桜の季節が、春が、四月が、やってきた。
トレセン学園という教育機関にとって、それは新入生を迎え入れる時期である。今年もたくさんの本格化直前のウマ娘がこのトレセン学園の門戸を叩き、そして各チームは素質ウマ娘の発見と勧誘に余念がない。
チーム《ポルックス》にしても当然にその中の一つではあって、熾烈なる争奪戦の末、このチームは新入生ではないもののデビュー前の一人のウマ娘を傘下に加えることに成功する。そのウマ娘はのちにティアラ路線を好走し、エリザベス女王杯制覇という一つの頂を窮めることになるのだが――しかしそれは、今語るべき話ではないだろう。
そう。またそれと同時に、この時期というのはシニアウマ娘たちにとってはまた別の意味を生む。つまり、ファン感謝祭である。
これもまた彼女たちトレセン学園の生徒には、そしてURAというトレセン学園の親組織にとっては大事な行事だ。言うまでもなく、トゥインクル・シリーズにとってはれっきとした普及活動であったし、その中での現役のウマ娘との触れ合いが、或は幼いウマ娘にとってはのちの夢となり、そして後年の活躍ウマ娘を生み出す契機にも、なりうるのだから。
しかしそういった事情を何もかもひっくるめて、四月というこの時期は、トゥインクル・シリーズにとってそれ以上に重要な意味を孕んでいた。
それはつまり、そして当然に、クラシックシーズンの本格的な幕開けである。
その年のクラシックレースは、まずティアラ戦から始まる。
四月第二週、阪神レース場第二回開催の六日目、メインの十一レースこそが、それだ。
いや、勿体つけて言う必要すらもない。つまりは、桜花賞のことである。
その日、チーム《ポルックス》のクラシック組は、揃って阪神レース場の控室にいた。
桜花賞とは、言うまでもないがGⅠレースである。つまりそこに参加するウマ娘は、義務として、そして権利として、「勝負服」というものに袖を通してレースを走る。
果たして初めてのGⅠレース出走となるシーザリオにとってもそれは等しく、つまり出走前の午後のひととき、彼女はその準備として、誂えられた彼女自身の勝負服をその身に纏っていた。
その立ち姿を、ダイナファントムはつぶさに見る。
黒の燕尾服調の上下に、純白のドレスシャツを合わせた、勝負服としては一見してシンプルな服装である。しかしその上着の襟の縁の部分は彼女の瞳と同じ翡翠の色に染められていて、またそれと同時、首元を飾るスカーフタイもまた、同じような色の一色染めが強く目を惹いた。
少し目を凝らせば、その襟そのものもダークグリーンのサテン地になっているのが見て取れる。裏地もまた、そうであった。
総じて、その黒を主体としながらも緑と白を挿し色とした意匠は、どこかかの名家、メジロの一族のそれをも想起させるものがある。
しかしそれとは決定的に異なるのが、その左腕に配された深紅の腕章だろう。
本来的には緑色とは補色の関係で、普通ならばミスマッチ甚だしいはずのその色だが、しかしそれ自身の深い色合いと、間に挟まれた黒が合わさって、えも言えぬ妙味を全体にもたらしていた。
「どうかしら」
ダイナファントムの、そして福井トレーナーの目の前、その一式を身につけたシーザリオが、くるりと一回りする。
女性を華やかに着飾らせるそれとは少しばかり趣の異なる装いだ。どちらかといえば、「男装の麗人」という言葉すら、頭に思い浮かぶ。ダイナファントムは彼女の格好に、まずそれを考えた。
つまりそれは、こういう言葉になるのだろう。
「かっこいい、かな」
ダイナファントムが、福井トレーナーを見る。それに彼女は頷いた。どうやら似たような見解だったらしい。
しかしそれにしても、不思議なものであった。煌びやかなティアラに憧れて、その世界に輝くことを夢見たシーザリオというウマ娘が選んだのが、斯くの如き男装様の勝負服であったことが、である。
「『不思議だ』、って顔、しているわね」
そう言ってダイナファントムの前、シーザリオが悪戯な笑みを浮かべる。
まさにその考えはお見通しだったらしい。苦笑いしながら頷いたダイナファントムに、シーザリオはその訳を説いた。
「私の、ウマ娘としての名前。……シェイクスピアの劇に、同じ名前の登場人物が出てくるの」
彼女は言う。
曰くそれは偽名であり、それを名乗った人物は、また別の本名を持っていること。
そしてその名前というのは、本来女性であるかの登場人物が
「『私たちの名前は、別の世界の魂から受け継いだものだ』、とか言うけれど。きっとその世界にも、同じような逸話があったのかもしれないわね」
――それって、とってもロマンチックだと思わない?
