ハンドラー・ウォルター先生概念。   作:ヤマ

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 彼女のストレス、その原因。


閑話:アコの重圧。

 001

 

 ゲヘナへの三日間の出張は、およそ成功を収めたと言って良いだろう。

 当初の目的──ヒナを休ませることに成功し、彼女との間にあった歪みをも解消することができたとなれば、これ以上望むべくも無い。

 状況の進展こそ無いが……どころか一からのやり直しではあるが、それでも、関係として健全にはなった。

 俺の中の問題が解決した訳ではないにせよ、それは俺が片付けるべき問題であり、今はこれ以上ヒナに背負わせることでもない。

 いずれ話していかなくてはならないのだろうが……それはやはり、これからの話だった。

 故に、今の話をしよう。

 今──そして過去の話。

 過去と言うと大袈裟に聞こえるが、要はこの三日間の振り返りである。

 ヒナを休ませるという一大事に、最も努力した彼女のことを俺は話すべきだろう。

 そう、天雨アコについて。

 ヒナを崇拝する風紀委員会のNo.2であり、情緒がやや激しい行政官でもあり、それでいて努力家な彼女に対して抱いた印象を──そして変わった印象を、俺は覚えておかなくてはならない。

 とは言っても、一日目、つまり俺がゲヘナに来てヒナを休ませた日に関して言うのであれば、彼女の印象に変化は無かった。

 どころか、むしろ情緒が激しいというイメージをより強固にさせる時間だったのだが。

 

「ああああ! もう! あのタヌキどもはいつも邪魔ばっかり……! 仕事してるんですか!?」

「…………」

 

 無言で書類を片付けている俺の隣で怒鳴り散らすアコだった。

 タヌキ──どうやら万魔殿の話らしいが、どうも生徒会に位置するであろうその組織は、風紀委員会の妨害に躍起になっているらしい。

 どうして同じ学園で妨害などしているのかと心底疑問を抱いたが、恐らくは派閥争いのようなものなのだろう。

 ただ、どうもその争いは一人の人間が生み出しているだけのようで、具体的に言えば生徒会長に値する人間(羽沼マコトというらしい)が、ヒナのことを目の敵にしているのだとか。

 『恨まれるようなことはしていない』とヒナは主張していたし、事実、あの自制心の塊のような彼女が他人から恨まれる真似をするとも思えない。

 恐らくは逆恨みだろう。

 本当に気苦労に絶えない環境であり、この状況でなお自らを律し続けるヒナの精神力は強靭を通り越してもはや異常である。

 ……俺が努力する部分だな、これは。

 

「アコ。万魔殿からの妨害工作はこちらに回せ。ストレスを無駄に溜め込む必要はない」

「……それはありがたい申し出ですけど……やるからには途中で投げ出さないでくださいね。下手な対応をするとつけ上がりますから」

「心配するな。クレームの処理は慣れている。相手の主張に理解を示しつつ、しかし受け入れず、そこはかとない断りづらさを保ちながら丸め込めばいいのだろう」

「……く、クレーム扱いですか……っていうか、嫌に手慣れてますね……」

 

 何故か同情するように言われた。

 そんな目で見られる覚えはないのだが。

 

「最近は特にこの手の仕事が多くてな」

「……最近?」

「……シャーレの仕事だ」

 

 危うく便利屋の経営顧問としての仕事をアコに言いそうになり、俺は誤魔化した。

 便利屋と妙な確執がある彼女である、俺が経営顧問として便利屋に関わっていることを知れば余計な怒りを買うかもしれん。

 若干気取られた雰囲気があったものの、そのタイミングで端末が震えた。

 アコは何か言いたげな顔をしていたが、流石に電話を遮ってまで問い詰める気はないようで、俺に通話に出るよう首だけで促した。

 ……既に機嫌を損ねていることに嫌な予感を覚えつつも、俺は促されるまま応答する。

 

「……どうした」

『先生、温泉開発部?の拘束終わったよー。もう戻っても良い?』

 

 絶対に、間違いなくこのゲヘナにいない筈であろう、砂漠化の進む地域で借金返済に勤しんでいる副生徒会長のような少女の声だった。

 とは言え、特に驚くようなことでもない──何せ、少女をここに連れて来たのは俺なのだから。

 仕事の依頼である。

 

