向かいのビルから、再び爆音が響く。
瓦礫が渦のように巻き上がった。
やはり、そう甘くはないか。
気絶したハイドラを抱えて走ったところで、逃げ切れるものではない。
ボロボロになったローブ姿の全身から流血し、テュポーンは宙に立つ。
…………?
何か違和感がある。
ローブは分かるけど、なんであいつは全身を怪我しているんだ?
ハイドラの攻撃は一点集中の銃撃だった。
超越者が瓦礫に飲み込まれたくらいで怪我をするとも思えない。
傷が一箇所なら分かるが、どう見ても満身創痍だ。
……確かこいつは「力を削られ過ぎた」、「回復まで今しばらくかかる」。
以前そう言ってなかったか?
ハイドラの攻撃が効いたのはそのせいだったのか?
空中を歩くようにこちらへ近付いてくる。
そして、テュポーンは再びこちらのビルへと降り立った。
感情は鑑定できないが、表情からは凄まじい怒気を感じる。
もしかすると、ダメージを負った今のこいつなら俺でもやれるのか?
考えるだけ無駄だ。選択肢などもう無い。
「やめときなオロチ。お前じゃ無理だよ」
この高めの声は。
テュポーンの後方、崩れたビル壁の上にいつの間にか腰掛けている。
白い長髪と中性的な外見の少年。
クロとかいう異能者だ。いや、多分こいつは――
「クロノス……今まで何をしていた」
「あ、その名前はまだ伏せてたのに。バラすの早いってテュポーン様」
最悪だ。
この期に及んで敵が増えるとは。
だが、そんなことよりも。
「《百頭竜》……クロノス」
「そう。僕はヒュドラ《九つ首》がひとつ――百頭竜クロノスだ。その様子だと、お前にはもうバレてたのかな?」
これで……八体目。
じらしてくれるじゃないか。
俺はどうも引きが悪いようだ。
目当ての奴を、最後の最後まで拝めないとは。
「それにしても酷い有様だね、テュポーン様。まさかそこに転がってる女に、そこまでやられたわけじゃないよね?」
「違う。だがなんだあの眷属は。創造主の頂点たる
「あれはドゥームフィーンドといって、ヒュドラを狩るヒュドラ生物。そんなことより、その傷はどうしたのさ」
「そんなことだと! そんな眷属がいるなどとは聞いていない! 一体――」
クロノスはその剣幕も無視し、ひたひたとテュポーンに歩み寄る。
その顔はあくまで軽薄で、緊張感など微塵も感じられない。
ニヤニヤしながら、こう言った。
「イソギンチャク野郎にボコボコにされたんだろ? さっさと迷宮に逃げ込みゃ良かったのに。それとも、《カオスの迷宮》には入れなかったのかな?」
「貴様、何故そ――」
言い終わる前に、テュポーンはその首の半分以上を斬り裂かれ、頭部があり得ない角度に回転する。
同時に、その身体の周囲に不可視の魔力が渦巻いた。
「おおっとォ!」
クロノスは初めて焦ったような声を発し跳び退いた。
なんだ? 俺は今何を見せられている?
「やっぱり僕程度の力じゃ、一撃で倒すとかは難しいね」
テュポーンはちぎれかけた己の頭部を両手で支えて元の位置に戻し、口からゴボゴボと血を噴き出す。
凄まじい速度で首を修復しているのが見て取れた。
『欲を……かいたか……? 貴様が裏切ろうとはな』
上手く発声できないのか、念話になっていた。
いや、元から念話だったのかもしれない。
俺が気付いていなかっただけで。
「心に
軽い調子でクロノスは返す。
『貴様らの親ともいえる、《ヒュドラ・オリジン》たる儂を攻撃して、裏切りではないだと!』
「今は《嵐の超越者》なんでしょ? なにが親だか。ヒュドラを利用することしか考えない、今はもうヒュドラの血族ですらない。そんな奴に、僕が与するとでも?」
その言葉に、ヒュドラ・オリジンとヒュドラ生物の関係性が込められていた。
かつて夢幻階層で会った
それは恐らくヒュドラ・オリジンに都合が良いように、植え付けられた性質。
だからヒュドラではなく別の超越者になってしまったテュポーンは、ヒュドラ生物たちが命をかけて守るべき対象ではなくなってしまったのか。
クロノスが言ったイソギンチャク野郎とはアネモネのことか?
テュポーンはこの街で超越者ヒュドラが消えて嵐の超越者になった後、すぐに終わりの街に向かったのか。
それはなんのためか。
……《終わりの迷宮》の奥底には何かがある。
だが、ヒュドラではない超越者になったテュポーンはそこに入れなくなった?
