ハンドラー・ウォルター先生概念。 作:ヤマ
可能性を認識せよ。
006
「えっと、これはウォルターにしかできないやつで……こっちは……この仕事はあいつらに任せられるし……これは……無理だな。ヴァルキューレに投げよう」
私は普段、喋りながら仕事をするタイプではない。
けれど、ウォルターに任された仕事の内容が内容なので、私はいつもよりも慎重に、間違いがないように、中身を口に出して確認しながら書類の整理を行なっていた。
作業そのものの難易度は高くない──各学園、あるいは地域の住民から寄せられた依頼を選別するだけの作業だ。
……いや、これくらいなら、まあ、今までもやったことのある仕事なんだけれど。
それは作業に限った話で、内容の精査まで加わると話は別だ。
今は重要度、緊急性、難易度などを参考に、優先順位をつけている。これが私たちにできる仕事か、できない仕事か、他の組織に任せる仕事か、そうするまでもない仕事か、はたまた嫌がらせか……などなど、多岐にわたる依頼内容を見て、判断する。
仕事を選ぶ。
言ってしまえばそれだけのことだが、けれど、この場合──私たちのような仕事の場合、それは『誰を助けるのか』を選ぶということでもあった。
シャーレに届く依頼は大量。
その中から、助ける人を選ばなくてはならない。
助けられる人、助けられない人、助かってくれることを願うしかない人、勝手に助かるであろう人、助けを必要としていない人。
それを、私が決める。
勝手に、決める。
それはあまりにも傲慢な行いであるように思えて、後ろめたくさえあった。
……昔の私たちを、見捨てているような気がして。
気が滅入るし、弱音を吐いてしまえば、私にはまだ荷が重い作業だと思う。けれどウォルターは、「間違えても構わない」と言って、まずは自分で判断してみろと、出かける前にざっくりとした判断基準を私に教えてこの仕事を託したのだった。
「俺たちのリソースには限りがある。活動時間、人員、資金……それらを考慮すれば、救える人間に限りがあることは明白だ。目に見える全員を救おうとすれば、いずれ俺たちが破綻する。直感には反するだろうが……より多く誰かを救おうとするならば、選ばなくてはならない」
淡々と、ウォルターは言った。
一見、冷徹で残酷なように聞こえるけれど、現実を知っている私たちからすれば、まあ、そりゃそうだとしか言いようがない。
救える人間には限界がある。
むしろ『最も多く人を救う方法』を考えている時点で、冷酷や残酷さからはかけ離れているだろう。
現実的な理想だ。
けれど。
でも、だとしたら……あの時、ウォルターは今よりも少なかったはずのリソースで、
リターンなんて見込めるはずもない私たちを。
より手間のかかるであろう私たちを助けることは、発言と矛盾する行為のはずだ。
「…………」
あるいは──それこそが、選ぶということなのか。
選択と、責任。
「私が取れる責任……か」
セリカを助けた時、私は助けることを選んだつもりだ。
あの時の最善策で、それが私にできる選択だと思ったからだ。
でも、その責任を果たして私は背負っただろうか。
「…………」
そして、つい最近の記憶。
ウォルターに「新しい組織を任せる」と言われた時、『これが私に取れる最初の責任』なんて思ったりもしたが──実際にやってみなきゃ、いつまでたっても責任なんて分からないことだと理解しているつもりだが、時間が経つにつれ、不安になる。
こうして書類上で優先順位をつけていると、分からなくなる。
今選んでいるのは私でも、その責任の所在はウォルターにある。
分からない。
分からないけど──選ばなきゃいけない。
なんて。
そんなことを考えつつ。
まとまらない思考のまま、それでも手を動かしていれば何だかんだ整理は終わるもので、取り敢えずウォルターに頼まれていた書類はどうにか選別しきることができた。
時間は随分かかったし、合っているかどうかも分からないけれど……これでウォルターの仕事が少しは楽になると良いな、と思う。ミスがあったら逆に負担は増えるので、あまり期待はできないが。
ミスが無いように気を付けはしたが、未熟な私に無いわけないし。
帰ってきたら書類が山積みになっているウォルターのことを思うとやっぱり気の毒だが……まあ、そこは私が手を出せる領域ではないので、大人しくウォルターの帰りを待とう。
ぐ、と座ったまま伸びをする。
ひとまず、書類整理が終わったら自由にして良いとウォルターには言われているので、これで私はようやく仕事の悩みから解放される──なんてことはなく。
「……思いつかねー」
伸びた姿勢から一転、机に突っ伏して、唸った。
まあ、エンブレムの件である。
ウォルターに託されたもう一つの課題は、正直なところ仕事の振り分けよりも私の頭を悩ませていた。
いやもちろん、仕事の振り分けや依頼内容に関しては真剣に考えたし、その選択を蔑ろにする気はない。やると決めた仕事は、ちゃんとやるつもりで選んだ。
繰り返すが、初めての仕事の選択に不安だってある──ただ、それでも最終確認としてウォルターの目は入るので、不安があってもどこかに安心が残る。
けれど、こっちは別。
今回、ウォルターは私が考えたデザイン案について一切の口出しをしないだろう。私が運営することになる組織だからと、きっと肯定も否定もしない。
それすなわち、このデザイン案は私が通せば通ってしまうという意味である。まあ、多少はプロの手直しとかが入るかもしれないが……大枠は私が考えたものが採用されることになるはずだ。
責任重大。
文字通り、このデザインを背負うことになるのだから。
「うーん……」
突っ伏したまま、ぴら、と書類の下に挟んでおいたメモ紙を取り出す。
これには私が思い出しながら描いた、ウォルターのエンブレムが描かれている──当然ながらウォルターが描いたものほど上手く描けていないけれど、デザインの参考にするには十分だ。
黒い腕に、手綱。
……エンブレムは自らの象徴となるものだと、ウォルターは言っていた。
自らを表現するものだと。
これが──ウォルターの自己。
ウォルターの象徴。
けれど私には、これほどの──ウォルターのように語れるほどの確固たる自己は、無い。
いやまあ、強いて言えば『ウォルターの猟犬』なんだろうけれど……それをアピールするならウォルターのエンブレムを使うべきだ。先んじて禁止されたが。
じゃあ、どうするべきだろう。
ウォルターの猟犬であることを、ウォルターのエンブレムを使わずにどう表現する?