「……いや、別の場所で暴れている集団がある。そちらの応援が必要だ」

『うへ〜、人使いが荒いよ〜』

「……確かに、予定よりも戦闘が多い。追加報酬が必要だな」

『んー……おじさんはD.U.地区にしか売ってない海の生き物図鑑が欲しいな』

「……分かった。後で詳細を送れ。手配しておこう」

『太っ腹だねぇ、先生。約束だよ〜?』

「…………ああ」

 

 最近何かと『約束』という単語を使う少女との会話もそこそこに、応援先の位置情報を送って通話を切ると、アコが先程よりも更に何か言いたげな顔でこちらを見ていた。

 見るからに怪訝な、そして白けた表情である。

 

「……あの、ずっと気になってたんですけど」

「なんだ」

「先生が呼んだ応援、明らかにアビドスの小鳥遊ホシノですよね」

「さあな」

 

 俺は露骨にとぼけた。

 流石にこれで彼女が誤魔化されるとは思っていないが、しかし、見え透いた嘘であろうとも無意味ではない。

 あからさまに誤魔化すことで『この件に関して語るつもりはない』という無言の主張をしているのだ。

 カーラがよくやっていたが、俺も稀にやる。と言うより、これは彼女から受け継いでしまった悪癖と表現した方が正しいかもしれないが。

 実際、これを問い詰めても意味が無いと悟ったのか、アコは呆れたように溜息を吐いた。

 

「……他校の生徒ですから、政治的な問題を起こさないよう気を付けてくださいね」

「…………」

 

 現状、キヴォトスで出会った人間の中でもアコにだけは言われたくないと思ったが、しかし正論ではあったので、辛うじて耐えた。

 だが、その感情が俺の表情には出てしまっていたらしい──俺の表情はかなり変化に乏しいはずなのだが、その些細な変化を感じ取ったアコは、眉間に皺を寄せて目を吊り上げた。

 

「先生、何ですかその目は! 言いたいことがあるならハッキリ言ってください!」

「……行政官らしい発言に感心しただけだ。他意はない」

「はあ!? 何ですかそれ! 私のことをただの痴女だと思ってたんですか!?」

「誰もそこまでは言ってないだろう」

 

 発想と論理の飛躍が凄まじい。

 まあ、言わないだけで思ってはいるが。

 

「言っておきますけど、私の服装は大した露出ではありません! いつか先生はきっと謝ることになりますからね!」

 

 アコは堂々と言った。

 絶対に自分はまともであると信じて疑っていない口調である。

 俺の知る『まとも』であれば、バイトの服装を改造してまで胸の側面を開けたりはしないと思うが。

 

「……そうであってほしいものだ」

 

 俺は心の底から言う。万が一()()()()()()()時のことなど考えたくもない。

 つまり、アコ以上に苦言を呈したくなるような服装の生徒が存在しなかった場合、俺は彼女との付き合い方を考えなくてはならないのだ。

 ……今からでも考えておくべきか?

 

「その顔、信じてませんね! なら、私が嘘を吐いているかどうか、賭けますか!?」

 

 売り言葉に買い言葉。

 アコの様子からそんな表現を思い出したが、しかしこの場合、売っているのも買っているのもアコしかいないので、この表現は適切ではないように思う。

 しかし──賭け、か。

 

「……何を賭けるつもりだ」

「……えっ!?」

 

 実際、この状況下で一体何を賭けるつもりなのだろうと疑問に思ったので、俺は単純な好奇心からそんな風に訊いた──のだが、何故かアコは、まるで質問されることを想定していなかったかのような反応を返した。

 ……まさか、何も考えていなかったのか?

