ハンドラー・ウォルター先生概念。   作:ヤマ

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 彼と彼女は歩み寄る。


閑話:ヒナの仕事。

 001

 

 アビドスの事後処理も終わり、シャーレも通常営業に戻りつつある今、俺は空崎ヒナへの借りをそろそろ返さねばならないようだ。

 ならないようだ、とは言ったが、別段催促されたわけではない──むしろヒナが自分から要求することはほとんど無いと言っていいだろう。

 基本的には無欲であるように思う。それこそ、ホシノの言う本番などおよそ訪れることはないだろうと確信するほどに。

 つまり、その『借金』の返済を求めたのはヒナではない、ということだった。

 

『先生、委員長への借りを返してください』

「…………」

 

 厚かましい奴だ、と俺は天雨アコに対して感じた。

 借りを作った俺が言えたことではないが、しかし他人の貸しを取り立てる奴もそうはいまい。

 何故アコに言われなくてはならないのか、と思わなくもなかったが、ヒナと同じ風紀委員会であり、かつNo.2の行政官でもある彼女であれば、もしかするとヒナの代理として要求する権利があるのかもしれなかった。

 それでも厚かましいという感想が変わることはないが。

 

『まさか忘れたとは言いませんよね?』

「……忘れていない。いないが、お前にそれを言われる筋合いも無いだろう」

『私の言うこと聞くって言いましたよね?』

「通話を切ったことも覚えているな」

『……チッ』

 

 電話越しに聞こえるような舌打ちを打つアコに、どう反応するべきか俺は悩む。

 今まで関わったことのない性格の子どもに、対応しあぐねているとでも言うのだろうか──どうだろう、“本物”は、こういった機嫌を損ねた子ども相手でも親身になって対応していたのだろうか?

 だとすれば、大した忍耐力だと言わざるを得ない。

 俺にはできそうもないなと諦めつつ、軽い挨拶は終わりにして、俺はアコに問う。

 

「……アコ。ヒナの予定は空いているのか」

 

 アコに対して散々な言い方をしてしまったが、こうして彼女が連絡を寄越してきたということは、ヒナの疲労やストレスがいよいよ看過できない状態に陥ってしまったのだろうと、俺は予想した。

 アコは、ヒナの無理をする姿を見ていられなくなり、俺に借りを返すという名目で急ぎゲヘナに来させて何とかさせようと駆け引きをしたのかもしれない。

 これに関しては貸し借り関係なく、ヒナが無理をしていたら連絡をして良いと言っておいたのだが……その辺りはアコのプライドの問題だろうか。

 勝手に人の貸しを利用するのはどうかとは思うが──この辺りが彼女の空回りする部分なのだろうが、まあ、助けを求める手段を厭わないその心意気は認めよう。

 そんな風に俺が比較的協力的な姿勢を見せたためか、どこか安堵した様子でアコは答える。

 

『…………いえ。ですが先生が来るとなれば、委員長は時間を作るとおっしゃっていました』

「その言い方からするに、空けたとしても一日丸ごとというわけではなさそうだな。具体的にはどれくらいだ」

『ええと……三時間くらい……でしょうか』

「…………」

 

 相変わらず子どもらしからぬ激務である。それこそ、あの何でもできてしまうような少女がたった三時間しか捻出できないほどの。

 俺は既にヒナの仕事状況を調べて知っているが、それらの情報を踏まえて考えると、時間を作るという彼女の行動も、かなり無理のある仕事のこなし方をする必要があるのだろう。

 あんなに小さな子どもが。

 617に似た彼女が。

 一人で──仕事を。

 

「──明日だ」

『え?』

「明日から三日間、ゲヘナに出張しよう。その三日間でヒナの仕事を減らし、休ませる。それでいいか」

 

 俺は、自身で想像した617に似たヒナの姿に感情を掻き立てられたような気持ちになり、アコに宣言するように言った。

 言い訳はしない──これは私情以外の何物でもない。

 617に似たヒナの過労を見ていられないと言う、ただの私情だ。

 

『は、はい!? 明日って……急に言われても困ります!』

「どの道ヒナの都合の良いタイミングなど無いだろう。ならば、あまり考えても仕方がない」

『い、いえ、それでも委員長が仕事を片付けるには、それなりに準備が──』

「片付ける必要はない。むしろ、ヒナには言うな。伝えると間違いなくあいつは気負うだろうからな」

『え……?』

 

 あくまでも彼女の性格を加味した上での想像になるが……俺が仕事を手伝う、などと聞いたら、逆に俺が行くまでに仕事を片付ける気がしてならない。

 以前の仕事でさえ、妙に張り切っていた節がある。

 

『……どうするつもりですか?』

「お前が計画していたものがあっただろう。あれを調整する。お前の協力が必要だ、アコ。スケジュールに問題はないか?」

『…………まあ、大丈夫、ですけど……』

 

 明らかに渋々、怪訝そうに言うアコだった。彼女からすれば、俺がここまで乗り気なのが不可解で、ともすれば怖くさえあるのだろう。

 しかし、その理由を俺は説明できない──何故なら、俺自身が理解していないからである。

 私情。

 己の──情。

 

「では、よろしく頼む」

 

