないが、しかしそれを原因にするのは、ダイナファントムとしてはそのプライドが許さなかった。そしてそれについては、福井トレーナーもよく理解していた。
「そういうわけで、
人差し指を折りながら、彼女は口を開く。むしろダイナファントムとしてはこちらの方が本題であった。
「中山での三ハロン戦のやり方を、理解していなかったことです」
福井トレーナーは、そう言ったダイナファントムの表情に、強い悔悟の念が滲んでいることを読み取った。それこそが彼女のずっと持っていた後悔であり、そして敗因として最も重きをなしていると自認しているのだということも、よくわかった。
ダイナファントムの言わんとすることを、福井トレーナーが補完する。
「コーナー途中の仕掛けを、あの位置取りからすることの難しさを、あまり分かっていなかったと」
「……その通りです」
その指摘にどこか俯きながら、ダイナファントムが頷く。
福井トレーナーが視線をラップトップのモニタに戻す。そして動画をまた再生し始めた。
その始点はL3標識周辺、つまり三コーナー終わりから四コーナーへと差し掛かるあたりの場所だ。そこから少し前傾姿勢を強めて分かりやすく加速のために歩幅を大きくし始めたダイナファントムが、しかし目に見える形で外側へとヨレていく絵面が、そこにははっきりと映し出されていた。当然にそれは、パトロールカメラからの映像のほうである。
「速度という意味では、まあ見た感じ加速はできてるね。けど」
そう言って、福井トレーナーはL2を通過したタイミングのラップタイムを指で叩く。
――12.0。
つまりそれまでの巡航速度で出せていたスピードと、コンマ一秒ほどの違いもなかった。思わず、ダイナファントムはその表情をゆがめていた。
「つまり、こうなんだ。ああもヨレてロスが起こると、実際の速度が速かろうが、タイムは
つまりそれは、L3からL2にかけての彼女の立ち回りが、或は加速せずに同一ラップを刻んでいた方がまだ脚が溜ってマシだったかもしれないほどの体たらくであることを示していた。
全く以て恥じ入るばかりだと、ダイナファントムは思わず耳を絞りたくなる。ただ、逃げても仕方がないことだ。ぐっとこらえて、引き続き福井トレーナーの言うことに耳を傾けた。
「まあでも、ここを助走にすることで次の一ハロンが速くなるなら、それはそれでありなんだ。だけどその次がどうかというと……これも、
レース映像のなか、ダイナファントムは追いすがるディープインパクトに急激に差を縮められる。そして半馬身ほど後ろにつけられたL1標識通過タイミングでのラップタイムに、福井トレーナーはまた指を置いた。
つまり、十一秒八だ。十分な加速が乗ったとは到底言えない数字が、そこにあった。
「思った以上に外に膨れて、まずいと思ったでしょ。それで、抑え込もうとした。カーブを曲がりきるために、自制した」
典型的な判断ミスであった。小回りの中山のカーブ途中でスパートをかけ始めて、膨れないウマ娘などほぼいない。それを落ち着けるために加速に自制をかけるようなことは、アクセルを踏みながらブレーキをも踏むのと大差はない。つまり、ただのスタミナの無駄であった。
「わかるよ。カーブを経済コースで曲がらないとっていうのは、逃げウマ娘の本能に近いからね」
ただそれに関しては、ダイナファントムは既に
「ただまあ、どっちつかずっていうのが一番まずい。中山の直線の短さに賭けて最後まで引き付けるか、それか腹をくくって膨れてもいいとぶっ飛ばすか、前にいたところで二つに一つだよ。両方のいいとこどりはなかなか、ね」
福井トレーナーのそれは、どこか諭すような口調だ。
「まあただ、あまりぶっ飛びすぎて逸走になるのはまずいし、最悪斜行を取られる。けど、多少の思い切りは必要だよ。スパートするならね」
ダイナファントムは、無言で頷いた。全くトレーナーの言う通りであった。
つまりここに来て、ダイナファントムと福井トレーナーの見解は一致していた。
――次走も、溜め逃げの戦術で行く、と。
しかしこれは実のところ、前哨戦と本番のレースのセオリーには反するものだった。