 

「え、えっと……その……あの……」

 

 しどろもどろである。

 どうやらアコは、俺がこの賭けに興味を示す可能性を一切考慮していなかったらしい、目に見えて狼狽している。

 目を泳がせながら必死に思考を巡らせているその様は、明らかに冷静ではなかった。

 恐らくは正気でないままに、そして引っ込みがつかなくなったであろうアコは勢いのままに、言った。

 

「ま……負けたらこの首輪をつけて、犬のようにワンと言ってもらいます!」

「俺を犯罪者にする気か?」

 

 俺もアコも得るものが全く無い、どころか失うものの方が多い賭けだった。

 得るものが無い賭けは無謀な賭けどころではない、ただの破滅行動である。

 内容を確認して正解だったらしい──いや、そもそもそんな首輪、一体どこから出したのだろう。

 アコは今執務机に座っているので、少なくともその周辺にはあったのだろうが……。

 もっとも、賭けの結果がどうなろうとも、俺が元より罪人である事実は揺るぎないのだが、しかしそれでも性犯罪者の烙印まで押されたくはなかった。

 譲れない一線である。

 以前アコには『プライドは犬に食わせた』と言ったことがあるが、どうやら俺にも譲れない最後の一線というものは残っていたらしい。

 あるいは、最後の良心とでも言うべきか。

 ともあれ。

 俺に自覚はなかったが、どうやら先程言った俺の呆れ混じりの一言はかなり冷淡なものであったらしい。冷や水を浴びせられたが如く、アコは急激に落ち着きを取り戻した。

 そして冷えた頭で己の発言を顧みたのだろう、みるみるうちに顔を紅潮させて、それから書類の山が積み上がっている机の上に突っ伏した。

 最悪、と呻く声が微かに聞こえる。

 

「……アコ。お前はもう少し、後先考えて発言することだ」

 

 俺は老婆心ながらそんなことを言った。

 助言としては些かありきたりだったが、彼女の未来を案じる上ではこれ以上ない的確な助言だろう。

 しかしアコは俺の忠告を聞いて、ばっと身体を跳ね上げるように起こした後、

 

「そんなこと自分でも分かってます!!!」

 

 と、両手を机に叩き付けて怒鳴った。

 自覚はあるらしい。

 清々しいまでの逆上だったが、まあ、子どもらしいと言えば子どもらしいのかもしれない。今まで関わってきた子どもが異常に大人びていたこともあって、可愛げがあるとさえ言っても良かった。

 感情豊かなのは良いことである。

 少なくとも──無いよりは、ずっと。

 それからアコは、溜まりに溜まったストレスを俺で発散することにしたらしく、彼女の愚痴を聞きながらの仕事と相成った。

 アコの我慢を決壊させたのは俺であり、であれば、俺をストレス発散相手にすることは決して横暴ではない、というアコの暴論を受け入れて(実際煽りに煽っているので悪因悪果ではある)一日目は終了した。

 ちなみに、余談ではあるが。

 俺は今後、シャーレとして様々な学園に足を運ぶことになるのだが、その行く先々でアコ以上の過激な服装を目にすることとなる。

 つまり、万が一アコの賭けに乗っていた場合、俺は負けていたのだ。

 やはり賭けなどするものではない。

 

 002

 

 出張の二日目に関しては既に語った通り、俺はヒナと過ごした。

 正しく老人がするような日向ぼっこをしながらの雑談となった訳だが、ヒナは非常に満足する休日となったらしい。

 俺も──恐らくは。

 しかし、そんな満ち足りた休日にも犠牲は付きものである。

 誰かが休んでいるということは、誰かが仕事をしているのだ。

 一日目はヒナが休んでいる間、俺と(戦闘に関してはホシノと)アコが仕事を負担した。

 ならば、俺とヒナが休んだ二日目に誰が仕事をしていたのか、それは言うまでもないだろう。

 そう、天雨アコが全てを背負ったはずなのだ。

 流石にあの仕事量を一人で負担するのは無理があるだろうと、俺たちは夕方頃に一度執務室に戻ったのだが、

 

「あれ? 委員長……先生も。どうしたんですか?」

 

 と、心底不思議そうな顔をして俺たちを出迎えるアコだった。

 予想に反して、酷く落ち着いた様子である。

 激務に追い込まれているのではないか、それによってアコはストレスを溜め込んでいるのではないかという俺の予想は、呆気なく覆された形になった。

 

「……いや、今日はお前に負荷がかかっているかもしれんと思ってな。様子を見に来た」

「割と平凡な一日でしたよ。それほど大きな出来事も無く」

「…………そうか」

「それよりも、先生! 委員長を連れて来ちゃダメじゃないですか!」

 