いっそ安易に犬とか使ってみるとか? ……いや、流石にそれは違う気がする。
なんと言うか……ウォルターの猟犬であることを、私以外に押し付けたくはないのだ。
元魑魅一座は勿論のこと、サホたちにだって。
──私たちはウォルターに感謝してる。
──でも、
だから、見る人が見たら分かる程度。ウォルター自身が見た時に繋がりを感じる程度で、それ以外の人には分からないくらいの塩梅が良い。
普通にエンブレムとして成り立ちつつ、ウォルターには当てつけのように分かって、それでいて私たち全員が何か意味を持てるようなエンブレム。
……望み過ぎか?
「あぁあぁあ……」
「何呻いてんすか、ロイの姉御」
「姉御って言うな……」
かなりの難易度にデスクに突っ伏したまま考えていると、書類を持ってきたらしい元魑魅一座──いや、もうそう呼ぶのは正しくないか。もはやシャーレの一員と言っても過言ではなくなった
ウォルターがいないからか、口にスルメイカを咥えている。
いや、いいけどさ、別に。
それだけこの空間が──シャーレという場所が、スミにとってリラックスできる場所になったってことだろうし。
「じゃあなんて呼んで欲しいんすか?」
「ロイでいいよ普通に……」
「ロイ姉さん」
「姉をつけるな」
「えー、良いじゃないっすか、別に。マドイさんだっておんなじように呼んでるでしょ」
「いや、あいつは……」
あいつは妹みたいな容姿だし、と言おうとして止めた。今はもう違うのだ。以前は誰よりも小さかったマドイは、百八十という私を優に超える身長となり、今はどこからどう見ても妹には見えない。
にも関わらず、私はマドイの「ロイ姉」呼びを許しているというのが現状だ。これではスミの何故駄目なのかという意見に反論できない。
いやでも、今更マドイに呼び方を変えろなんて言えないし……。
「つーか、そもそもあんたの方が年上だろ」
「半年程度っすね。でも、それで威張る気はないっす」
「じゃあ私だって一ヶ月くらいしか先輩じゃないんだが」
「心意気の話っすよ」
事もなげに言うスミ。
元魑魅一座としてシャーレに連れてきた時、さも「年下です」みたいな顔をしていた彼女たちは、私にタメ口を強要した。その時の私は「まあ同い年とか年下なら……」と思って普通に態度を崩したが、いざ蓋を開けてみれば年上の方が多かったのである。
しかも、その事実が発覚したのは私がタメ口に慣れてからだ。
騙された気分である。
側から見たら私が凄い失礼なやつに見えるし、変えられるなら変えたいんだが。
私の不満に溢れた視線を受けているスミは、しかしまるで意に介さず、どころか妙に優しく微笑んで言った。
「意味、探してくれるんでしょ?」
「…………」
言うんじゃなかった、とは思わないけれど、もう少し考えてから発言すれば良かったとは思った。
憧れからウォルターの真似をした(してしまった)が、こうも掘り返されると恥ずかしくてたまらない。
嘘にする気はないが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「……書類、ありがと。そこに置いといて」
「はは、了解っす」
露骨に話題を逸らした私にスミは深く追及することなく笑った。
こういうところが年上っぽいんだよな。
「あ、そうだ。今日、他に仕事あります? ちょっと手が空いちゃって……」
「仕事、って言ってもな……」
どうやら、今日の書類運びはこれで終わりらしいスミの問いに、私は思考を巡らせてみる。
が、ウォルターが出張している現状ではシャーレの仕事は止まっているに等しい。余程の緊急性がない限り、私たちが勝手に依頼を受けるべきじゃないというのもあって、仕事らしい仕事はないかもしれない。
書類仕事もウォルターの判断が必要な部分で止まっている。
私のデザイン案を手伝わせるという手も残っているけれど、あまりにも白紙な状態で相談するのも気が引ける。
とすると……できるのは荷物運びと掃除くらいか。荷物運びはウォルターにはできない(やらせたくない)し、シャーレの掃除に関してはいくらやっても終わる気がしないので、暇になることはないだろう。
なんせシャーレは馬鹿みたいに部屋が多い。おかげで私たちが住む分には困らない(スミたちに個室を準備できるくらいだ)が、その部屋を使えるように掃除していくのはそれなりに骨が折れる。
実際、元魑魅一座全員分の部屋を準備するのは流石に大変だった。あれ以降、ちょこちょこと保護したりすることもあるので、部屋の余裕は作っておくに越したことはない。
「……じゃあ、空き部屋の掃除頼んで良いか?」
「掃除……っすか」
「? 嫌だったか?」
「嫌、ではないっすけど」
何故か、自分から申告したにしては芳しくない反応だった。掃除が苦手なんだろうか。
私は掃除が嫌いではないから(進んでやるほど好きでもないが)気軽に振ってしまったけれど、まあ、誰もがそうとは限らないしな。
前述の通り、無理にやらせるほど急ぎの仕事ではない。いっそ今日は休みにしようかな、とまで考えて、改めてスミへ視線を向けてみると、どこか思い詰めたような表情だった。
どうやら──掃除が嫌、という単純な話ではないらしい。
「……どうした?」
とは言え、私はエスパーじゃない。
ウォルターなら豊富な人生経験からスミの悩みを推測できたりするのかもしれないけれど、私の経験則なんて無いものをねだってもしょうがないので、私は直接訊いた。
ミモリさんなら、訊く前に察したりできるのかな、などと思いながら。
「えっ、と……」
一瞬、数秒。