そう言って、流し目に微笑む。
ともかく、故に彼女はその逸話に着想を得て、自らの勝負服を考え付いた。その結果が、これである。そういうことであるらしかった。
そんな一頻りのお披露目会を終えたころ、外では第九レースが終わり、着順掲示板に結果が映し出された。
つまりそろそろ、シーザリオがパドックに向かわなければならない頃合いだと言うことであった。
ダイナファントムに先だって、福井トレーナーがまずシーザリオに声をかける。
「まあ、あなたとしては初めてのGⅠだから、どう思っているか、までは訊かないけども」
そう前を置いて、ずい、と彼女はシーザリオに近づいた。
「勝負服を着ていることは、確かだけど。でもターフの上に立てば、やることは一緒なんだ」
それを神妙な表情で聴いて、シーザリオは頷く。
よろしい、そうトレーナーは笑った。そして肩に、その手を置く。
「まあ、結局言えることは、一個しかない。――楽しんで、走ってきなさい」
勝つにしろ負けるにしろ、それは経験だ。一生に一度しかない、クラシックの思い出なのだ。
故に楽しんだもの勝ちであるというのは、まさしくそこそこ長い間ウマ娘を担当してきたトレーナーたる、福井トレーナーの持論であった。
「……はい、わかりました」
ただ、いつにもまして淑やかに頭を下げるシーザリオは、しかしその態度故に、やはり内に抱える緊張を隠せていない。
張り詰めた意識が、瀟洒なる態度をとる方向に表出すると言うのは、ダイナファントムもまた同じであった。つまり似たような教育を受けてきた者同士、そこについては共感するところが多いと、そういうわけであった。
故に彼女も、シーザリオへと語りかける。
「ま、私も来週ザリオと同じ立場になるって考えたら、正直ちょっとブルってるけどさ」
そう茶化して、目の前に立つウマ娘の失笑を誘う。
片手を口に当て、クスリと笑んだシーザリオの手を、そこでダイナファントムは静かに取った。
少しだけ目を瞠った彼女のその瞳を覗いて、言葉を重ねる。
「なるようにしか、ならないんだし。そもそもどうせゲート出たら、頭の中は走ることばっかだよ、
――違う?
