ハンドラー・ウォルター先生概念。 作:ヤマ
038
就寝から二時間後、俺は起床した。
午前六時である。些か睡眠不足だが、ゆっくり寝ている暇はない──今日はやる事が多いのだ。
幸いと言って良いかは分からないが、たった二時間とは言え久しぶりに熟睡できたことにより体調はすこぶる好調だった。
ホシノに礼を言わなくてはならないと思う反面、あいつは素直に礼を受け取らないだろうとも思う。
「おじさんはお礼を言われるほど立派じゃないよ」、などと言う姿が容易に想像できた。
そうなると何か別の形で返してやりたいところだが……それでも受け取るかどうか怪しいものである。
ホシノはホシノで自己評価の低い人間だ。
責任感が強く、自己肯定をしない、自罰的な人間。
負い目のある人間というのはそういった傾向になりやすいが、あいつはその典型的な一例だろう。
もっとも、ホシノはそれを自分で理解しているだろうが──理解した上で自分を責め続けているのだろうが。
「とは言え──」
俺は呟く。そして思う。
果たして、俺がそれをやめさせようとする言葉や行動にどれほど意味があるのだろう、と。
あまりにも説得力がない。
未だ手綱に縛られている俺が、ホシノに掛ける言葉などあるのだろうか──そんな資格があるのだろうか。
身支度を整えながら考えてみても、ホシノに何かしてやれることは見つからない。
もちろんアビドスを救えば結果的にホシノは喜ぶはずだが、それは元々依頼を受けた俺の仕事であり、ホシノ個人への礼とは言えないだろう。
個人的な礼。
ヒナと617を重ねないようにした、あの助言の礼。
救う目処も未だに立っていない以上、全て机上の空論だが……。
──おじさんに何かあったら、アビドスのことよろしくね。
「……何か、か」
昨晩、というかほぼ早朝だった三時間ほど前、別れ際にホシノが言った台詞である。
意味ありげな……いや、実際に意味のある台詞なのだろう。
こんな台詞を吐くということは、何かが起きることを確信しているとしか思えないが──その心当たりがあるとしか思えないが、しかし俺は追及しなかった。
代わりに、「俺のような悪い大人に託すものじゃない」と一蹴して、間違っても俺を信頼しないよう促しておいたが、効果があったかどうかは微妙なところだ。
大人として──先生として、本来そういった弱みを見せて来た子供には頼りになるような所を見せるべきだったのかもしれないが、その言葉を許容してしまうと『俺がいるから大丈夫』などと思って早まってしまう可能性も否定できない。
罰を欲しているからこそ、自分で自分を罰しているからこそ、
禊ぎ。
償う。
仮に過程で命を落とすことになろうとも、それで良いとさえ思ってしまうだろう──思っているだろう。
ホシノは強い人間であるというのが昨晩においての俺の結論だったが、しかし強いからと言って無敵ではあるまい。
疲れもすれば傷付きもする。
ホシノは過去を乗り越えているが、それでも傷はきっと残っているだろうし、ともすれば治ってもいないだろう。
歩けるようになっただけ、とも言える。
随分と勝手に、それも決めつけのように言っているが、これは当てずっぽうではなく俺の確信だった。
昨晩のホシノの助言が過去の経験に基づくものであるならば、これは俺の実体験である。
実体験、それも現在進行形の。
疲れようが傷付こうが治っていなかろうが、人は歩く事ができる。
できてしまう。
痛みを無視して、歩くことのできる強さがあれば。
ホシノの強さは、そういった類のものだ──と、去り際に彼女が溢してしまったあの台詞から、俺は推察した。
昨晩と言っている事が変わっているような気がするが……昨日だけで二転三転してしまった気がするが、しかし強さの評価は変わっていない。
見え方は変わったが、評価は変わらない。
強いことに変わりはない。