 それから幾つか確認をしてから、通話を切り、出張の準備を始める。

 とは言え、いつヒナから言われても問題ないように借りを返す準備はしてきたため、新しく何かを用意するわけではない。俺がこれからやらなくてはならないのは、三日間の仕事の処理である。

 現実問題、どれだけ急いでも三日間の仕事を一日で終わらせることは不可能だ。よって本日の業務としては緊急性のあるものだけに絞り込み、あとはユウカに依頼をして、ロイたちへの引き継ぎも兼ねてシャーレの仕事を任せるというのが落とし所だろう。

 ロイたちには、これからシャーレの仕事をこなしてもらわなくてはならない以上、慣れてもらう必要もある──練習のつもりで頑張ってもらうしかない。

 それから俺はリンに報告をする。彼女の借りもまだ返していないため少し小言を言われたが、仕事の手伝いを申し出ることで事なきを得た。実のところはただの借金の追加でしかないが、甘んじて受け入れておく。

 公私混同と言われても反論は無い。

 私情。

 ただの私情だ。

 そもそも借りを返すだけなら、三日間も出張する必要などないのである──ましてや休ませるために仕事を手伝うなど、これが私情でなくて何が私情か。

 借りを返すという名目にかこつけて、俺はヒナに対して──いや、617に対して贖罪をしようとしている、どうしようもない人間だった。

 今更何をしようと、617が救われることはないというのに。

 あるいは──だからこそなのか。

 ヒナにはせめて、617が経験できなかったことを──もっと自由に生きてほしいという俺の我儘なのか。

 どの道救いようのない発想に違いはないが……こうして冷静になってみると、俺にとってヒナという存在はあまりにも特殊なものである。

 俺にとっての『特別』に、あまりにも似ているヒナをどう扱えば良いのか、俺は俺の中で整理がついていない。

 ヒナはヒナで。

 617は617だ。

 それは──分かっている。

 俺はそれを理解したつもりでいるし、重ねているつもりもない。

 だが、であれば、俺のこの感情は一体何なのだろう。

 果たしてそれは、617と重ねていないにしても、『代わり』として見ていないと──俺は本当に言えるのだろうか?

 

 002

 

 翌日。

 俺が予定通りゲヘナに到着し、迎えに来たらしい風紀委員会に連れられて執務室まで案内されると、そこにはアコとヒナの姿があった。

 

「な……せ、先生!?」

 

 俺が前触れなくゲヘナに来たという事実は、意外なことにヒナを驚かせるには十分な内容だったようだ。書類仕事のために執務室の本棚付近に立っていたヒナは、俺の姿を確認した瞬間、危うく手に持っていた本を取り落としそうなるほどに酷く動転していた。

 あの様子からして、アコは俺との約束通り黙っていたらしい。

 ちなみにそのアコは現在、無関心を貫いている。まるでこの世界で起きる事象は自分には関係ないとさえ言いたげな無反応だった。

 ……いや、逆に不自然だろう、それは。

 どこからどう見ても様子がおかしいのは明白だったが、ヒナは未だ驚愕に囚われているようで、アコの不自然さに気付くことはなかった。

 

「ど、どうして先生がここに……!?」

「仕事のついでに様子を見に来ただけだ。すまない、気を遣わせてしまったようだな」

 

 大嘘である。

 一から十までヒナへの慰労のためにしか来ていない。

 しかし、俺の目的を言ってしまえばヒナは持ち前の謙虚な心から恐縮し、アコの気遣いが無駄になってしまうだろう──それは望ましくない。

 俺はヒナに悟られることなく、ヒナを休ませなくてはならなかった。

 近付きながら俺は言う。

 

「調子はどうだ、ヒナ」

「えっ……わ、私は全然大丈夫だけど……」

「その隈で言う台詞ではないな」

「…………」

 

 以前と変わらず、どころか、以前にも増して疲労を蓄積しているように見えるヒナは、俺からの指摘に目を逸らした。

 自覚はあるらしい。

 やはりこの少女、617と同じように溜め込むきらいがあるようだ──我慢強いと言えば聞こえはいいが、裏を返せば、それは己を蔑ろにしやすいという意味でもある。

 俺やホシノと違うのは、それが自罰的思考によるものではなく、元来の気質であるという点か。

 

「ヒナ。お前の我慢強さは美徳だが、疲労は誤魔化すべきではない。特にお前はあいつと同じように無理をする傾向にある──過労は身を滅ぼすぞ」

「……それは……分かっているつもり」

「そう──()()()だ。本当の意味では分かっていない」

 

 俺は敢えて、強い口調で断言した。

 もしも彼女の精神性が617と酷似しているのであれば、命令のような口調でないと言い聞かせることが難しいと判断したためである。

 どころか、下手をすれば命令に反してでも──無理を通そうと、する。

 

「…………見せてもらうぞ」

 

 俺は確認のためにヒナの側にかがみ込み、目線を合わせた。

 屈んでようやく、俺の方が視線が低くなる身長。

 体躯も似ている──が、ここまで疲労を溜め込んでいる姿だと、流石に617は重ならない。

 ……本当に、酷い隈だな。

 

「せ、先生……?」

 

 彼女の疲労を確認した上で、俺は真正面からヒナに言う。

 ほとんど命令口調である。

 