その問いに、シーザリオはまた、笑みを浮かべた。
「……確かに、そうね。その通りだわ」
「でしょ。なら、初めからそういう気持ちでいるべきだよ。私たちはさ」
「それも、そうね。……本当に」
自らの横、少しばかり驚いた面持ちでこちらを見る福井トレーナーのことを意識しつつも、しかしそれよりは目の前のことだと、ダイナファントムはシーザリオのほうに集中する。
ほんの少し前まで、取った手は微かに震えていたけれど、それでも今の彼女からは、そうした素振りは見られない。
うまい具合に、肩の力が抜けたらしい。ダイナファントムは、それにただ安堵した。
互いの手が、ゆっくり離れていく。どこか余韻の残るこの控室の中、シーザリオは出入口に目を向けてしずしずと進み出た。
その最後に辿り着いた先の扉、把手を掴んで彼女は振り向く。
「それでは、行って参ります」
「行ってらっしゃい」
気負いなく唱和された見送りの台詞に、とび切りの嫋やかな笑顔で以て、応える。
そして一つ頭を下げて、彼女はこの控室から出て行った。
自らの戦場へと、その一歩を踏み出した。
それが、レース開始から一時間ほど前のことである。
いよいよ、その時がやってこようとしていた。
今日のメインレースたる桜花賞の枠入りが、始まっている。
阪神千六百メートル戦は、ワンターンのマイルコースである。つまり発走は向こう正面、ほぼターフビジョンの奥となる。
そういうわけで観客席からは直接に発バ機の様子を覗くのは難しく、故に観衆の注目は当のターフビジョンに集まっていた。
そこに見るゲート前の景色では、色とりどりの勝負服がその花を咲かせ、見る人々の目を楽しませている。
その背後に咲き乱れる阪神レース場の桜も、その華やかさに確かな色を添えていた。
こう見ると、やはりティアラ路線の方が煌びやかだと言うのは本当のことであるな、と、そうダイナファントムは直感した。
勝負服の話である。トリプルクラウン組の勝負服というものは、一言でいえば質実剛健な意匠のものが多い。無論そちらとて華美であることに変わりはないが、やはりティアラ組の見せる繊細な美しさというのは、こうしてみれば別格のものだろう。それは確かな印象に相違なかった。
これから始まるのは、GⅠである。そして選ばれたクラシックの優駿たちであって、その人生においてただ一度しか走ることを許されない、そういうレースでもあった。
その事実が齎す緊張は、見ている側にとっても重くのしかかる。
当事者であるチームのメンバーとしては、猶更のことだ。
しかしそうであったとて、枠入りは順調に、ただ粛々と進む。四枠七番、先入れでシーザリオが収まり、そしてそこから暫くののち、大外八枠十八番に去年のジュニアティアラ王者、ショウナンパントルが収まる。
一瞬の静寂が場を支配して――しかし発バ機が開いたのは、その本当にすぐあとのことだった。
すべてのウマ娘が、一斉に飛び出す。出足の悪い者など、そこには一人もいなかった。
阪神レース場外回りコースで開催されるこの桜花賞だが、それゆえに直線は長い。最初の直線も、最後の直線も、大体四百五十メートル前後もの距離がある。
つまりその間じゅう、熾烈な位置取り争いが繰り広げられるということだ。
『揃ったスタートを決めましたウマ娘たちです、その勢いで前の方五、六人ほどのウマ娘たちが突っ込んでいきます。大外十八番ショウナンパントルだけすーっと後ろに下がっていきますが、他は前掛かりの展開と言っていいでしょう』
実況の通り、前掛かって突っ込んでいくウマ娘たちの集団が、テンの一ハロンのペースを一気に引き上げた。これは恐らく、スタート直後にもかかわらず十二秒台前半か、或は十二秒フラットにもなりそうな勢いだ。しかしそこにさらにポンと二人のウマ娘が前に出て、三コーナーへ差し掛かるころには後続に三バ身ほどの差をつけていた。
後ろのペースは緩んでいない。つまりその二人がまさに異常ともいうスピードでレースを引っ張っていた。
ライバルたちの去就を見る。最大の競合相手たるラインクラフトは、地獄のハナ争いからは早々に脱落して集団前目につける。三コーナーへ入った辺りでは、既に四から五番手といったところであった。