ただ、彼女の動向には気を付けなくてはならないと思うようにはなった。
『何か』が起きた時に、ホシノがそういった選択をしないように──あるいはそういった結果をもたらさないようにするのが、今の俺の仕事だ。
今の使命だ。
ホシノに対して何ができるのかと最初にこそ思ったが、人生の失敗の先駆者として言えることはある。
彼女は、まだ間に合う側の人間だ。
何せ──まだ対策委員会が生きているのだから。
誰も、死んでいないのだから。
業を、受け継いだわけではないのだから。
ホシノを俺のような大人にはさせない。
それこそが俺にできる、ホシノへの礼だろう。
……などと、まあ色々言ったが、結局ホシノのあの台詞がどういった意味なのかは俺には分からない。『何か』が起きるのかもしれなかったし──今の状況からして何か起きても不思議ではないことから、万が一あったときを想定して、つまりは保険として、俺に言っただけなのかもしれん。
頼られても、頼るなと言う他ないが。
止まり木にはするなと言う他ないが。
俺に鳥は止まらない──止まれない。
飛び立つことはあっても、帰ってくることはない。
「……似ていることは同じじゃない、か」
その通りだなと思う。
ホシノと俺は、恐らく過去に経験した傷が似ているが、しかし同じではない。
そもそも俺は赦されたいわけではないのだろう。
罪と罰に身を投じ、火炙りにされたいだけだ。
赦されず、赦されないまま、俺は死にたいだけだ。
だからこそ、あの時621にそのまま殺されてしまっていれば、多分それですっきり解決していたはずなのに。
灰になってまで死に損なった俺と、ホシノは違う。
ホシノはまだ、死んでいない。
039
「はあ……」
「アルちゃ〜ん、さっきから溜息ばっかりだよ、テキパキ荷物運ぼう?」
「はぁぁ……」
憂鬱な気分というものは伝播するものなのか、俺が便利屋68のオフィスを訪れた時、陸八魔アルは気分が沈んでいるようだった。
珍しいものだ。
アルはそういったものとは無縁の、いつでも何にでもポジティブな精神で臨む人間だと思っていたのだが、まあ、人間である以上浮き沈みはあるということだろう。
「え、えっと、これはどこに運べばいいでしょうか?」
「ん? これ……ああ、アルちゃんが天賦の才を発揮した書道の残骸じゃん、あっちの燃えるゴミでいいよ」
「捨てないでよ! 持っていくに決まってるじゃない!」
「でもこれ、書道の授業の宿題で書いたやつでしょ~? ほんとに要る? それにこれ、『一日一悪』って何? どういう意味?」
「き、きっと十年後には十億円ぐらいの価値が……」
ハルカが指した書道は、どうやらアルが書いたものらしい。ムツキが『天賦の才』と表現するように、それはもう見事な達筆だった。
本当に十年後十億の価値がついてくれたのなら、アビドスの借金を返すことができるな、などと馬鹿なことを思う。
まだ疲れているのかもしれない。
一日一悪が果たしてどういった意味の言葉なのかは謎だが、何と言うかこの少女、とことんアウトローらしからぬ特技がある。
真面目で、丁寧で、几帳面。
勿論それを言葉にするとアルは更にショックを受けてしまうだろうから、俺は胸の内に留めておいた。
「……はあ」
「打っても響かないし、元気ないねぇアルちゃん……」
「社長、どうしたの」
「アルちゃん、事務所を引っ越すのがイヤみたい。でも風紀委員会に場所を知られちゃったし、任務も失敗でクライアントからも狙われるだろうし、仕方ないでしょー?」
なるほどな。そういった理由で、俺が部屋に訪れた時点で荷造りをしていたわけか。
となると、タイミング的には紙一重だったのかもしれない。あともう少し遅ければ、俺は彼女たちの行方を掴めなくなっていたわけだ。
「そういえばアビドスとの戦いも、中途半端な感じで終わっちゃったね」