何故なら、迷宮には《対超越者結界》が張られているのだから。
そして。記憶の中でエキドナが、この街の迷宮を《イルヤンカの迷宮》と呼んでいたように、迷宮の名前は『主の名前』を付けるのが正式名称なのだと思われる。
クロノスは《終わりの迷宮》のことをこう呼んだ。
――《カオスの迷宮》、と。
「ヒュドラ・オリジンはもう不要だ。あんたで最後の一体。そろそろくたばれ」
『…………! っ調子に乗るな、若造がぁッ!!!』
今にもクロノスに襲いかからんとしたテュポーンは、しかし、急にたたらを踏む。
身体が、少し縮んでいる?
それだけではない。
若々しかった顔は急激に年齢を刻み、中年から老齢のそれへと変化していく。
擦り切れた豪奢なローブが不釣り合いな、老魔法使いがそこでよろめいていた。
『こ、これは……貴様……よくも』
「そんな人のせいみたいに言われてもね。僕はあんたにかけていた魔法を解除しただけだよ。それがあんたの本来の姿だ」
時間魔法……!
こいつがアンチエイジングなんて言っていたのは、冗談とかではなかったのか。
ヒュドラ・オリジンの大半は寿命で死んだというのがモニクの推測だった。
クロノスが自らを裏方と言っていたのは、オリジンの寿命を伸ばす仕事のためか?
なら、ヒュドラの――いや、エキドナの目的は。
「我ながらくだらない魔法だよ。確かに『迷宮の力』を使えばもう少しマシな術になるんだろうけどね。エキドナの奴、そんなくだらねーことのために人類を半分も殺しちまうんだから恐れ入る」
……………………!!
『貴様とて! それに加担したではないか!!』
「ヒュドラ生物を創造主の命には逆らえない存在にしておいてよく言う。だけどそれにも抜け道があるというか、僕たちには僕たちの考えがあったのさ」
エキドナの動機も聞き捨てならなかったが、それよりもその後のクロノスの発言のほうが気になる。
僕
その疑問はテュポーンも同様であったようで――
『……まさか』
空間が歪むような気配がした。
いや、間違えるはずもない。
俺はこの魔力の流れを知っている。
これは……《空間転移》の魔法だ。
そしてその場に、もうひとつの人影が姿を現した。
そいつは、まるで神話の世界から出てきたような男だった。
古代ギリシャの彫刻のような体躯。
形だけではない。
肌は色白で、髪も衣装も白い。
だから、より石像などの美術品か何かのように錯覚してしまう。
豪奢な衣装はエキドナやテュポーンと同様に、『現代人に合わせた姿で人類の中に潜伏する』という思想が欠片も無い格好だ。
そんなことは必要ないと言わんばかりの、強者の思考。
『カオス……き、貴様も……』
こいつが。
ヒュドラ《九つ首》の九体目。
――《百頭竜》カオス!
同じだ。
ハイドラが激昂していたとき、俺は比較的冷静だった。
だが、本当は俺もハイドラと同じなんだ。
あいつが先にキレちまったので冷静にならざるを得なかったということもあるが、それだけじゃない。
世界各地に現れた《九つ首》。九体でひとつの超越者。
そうじゃないんだ。
あるいは《ヒュドラ・オリジン》エキドナこそがヒュドラの首魁。
それも違う。
俺は世界を救うなんてガラではない。
遠い異国の地で起きたことなんか知らない。
人間だって弱くはない。
それは、その地に住む人々が解決すればいい。
俺にとって『ヒュドラ』とは――
俺の『怒り』の対象とは――
あの日、俺の住む街を滅ぼした奴のことだ。
それを直接実行した奴のことだ。
あの《終わりの迷宮》の主こそが。
つまり――
こいつこそが、『ヒュドラ』だ。
*
『貴様も……
「…………」
テュポーンの質問には答えず、カオスは新たな空間転移の魔法を構築する。
今まで不可視の存在だった転移門は、今度ははっきりと視認できる形でそこに現れる。
それは、空中に開けられた円形の穴だった。
穴は広がり、下の部分は床にめり込んで見えなくなる。
今はまだ昼間だ。
しかし、転移門のその向こうに見えるのは夜空だった。
その門の中に向かって風が吹く。
その風はテュポーンだけを捉え、門に招き入れるようにその勢いを強めていった。
『な、なんの真似だ……これは』
テュポーンも風の魔力を纏い応戦するが、発生した風もすぐに門へと吸い込まれてしまう。
その様子を見たカオスは、初めて口をひらいた。
「もう少し苦戦すると思ったのだがな。これで充分のようだ」
テュポーンはついに身体を支えきれなくなり、その足はずるずると床を滑る。
『カ、カオス……貴様ァ!!』
怒りの声と共に、強烈な風の渦を発生させてテュポーンが宙に浮く。
その行動が命取りだった。
空中に浮かんだテュポーンは、そのまま滑るように門に吸い込まれた。
『あ……』
床も地面も無い夜空。
その中を、テュポーンは遥か遠くへと飛んでいく。
何かを叫んでいたようにも見えたが、もう声も聞こえなかった。
そして転移門はその円の形を縮めていき、見えなくなった。
カオス……!