何かを言おうとして、やめて、口をもごもごさせている。
さっきの遠慮のなさや勢いが嘘のような歯切れの悪さだ。それでもどうにか言葉にしたようで、スミは言葉を繋ぐ。
「いや、なんか……ちょっと。これでこんな生活できて良いのかなって、思って」
「…………」
「あ、いや、不満があるとかじゃないっすよ!? むしろ、幸せで……ただ、だからこそ、なんと言うか……こんな雑用で生きてるのが申し訳なくなるっていうか……ほら、私たちみたいなのがやってた仕事って、その日食える程度貰えたら良い方で。酷い時はタダ働き同然の時だってあって。なのに内容は過酷で……ロイの姉御なら、分かりますよね」
「……まあ、な」
姉御、と言った部分は聞き流して、私は頷く。
ヘルメット団みたいな──私たちのような浮浪児がありつける仕事は基本的にまともな仕事じゃないし、報酬は無いに等しい。当たり前のように報酬はピンハネされるし、騙されて踏み倒されることもザラだ。
ぶっちゃけカイザーの仕事はあれでもかなりマシな方である。それを考えると、ウォルターが用意する報酬と待遇は異次元と言っても良い。
夢に等しい。
だから、不安なのだろう。
肉体を酷使されず、精神を磨耗することなく、過酷な仕事でもなく、安定した報酬と居場所がある今が──恵まれ過ぎている今が、理想的過ぎて怖い。
「本当に……良いんすかね、これ」
しかし、似たような不安を──漠然とした今と未来に対する不安を、私は既に聞いている。
知っている。
「良いよ」
「…………」
「私たちは、ここにいて良い」
だからあえて、私は断言した。
ウォルターのような絶対的な安心感は出せなくても、その一端くらいは伝わるように。
「……なんで、言い切れるんすか。私らは整理とか、荷物運びとかくらいしかできてないのに。……姉御や先生の役に立ててるとは、思えないっす」
「それは──」
言われて、私は思い出す。
スミと同じようなことを、私は以前ウォルターに言ったことがある。
こんな簡単な、誰にでもできるようなことで金を貰っていいのか、とか、そんな感じのことを言ったんだったかな。
──卑下をするな。
そして、ウォルターは私に言った。
あるいは叱った、という表現が正しいだろうか。
「ロイ。お前はそれを誰にでもできる仕事と言うが、事実は違う。この身体の俺に荷物を運ぶことは難しい。掃除もだ。シャーレの家具の移動などできるはずもない。お前が得た報酬は、お前の労働に対する正当な対価だ。受け取っておけ」
──お前がいるから、俺は俺の仕事ができる。
……まあ、私の『叱る』イメージとは随分かけ離れたものだったけれど、納得できた言葉だった。
ならば、思い出されたこの記憶の言葉を──このウォルターの言葉をそのまま伝えられれば、ある程度の納得は得られるかもしれないとも思ったが、やめた。
スミは──
わざわざウォルターのいない時に、それでも私に訊いたという意味を考えなくてはならない。
私の言葉で、答えるべきだ。
「……そうだな。私も、ウォルターの役に立ってる実感は、正直無い」
「え? でも……」
「ウォルターは褒めてくれるけどな。私じゃなくても良かったんじゃないかって思うことは、結構ある」
正直に、素直に。
格好つけずに、私は言う。
たぶん今は、見栄を張る時じゃないと思うから。
「……私がいなくても、セリカは助かったかもしれない。アリスは感情を知ったかもしれない。スミたちのことも、ウォルターが助けたかも──」
「そんなことないっす!!」
突然、スミは大声を上げた。
我慢ならないと言わんばかりに──私の言葉を強く否定したのだ。スミがここで反論してくることを予想していなかった私は、少し驚く。
「ロイの姉御じゃなかったら、私らは──!」
「…………」
「あ、いや、その……すいません」
「……いや、良いよ。私が言いたいのは、そういうことだから」
「へ?」
「私じゃなくて良いって思っても、そうじゃないって言ってくれる人がいれば、それで良い気がするんだ」
そりゃ、私たちにできる程度の仕事が、世の中を劇的に変えていくことはないかもしれないけれど──私たちが直接世の中を変えることはないかもしれないけれど。
それは誰でも良いかもしれないけれど。
私が動いたことで、ウォルターがより動けるようになって、結果的に誰かの人生を数時間、数分、数秒でも支えられたのなら、それだけで意味がある気がするのだ。
私じゃない誰かがやった結果と同じだったとしても。
それでも──私がやったから、今の結果がある、のかもしれないと思う。
「誰でもできることは、誰かがやらなきゃいけないことで。そのお陰で誰かが助かって──だからまあ、自信持ってくれよ、スミ。お前は、私たちの役に立ってるからさ」
「…………」
だって、私は今、
誰でも良かったかもしれないけれど、ここにいるのは彼女だから。
それだけできっと、柊スミがここにいて良い理由になる。
「…………っすー……はああああああ……」
しかし。
何故だかスミは大きく息を吐いてから、蹲ってしまった。
期待はずれの回答だったのかな、とも思ったが、蹲るその様子からどうも落ち込んでいる風には見えない。
つーかよく見たら笑ってやがる。
「……なんだよ」
「こういうとこだなあと思って」
「はあ?」
「ついてきて良かったってことっすよ」
いまいち要領を得ない受け答えをしながら、スミは立ち上がる。
そして、
「あと、リーダーに推したのも正解でした。常日頃からみんなにロイの姉御の良さを教えといて良かったっす」
などと言った。