「し、仕方ないでしょ! 一緒に背中を合わせて戦った人たちを今になって狙うなんて……できるわけないじゃない!」
「……はあ。残り少ない爆弾と弾薬も、風紀委員会との戦いでほとんど使っちゃったし。本当にこの社長は……」
「う、うるさい! うるさい! だって、だって……! ハードボイルドなアウトローは……私は……」
「……はあ」
アルからしてみれば悔しい現状なのかもしれないが、それはどうやら他の社員からは日常茶飯事らしく、駄々を捏ねるように声を上げるアルを見ても、やれやれと言わんばかりに苦笑するだけだった。
「……本当に、手のかかる社長だ」
「でもこういうのがうちのアルちゃんだもんね? 一緒にいてすっごく楽しい!」
「はい、私もそう思います! アル様! わ、私、アル様がいなかったらきっと今こうして生きていないはずなので……。元気出してください! 私が一番尊敬しているのはアル様ですから!」
「う、うるさい! わかってるわよ!」
しかし、そんなアンバランスさが、ともすればヒーローのような姿が、陸八魔アルのカリスマ性なのかもしれない。
と、思ったところで、丁度話が区切れたらしい。俺は口を開く。
「…………話していいか」
「うぇっ!?」
「なっ……!? シャーレの……!」
「あ、お爺ちゃん! 本当に来てくれたんだ!」
「……あ、ぅう」
俺の声かけに、一斉に(ムツキを除いて)驚き、入り口にいた俺へ視線を向けた。
本当に気付かれていなかったらしい。
何度もベルを鳴らし、ノックも複数回したのだが……荷造りの音で気付かなかったということにしておこう。
ノックはともかく、ベルは電気が来ている限り部屋中に鳴るため気付くはずだが、まさか電気が止められているわけではあるまい。
「う、ウォルター先生!? ど、どうしてここに……!?」
「……お前たち、何か忘れてないか」
「えっ?」
俺の問いに、アルは心底不思議そうに首を傾げた。どうやら本当に、俺がここに来た理由が分からないらしい。
他の三人を見ても、特に答えが出てくる気配はない──仕方がないので、俺はそのままオフィスの中央にある長机に近付き、四つの封筒を置いた。
「前回の戦闘、その報酬だ」
「……えっ!?」
「嘘、ホントに!?」
信じられない、とでも言わんばかりの驚愕を見せた四人は、四つの封筒のうち一つを手に取り、四人で覗き込む。
「なっ、何この大金!? 多過ぎない!?」
「待ってアルちゃん、まだ三つある!」
「…………これでもう、食事抜かなくていいんですか?」
「……何が目的?」
それぞれの反応を見る限り、どうやらそれが妥当な金額だとは思えないらしい。いや、それ以前に、まるで報酬を貰えることが珍しいかのような反応に頭が痛くなる。
カヨコはその報酬額を訝しんでいるし、ハルカに至っては食事を抜いていることを白状する有様だ。
便利屋の懐事情は思いの外深刻らしい。
借金はしていないようなので、アビドスよりは切迫していないのだろうが……。
「正当な報酬だ。消耗した弾薬費、武装の修繕費。そして対策委員会が来る前に戦闘を片付けた追加報酬。それら全てを合算した額だ。詳細が知りたければデータを渡す」
「……見せて」
「ああ」
カヨコの言葉に、俺は懐から書類を取り出して渡す。
受け取りざまカヨコは注意深く書類に目を走らせていたが、不正や間違いがないことを確認できたらしい。しばらくして顔を上げると、その表情は困惑一色だった。
「ど、どうカヨコ!? 合ってるのこれ!?」
「…………合ってる。ちょっと多いけど……それでも過剰ってほどじゃない。ただ……」
「なんか、真っ当に報酬貰ったの久しぶりだね〜」
「どんな仕事をしているんだ、お前たちは……」
報酬を貰えるのが久しぶり、など更に不安になるようなことを言う。
よくもまあ生活できているものだ。
……いや、食事を抜いている時点で生活ができているとは言い難いか?