どういうことかと言えば、それはそれぞれのレースの位置づけというものに起因する。
まず前哨戦だが、これは八分の仕上げと権利取りのレースであり、見合ってスローになることが多い。
翻って本番は、全員が勝ちを目指す関係で前掛かりになりやすい。つまりハイペースの前潰れがよく起こる。先行のウマ娘が強ければ、行った行ったの展開になることもあるが、いずれにせよペースは厳しいものになるわけだ。
その中で、流れに逆らうような溜め逃げのレースを選択するというのは、相応のリスクを帯びたものである。つまり、ハナを取りきることができず、主導権を握れない可能性があるわけだ。共同通信杯のような力差のはっきりしたレースとは違って、次はGⅠだ。クラシックの一冠目なのだ。流石にそれでは勝算などないも同然である。
当然、それは彼女たちとて理解している。それでも本番、勝利を得るためには、「正道」、「王道」ばかりを求めるわけにはいかないのだ。
それゆえに、二人は次のレース、一計を案じることにした。
「じゃあ今までの反省を踏まえて、次走の作戦を練ろうか。まずは――」
そこから、ダイナファントムとそのトレーナーの間の話題は、当日のレースの流れについてに転換する。
議論を戦わせ、案を出して、取るべき戦術を固めていった。
その全ては一冠目のためであり、ディープインパクトに勝つためであり、そして何より、ダイナファントムが自らの走りを悔いることなく遂げる、まさしくそのためでもあった。
季節は巡る。三月も三週目に入り、ティアラ路線にも動きが出始めた。
先ずは阪神レース場、桜花賞トライアルの一つであるフィリーズレビューで、ラインクラフトがデアリングハートとのアタマ差の接戦を制する。彼女はかつてデビュー前の契約の段階で、同じティアラ路線を争うことになるシーザリオとチーム《ポルックス》への参加についても競合する関係であった。結果として福井トレーナーはシーザリオのほうをチームへと迎え入れたわけだが、ともかくこのことでラインクラフトはシーザリオとの間に浅からぬ因縁ができていた*1。尤も、噂に聞く彼女たちはその仲自体は良好であって、つまり外側の事情は兎も角としても互いの認識においては恐らく健全なライバル関係にあるのだろう、とダイナファントムは踏んでいた。
――つまり自らとディープのような関係か、というのが、彼女にとっての評である。
いずれにせよそういうわけで、西の、つまり阪神の前哨戦において、一足先にラインクラフトがティアラ路線へと名乗りを上げた。そうすれば、今度は東の方となる。
三月三週目、中山二回目開催七日目のフラワーカップは、まさに東の桜花賞前哨戦であった。フィリーズレビューがその後の短距離路線への転換を見据えた千四百メートルでの開催であるのに対し、こちらは後の距離延長を見据え、オークスへの参戦も焦点に据えた千八百メートル条件である。
どちらかといえばマイルよりは中距離がベスト、或はそれよりも長い距離にも適性があるかもしれないシーザリオにとっては、こちらの方が前哨戦としては適している。彼女自身と福井トレーナーのコンセンサスのもと、シーザリオは四月二週開催である桜花賞との間隔がやや詰まっても、こちらのレースへの参加を選択していた。
応援のために中山へとやってきたダイナファントムではあったが、正直なところ彼女はあまりレースの結果については心配していなかった。
つまり彼女に言わせれば、この年のティアラ路線の有力ウマ娘は、三人に集約されている。
一人は言うまでもなく、《ポルックス》のティアラ担当、シーザリオである。
二人目が、彼女のライバルたるフィリーズレビュー勝ちのウマ娘、ラインクラフトだ。
そして今一人にダイナファントムが挙げているのが、そのラインクラフトとのアタマ差の接戦に敗れた、デアリングハート*2であった。
ジュニアのティアラ路線の王者たるショウナンパントルは、次走の桜花賞前哨戦の一つであるクイーンカップで十二着惨敗を喫しており、その内容からも世代上位の風格は感じられない。