…………。
「……もしかして、多数決がああなったのって、お前の仕業か?」
「あっ」
スミは、まるで口が滑ったと言わんばかりの声を出した後、目を泳がせる。
こちらを全く見ようとしない。
「…………」
「…………」
しばし、沈黙。
それでいて、スミは私の睨みを受けながら、一歩、二歩とゆっくり後ろに下がっていった。
きぃ、と扉を開けて、一言。
「……掃除してきまっす!」
「あっコラてめっ──待ちやがれ!」
007
クーデターが起きた。
俺も何を言っているのか分からないが、事実だ。
視察の最中に、あろうことかクーデターが起きたのだ。
クーデターを起こした犯人は、側近であるはずの
ちなみに、粛清された生徒は悪事を働いているわけではなかった。例えば、『プリンの増産を命じられたが材料の供給を増やされなかったため、泣く泣く水でかさ増しした』料理長であったり、『いつも事実だけを正確に伝える誠実なマスコミとして、チェリノの背を高く見せる合成写真の掲載を拒絶した』編集長だったりと、およそ理不尽と思われる要求を誠実に対応しようとした結果によるものを、チェリノは粛清していた。
粛清内容は『トイレ掃除を一週間一人で行う』、『一ヶ月の間、おやつの配給が中断される』などという名前に反して優しいものではあったが、理不尽に課せられていることには違いないので、あまり肯定はできない。
子供の癇癪でもあるまいに。
と思ったが、チェリノは子供だった。それも幼過ぎるほどに。
これで成り立っているレッドウィンターはどうなっているのか。
……いや、成り立つようにできているのか?
キヴォトスそのものが、大人を必要とせず、生徒という存在だけで世界が成り立ってしまえているように。
「……で、クーデターね。噂には聞いてたけど……ははは。実際に見てみると起こるべくして起きてんだなあ、クーデター」
サホはくつくつと笑う。
レッドウィンターでの騒ぎが面白くて仕方がないとでも言いたげだった。
初めての護衛でいきなりクーデターに巻き込まれるという緊急事態に直面しても、彼女に動揺は見られない。
いつも作戦を考えているとロイが言うだけあって、平静を保つことは得意なようだ。
「うう、もう一時間は歩いたはずなのに……旧校舎はおろか、建物ひとつ見えてこないじゃないか! あとどれぐらい歩けば旧校舎に着くんだ?」
「レッドウインター連邦学園の敷地は、キヴォトスの学園の中でもかなり広いですし……敷地の外郭近くまで歩いていくには、もう少しかかります」
「うう……」
俺たちの前を歩くチェリノは、疲労を隠さずに呻く。
クーデターが起きた今、本校舎は池倉マリナによって封鎖されている。そこでチェリノたちが取った行動は、レッドウィンターの外郭付近の旧校舎へ向かうことだった。
しばらく身を隠し、作戦を練らねばどうにもならないということで、何故か俺たちも巻き込まれる形で避難している最中である。
雪山をかき分けての行軍。
当然、視察のための登山行ではない──この時点で俺の中でのレッドウィンター評はかなり下がっているのだが、チェリノは気付いているのだろうか。
シャーレとして動いている以上、彼女たちを見捨てて帰るような真似はしないが……無事に帰ったとして、果たしてどうリンに報告したものか。
『脚』を寒冷地仕様にしておいて良かったと、心底思う。
不測の予測。俺の勘もまだまだ捨てたものではないらしい。
「……もう無理なものは無理! 足が痛くて一歩も歩けないっ!」
「それでは、少し休むとしましょうか?」
「いや、その必要はない。おいらに良い手がある! カムラッド、おん、ぶ──」
勢い良く俺の方へ振り返るチェリノ。
その傲慢不遜な振る舞いをもって、彼女の言葉は普段通りそのまま出力されるかと思いきや、チェリノは俺の脚と杖を見るなり、
「…………なんでもない」
と言い直した。
「……どうした、チェリノ。疲れたなら無理をするな」
「いや、いい! やっぱり歩く! この程度、おいらにかかればなんともないからな!」
明らかに駄々を捏ねていたチェリノは、しかし俺の背中におぶろうとするのをやめた。
更には、明らかな見栄を張って再び歩き始めたのだ。
……どうやら、子供に気を遣わせてしまったらしい。脚が義足のように見えるのも相まって、俺には難しいことだと思われたようだ。
子供の体重──特にチェリノのような子供をおぶれないほど老いているつもりはないが、かと言って俺が再び彼女に申し出るのも無粋だろう。
……『脚』は便利だが、運用は考え直す必要があるかもしれん。どんな理由であれ、子供に気を遣われるのはきまりが悪い。
「へぇ……」
と。
ここでそんなチェリノの様子を見ていたマドイが、にやりと笑った。
とても楽しそうに──嬉しそうに。
蠱惑的に。
「ねえ、チェリノ
「お、お姉ちゃん……!? ふ、ふふん、そうだろう? お前もようやくおいらの凄さを認識したようだな!」
「そう! だから私、チェリノお姉ちゃんを目立たせるために、もっと高い場所に──そう、肩車したいんだ! ……どう?」
「ふ、おいらはどちらでも良いが……お前がどうしてもやりたいと言うなら良いだろう、許す!」
「やった! じゃあ、乗って乗って!」
するり、と。
鮮やかな手口でマドイはチェリノへ接触し、トモエが口を挟む前にチェリノの許可を得てしまった。
……マドイがどういった心境になったのかは分からない。言葉通り、チェリノへの詫びか、あるいは褒美のつもりか──それとも、俺への気遣いか。
真偽はともかく、マドイにこの場を助けられたのは確かなようだった。