「……そう言えば、何で現金なの?」
「アルの口座が凍結されていた。随分と風紀委員会に目をつけられているようだな」
「うぐっ」
振り込めるならそうしたのだが、報酬を渡す経緯で調べたところ、ヒナが既にアルの口座を凍結させていた。
便利屋68はゲヘナでは問題児扱いされている──故意か事故かはともかく、様々な問題を起こしていることに間違いはないためヒナが先んじて行動を制限する目的で凍結したのだろう。大した仕事ぶりだ。
「とにかく──」
切り替えるように俺は言う。
この話は前座だ。後の予定もあることだし、手際良く進行しよう。
「それはお前たちの働きに対する正当な報酬だ。お前たちの働きによって、風紀委員会に対し有利を取ったまま戦闘を終えることができた。礼を言う」
「────っ、ええ、当然よ! どんな仕事でも便利屋68に任せなさい!」
ここにきて実感が湧いたらしい、自信たっぷりに、そして高らかに笑ってアルはそう宣言した。
嬉しそうである。
嬉しいのだろう。
以前から騙している感覚に苛まれなくもないが、しかしここまで称賛に対し気分を良くしてくれるとなると、褒める側としてはこれで良いような気もしてしまうので不思議だった。
「アルちゃん、もうお爺ちゃんが言ったことなら何でも喜びそうだね」
「……はあ」
ともあれ、これでまずは予定の一つは終了した。
残るは──もう一つだ。
幸い、今この瞬間に『どんな仕事でも』と言質を取れたことだしな。
「では、陸八魔アル。いや、便利屋68。今回の仕事を評価して、お前たちに再び仕事を頼みたい」
「えっ……ほ、本当!?」
「待って社長……一応話を聞いてから」
「勿論、内容を聞いてからで良い。受けるかどうかもお前たちが決めろ。仕事を選ぶ権利はお前たちにある」
「…………」
荷造り最中に依頼をするとなると断られるかもしれんと思っていたが、しかし思いの外アルの反応が好感触のため、俺はそのまま話を進めることにした。
カヨコは慎重派のようだが……俺の『断っても良い』という発言に、ひとまず聞くだけ聞いてみようという判断を下したらしい。
俺は全員の意識が話に集中したことを確認してから、オフィスのソファに腰掛ける。
許可は貰っていないが、その方が
「これは『連邦捜査部シャーレ』ではなく、『ウォルター』としての、私的な依頼だ」
040
便利屋68に仕事の依頼をした後、俺はその足で病院に向かった。
用件としては柴大将の見舞いである。
アロナの防壁によって怪我はなかったものの、風紀委員会の砲撃に晒されたのは事実なので、念の為検査入院をしてもらったのだ。当然経費は風紀委員会持ちなので、俺たちの負担はない。
病室に着くと、部屋の中から話し声が聞こえて来た──既に到着していたらしいアヤネとセリカの声である。
「……! そんな……でも、そういうことなら……。セリカちゃん、先に学校へ戻っていてください。私は確認したいことがあるので、ちょっと別のところに寄ってから行きます」
「ん、何のこと? よく分からないけど……私も一緒に行く!」
「分かりました。それでは大将、また来ます! お大事に!」
「大将、まだ引退とか考えないでよ! 分かった!?」
「お、おお……」
有無を言わさぬ圧を持って、セリカは柴大将に言い放っていた。柴関ラーメンへの思わぬ熱量を持って動くセリカの姿に、柴大将は困惑しながらも頷いたらしい。
二人の様子からして、柴大将からアビドス自治区の土地事情を聞いたのだろう。昨日、通信越しに風紀委員会との会話を聞いていたアヤネは予想はしていたのかもしれないが、しっかりとした情報共有ができていたわけではない。
可能であれば、昨日の内に情報を共有しておきたかったのだが……如何せん昨日はあまりにも慌ただしく、そして俺の状態もまともではなかったため難しかっただろう。
「行こう、セリカちゃん!」
「うん! どこに行くのか分かってないけど……ってうわあ!? 先生!?」
扉を開けた先に俺がいたことで、セリカはつんのめって後ろにバランスを崩した──いや、杖を突いている俺にぶつかって負担を掛けないよう後ろに逃げたのだろう。
アヤネが後ろで控えていた為、転ぶことなく難を逃れたようだが……こうして様々なところで気を遣われてしまうのを見ると、早いうちに杖ではない何らかの補助機を用意した方が良いかもしれない。
「ごめん先生、急ぐからまた後でね!」
「……ああ、気を付けて行け」
色々と二人も言いたいことがあったようだが、それよりも調査を優先したのだろう、「説明は後でするから」とだけ言い、嵐のような勢いで彼女たちは駆け出していく。