 委員長は今日もお休みなんです! と、早速俺に向けて怒りを向けてきたが、しかし昨日よりは落ち着いた怒りだった。

 より言うのであれば、パフォーマンスじみた怒り。

 あるいは、偽物の怒りと言ってもいいかもしれない。

 

「ううん、アコ。私はもう大丈夫だから。……この二日間ありがとう」

「い、いえ……気になさらないでください! 委員長が十分にお休みになられたのならそれで……!」

 

 ヒナの労いに非常に恐縮したかのような態度を取るアコは、まあ、いつも通りの様相である。

 いつも通り。

 俺はざっと、執務室を見渡す。

 昨日に比べても、確かにこれと言って仕事が残っている訳ではないようだ──ホシノがある程度の危険人物を拘束したのが効いたのかもしれない。

 とは言え、流石に執務室に来た手前全く何もせずに帰宅する訳にもいかない俺たちは、残りの時間を仕事をして過ごしたのだが、しかしそれでも妙に仕事が少なかった。

 普通に考えれば、特に何も無かった、というアコの言葉が真実だったと判断するべきだろう。

 だが、俺はそんな風には思えなかった。

 彼女の実力を信頼していないという話ではない。むしろ彼女は、やや暴走気味なイメージに反して、事務仕事や書類の処理に関して非常に優秀だと言えるだろう。

 だが、そんな彼女が仮に順調に仕事をこなしたのだとしても、この部屋に残っている仕事の量は明らかに少ない。それなりに関わった身だ、一日辺りの仕事量はおおよそ把握している。

 これはまるで──。

 

「……それでは委員長、先生、お先に失礼しますね」

 

 俺の疑いとは裏腹に、その後アコは特に残ることもせず、時間になったら素直に帰って行った。

 妙に早い帰宅を訝しんだが、その後に『二人で委員長とお話してから送ってあげてください』というメッセージを見るに気を遣ったらしい。

 ヒナを思い遣るその心は、やはり本物なのだろう。

 それから俺はヒナと軽く雑談をしてから執務室を閉めて、最後にヒナを寮まで送り届けたところで、丁度日が沈んだ。

 二日目が終わろうとしている。

 俺は休憩がてら、ベンチに座って二日間の振り返りをすることにした。明日はシャーレに帰らなくてはならないため、実質今日が最終日である。

 ゲヘナでの出張は、確かに実りあるものとなった──が、しかし、妙な違和感が俺の中に残っているのも、また事実だった。

 仕事。

 確かに一日目に仕事は片付けたが、それは俺が手を出せる範囲でのという注釈がつく。行政官であるアコや委員長であるヒナの確認が必要な仕事はどうしても残ってしまうのだ。

 ましてや二日目、普通の仕事さえ俺が手伝えていない中、どうしてああも仕事が少なかったのだろう。

 あれはまるで──誰かに隠されていたかのような。

 

「…………」

 

 俺は思い立ち、その足で執務室まで戻って確認してみたものの、当然と言えば当然なのか、変わらず鍵が掛かっており中から人の気配は感じられなかった。

 外から見ても、灯りが漏れている様子もない。

 杞憂──だったのだろうか。

 気にし過ぎと言われたらそれまでだが、しかしこういった微かな違和感や嫌な予感は大抵の場合的中するのだと、俺は知っている。

 知って、経験している。

 だからこそ俺は自分の感覚を信じて、ざっと学園内を徘徊することにした。

 夜の学園は静かなものだった──一日目にホシノが粗方の問題児を叩きのめしたこともあって、流石に昨日の今日で騒ぎを起こしたりはできないらしい。

 そんな静かな夜の中、俺は歩く。

 建物には入らず、外から窓を見る程度の軽い確認だったのが、そこで俺は、一つの教室に明かりが点いていることに気付く。

 それが思い込み、そして勘違いの可能性は大いにあった。

 そもそも夜に電気がついているからと言って、そこに誰かがいるとは限らないし、何より消し忘れの可能性は全く否定できないのだが、俺は直感に従って、近くにあった自販機で缶コーヒーを買ってから、その教室へと向かった。

 そして、辿り着いてようやく。

 俺は、教室で書類を片付けている天雨アコを発見する。

 

「アコ」

「ひゃっ!? う、ウォルター先生!? 何で……!?」

「それはこちらの台詞だ。教室で何をしている」

「あ、いや……えっとですね……」

 