「ヒナ、今日一日は休め」

「え……えっ!? ど、どうして急に……!?」

「緊急性の高い仕事はないのだろう。ならば、まずは眠り、身体を休めることだ」

「な、なんで知って……いや……でも仕事は……」

「お前の最終確認が必要な書類以外であれば、俺が片付けておこう。戦闘の指揮も俺が担当する。お前の手を煩わせることはない」

「そうじゃなくて、私が急に休むなんて、万魔殿が何を言うか分からないし、それに先生に……」

 

 迷惑じゃないか、と。

 ヒナはそう、申し訳なさそうに、そして俺を心配するような口調で言った。

 なるほど──アコから聞いていた通りだ。

 極度の抱え込み体質。

 自分で何でもできるが故に、何でもやろうとしてしまう性格であり、頼ることを迷惑だと思い込んでしまう人間のようだった。

 彼女の誠実さと優しさがそれに拍車を掛けている──あまりにも強い責任感が、彼女を仕事に縛り付けていた。

 ここまで深い隈をつくって尚、他人の心配をしてしまうほどに。

 

「お前の現状を見てしまった以上、看過はできん。今のお前の睡眠不足と過労を見過ごしてしまうと、俺はあいつに顔向けができない」

「…………」

 

 俺の事情を知っているヒナにとって、これが卑怯な物言いであることは理解している。

 ただ、それでも言わなくてはならなかった。

 卑怯でも、狡猾でも。

 言わなくてはならない。

 

「休め、ヒナ。今はそれが、お前の仕事だ」

「……どうして、そこまで……」

 

 ヒナのそんな素朴な疑問に、俺は答えに窮する。

 どうして──何故。

 その明確な答えを、俺は未だに見つけられていなかった。617に似ているというだけの理由ではなくなっていることだけは確かだが、それが一体何なのか、判然としない。

 だからこそ俺は分からないなりに、今、思っていることをそのまま口にした。

 

「今ここに生きているのはお前だ、ヒナ」

「…………」

「俺はあいつの──……いや」

 

 とは言え、そのまま口走ろうとした内容は流石に不適切なことに気付いた俺は口を噤む。

 これは、言わない方がいいだろう。

 余計に背負わせてしまうだけだ。

 

「……詳しい話は明日話す。とにかく、今は休め。これは命令だ」

 

 半ば無理矢理、そして命令権などありはしないのに、俺はそう言った。

 もはや説得の体をなしていない。

 617の事を考えたせいで口をついて出てしまったとも言えるが、そんな俺の態度と話の不自然な流れ、そしてアコが今の今まで無言を貫いていることに対して、流石にヒナは違和感を覚えたらしい──しばらく沈黙した後、アコを流し見て溜息を吐いた。

 

「……アコ。先生に何か言った?」

「い、いえ……私は何も……」

 

 明らかに挙動不審だった。

 行政官として不安になる演技力である。いや、アビドスでの一件で腹芸はできていたことを考えると、嘘を吐くのが下手なのではなく、単純にヒナに嘘を吐くのが嫌なのだろうが……それにしてももう少しなんとかならないものだろうか。

 

「…………先生。詳しく説明して欲しいのだけれど」

「……だろうな」

「まったく……」

 

 呆れたように呟くヒナだった。

 俺がここに来た理由が、アコに起因したものであると悟ったのだろう──実際は俺が自ら喜び勇んで来ているわけだが、その辺りの事情までは察せまい。

 しかし、これで説得は難しくなってしまった。

 ヒナが冷静さを取り戻してしまった以上、動揺のまま押し切ることはもはや不可能だろう。どころか、俺たちの作戦が露見してしまった以上、計画は失敗したと判断せざるを得ない──と思ったのだが、そこでヒナは、俺を再び見て何故か微笑んだ。

 優しげな目で、彼女は言う。

 

「……分かった。今日は休む」

「い、委員長……?」

 

 この流れでヒナが休みを選ぶとは思っていなかったのだろう、アコは目を瞬いて驚きつつ、唐突な作戦の成功に訝しんでいた。

 今の状況が作為的なものであることに気付いたにも関わらず、俺を見て微笑むヒナの姿は異様と言ってもいい。

 怖くさえ、あった。

 そう、それはまるであの時のホシノのような──余裕のある笑みだ。

 

「でも、その代わり約束して、先生」

「……なんだ」

「明日。その子のこと、教えてくれる?」

「…………」

 

 ヒナは交換条件とばかりに言う。

 まるで俺の強情な態度に対して、「仕方がないから折れてあげる」とでも言うような、そんな譲歩さえ読み取れるようだ。

 もしも。

 もしもこの作戦が、ヒナを休ませるためだけのものであったのならば、彼女は頑として譲らなかったかもしれない。

 私は大丈夫だからと、やはり無理を通したのかもしれない。

 617の最期のように、仕事を続けたのかもしれない。

 しかし──彼女は折れた。

 恐らくは、()()()()に。

 

「教えてくれないなら、私は休まない」

 

 彼女から見て、今の俺はどんな顔をしているのだろう。

 先程休めと言ったあの時、彼女からはどう見えていたのだろう。

 ならば、この結果は──誰のための。

 

「……分かった。それで良い」

「……そう」

 

 俺の返事に、やはり満足そうに頷くヒナだった。

 

「それじゃあ……今日一日は、部屋にいる。でも、もしも問題があったらいつでも呼んでね、先生」

 