本来であれば情報を集めて、より落ち着いた状況で話しておきたかったが……昨日今日の状況では無理もない。それに俺とて、オンラインで保存されていなければアロナによるハッキングの情報収集は難しい。
アビドス自治区関係は書類で取引されているようだし、カイザーはアビドス関係のデータはオフラインでの管理を徹底している。
こういった調査はアヤネに任せた方が良いだろう──俺もまだ用件を終えていない。
二人が廊下を曲がるまで見送った俺は、改めて病室に入り柴大将に挨拶をした。
「……大将、どうだ調子は」
「ああ、先生まで。大丈夫、先生のおかげで傷一つないよ」
「……そうか」
これに関してはアロナ様々、と言ったところか。
ちらり、と俺の横を見れば、アロナはホログラムを出して胸を張っていた。
……俺以外に見えないことを気付かれてから明らかに主張が激しくなっているが、他の人間の目がある時に反応するわけにもいかないので、俺は無視する形で話を進める。
「昨日の件。風紀委員会が直接謝罪したいそうだ」
「……そうかい。まあどの道店を畳む予定だったし、そこまで気にしなくても良いんだが」
「もしも大将が顔も見たくないと言うのなら、俺から断っておくが……どうする」
「いや、気にしないでいい、先生。構わないさ、それでいつ来るんだ?」
「今日だ」
俺の言葉に驚いたように硬直する柴大将だった。
まあ、当然だな。
昨日の今日で謝罪しに来るとは俺も思っていなかった──迅速にも程があると言いたいところだったが、これに関してはむしろ感心した部分もある。
恐らくはヒナが忙しいながらも予定を組んだのだろう。
「それはまた……随分と急だな」
「……だな。俺としても驚いたが、向こうの事情もあるのだろう」
主にヒナの予定が詰まりに詰まっていると見える。
はっきりとしたことはまだ分からないが……どうやら便利屋の情報によれば(特にカヨコの言う限りでは)、ゲヘナの風紀委員会はヒナのワンマンチームなのだと言う。
ヒナ以外は大したことない、とさえ言っていた。
聞く限り、それはヒナの負担が著しく高いのではないかと考えられるのだが、仮にそうだったとするならば、今回の謝罪でさえ予定として捩じ込むには苦労したに違いない。
と、そこでメッセージが端末に届いた。内容は──
『ウォルター先生! 風紀委員会の皆さんが到着したようです! 待合室にいるそうですよ!』
画面を見る前に、アロナがそう言った。便利と言えば便利だが、この状況では礼も言いにくい。
内心複雑になりながら、俺はさも画面をみて把握したかのように大将へと伝える。
「……大将。彼女たちが来たようだ。俺も立ち会うつもりだが、構わないか」
「ああ、頼むよ。何話して良いか分からないしな」
柴大将の許可を得て──いくつか約束をしてから、俺は病室を出て風紀委員会を迎えに行くためエレベーターに乗り込む。予定では主要メンバーのヒナ、アコ、イオリの三名が来るはずだ。
降りる最中、視界の隅に、ちり、と617が映りかける。
大丈夫。
大丈夫だ。
ヒナは617ではないし、617はヒナではない。
似ていても、同じではない。
そんな自己暗示をするようにヒナと会うための決意をして、待合室に向かえば──出迎えたのはアコとイオリ、そしてチナツだった。
ヒナの姿は、見えない。
「あ、先生。お出迎えありが…………何ですかその拍子抜けしたみたいな顔は」
「……いや、何でもない」
アコが俺に気付いてこちらに向かってきたかと思えば、挨拶を区切ってまでそんな事を言ってきた。
拍子抜けしたのは……まあ、事実だが、わざわざ言うほどの事ではないだろうに。
「……ヒナはどうした」
「ヒナ委員長は、その……温泉開発部と美食研究会が同時に脱走したので再びの捕縛に駆り出されて……伝言を受け取って来ましたので、一応私が委員長の代理ということに……」
「…………」
なるほど、やはりヒナの負担は著しく大きいらしい。
戦力の偏りが異常とすら言える。
少なくとも、各隊のリーダー的存在であろうアコやイオリ、チナツをここに向かわせても問題ないほどには、ヒナという戦力が強大なのだろう。
最強──か。
「……まあ、構わん。アコ。お前がここに来ているのなら謝罪としては十分だろう。柴大将から許可は得ている。準備はいいか」
「う……は、はい。一応準備はして来ましたが……」
意外にも、俺の問いに怖気付くような事を言うアコだった。
どうしたのだろう、昨日の無法っぷりが嘘のようだ──と思ったが、そう言えば昨日の時点で謹慎を言い渡されていたんだったか。となると、既にヒナから説教された後なのかもしれない。