デアリングハートはその一段前、逃げる二人から離された三番手で己のペースを守っている。
そして我らがシーザリオを見れば、それから随分と後ろ、後方集団ごちゃっと固まったところの内につけていた。恐らくは丁度集団の真ん中といったところ、つまり十番手辺りだろうか。
「これは……どうなんだ」
思わず、ダイナファントムは零していた。
明らかに、レースのペースは速い。速すぎる。テン三ハロンは体感で三十四秒を割り込んでいる。レースとしては恐らく前傾ラップになることは間違いない。つまり、後方有利な展開だと言えなくはなかった。
しかしその場合はその場合で、どこかのタイミングで外々に持ち出しつつ、阪神レース場外回り四コーナー中間からの下り坂を使っての一気の加速が求められる。しかし今のシーザリオの位置取りは完全にウマ込みの中に閉じ込められていて、勝負所で加速ができるかやや不透明だった。
そう考えると、前走中段やや後方から一気の差し脚で勝ち切ったレース展開を捨ててでも前に出していったラインクラフトの判断は、どうしても正しいように思える。つまり前方四番手から自分のペースでレースを進め、テン三ハロンの地獄のようなハイペースから少し距離を置きつつも、しっかり息を入れて仕掛けどころを探れるその位置取りは、結果論ではあるかもしれないがこのレースにおける最適な戦術であるように思われた。
事程左様に、中段から差していくタイプのウマ娘は、コンマ一秒か二秒の判断でレース展開の明暗が分かれてしまう。自らは逃げウマ娘であるダイナファントムではあるが、この類の苦悩というのははた目から見ても痛感するところがあった。だからこそ彼女は逃げという戦術を選択しているという話でもある。つまり、多人数レースにおいてレース展開に振り回されるのが嫌いなのだ。
ともあれ、レースは後半に入った。三コーナーから四コーナーへと差し掛かり、次第にその姿が近づいてくる。完全にバ群のなかでその様子を覗き見ることすらできないシーザリオは、ターフビジョンから見る限りにおいてはしかし焦った様子は見られない。
『さあ三、四コーナー中間地点を抜けてそろそろ六百標識を通過しようというところ、前は十六番モンローブロンド三バ身差先頭でコーナを曲がってくる、後ろは二人、内テイエムチュラサンに外デアリングハートとどちらも五枠が二番手を争いながら、さらにその後ろからは二番人気、十七番のラインクラフトが前を狙ってじりっじりっと差を詰めている』
いよいよ終盤の攻防が近い。L3を通過したバ群は一気に忙しくなり、加速を始めた後ろのウマ娘はばらけるように横に拡がっていく。しかし内に閉じ込められたシーザリオはそこから抜け出せる様子はない。
いや、位置取り自体は上げてきているものの、その真正面がよりによって
「くそっ、やられた……!」
横で歯噛みする声が聞こえる。福井トレーナーだ。それは狙ってのものかは分からないが、二番手集団にぴったりつけていたラインクラフトが加速しながらレーン一つ外を回し始める。しかしそれはバ群の中から抜け出ようとするシーザリオの進路と完全に重なっていて、つまり先行するラインクラフトが十分な加速を得られるまで、彼女はその内から脱出できなくなっていることを意味していた。
ダイナファントムもまた、気づけばその手を強く握っていた。
彼我の差は二バ身と少しぐらいだ。ラインクラフトが先行で脚を使ったことを考えれば、その距離というのは十分にリカバリー可能なものといえなくもない。ただいつ進路が空くかが分からない。差し切れるかどうか、成否は難しいところであった。
ただ、自分は自らのチームメイトを、ルームメイトを信じるしかない。それだけだった。
『一番人気シーザリオはまだバ群の中、しかしもう最後の直線に入ってしまうぞ、大丈夫なのかシーザリオ! さあ先頭は四コーナー抜けて直線に入った!』
GⅠレース、そしてそのクライマックスだ。ボルテージは既に高く高く、周りの歓声は耳を聾する。
ただその中でもダイナファントムは、周囲のことなど気にも留めていなかった。息すら殺して、目を見開いて、直線の攻防を見守っていた。
『外目をついて上がったラインクラフトがもう二番手集団に取り付いて更に前に出る! 四百の標識を通過して先頭十六番脚が完全に上がってたか後退していく、代わりに上がってくるのは九番デアリングハートに十七番ラインクラフトだ! この二人の追い比べになるか!』