 手に持っていた幾つかの書類をまとめてから、執務室を出て行く直前に、ヒナは振り返って優しい口調で言う。

 先程まで彼女の睡眠不足や過労を心配していたはずなのだが、これではまるで、俺が心配されているかのような構図である。

 ヒナは穏やかな表情のまま去って行く──結果だけ見れば、彼女を休ませることには成功したが、しかし全てを見透かされた上で彼女が譲歩したこの状況は、作戦が成功したとは言えないだろう。

 ……俺たちが気遣うどころか、ヒナに思い遣られただけなのかもしれなかった。

 

「……機嫌を取られたのはどちらだろうな」

「…………」

 

 俺の溜息混じりの言葉に、アコは答えなかった。

 答えたくなかったのか──あるいはそれは、答えるまでもないことだっただけなのかもしれないが。

 

 003

 

 とは言え、作戦の成否はともかく、ここからが本題である。

 ヒナが休んだ──その事実こそが肝要なのだ。

 アコが言うには、何度休むよう諫言を呈してもヒナが休むことはなかったらしい。何かと理由を付けて、あるいはやむを得ない事情が発生してしまって、ヒナは働き詰めだったのだとか。

 一日平均三時間程度の睡眠時間しか取れていない、とも。

 そんな彼女が。

 重度のワーカーホリックである彼女が、まあ、色々とあったとは言え、休むという選択肢を取った事実は僥倖とさえ言えるだろう。

 明日ヒナに対して、何かしら──617の情報をある程度話さなくてはならないと思うと気が重くなるが、甘んじて受け入れよう。

 俺の恥など今更である。

 今は、ヒナが休んでいる間の仕事を片付けることに専念するべきだ。ヒナは「何かあったら連絡して」と言ったが──事実連絡したら飛んで来るのだろうが、そんなことをしては台無しだ。

 何があろうとも、今日一日はヒナに仕事をさせてはならない。

 ヒナの思い遣りによって叶ったこの状況であっても、最低限、彼女を休ませるという目的だけは果たさなくてはならないというのが、俺とアコの意地だった。

 そんな大人げない思いを秘めた俺は、改めてヒナの仕事を代わりにこなしている訳だが……しかし、こうして実際に目の当たりにすることで見えてきたものがある。

 異常な量の書類仕事、ゲヘナの生徒会である『万魔殿(パンデモニウム・ソサエティー)』の妨害(同じ学校で何故妨害しているのだろう)、ほとんどテロリストのような生徒集団の鎮圧。

 なるほど、確かに仕事や障害は多い。

 多い──が。

 しかし整理してみると、やはり()()()()()()()()()()()()()というものは多分に存在した。

 どころか、一組織の長がやる仕事ではないと言い切れるものの方が多い。

 時間がなくなるわけだ──『何でもできる』というのも考えものだな。

 傲慢とさえ表現してもいい。

 これらのことを踏まえて考えると、アルの言った『ゲヘナ最高のリーダー』という自負は、一切の誇張なしの事実のように思える。

 厳しいことを言えば、今のヒナはリーダーとしての資格はともかく、責務を果たせているとは言い難いというのが、俺の正直な評価になってしまうだろう。

 できることを全てやっている──やってしまっている。

 アコを含めた様々な風紀委員会の面々に聞いたところ、やはりそれに間違いはないようで、どんな仕事も彼女は引き受けているようだ。

 自分がやらなくてもいい仕事さえ。

 その理由も様々なのだろうが、総括すれば『頼るのは申し訳ないから』、あるいは『自分がやった方が早いから』というものだった。

 責任感の強さが空回りしている分かりやすい例とも言える。

 かつてヒナをリーダーとして出来過ぎていると評価したこともあったが……これは明確に短所と言って良いだろう。

 ヒナという一個人が出来過ぎているからこその短所。

 敢えて悪い言い方をすれば、ヒナは部下の成長の機会を奪っているのだ。

 長が全て滞りなくこなしてしまうせいで、下が成長しない。

 それが、『風紀委員会はヒナ以外は大したことない』という評価の遠因にもなっているのだろう。

 …………実際に仕事をして、そこで発見した問題は解決していくつもりだったのだが、これは、そう簡単な問題ではない。

 環境の問題が全く無いとは言わないが、それよりも大きい問題はヒナの意識である。

 彼女が誰にも頼らない、頼れない精神である以上、いくら環境を変えても意味はなかろう。

 つまり必要なのは──ヒナの意識改革である。

 

「という訳だ、ヒナ。お前には考え方を変えてもらう必要がある」

「……先生、約束が違う気がする」

「その約束は守る、安心しろ。だがその前に、昨日一日お前の仕事をこなして気付いたこと、そして問題を話さなくてはならない」

「……問題? まあ、確かにゲヘナは問題が起きない日なんてないけれど……」

 

 色々とあったが、とにかく仕事をこなした翌日。

 きっかりと始業時間前に執務室へやって来た、比較的体調を取り戻したように見えるヒナを対面のソファに座らせてから、俺ははっきりと言った──つもりだったのだが、彼女は微妙に納得していない反応を示した。

 ……そもそも、これらの問題を自覚しているとは言い難い彼女である。

 自分が負う苦労など考慮せず、苦にも思わず、身を粉にして働いている姿もまた一種のカリスマなのだろうが、それは、俺からすれば褒められたものではない。

 それが、似ているならば、尚のこと。

 