強いてもう一人挙げるのであれば、件のラインクラフトのフィリーズレビューでデアリングハートにクビ差続いたエアメサイアが、中段前目につけながら上がり三位の脚を使っての三位入線を果たしたところに強さを見せていたものの、ただいずれにせよそういった見どころのあるウマ娘たちは誰も彼もがフィリーズレビューに行ってしまい、つまりこのフラワーカップはシーザリオを除いてあまり有力なウマ娘の登録がなかった。
――普通にやれば、普通に勝つ。
故にそれが、ダイナファントムの今回のレースに対する素朴な見解であった。
そしてその予想というのは、すぐに事実になって表れた。
圧勝、であった。
今回のフラワーカップが、である。道中三番手から四番手、内につけながら落ち着きをもってレースを進めたその青毛のウマ娘は、四コーナー手前で既に先頭を捉え始め、最終直線に入って後続を突き放しながら、必死に逃げ粘る先頭のウマ娘、十一番のスルーレートを余力十分に躱し、最終的には二と半バ身差をつけて悠々とゴール板を駆け抜けた。
力みなど一つもなく、すべて自然体で、まさに飄々とした風情で彼女は、シーザリオはフラワーカップを制した。相手関係の問題はあれど、それは完全にティアラ路線一番手の風格に相違なかった。これは間違いなく、桜花賞当日も一番人気に推されることになるだろう。そういう走りを、彼女はしていた。
ウイニングライブ終わりの帰路の中、福井トレーナーの運転する車内で、ダイナファントムはシーザリオと話をする。
「これで、いくらか桜花賞に自信は出てきたんじゃない?」
「そうね……」
それはある種、無責任な楽観論のそれであったのかもしれない。対するシーザリオは腕を組んだ。むむ、と少し唸って、その末に首を振る。
「そうでもないわ。だって私、あと二百まであの先頭の子を抜かせなかったんだもの」
「そうは言っても、余力残しではあったんでしょ?」
「そうでも、よ。もともとのプランじゃ、直線入り口ではもう先頭に立っているつもりだったの」
ままならないなぁ、と、そんな風情をシーザリオは見せる。
福井トレーナーは、何も言わない。彼女もまたシーザリオと今回のレースにおける作戦を練っていた当事者ではあったのだが、どうやら若い二人で話をしておけ、と言うことなのだろう。そう、ダイナファントムは直感した。
「つまり、自分には千六は忙しいかもって?」
「……ええ、そう言うことになるわね」
はあ、とシーザリオは溜息をついた。
はた目からすれば完勝としか思えないレース運びであっても、当人からすれば悔いは色々と残るものだ。よくよく考えれば、ダイナファントムとてそういう経験はある。共同通信杯の時のことなどその最たるものであっただろう。
勝てども、勝てども、悩みは尽きない。競争ウマ娘として、それは致し方のないことではあった。
「まあ、でも今日を勝てるのと勝てないのとじゃ、まるで違う。勝てたことは、よかったよ。絶対にね」
そこで運転席の福井トレーナーが、そんな助け船を出した。はたとそちらを見る後部座席のウマ娘たちに対して、バックミラー越しに念を押すような視線を彼女は向けた。
それを見て、二人は頷く。確かに、まさしくその通りであった。
「まあ、負けたら負けたら得るものはあるんだけど……私みたいに」
苦笑いしながら、ダイナファントムはシーザリオに向き直る。
「そだ、ザリオ」
無言で小首をかしげた彼女に、そのまま問いかける。
「
実のところ、ダイナファントムはそれについてシーザリオに問うたことはなかった。
というのも、クラシック三冠、トリプルクラウン路線に比べて、トリプルティアラというのはいまいち影が薄い。それは確かに一つの偉業ではありつつも、どうしても三冠に比べれば一歩引いた形で評価されるものであった。
理由は、二つほどある。
一つは、距離がこじんまりとまとまってしまっていることだ。二千、二千四百、そして三千と、開催ごとに距離が伸びてあらゆる距離での強さを求められるトリプルクラウンに比べて、ティアラの方の距離は千六百、二千四百の次が二千と、あまり長い距離を使わない。二冠目のオークスが距離の上限ということで、そこまでの二冠を取ってしまったウマ娘にとって、三冠目というものがあまり印象に残らないものになってしまうという事情は、間違いなくあった。