こいつはつい最近までは超越者ヒュドラの一部だったが、今はただの眷属のはずだ。
それが《嵐の超越者》を……こうもあっさりと!
要因は色々とあるのかもしれない。
テュポーンはアネモネとの戦いで傷を負い、本調子ではなかった。
クロノスの時間魔法で誤魔化されてはいたが、元々寿命に近かった。
だが、その程度の材料で超越者を倒せるものなのか!?
「宇宙への空間転移なんて、今の状態でどうやって実行したんだい? カオス」
「『迷宮の力』を少し使わせてもらった」
「その力は……いや、テュポーンが相手では仕方がないか。僕が使う分は、ちゃんと残ってるんだろうね?」
「問題ない。全体からすれば微々たる量だ」
俺の疑問は、クロノスの質問によって解明した。
カオスの言う『迷宮の力』とは先程クロノスも言っていたように、エキドナの命令で封鎖地域に集められた魔力のことだろう。
数多の命の犠牲と引き換えに集められた力。
全て使えば、《終末化現象》を引き起こす危険性すらあるという。
多くの魔力があれば単純に強くなれるわけではない。
だがカオスにはその力を操る
あっさりと勝ったように見えたが、こいつらとテュポーンの戦いはかなりギリギリの勝負だったのかもしれない。
「さて――」
カオスは俺のほうへ視線を向けた。
ついに来るか。
もしかしたら小者に興味は無いタイプで、そのまま立ち去るかもしれないと一瞬考えたが甘かったようだ。
歩いて距離を詰めてくる。
こいつは百頭竜の中でも最強クラスなのだろうが、超越者でないのならテュポーンよりはまだ勝ち目がある。
迷宮の力とやらを使われる前に、一瞬でカタを付ける必要があるだろう。
出来るのか? 俺に。
魔力剣の最大射程はどれくらいだ。
まだだ、まだ遠い。もう少し……。
「
カオスは俺の間合いの外で立ち止まっていた。
名前を……。
いや、クロノスですら俺の名前を知っていた。
終わりの迷宮の主であるこいつは、俺の存在をとうに掴んでいたのだ。
自己紹介だと? そんなものは――
「不要だ、
「そうか。私とお前の間には挨拶も不要だろう。だが伝えておこう。邪魔者は全て片付いた。《毒の超越者》も、《死の超越者》も。そして今、《嵐の超越者》も地上から去った。だから、我々もこの地上から去ることにする」
「……は?」
何を言っているのか分かりかねる。
クロノスが後ろから駆けてきた。
俺の間合いに入るつもりなのかと警戒するが、カオスの後方で止まる。
「え? オロチとは戦わないの? 今ここで殺しても同じじゃない?」
…………!
クロノスは非情さも冷酷さも見せず、さも当たり前のように、いつもの調子で言ってのける。
こいつにとって俺を殺すことなど、それくらい軽いことなのだ。
「いや、オロチやパラディンにも迷宮の果てを見てもらいたい。決着はその後でいい」
そう言ってカオスは、倒れているハイドラにも視線を向けた。
「ああ、なるほどね。僕は別にどっちでもいいけど、カオスがそうしたいなら」
カオスとクロノスの後方で、再び転移門が展開される。
「そんなわけでオロチ、僕たちはもう行くわ。お前にとっても悪い話じゃないだろ? 今の戦力じゃお前らに勝ち目は無いからね。せいぜい万全の準備をしてから挑んできな。ただし――」
ニヤリと笑い、クロノスはこう付け加えた。
「ちんたらしてたら、僕たちも更に強くなっちゃうぜ?」
円形の向こうに景色が見える。
今度は夜空ではない。
石造りの屋内。所々に大きな柱が立っているのが見える。
あれは……《終わりの迷宮》の神殿階層か!
「我が迷宮の果てで待つ」
それは、カオス――ヒュドラから俺への宣戦布告だった。
その言葉を最後に、カオスとクロノスは神殿階層へと進み――
転移門はその姿を消した。
俺の足は震えていた。
「後ろから斬り付けてやるべきだったか……。クソッ」
悪態が声に出た。