「……それもそうだが、それ以上に問題があるのはお前だ、ヒナ」

「……私?」

「より詳しく言えば、お前の意識だ──この激務はお前の精神性が引き起こしている側面がある」

 

 休暇明けの彼女にこんなことを言いたくはないが──何故か俺の昔話を楽しみにしている節のある彼女に説教から入りたくはないのだが、しかし今後のためにも言っておかなくてはならないだろう。

 ただし、あまり強く言ってしまうと誤解を招き、ヒナを傷付けてしまう可能性もあるため、言葉を選びつつではあったが。

 

「ヒナ。お前は仕事を引き受け過ぎだ。アコから聞いたが、日中は他者の手伝いや仕事、その後はお前だけができる仕事という割り振りのようだが……それで深夜まで仕事をするようでは破綻している」

「でも、それは……私がやるべきで……」

「違うな。むしろお前は他者の仕事に手を出すべきではない」

 

 とは言え、これまでの激務でこびりついた、あまりにも強固な意識を変えるには強く言う必要もある──傷付けない程度の口調で、俺は彼女を叱らなければならないようだ。

 割合戦々恐々である。

 

「誤解を恐れずに言おう。お前の時間と、他の風紀委員会の面々では時間の価値が違う」

「…………」

「お前にしか鎮圧できない集団がいる時点で、お前はいつでも動けるようにしなければならない。極端なことを言えば、仮に通常三十分かかる書類を、お前であれば五分で片付けられるのだとしても、手を出すべきではない」

 

 風紀委員会の面々が三十分掛けて暴徒を鎮圧できるならばともかく、どれだけ時間を掛けようとヒナでなければ捕縛できない生徒がいる時点で、それは等価ではないのである。

 昨日でさえ、風紀委員会の制服を着たピンク色の長髪(変装のため昨日は結っていたが)の、ショットガンと盾を振り回し、縦横無尽に戦場を駆け巡った小柄な超大型新人を応援としてあらかじめ呼んでいたからどうにかなったものの、彼女ほどの実力がなければ制圧できない集団が存在する時点で、ヒナは他人の仕事など()()()()()()()()のだ。

 

「……先生は、私のやり方は間違ってたと思う?」

「いや……これはお前の優秀さが招いた事故のようなものだ」

 

 若干落ち込んだような雰囲気を漂わせたヒナに対し、俺は慌ててフォローを入れる。

 実際、普通こなせない仕事量であれば、大抵の人間は妥協するはずなのだ。

 見切りをつけて、諦めて、割り切るのだ。

 しかし、ヒナは本来不可能な仕事ができてしまうからこそ、『自分がやればいい』という思考に陥ってしまったのだろう。

 環境と本人の気質が悪く噛み合ってしまった結果と言える。

 

「……ヒナ。お前はよくやっている。誰が何と言おうと、俺が認めよう。俺が証人だ──誰にも否定はさせん」

「…………」

 

 向かい合ったまま、俺は言う。

 厳しいことを言ったが、何であれ激務をこなしてきた事実は変わらない。

 こうなってしまった責任が、ヒナにある訳ではないのだ。

 であれば、その努力は、献身は──報われるべきだろう。

 

「お前の努力は、決して無駄にはならない。俺が無駄にはしない」

 

 ヒナはじっと、俺を見ている。

 じっと──見つめている。

 

「だからこそ、お前は他者を頼らなければならない。お前が、お前にしかできない仕事をするために」

 

 何もかも、俺が言えたことではないが。

 肝心の仕事を621に託した俺のようになれという訳ではないが、ヒナはもう少し、荷物を下ろす事を知るべきだ。

 ……これもまた俺が言えたことではないか。

 

「色々と言ったが……要するに、仕事を選べということだ。お前は、お前の価値を低く見積り過ぎている」

「それは……すぐには、難しい」

「だろうな。だから、少しずつで良い。いつかお前が過労で倒れるような仕事のやり方でなくなれば、それで良い」

 

 ヒナの消極的な姿勢は予想通りではあったので、俺はそんな風に言った。

 ここまで叱っておいて何だが、これらの問題を今すぐに解決できるとは思っていない。

 俺が言って直るようなものであれば、彼女が自分自身でとっくの昔にしているであろう意識改革である。

 

「……先生」

 

 と、そこでヒナは、改めて俺を真っ直ぐに見据えた。

 若干の躊躇いを感じさせたものの、それは一瞬のことで、決意したような目で俺に言う。

 あまりにも鋭い、刃物のような言葉を投げかける。

 

「……私にここまで良くしてくれるのは、私だから? それとも──()()()()()()?」

「…………」

 

 核心を──そして心臓を突くような問いに、俺は閉口する。

 何か言おうとしても、上手く言葉にならない。

 何もかもが、言い訳だ。

 

「……先生が私を思い遣ってくれているのは分かる。でも、その優しさがその子を経由したものだと思うと……複雑な気持ちになる」

「…………すまない」

「いや、謝ってほしい訳じゃなくて……えっと」

 

 そこで初めて、恥じるような表情でヒナは言う。

 それはどこか、拗ねたような態度でもあったが。

 

「ずっと言っているけれど……その、()()()()()()()

 