百八十の彼女の肩車ともなれば、相当な高さになるだろうが……チェリノは臆することなく、しゃがんだマドイの肩にいそいそと乗る。
そして。
「よし、いっくよー!」
「お、おおお……!? ま、待て、まだ慣れて──うわあああ!?」
チェリノを肩車するやいなや、マドイは雪の中を駆け出した。積もった雪で転倒するのではないかと心配になる速度だったが、マドイは体幹が優れているようで、危なげなく進んでいく。
あまり先に行き過ぎるようであれば声をかけるつもりだったが、マドイもその辺りは心得ているようで、目の届く範囲、声の届く範囲で走るのを止めて、歩きに切り替えた。
その時、一瞬だけ目が合い、彼女は俺に目配せをする。
……計算ずくか。
面倒をしばらく見る、ということらしい。
「……大したものだ」
「マドイはああいうの得意だからな」
俺の言葉を、後ろから近付いてきたサホが拾う。
マドイたちへ視線を向けながら、彼女はさりげなく歩調を俺に合わせ、隣で歩き始めた。
「けど意外だな。マドイが行くとしたらあっちのトモエとかいう人の方だと思ったんだが」
「……どういう意味だ?」
「あいつは……なんて言うかな。
「…………」
「私はてっきり、トモエって人がチェリノを神輿として担ぎ上げて、裏から操ってると思ってたんだが……マドイの動きを見る感じ、どうも違うらしい」
サホはかなりレッドウィンターに対して辛辣かつ失礼なことを言っているが……正直、俺の感想も似たようなものである。
現状得た情報から察するに、チェリノの独裁だけではレッドウィンターは機能しない──するはずがない。
いくら『粛清』と称した罰が軽いものだとは言え、あの頻度と気まぐれで粛清が起きていては学園として機能しないだろう。生活を維持することも困難のはずだ。
にも関わらず──幾度としてクーデターが起きてなおチェリノが生徒会長に返り咲いているのは、常に秘書として隣にいるトモエが相当に優秀である可能性が高い。
実務関係は全て彼女が担っているのだろうし、学園外への情報統制も行っていると見て良いだろう。俺がレッドウィンターの情報を集める際に苦労したことを踏まえると、トモエが意図的にあの立場にいることは確かだ。
状況証拠だけで判断するならば、トモエには何か後ろ暗い目的があって、その隠れ蓑としてチェリノという分かりやすい神輿を担いでいると考えた方が自然である。
だが。
「……チェリノに対して、トモエは悪意を持っていないということか」
「たぶんな。まあ、私は正直どうでも良い。ロイなら何か分かるかもしれないけど──ああ、そう言えば、ウォルター」
と、ここで、隣を歩いたままサホは流し目で俺を見た。
どこか挑発的な笑みで。
「私たちがロイを選んだ理由。そろそろ分かったんじゃないか?」
「…………」
唐突な話題変換、というほどでもないだろう。
彼女には、これまでに何度もこの話題を振られている。
ロイがリーダーである理由。
選んだ理由。
初めて質問された当初は理解できなかったが……今なら、分からないでもない。それでも、その理由までは上手く言語化できなかったため、結果的には無言になってしまったが。
ただ、サホはそれを、無理解による無言ではないと察したらしい。どこか得意げに、彼女は続ける。
「ロイは上じゃなくて、
誇らしげに言うようで、しかし、どこか寂しさを感じさせる物言いだった。
そこにいた誰かが、いなくなってしまったような。
「等身大でいて……だけど、いざって時は物を言えるし、出来る奴なんだ。感じたこと、思ったことを素直に言うんだよ、あいつは。……私と違ってな」
誰に聞かせるでもない、消え入りそうな声の独白だった。
自嘲気味なその台詞に、俺は妙な違和感を覚える。
いつもからからと笑う彼女にしては──卑屈な笑みだ。
「……お前が物を言えん奴とは思えんが」
「まさか。私は……普通だよ。いや、中途半端って言った方が正しいか」
保護されてから今に至るまで、俺のような強面の男にも物怖じせずにいただろう、という意味の発言だったが、サホは鼻で笑って否定した。
俺の言葉を笑ったというよりは、己を自虐する嗤い方で。
……声が雪に吸い込まれて、隣にいるサホよりも、チェリノたちの声の方が大きく聞こえてくる。
響く。
「私さ、最近ロイに言われたんだよ。『私はずっと変わりたかった』って。サホは違うのかって、訊かれた」
「…………どう答えた」
「答えられなかった。分からなかったから」
どう、チェリノちゃん?
う、ううっ……お、思ってたより目線が高くて怖い……。だが、さっきよりもずっと遠くまで見えるし、空気もきれいな気がする! これが、マリナやトモエが見ている世界なのか……。
あら、素敵な姿ですね! まるで木にぶら下がる猿のようで可愛……いえ、威厳で溢れています!
そ、そうか? えへへ……。
「私のことを頭が良いってロイは言うけどな。別に突出してるわけじゃない。ミレニアムやトリニティの連中に並べるかって言われたらノーだ」
記念に、写真を撮ってもよろしいですか?
いくらでも撮るが良い! この状態なら、同じ画面に収まらないなんて心配もないからな!
見てください、チェリノちゃん。マドイさんに肩車してもらったおかげで、まるで背が高い感じに写ってますよ!
どれどれ……おお、本当だ! ふふ、これは良いな。事務局に戻ってからも、ずっとこうやって肩車してもらったまま仕事をすることにしよう。そうすれば、おいらが小さいからって無視するような生徒たちもいなくなるに違いない……ははは!