 扉を開いて俺がアコに声を掛ければ、彼女は飛び上がるように驚いて、こちらを振り向いた。

 アコは一瞬言い訳を考える素振りを見せたが、しかし流石に書類を片付ける姿を見られて言い逃れはできないと悟ったのだろう、この通りですと、開き直ったかのように言う。

 

「今日できなかった分を、片付けていました……」

「……だろうな。夕方に残っていた仕事は、昨日に比べ明らかに少なかった。アコ、お前は最初からこうなることを予想して準備していたな」

「……はい」

 

 溜息を吐く。

 つまりアコは、俺たちを外出させた後、今日の仕事が終わらないことを予想して、あらかじめこの教室に書類を持ち運んでいたようだ。

 万が一俺たちが執務室に帰ってきても、気取られないように。

 

「そして極め付けは、最悪俺に気付かれても問題ないように、お前にしかできない仕事を残した」

 

 机に乗っている書類を確認すれば、アコ以上の人間の確認が必要な書類しか残っていない。

 彼女は、仮に俺がここまで辿り着いたのだとしても、仕事を手伝うことができないように手を回していたのだ。

 ……子どもだと言うのに、どいつもこいつも、誰も彼も、背負い過ぎである。

 俺は書類を戻すついでに、買ってきた缶コーヒーを彼女の机に置いてから、彼女が座っている席より二つほど離れた席に座る。

 

「……何ですか、これ」

「差し入れだ。それを飲む間くらいは休め」

「…………」

 

 反発するかと思ったが、意外にもアコは無言でそれを手に取り、封を開けた。

 俺はそれを確認してから口を開く。

 

「いくつか、お前に訊きたいことがある」

「……飲んでいる間だけですからね」

 

 どうも彼女は、俺が強引に仕事を取らないかどうか警戒していたらしく、俺にそういった意図が見えないことを確認してからは少し安堵したかのように、コーヒーをちびちびと飲み始めた。

 缶コーヒーくらいの量であれば一気飲みして会話を拒否することもできただろうが、それをしない辺り、彼女の許可は貰えたようだった。

 軽い挨拶から入ろうかとも思ったが、缶コーヒーの量は少ない──時間は限られている。

 俺は単刀直入に訊く。

 

「エデン条約」

「…………」

「ゲヘナとトリニティ間の平和条約──だったな。俺は寡聞にして知らなかったが……」

 

 ──これからのトリニティとの条約にも、どんな影響を及ぼすのか分かったものではありません。

 

 ──ですからせめて条約が無事締結されるまでは、私たち風紀委員会の庇護下に先生をお迎えさせていただきたいのです。

 

 かつて、アコが行ったアビドスへの強硬手段。

 その原因について、俺は具体的には知らなかったが……後日調べてみると、どうやらその条約は俺がキヴォトスに訪れる前に連邦生徒会長が声明を出していたようで、エデン条約の存在自体はある程度周知されていたらしい。

 リン曰く。

 長く対立関係にあるトリニティ総合学園とゲヘナ学園、共に構成員を供出し合い『エデン条約機構(ETO)』を設立し、両自治区の紛争解決を行うことで両学園間の全面戦争を回避する目的の条約である、と。

 不可侵条約──である。

 しかし、連邦生徒会長によって進められていたその条約は、彼女が突然失踪したことで空中分解の危機に陥った。

 発案者であり仲介役だった連邦生徒会長がいなければ、当然不仲であるゲヘナとトリニティが自ら締結に向けて進めるわけもなく、話は自然立ち消えになる──はずだった。

 

「何故かトリニティの生徒会──ティーパーティーが調印に向けて動き出した事で、お前は焦った。理由が分からず、狙いも分からず、それでもトリニティに出し抜かれないようにするために、少しでも優位に進めるために──連邦生徒会長の失踪とほぼ同時期に出現した爆弾、シャーレという手札を、お前は確保しておきたかった」

「…………」

 

 返事をしない、が、否定もしないということは間違ってはいないのだろう。

 俺は続ける。

 

「その全ては、ヒナのためか?」

「…………だったら、何ですか?」

「いや、どうと言うことはない。ただ、確認したかっただけだ」

 