 私は、空崎ヒナだから。

 代わりには、なれないから。

 そんな、当たり前のことを──俺に、言った。

 当たり前のことを。

 

「……そう、だな」

 

 ヒナはヒナであり。

 617は617だ。

 別人──だ。

 ヒナを助けて贖罪をしたつもりになったところで、それはあくまでも()()()でしかなく、本質的に617が救われる訳ではない。

 そんな当たり前のことを、分かりきっていた答えを改めて目の前に突き出された俺は、返事をすることしかできなかった。

 頷くことしか、できなかった。

 

「……難しい?」

「……すぐには」

 

 先程のヒナの消極的な答えを、俺がなぞる形になったことは皮肉でしかなかった。

 俺の答えに、ヒナは今度こそ拗ねたような態度で言う。

 

「アコとは、あんなに仲良くなれるのに?」

「…………」

 

 ヒナらしからぬ、棘のある発言だった。

 あれを仲が良いと判断されるのも癪な気がしてしまうが……しかしヒナからすれば、アコと俺は仲が良いように見えるのだろう──煽り合う姿であろうとも、気兼ねなくコミュニケーションを取っている姿を羨ましく思っているのかもしれない。

 俺が、アコをアコとして、そのまま見ていることが羨ましいのかもしれない。

 

「……先生にとって、私はその子の代わりにしかなれない?」

 

 ──貴方は、生徒を見ているようで、見ていない。

 

 ──貴方の世界は、どこまでも閉じている。

 

 いつかの黒服の言葉が、脳裏をよぎる。

 見透かしたような奴の言葉は、事実、俺を適切に表現していたのだ。

 キヴォトスに来て以来、ずっと。

 何も見ていないのは俺の方で。

 心を閉ざしているのは──俺の方だ。

 

「……なんてね。ごめんなさい、先生。少し、意地悪を言いたくなっただけ」

 

 冗談めかしてはいたものの、その声は寂しげで。

 隠した本音が、滲み出ているようでもあった。

 

「ヒナ、俺は──」

「ああもう、まどろっこしいですね!!?」

「!?」

 

 あまりにも唐突な第三者の怒声に、さながら小動物のように分かりやすくヒナの身体が跳ねた。

 声の出所へ視線を向ければ、すぐに下手人は見つかった──俺の発言を遮るようにバインダーを机に叩き付けて怒鳴ったのは、何を隠そう天雨アコである。

 ……いたのか。

 

「アコ、お前いつの間に──」

「そりゃあ始業時間とっくの昔に過ぎてますからね!? 委員長を支える行政官として執務室に控えていますとも!」

 

 アコの指摘を受けて時計を見ると、確かに始業時間は大幅に越えている。どうやら話に熱中してしまい、時間を忘れてしまったようだった。

 しかし、アコの怒りは未だ収まることなく続く。

 

「先生が全て悪いんです! 委員長に余計な気を負わせてどうするんですか!? 言いたいことをハッキリ言わせてあげてください!」

 

 そして怒りの矛先は、やはり俺のようだった。

 まあアコの場合、何をしても怒りがヒナに向くことはないだろうとは思うが。

 

「とにかく! お互い言いたいことがあるなら、外に出かけて二人で話してきてください!」

「えっと、ごめん、待って、アコ。私、仕事が……」

「先生、ショッピングにでも連れて行ってあげてください! 男でしょう!?」

 

 アコの謎の暴論と有無を言わさぬその剣幕に、ヒナでさえも押し切られてしまい、あれよあれよとソファから出口まで引っ張られて、俺たちは執務室から叩き出された。

 がしゃん、とわざとらしく音を立てて鍵を施錠される有様である。

 帰ってくるなと言わんばかりだった。

 もっとも、鍵は当然ヒナも持っているので、今すぐ鍵を開けて中に入ることもできたが……それは、控えておくことにした。

 彼女の気遣いを無碍にしてしまうことになる。

 随分と荒療治ではあったが、今の俺たちにはこれぐらいで丁度良いのかもしれない。

 

「…………」

「…………」

 

 締め出された俺たちは、二人して扉の前で佇んで、しばらく。

 どちらともなく、言う。

 

「その……先生。せっかくだし、出掛ける?」

「……そうだな」

 

 まあ、俺が悪いのだろう、恐らく。

 こうして、アコの気遣いにより、図らずもヒナの二日目の休日が始まったのだった。

 

 004

 

 しかし、出掛けてきてくださいと言われたものの、俺はゲヘナの地理に明るくない。

 どこにどんな店があり、どんな名所があるのか、そういった娯楽に関わる情報を全く仕入れていなかった。

 アコの指示に従うのであれば──彼女の意向に沿うのであれば、俺はヒナをエスコートしなければならないのだろうが、情けないことに、それは断念せざるを得なかった。

 自然、俺はヒナに案内される形になる。

 ……ここまで考慮して作戦を構築するべきだったか。

 ともあれ、ゲヘナの地理が分からない以上見栄を張っても仕方がないので、俺はヒナの行きたい場所や好きな場所があれば、アコの指示したショッピングモールに限らず、行き先を変えても構わないと伝えた。

 の、だが。

 

「えっと……」

 

 しかしヒナは、逆に困惑した様子で考え込んでしまった。

 どうにも、ヒナにこれと言って行きたい場所がある訳ではないようで、結局俺たちは、アコの衝動的な発案だと思われるショッピングモールに、そのまま足を運んだのだった。

 