「ザリオ……!」
祈るように手を組んで、未だバ群の中でもがくシーザリオを見つめる。
しかし、ラインクラフトが一気に先頭に躍り出ようとしたことで、彼女に光明が生まれた。自らの前の空間が、ぽっかり空いたのである。直線半ば近く、残り二百五十メートルほどの場所だった。
『あと二百! ラインクラフトがいよいよ先頭に立つ、このままラインクラフト押し切るか、内デアリングハート必死に食らいつくがわずかにラインクラフトが前のまま変わらない! 外々ではエアメサイアが追いすがろうと突っ込んできている!』
そこにダイナファントムは見る。シーザリオの中、闘志の炎が一瞬のうちに燃え上がった。
その身体がわずかに沈み、脚が強くターフを蹴る姿すら、はっきりと目に入った。
『――いや、いやしかし! その内をついてとうとうやってきた! とうとう七番シーザリオが追い上げてくる! 直線半ばまでバ群のなか苦しんでいたシーザリオが、今一気に前を窺う勢い!』
残り二百、いや百五十メートルの地点から、シーザリオが爆発的な加速を見せる。それまで三バ身後方でもはや勝負は決まったかもしれないとすら思えたところから、一完歩ごとにぐいぐいと差を詰めている。前の二人とははっきりと脚色が違っていた。
『あと百、前で叩き合う二人をシーザリオが追い詰める! このまま差し切れるかシーザリオ、或はラインクラフト粘るか! もうこれは分からない、シーザリオまだ脚色鈍らずラインクラフトに並ぶ、並んで並んで――』
しかし。しかしそれでも、前を行く二人は、いや、ラインクラフトはそれでもわずかに遠い。
最後の三完歩ほどで、ダイナファントムはそれを理解した。
一完歩目でデアリングハートから頭一つ前に出て、二完歩目、残り一完歩でラインクラフトに並びかけ――
『三人が並んで、ゴールイン! しかしこの三人ではやや中の体勢が有利か、ラインクラフトやや有利か!』
しかし最後の一完歩、ほんのわずかに先頭に届かないところで、彼女たちは、シーザリオは、ゴール板を通過した。
百メートルも、いや、五十メートルもいらない。あと一完歩、欲を言えば二完歩だけあれば、シーザリオはラインクラフトに勝っていた。
しかし、そんな「たられば」などレースにはない。桜花賞は阪神外回り千六百メートルのレースであり、その距離がその日だけ伸びるなどということはありえない。
故に今年の桜花賞は、ラインクラフトが一着で、シーザリオは二着だった。
負けて強しのレースだと、きっとそう言われるだろう。シーザリオもまた強いウマ娘であると、誰もが賞賛するに違いない。
しかしそれでも、彼女は桜の冠を取れなかった。それだけは、確かなことであった。
その日の夜のことだ。前入りに使っているホテルに戻り、ダイナファントムとシーザリオは同じ部屋にいた。
関西のレースでの通例通り、帰りは月曜日になる。だから今はともにもう寝間着姿で、あとは寝入るばかりの体勢であった。
外を通る車のエンジン音が時折届くばかりの静かなツインルームで、互いにそれぞれのベッドに腰掛けながら、ダイナファントムはシーザリオに声をかける。
「その、えっと。なんというか」
そこまでは、言葉になった。しかしあとが続かない。そこで、また口ごもってしまった。
桜花賞が終わって、ラストの十二レースが終わったあと、ウイニングライブが済んでそれからも、ダイナファントムはシーザリオに何を言うべきなのか、見つけられていなかった。
彼女が今この結果を、どのような形で受け止めているのか。自らの願いをかけたターフの上、二着とは言え、アタマ差とは言え、敗れたというその事実を、どのような認識で見据えているのか。何も、ダイナファントムは分かっていなかった。理解できているとは、思えなかったのだ。
故に事ここに至るまで、ダイナファントムはシーザリオに、まともに何か言うことすらも、できずにいた。
そしてその態度は、胸中に至っても、きっとシーザリオには見透かされていた。どこか困ったような笑顔で、唇が開かれる。
「惜しかった。惜しかったわ。本当に」