 彼女のやや捻くれた肯定に、俺は納得するような気持ちになった。

 アコという人間や、その在り方がようやく分かった気がした。

 もっともこれは、あくまでも分かったつもりでしかないのだが、しかし、大きく外してもいないだろう。

 彼女の行動原理と、このゲヘナにおいて彼女だけが背負っているプレッシャーについては、少なくとも間違ってはいまい。

 

「──不安か?」

「…………何がですか」

「お前の後ろに、誰もいないことがだ」

「…………」

「勿論ヒナはいるのだろうが──お前にとって、ヒナは頼ってはならない存在なのだろう」

 

 ヒナであれば、どんな問題でも解決できる。

 何でも、どんなことでも。

 解決してしまうだろう。

 

「だからこそ、お前はヒナを頼りたくない。お前が倒れた場合、全てをヒナに託してしまうことが、お前にとっての不安だ」

 

 ヒナの激務や勤務状態を見て、おおよその実態は掴んだ。

 ゲヘナの治安は、ヒナという最強の抑止力によって成り立っている現状だ。

 ヒナが出てくれば。

 ヒナがいるから。

 最低限の治安が存在している。

 だがその事実は、アコにとっては看過し難いものであるのだろう。

 あれだけの激務と仕事に忙殺されているヒナを(本人の気質の問題があったとはいえ)見ていられないという気持ちに、副官であるアコがならないはずがない。

 

「お前たちを守る王は最強だ。しかし、だからこそお前は守りたいのだろう」

 

 ましてや碌でも無い生徒会──万魔殿のような奴らにちょっかいを掛けられているとすれば、その心労は計り知れない。

 最強だからと言って、無敵ではないのだから。

 傍観できるのであれば、アビドスでの騒動も起こしていないだろう──あれこそ、方向性の問題はあれど、ヒナへの慮る思いが暴走した結果だろうしな。

 ヒナへの負担を減らしたい。

 ヒナへの責務を背負いたい。

 そんな彼女は、ヒナとは違う形でストレスを抱えている。

 ヒナに頼るべきではない、というプレッシャーを。

 何でもできるヒナに、何でも託してはならない。

 それはアコにとって、譲れない一線なのだろう。

 最後の砦であるヒナの前の──最後の砦であるが故に。

 アコはアコで、頼る人間がいない人間だった。

 

「…………分かったようなことを言いますね」

「ただの予想だ。外しているならばそれはそれで構わん。だが覚えておけ、アコ」

 

 俺は言う。

 素直ではない、素直になれない不器用な子どもに言う。

 

「俺もまた、もう一つの砦だ。今後ヒナに頼りたくない──いや、頼れないことがあれば、俺が何とかしよう」

「…………何とかって、何ですか」

「さあな。状況次第だ。だが、悪いようにはしない」

 

 そこまで言ったところで、どうやら彼女は缶コーヒーを飲み終えたようだった。

 少し物足りない感覚はあったが、約束は約束である──これ以上ここにいても仕事の邪魔になってしまうだけだろう。

 俺は「仕事は程々にしておけ」と言ってから立ち上がり、扉へと向かう。

 するとアコが、

 

「…………また、呼んでもいいですか」

 

 と、いつもよりも遥かに小さな、頼りなさげな声で言った。

 らしくない態度ではあったが、これが彼女の精一杯の頼り方なのだろう。

 ヒナが頼り方を知らない子どもだとすれば、アコは頼り方が下手な子どもだと言える──ならば俺との会話も、あれはあれで彼女のやや屈折した甘え方なのかもしれないと、俺はそんな風に思った。

 俺は答える。

 賭けには乗れないが、呼ぶ声に応えることはできるのだ。

 

「ああ。いつでも相手になってやる」












 ギャグ寄りだったのでウォルターの書き方に四苦八苦しました。
 一応、それぞれのキャラクターが逸脱しない程度には収まったと思いますが、いかがだったでしょうか。

 対策委員会三章の更新がありましたね。
 今のところ矛盾はない……と思うので修正はないですが、今後の更新次第で内容が変わる可能性はご了承ください。

 ちなみに、アル編がヒナ編に比べるとあまりにも薄味な気がしたので、003を追加しています。
 興味があればどうぞ。
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