「……それじゃあ……その、どうする?」

 

 到着した先でも、やはり戸惑った様子で俺に訊くヒナ。

 ゲヘナ郊外のショッピングモールに来たものの、当然と言えば当然なのか、ヒナのやりたいことが見つかる訳もなく、目的を見失ってしまった。

 

「……一通り、回ってみるか」

「…………そうね」

 

 俺の提案に、何故か気落ちした様子で答えるヒナだった。

 そうして、アクセサリーショップやゲームセンター、アパレルショップなど、目についた場所を軽く巡ってはみたものの、ヒナの琴線に触れるような場所はなかったようで、特に一定の場所に留まることなく再び最初の場所に戻って来た。

 まあ、言われるがままに目的もなく彷徨えばこうもなろう、と俺はむしろ納得する結果だったのだが、しかしヒナは更に落胆した様子で、俺に申し訳なさのようなものまで感じているようだった。

 どころか。

 

「……ごめんなさい、先生」

 

 と、謝ってきた。

 心底反省しているかのような落ち込み様ではあったが、しかし、それが何に対する謝罪なのか分からなかったため、俺は訊き返す。

 

「……何故謝る。お前に非は無いだろう」

「い、いや……折角出掛けてるのに、私が……なんか、ダメにしちゃってるというか……」

「気にするな。それに、興味のない場所を巡ったところで収穫がある方が稀だろう。あれらがよく分からないのは俺も同じだ」

 

 ヒナについて行ったものの、俺も若者が興味を惹くような物に対して理解がある訳ではない──最近はヒフミの狂信的な、いや、一ファンとして好きな作品が長寿コンテンツであってほしいと願う、あどけなき少女の健気な布教活動の甲斐あって、ペロロだけは稀に気付けるようになったが、それ以外はまるで分からない、知らないというのが俺の現状である。

 

「……その。ごめんなさい、先生」

 

 再びヒナは謝った。

 何故だと、俺が口を挟む間もなく彼女は続ける。

 

「さっき、私を見てほしいなんて偉そうな事を言ったのに……でも私は、知ってもらえるような……中身のある人間じゃなかった」

 

 つまらない人間だって、自覚をしていたはずなのに。

 と。

 卑屈なことを、言った。

 それはまるで、自分には仕事しか取り柄がないと心底思い込んでいるかのような言い方でさえあった。

 つまりヒナは、アコの気遣いによって出掛けたは良いものの、何か実りある結果を得られなかったことは自分のせいだと言いたいらしい。

 ……この自己評価や自己肯定感の低さが、仕事を請け負い過ぎる一因でもあるのだろうか。

 しかし──つまらない人間、か。

 荒唐無稽な話だ。

 

「ヒナ、あまり己を卑下するような事を言うな。それに……分かったこともある」

「え……?」

「ついて来い。少し歩くぞ」

 

 彼女が己をつまらない人間だと思い込んでいる理由は分からない。

 分からない、が──何故か怒りのようなものを覚えた俺は、ヒナの思い込みを否定するためだけに、先程とは反対に、ヒナを先導する形でショッピングモールの出口へと向かう。

 下手に何かを言うよりも、見せた方が早いと判断したのだ。

 

「せ、先生? 行くってどこに……?」

「どこでもない場所だ」

「……?」

 

 俺はゲヘナについて詳しくないことは先程伝えた通りだが、しかしそれでも、新しく仕入れた知識はある。

 そう、ここに来るまでに通った場所は、覚えている。

 知っている。

 そうして俺は有無を言わさず──とは言っても、老人の歩く速度、しかも杖を突いた人間の歩行速度など知れているため、あくまでも気持ち上ではあるが、それでも、ヒナを引っ張るように連れて来た場所は、川沿いの道だった。

 ショッピングモールまでの経路で通り過ぎただけの、ただの道である。

 

「ここだ」

「……?」

 

 心底不思議そうな表情を隠さないヒナを連れて、俺はそのまま、道の傍らにあったベンチに腰掛けた。

 ヒナも、何故連れて来られたかも分からないまま、俺の真似をするように隣に座る。

 

「あの、先生……?」

「……目の前の景色をどう思う」

 

 俺は訊く。

 問いとしてはあまりにも抽象的ではあったが、しかしヒナは、それでも大人しく目の前へと視線を向けた。

 目前の川は、川底にある石が見えるような、透明度の高い川だ。

 陽の光が、静かに流れ続けている川の水面に反射して輝いている。

 視界の外で、風が木々を揺らし、微かに耳へ葉擦れの音を伝える。

 

「…………綺麗、だと、思う」

「……そうか」

 

 ならば──何も、問題ない。

 つまらない人間では、ない。

 

「これは人によっては何でもない景色だ。名前のない場所で、ただの川と、ただの木と、道だ。言葉にしてしまえばそれだけだ。だが、それでもお前はこの景色を綺麗だと言った」

「…………」

「その感性を大切にしろ。間違っても、『つまらない』と卑下するようなものではない」

 

 俺は、隣にいるヒナに語りかける。

 目線は川へと向けたまま。

 

「ヒナ、お前は騒がしい場所が苦手なだけだ。静かな場所、穏やかな時間を好むだけだ。その感性はお前だけのものであり、お前だけが大切にできるものだ」

 