「あいつは私のことを『過大評価するやつ』とか思ってるんだろうが、私からすればロイの方が『過大評価するやつ』だよ。私はロイに着いてきただけだ。あいつを助けようとして……結局、私たちを助けたのはあいつで、現状を変えたのもあいつだった」
会長が、誰かに肩車してもらったまま厳かに指示を出す……なんてことになったら、生徒たちもきっと驚きを隠せないでしょう。
だろう? 事務局に帰ったらすぐマリナに肩車してもらうように言おう! もちろんその前に、マリナはクーデターを起こした罪で厳しく粛清しなければならないがな! そうだな、一ヶ月間、一人で校舎内のトイレ掃除でもやらせようか……。
「私は、ロイに劣等感を抱いてる。あと、罪悪感」
「……あいつは気にしないだろう」
「分かってる。だからこそって話。……分かるだろ?」
「……そうだな」
俺は頷く。
ロイ個人の能力は、キヴォトスにおいて特別とは言えない。
だが、だからこそ彼女の言動に突き動かされることがある。
俺も──動揺してばかりだ。
──待ってろよ。すぐ認めさせてやっから。
──だからこそ、証明しなくちゃならないんだ!
──宣戦布告。
子供の成長は早い、と言うべきか。
「私はロイみたいには生きられない。ウォルターの真似もできない。強くもなれなければ、天才でもない。かといって、馬鹿にもなれない──そんな半端者だ。世の中を知ったような気になって、怖くて何にもできない臆病者だ」
サホは言う。
今まで我慢していた物を吐き出すかのように。
恐らくは──ロイに言えなかったことを、俺に言う。
「私はあいつの特別にはなれなかった。でも私は……ロイの前だけでは、特別でいたい」
これもその一環ってわけ。
どこからともなく一本の煙草を取り出して、しかし、咥えることなくポケットにしまう。
「あいつを火に見立てて、あいつ以外の火が点かないようにする。……我ながら、変なことをやってるとは思うよ」
「…………」
「それとも、あんたが私の火になってくれるか?」
「……俺は灰だ。火にはなれん」
「はは──そういう安請け合いしないところ、結構好きだぜ」
ポケットにしまった煙草の代わりに、彼女は棒付きの飴を咥えた。
がり、と噛み砕く音が聞こえる。
「ロイを助けて、ロイを笑顔にして、ロイに友達を作って、ロイに目標を与えて、ロイに憧れられるような人間──羨ましいぜ、ほんと」
──面白そうだし。
あの時。
サホが俺に着いてくることを決めた時。
俺は彼女のことを、割り切りの良い、思い切りの良い人間だと判断していたが──どうやら、それは少し違ったらしい。
サホの行動原理は、あくまでもロイにある。俺という存在が、ロイにとって良い物であると判断したから、あの時は「面白そう」と表現して付いてきたのだろう。
もしも俺が、ロイにとって『悪しき存在』と評価されたなら──一体、どうなっていたのだろうか。
「そう思うと……私がなりたかったのは案外あんたの方なのかもな、ウォルター」
「……俺の生き方など、真似するものではないぞ」
「だろうな。たぶん、あんたの人生よりも私の人生の方が生き易そうだ」
「…………」
からからと笑う。
そのあっけらかんとした態度が、ロイへの感情との対比がより強調されている気がした。
サホとロイの間に何があったのかは知らないが……随分な入れ込みようである。
「ま、ロイに必要だったのは、隣にいるやつじゃなく導くやつだったってことだ──ロイを救ったのは紛れもなくあんただぜ、ウォルター。それだけは事実だ」
「だとしても、お前が不要だったということにはならんだろう」
「気休めはよせよ。惨めになる」
俺の言葉を受け入れず、投げやりにサホは言う。
だが、これは決して気休めではない。ロイの行動から裏打ちされた、それこそ紛れもない事実である。
ロイが最も大切にしているものは、彼女自身が明言している。
「あいつが俺に保護された時、真っ先に何を頼んだと思う」
「……さあ」
「お前たちの救出だ。『助けてくれるなら何でもする』とまで言って、まだ信用できるかも分からない俺に依頼した」
「────…………」
「お前たちを助けるために、信用を得るために、ロイは一人で無茶をした──それを忘れるな。ロイの家族を守るという覚悟を、お前が否定することはない」
あの状況に置かれてなお、それでも優先したいものがあるのなら──それこそがロイにとって最も大切なものであると言えるだろう。
サホたちを助けるために、助けるための信用を得るために、ロイは自己犠牲に等しい行動を起こした。
もっとも……その選択と行動は、元を辿れば意味を与えてしまった俺に起因する。あのような無茶をさせてしまったのは、焚き付けた俺に全ての原因と責任があり、俺が悪いとしか言いようがない。
だが、その原動力は。
火種は。
初めから、ロイの中にあったものだ。
その思いは、俺の言葉程度で干渉できるような代物ではない。
「……だったら。約束しろよ、ウォルター。ロイから逃げないこと」
せめて、私があんたの代わりになるまでな。
俺を睨みながら、サホは苦々しく言う。そのばつの悪そうな表情から察するに、彼女としては苦し紛れの、負け惜しみのようなものだったのかもしれないが──それは俺にとって、息が詰まるような言葉だった。
──貴方の世界は、徹底的に閉じている。
「…………」
「おい、何をダラダラしているのだ、カムラッド! こうしてる間にも、マリナが追いついてくるかもしれないんだぞ! 早く旧校舎に向かうのだ!」
先を行っていたチェリノが、俺たちへ呼び掛ける。
どうやら、少し話し込んでしまったらしい。
いつの間にか止まっていた脚を動かしながら、俺は辛うじて言う。
絞り出す。
「……善処しよう」
「……前言撤回。やっぱ嫌いだわ、そういうとこ」
008
変わらず積もる雪の中、俺は歩く。
心臓が抉られるような痛みを抱えたまま。
俺は痛みを──
最近は感じることの少なかった、忘れかけていた傷をこじ開けられたかのような、痛みを伴う過去の業を、俺は──忘れていたのか?