俯き加減だったダイナファントムの顔が、はっと上げられた。シーザリオのその表情を目に入れて、言葉にできないような、痛ましいような、そんな曖昧な笑みを、彼女は浮かべた。
「もともと、勝算は五分五分だったの。ティアラ三冠を目指せるなんて、背伸びした考えはしていなかったわ」
ぷらぷらと足を揺らしながら、淡々と言葉が続く。
「けど、悔しいのは本当よ。だってあの時、あの一瞬、私には勝ち筋ができていたから。序盤に大きくミスをして、立ち遅れて、着外でも文句は言えないかもしれないと考えて、それでもあの場所、私には道が出来ていたの」
「それを勝ち切れなかったことが、悔しいんだ」
「……ええ、その通りよ。それは、私の力不足だわ」
そう言って、ダイナファントムの言葉に同調して、そして俯く。
潔い考えだ。展開を言い訳になどしない。どこまでも自らの力の及ばぬ結果であると、それを真っ直ぐに受け入れている。誇り高い在り方だと、ダイナファントムは素直に感銘を受けていた。
ダイナファントムの肩越しに、窓の方へとシーザリオは視線を向ける。斜に見えるその目は、それでもどこか揺れている。内でこらえる何かの存在を、意識せざるを得なかった。
それでもそれは、口に出すべきではなかった。間違いなくなかった。
「でも、もう終わってしまったことだもの。レースの反省会は、明日帰ってからやるわ、トレーナーと。けどそれ以上考えても、仕方がない。次のことを、考えないと。勝つために」
口の端に笑みを浮かべて、それでも、とまた声がする。
「あの子に、ラインクラフトに、お返しができなさそうなのは、残念だわ。……すごく、すごく、ね」
その意味することは、ダイナファントムも知っていた。
桜花賞を勝ったラインクラフトは、GⅠ制覇の会見の席で、次走についてこう言った。
――私はマイラーなので、オークスへは進みません! 次はNHKマイルを、取りに行きます!
大胆な宣言であった。しかし前走フィリーズレビューを選択したことからも、その路線に進むというのは十分にあり得るところであった。
ただそれは同時に、どちらかといえば中距離以遠が本業であるシーザリオにとって、しばらく、或は永遠に、リベンジの機会が回ってこないという可能性も、示唆していた。
つまり、シーザリオは
「そう……だね。私も、それはすごく思う」
「でしょう。そうでしょう」
どこか得意げに頷いて、そしてその目がダイナファントムと合う。
既にその中にあった震えは消えていて、それでも一つ、明確に伝えたい意志というものが、きっとそこには宿っていた。
「……ねえ、ファンさん」
「なに?」
ベッドの縁、シーザリオが足を下ろしてすっくと立ち上がる。そして静かに歩み寄り、片眉を上げて自らを見上げるダイナファントムの姿を、すっと覗きこんだ。
柘榴と翡翠の輝きが、中空で線を結び、静寂の中にぶつかる。
そこからいくらかの呼吸を経て、再びその口は開かれた。
「それでも、あなたは、違うでしょう?」
何のことか。一瞬だけ疑問を懐くダイナファントムも、しかしすぐにその示すところを理解する。
ディープインパクトのことだ。メイクデビューで勝ち、弥生賞で敗れて、来週三度激突する、かのウマ娘のことだ。
ダイナファントムには、チャンスがある。この先も何度だって、きっとあのウマ娘とはぶつかり合うことになるのだから。
「……うん、そうだね」
「だから」
シーザリオは、腰を下ろす。ダイナファントムの隣、二人分の重みを載せだベッドのスプリングが、軽く軋んだ音を立てた。
隣り合わせに見合って、そして言葉が続く。
「あなたは、勝って。来週、皐月賞で。勝ちなさい」
――私のためにも。あなたのためにも。
顔を寄せ合って響くその声は、まさしく一つの願いだった。
「最善は……ううん」
故にそこに、逃げ道などありはしなかった。目を逸らして濁そうとして、しかしダイナファントムは首を振る。
視線を戻し、そして力強く、頷いた。
「
ダイナファントムの心の中、カチリと一つ、何かのダイヤルが回った。
レース結果: 2回阪神6日11R・桜花賞(GⅠ)(芝右1600・晴・良)
一着・ラインクラフト
二着・シーザリオ アタマ
上がり3F: 35.5 (12.0-11.5-12.0)
レースタイム: 1:33.5R*1