 この自然を綺麗だと思う心は貴重だ。

 俺にもそういった感性はあるが、それは、人類に牙を剥かない穏やかな自然をかけがえのないものだと思う心であって、ヒナのような純粋なものだとは言い難い。

 だからこそ。

 

「少なくとも俺は、この景色に何か感じ入るお前のことを、つまらない人間だとは思わん」

「…………」

 

 そんな自覚など今すぐに捨て去るべきだと俺は思うが……しかしそれこそ、すぐに解決できるような意識でもないだろう。

 だが、言っておく必要はあった。

 すぐには難しくとも、いつかは。

 

「……ありがとう、先生」

 

 しばらくの沈黙の後、彼女は言った。

 優しい、柔らかい声で。

 ヒナへ視線を向ければ、彼女は先程よりは穏やかな表情で目を細めて、川の流れる音や、木々の葉擦れの音に耳を傾けている。

 どうやらショッピングモールにいた時よりは、落ち着けたらしい。

 俺も先程の理不尽な怒りは収まったと言っていいだろう。

 ……この状況下であれば、そしてこの場所であれば──俺も、話せるかもしれない。

 617のことを、話せるかもしれない。

 そう思い、俺は決心して口を開く。

 

「……ヒナ。あいつのことが訊きたいんだったな。何が知りたい」

「…………ううん。……先生。言わなくても、いい」

 

 しかし、ヒナは首を振って、それを否定した。

 交換条件にするほど知りたがっていたはずの情報を、気を遣って、という風でもなく、ただただ事実を述べたような、穏やかな声音で拒否したのだ。

 それから彼女もまた、川を見つめたまま言う。

 

「私は、多分……先生のことを、助けたかったんだと思う」

「…………助ける、だと?」

「うん。辛そうで……見ていられなくって」

「…………」

 

 俺が辛そうで、見ていられなくって、助けたかった。

 ヒナは、淡々と言った。

 つまり、今までの行動──俺に対する関わり方は、俺を助けるためのものだったということらしい。

 休みをあっけなく受け入れたり、交換条件で617のことを訊こうとしたり──『代わり』かどうかを確認したこと、全て。

 俺を助ける──ため。

 ただ、それでも納得できないことがあった。

 

「……俺は助けを求めてはいないだろう」

「助けを求めてないからと言って、助けない理由にはならないでしょう? 先生だったら、分かるはず」

「…………」

 

 俺の反論に、あっさりと返すヒナだった。

 その言葉は、俺の行動を指しているのだろう。

 ヒナが直接助けを求めたわけでもないのに、ゲヘナに来た俺のことを。

 救いを求めていないことは、助けない理由には、ならない。

 

「……でも、少し間違えた。その子のことを訊けば、吐き出してくれたら、先生の気が楽になるかもしれないと思ったけれど……そうじゃなかったみたい」

 

 焦ったのだと、彼女は言った。

 すぐに助けようとし過ぎた、のだと。

 それもまた、俺と同じように。

 

「それに私は、その子のことを言い訳にした」

「……言い訳?」

「……私を見てほしかったのは……その、事実だから」

 

 そしてヒナは、こちらを向いた。

 決意したような目で、真っ直ぐに、真摯に、俺を見据えている。

 

「だから、先生。やり直そう」

「…………」

「いや、その、変な意味じゃなくって……」

「分かっている」

 

 つまり──617を介さない状態で、最初から関係を始めようとヒナは言っているのだ。

 アビドスでの初対面以来、罪と故人の影に惑わされ、性急に事を運び過ぎた俺たちは、歪んだ形で知り合った状態のまま一歩を踏み出してしまった俺たちは、一度、ここで休まなければならない。

 リセットをかけて、何もない状態で、始めなければならない。

 

「……俺も、お前には謝らなければな。お前への特別視は、お前を見ていないも同然だった」

「……うん。だからこれからは、先生のことを教えてほしい。知ってもらうだけじゃダメだから──あと……先生に心配をかけさせないような仕事のやり方にも、するから」

 

 すぐには、できないだろうけれど。

 でも。

 いつかは。

 

「私は、アコみたいに急に仲良くはなれない。でも……それでいいの。私たちはきっと──ゆっくりでいい」

 

 この場所みたいに。

 なんでもない時間を、穏やかに、緩やかに。

 楽しめば良い。

 

「だから……改めて、これからよろしくね、先生」

 

 そう言って、ヒナは笑った。

 それはきっと、初めて見ることのできた、彼女の年相応の笑顔で。

 617が浮かべることのなかった、屈託のない笑みで。

 空崎ヒナの、笑顔だった。














 お待たせしました。約一万六千文字です。
 読んでいただきありがとうございます。
 今回の話、ヒナらしくない、と思われてしまうような言動が多かったかもしれませんが、私的にはやはり『ウォルターのために』ヒナはそう動いたのだと思います。
 『ヒナのため』だけでは、ヒナはきっとここまで積極的に動かないでしょうし、主張もしないと思います。
 しかし、自分以外の誰かを助けるためなら、ヒナは頑張れてしまう子だと私は解釈しています。ウォルターもそうだけど休んで……。
 今回の話は、『歪だった関係をやり直し、スタート地点に立った』、そんな感じのニュアンスを受け取ってもらえたら嬉しいです。
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