そしてもう一つ、恐らくはこちらの方が重要なのだが、実のところティアラ三冠の三つ目を構成する秋華賞というのは、クラシック競走
つまりティアラ専門のクラシック競走に、正確には三冠目は存在しないのだ。これは日本のトゥインクル・シリーズがレース体系の規範としたイギリスのそれがそうであったからという以上の意味はない。ただいずれにせよ、事程左様に、ティアラ路線というのはどこか軽んじられているところがあるのはどうしても覆しえない事実であり続けていた。
そういう事情の中で、クラシック路線を争うダイナファントムの方から、ティアラ路線に進んだシーザリオに対してその種の質問を投げるというのは、どこか気が引けるものがあったのである。
しかしもはや時は桜花賞直前である。そういう、ある種将来に関わる問いをかけるのは、同じチームに所属するものとしてむしろあるべき姿だと、そうダイナファントムは考えていた。
対するシーザリオは、一度ばかり目を瞬かせる。一瞬だけ福井トレーナーの方に目を向けて、またダイナファントムの方に視線を戻した。
そして、小さく首を振る。
「何とも言えないわ。桜花賞次第かしら」
しかしそれを言ってすぐに、でもね、と言葉を続けた。
「私は。……大きな舞台に、立ちたいの」
ダイナファントムから目線を外し、まっすぐに前を見る。その目はどこか遠くを見ているようで、しかし深い翠の双眸に宿す輝きは、まさに夢を追う少女のそれであった。
「まだ小さかったときの私にとって、ティアラのウマ娘はすごくきらきらしていたの。華やかで、素敵だった。ああなりたい、って、思ったわ。それが夢になった。けど」
目を瞑る。
「
「ザリオ……」
やはり、シーザリオはそこに忸怩たる思いがあるのだ。
それはティアラ路線を選んだウマ娘にとって、きっと共通の悩みではあった。
しかし、それでも彼女は笑った。顔を上げて、確かな口ぶりで、なおも続けた。
「でも、いいの、それは。私はそれを分かって、ティアラを選んだわ。後悔なんて、していない。だけどね」
そこまで言って、また隣に座るウマ娘へと、ダイナファントムへと目を向ける。
その瞳は、もはや遠くを見ていない。ほど近くに像を結んでいた。
決意を、帯びていた。
「だから私は、もっといろんなところで輝きたい。もっとたくさんの人の前で、走りたいの。だからオークスが終わったら――」
語り口には次第に熱を帯びていき、けれどもそこで唐突に、シーザリオは何かに気づいたように口を噤んだ。
一つ、二つと呼吸を入れて、その中で上がっていたボルテージが鎮まっていくのを、ダイナファントムは知覚する。
その最後、一度目を閉じたシーザリオが、そこで自らの人差し指を、唇の前へと持ってきた。
そして、片目を瞑って見せてきた。
「――やっぱり、内緒よ」
いきなりのことに少しばかり当惑するダイナファントムめがけて、彼女は悪戯っぽく笑う。
「ファンさん、この話は、あなたのダービーが終わってからにしましょう」
そしてそう言ったきり、話は終わりだとばかりに、また前を向く。
これ以上何かを言う気配は、彼女にはもうなかった。
日が沈み切り、夜になった街の景色が流れていくのをぼーっと車の窓から眺めて、ダイナファントムは一人思いを馳せる。
みんな、己のかけるべき願いを、意思を持って、あのターフに立っている。
シーザリオの情熱も、ディープインパクトの欲求も、すべて己の中に抱える思いに他ならないのだ。
しかしダイナファントムには、それがない。そしてそれでいいと、今まで思っていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。彼女は目を閉じる。何か自分も、レースの上にかけるべき自らの思いというものを、持つべきなのではないだろうか。
考える。けれどもそれに対する答えは、すぐには見つかりそうになかった。
だから、だったのかもしれない。
――ファンちゃんがやりたいことも、見つかるといいですね!
あの正月の初詣の日、先輩に、スペシャルウィークにかけられたその言葉が、その時ダイナファントムの頭の中で、やけに大きく響いたような――そんな気がした。