否、忘れてなどいない。あいつらのことを忘れたことなどない──俺の所業は未来永劫、記憶に焼き付いている。
ならば、何故?
まさか俺は……癒えていた、のか?
このキヴォトスで過ごすうちに。
生きている──うちに。
「…………」
皮肉なものだ、と思う。
死んだ俺がこの世界で生き残り、まさか、あろうことか傷を癒やされていることに気付きさえしないとは。
それでいて、俺は生きているだけで呪いを振りまいている。
ルビコンから持ち込んでしまった呪い──コーラル。
今のところ影響が出ているのはロイだけだが、他の三人に影響が出ないとは限らない。例えば、マドイの急成長がコーラル由来でないという確証はないのだ。
ロイのような、あからさまにコーラルを彷彿とさせる外見の変化こそ無いものの、他の三人にどう影響しているのか、調べなくてはならない。
今回ロイを置いてきたのは、その一環だ。
もっとも、物理的に距離を離したとて、意味が無いのは分かっている。
黒服が言うには、俺の願いこそが元凶であり、その願いの方向性や効力に直接的な障害は関係無い。
俺の心の問題だ。
とは言え、今すぐにロイの成長を願わないようにするというのも無理な話だった──俺が放逐するか否かに関わらず、どう行動するにせよ、彼女が今後一人……いや、四人で生きていく力を付けさせるために、心の願いを一切排除して臨むのは不可能である。
顔や態度に出さないことは得意だが、心底の願いまで気取られてしまうとなれば、気の持ちようで変えられるものでもない。
故にこれは、俺のあわよくばという希望的観測による我儘であり、下らない反抗心であり──そして、検証でもある。
影響の出ていないサホたちを近くに置いて、俺の願う先をロイだけに向けてしまえば、他の三人には影響が出ないことを確認するための実験。
物理的距離に依存しないことを確かめるための。
建前としては、犠牲をこれ以上増やさないための方法ではあるが……それだけだ。
大を救うために小を殺す。
相変わらずその手段を取れる自分に辟易する。
あるいはリオなら、そんな俺のことを「合理的ね」と言って共感するのだろうか──その合理性が、少なからず彼女の信用を勝ち取る要素になったのだとすれば、やはり皮肉と言う他ないが。
──ロイから逃げないこと。
「…………」
サホに突き付けられた言葉が、棘のように刺さったまま、抜けない。
──私は特別じゃないぞ、ウォルター。
逃げている。
明確に言葉にされると、どこか納得できるものがあった。
621とロイを重ねて、彼女の行く末が輝かしいものであれと願う俺は──逃げている。
かつての終わりと同じものを望んでいる俺は、ロイが621と同じ役割を果たすかもしれないと期待している。
願い。
……俺は、ロイの幸せを願っているつもりだった。強くなるということは、一人で生きていけるということにも繋がると信じていた。
だが、実際は祝いではなく、呪いだ。
俺は結局、621の虚像をロイに押し付けているに過ぎないのだろう。
ならば俺は──621からも、逃げたと言えるのだろうか。
俺に相応しいと感じたあの末路さえも、自己満足の逃避でしかなかったのか?
あの状況まで行き着く前に、俺にできることがあったのだろうか。
あいつから逃げていなければ、俺はキヴォトスにいなかったのだろうか。
──621、お前はどう思う。
「…………」
答えはない。……当然だ、答えが返ってくるはずがない。
ここに621はいないのだから。
万が一、ルビコンにいるあいつに届いたとして、俺のような男に返事をしてくれると思う方が間違っている──厚かましいにもほどがある。
思い上がりにもほどがある。
俺は死んだ。だが死に切れなかった。
それが答えだ。
それだけが答えだった。
009
それから俺たちは、幾度か休憩を取りつつ歩き続け、なんだかんだと三時間以上移動した先に、ようやく建物を発見した。
建物。建築物。
かろうじてそう思える、寂れた様相の校舎だったが。
「やっと到着しましたね、会長。旧校舎……今はもうほとんど使われていませんが、かつてはレッドウィンター連邦学園の生徒たちが勉学に励みながら青春を過ごした、名高い場所です」
「その割には、ボロくて汚いただの廃墟にしか見えないが……なんだか雰囲気も暗いし、熊でも出てきそうだ」
マドイの肩車から降りて歩き出したチェリノは、踏み入れて早々、旧校舎を酷評した。
だが、その感想も無理はない。
足を踏みしめれば床が軋み、割れた窓から冷気が雪崩れ込む。この極寒の環境下において、この遮断性の無さは致命的と言えた。
まぎれもなく廃墟だ──下手をすれば、ミレニアムにあったあの廃墟よりも建物としては機能していないかもしれない。
雨風を防ぐことさえままならないだろう。
「トモエ、本当にしばらくの間ここで過ごすつもりなのか?」
「もちろん、いつかはまた事務局に戻らないといけません。しかし、こうしてマリナ委員長から追われている間は、おいそれと戻るわけにはいかないですし……ですが、チェリノ会長が一生懸命協力してくだされば、きっとすぐに帰れると思います!」
「そ、そうか? ふふ、やっぱりおいらの力がなければ、何も解決できないということだな! よし、それではここをおいらたちの新たな拠点として、事務局を取り戻すとしよう!」
トモエがおだてる。
チェリノが調子付く。
それはいつもの──いつもと呼べるほど彼女たちと親交があるわけではないが、おそらくいつもやっているのだろうと推測できるやり取りに、反応した声があった。