変に煽っても仕方がないので、俺はイオリとチナツにも声を掛ける。
「お前たち二人は大丈夫か。チナツに至っては……何と言うか、災難だったな」
「痛み入ります……」
「まあ、私にも撃った責任はあるし……」
粛々と、非常に肩身が狭そうにする二人だった。
ふむ……態度を見る限り、これで再び問題になるような事にはなるまい。彼女たちには十分に反省の意思があるように見えるし、そして柴大将であれば悪いようにはしないだろうという信頼もある。
俺は背中を押すように(実際には押していない。背中に立っただけだ)三人をエレベーターに乗せて、病室へと向かう。
「では行くぞ。彼を待たせるのも悪い」
「い、いえだから気持ちの準備が──」
「お前はヒナの代理でもある。情けない姿は見せるな」
「え、ええっ──!?」
と、そんな風に、アコだけは最後まで抵抗を見せていたものの、病室に叩き込めばあれよあれよと話は進み、大きなトラブルもなく、柴大将と風紀委員会の話はまとまったようだった。
俺は側で聞いていただけだが……強いて大きな反応があったとするならば、やはり賠償金関係だろうか。
柴大将が、ではない。
風紀委員会が、柴大将の対応に狼狽したのだ。
「お、お店を閉めるんですか……!? また再建できるんですよ!?」
「まあ、色々あんのさ、アビドスは。だからお嬢さん達も気にすんなよ。いずれ起きたことだ──むしろこんな大金貰っちまって悪いな」
「…………」
柴大将の慰めるような言葉に、アコたちは沈痛な面持ちになった。
ようやく、自分たちの行いを本当の意味で実感したのかもしれない。
時期が早まっただけ──と柴大将は言うが、それは裏を返せば時期を早めてしまったとも言えるのだ。
まだもう少し、お店が続いていたかもしれないのに。
自分たちの事情があった、学校のための行動だったとは言え、それでもこうして目に見えた形の被害を聞くと、気にせずにはいられない。
それが人間だ。
その感情があるだけで、彼女たちはまだ真っ当と言えるのかもしれない。
被害を気にしないようになってしまえば、俺のような人間になってしまう。
「……柴大将」
「なんだい、先生。改まって」
故に、俺は言おう。
彼女たちに反省の意思があり、そして過去の行いを悔やむ感情があるのならば──俺は少しだけ、その支えになるべきだ。
俺の私情も、勿論あるが。
「俺は、今度こそ貴方の店で酒を呑めることを、楽しみにしている」
「…………」
大将の返事はない。
だが──返事を待つ必要もないだろう。
俺が椅子から立ち上がり病室の扉に向かえば、アコが忙しなく目配せをして何かを主張していた。
…………ああ、恐らくこんな状況で置いて行くなと言いたいのか。
アコの主張は正しい。被害者と加害者が、第三者を挟まずに会話するなど、何か問題が起きてもおかしくはないだろうが……そこは柴大将との約束だ。破るつもりはない。
そろそろアヤネが教室に戻ってくる頃だろうし、何よりそれまでに終わらせなければならない用事もまだ残っているのだ。
俺はアコの心理的抵抗を無視する形で病室を出ようとして──立ち止まった。
ずっと言いたかったこと、言わなければならないことを思い出したのだ。
「…………?」
唐突に止まった俺の姿を見て、全員が不思議そうに俺を見ている。
言うタイミングはここしかあるまい。
「……ああ、それと」
振り返って、俺は言う。
「アコ。パーティ用のドレスならともかく、普段着で肌を晒す場所は考える事だ。風邪を引く」
「ん゛ふっ」
「なっ……!?」
「ではな、大将」
「ちょっ、待──!?」
後ろ手に扉を閉めて、一斉に騒がしくなった病室を背に(どうやらイオリがアコを押さえてくれているらしい)、俺は歩き出す。
色々あったが、アコへの個人的な仕返しはこれで十分だろう、と納得させながら。
「……さて」
昨日、というか早朝に連絡しようと思った相手に、連絡をしなくてはならない。
やらなければならないこと──やるべきことをやるために。
久しぶりの連絡に、果たして出てくれるだろうかという不安はあったものの、十のコール音の後、通信が切れる寸前で彼女は出た。
『はい、七神リンです。お久しぶりですね、ウォルター先生』
冷徹とも言えるような──冷静な声で。
「ああ。早速で悪いが、リン。メニから書類は受け取っているか」
『ええと……ああ、はい。……これがどうかしましたか?』
俺は彼女に話す前にもう一度考える。
この作戦の意味を。
万が一の作戦を計画し、決行した場合のリスクを。
ともすれば──対策委員会全員からの信用を失う可能性を考慮した、最低の作戦を。
「お前で止めて欲しい書類がある」