「誰ですか! 勝手にそんなことを決めているのは!」
と、無人であるはずの建物の中から。
無論、俺たちではない。
「っ⁉︎ そ、そっちこそ誰だ! こんな辺鄙な所に、ま、まさか熊か⁉︎」
「く、熊⁉︎ どこかに熊がいるんですか⁉︎」
「落ち着いて、ノドカ。ただ怯えたチェリノ会長が勘違いしただけ」
「だ、誰が怯えているだと⁉︎」
虚勢を張るチェリノの前に出てきたのは──大きな望遠鏡と共にリュックを背負う少女と、青髪の……何らかの動物の特徴を持った少女だった。
何らかの、と表現したのは、外見からでは特定しきれなかったからだ。イズナのような明らかな狐耳や尾であれば多少判断できるが、動物学者ではない俺にとって、丸耳と大きい尻尾程度の特徴だけで特定することは難しかった。
そんな少女二人を見て、チェリノは呟く。
「お、お前たちは──」
「ふう、ようやく私たちのことを思い出しましたか?」
「…………誰だ?」
「ほっ、本当に私たちのことを忘れたんですか⁉︎ 信じられません! この過酷な環境の旧校舎で、大変な毎日に耐えながら、いつかまたチェリノ会長が新校舎に呼び戻してくれるはずと信じて待ってたのに!」
「そうは言っても、本当に思い出せなくてな……」
チェリノの様子からは、あまり少女たちと交流があった様子は見られない──本当に初対面なのか、それとも単純に忘れているのか。
……おそらく後者だろう。少女の態度から察するに、並々ならぬ因縁がありそうだ。
寂れて朽ちた旧校舎で、あの二人は果たして何をさせられていたのだろう。彼女の様子からして、好き好んでこの場所にいるわけではないようだが……。
「トモエ秘書室長、旧校舎で活動してる部活なんてあったのか?」
「公的には存在しませんが……旧校舎には『227号特別クラス』という、レッドウィンター連邦学園内で停学処分を受けた生徒たちが、一時的に生活を送るための施設としての側面があります」
「一時的な施設? ならどうして、こいつらは新校舎に戻らずに、ずっとここにいるんだ?」
「会長の許可無しには戻れませんので、その命令が下るのをずっと待っていたのかと」
「へー……」
「へー、じゃないですけど⁉︎
「む……」
あまりにも自覚のないチェリノの反応に腹を立てたらしい少女は、俺に白羽の矢を立てた。
聞いている限りではチェリノに非があるため、彼女に味方すること自体はやぶさかではないが……。
「……すまない。最近記憶が怪しくてな。お前と面識があっただろうか」
「あっ」
チェリノのことを言った後で何だが、そもそも俺には目の前の少女と知り合った記憶がない。俺の名前を言い当てたことから、向こうは俺のことを知っているようだが……俺は少女の名前さえ知らない。
もちろん、シャーレの活動によって俺たちの知名度が上がっているのも事実であり、俺の名前を向こうが既に知っていただけの可能性はある。しかし、それでも初対面では「こちらの大人の方は先生ですか」という確認が取られることは多い。
だが、少女は俺を「ウォルター先生」と断定した。
俺のような老人を、間違いなく先生であると確信した言い方だった。
……とは言え、俺が老人である以上、本当に記憶が怪しいこともまた事実である──俺が純粋に忘れているだけという可能性は否定できない。よる年波には抗っているつもりだが、それにも限度はある。
よって疑い半分かつ、半分本心からの俺の問いに、しかし少女は気まずそうに目を逸らした。
……どうやら、知り合ってはいないらしい。
「あ、思い出した! いつだったか、D.U地区でこっそりカムラッドのあれやこれやを望遠鏡で覗き見しているのがバレて、ヴァルキューレに拘束され停学になったあの変態ストーカーだな?」
「……何?」
「んなっ……人をストーカーみたいに言わないでください! 私は先生の姿が美しかったから観察していただけで──」
「人はそれをストーカーと言うんだ!」
チェリノはやはり知り合いだったようで、思い出すやいなや、少女の所業をつまびらかにした。
しかし、初耳である。
どうやら俺が覗かれていたらしいが、そんなことをされた覚えはない。また、捕まったという報告や記録もないはずだ──そう思ってサホに目を向けると、彼女も逃げるように目を逸らした。
……サホは何か知っているようだ。
「……と、というか、人を凍える北の地に追い出しておいて、『忘れていた』だなんて! 無責任すぎます! 私たちがここで生き残るために、どれだけ大変な思いをしていたのかご存知ですか?」
分が悪いことを悟ったらしい少女は、強引に話題を戻した。
彼女は必死に──主に俺へ訴えるように──ここの生活が如何に苦しかったかを語りだす。
「おやつはもちろん、お腹を満たせるほどの食事すらまともに配給されず!」
「この極寒をしのげるまともな暖房器具も無いし」
「夜は布団から虫が出てきて!」
「ある時は、飢えた熊が校舎の中を徘徊したりもするし?」
「な、なに? 本当に熊が出るのか? ……と、トモエ、やっぱりこの旧校舎はダメだ。ほ、他の場所を探さないか?」
「ダメですよチェリノちゃん。こういう時こそレッドウィンター連邦学園の指導者らしく、威厳のある態度を見せないと、です」
「でも……熊、怖い……」
「…………」
……なるほど、トモエの『227号室特別クラス』という話と、停学処分を下したチェリノの話が事実だとすれば──彼女たちは罰として、この僻地で過ごしているらしい。
この廃墟同然の、あとは崩れる時を待つだけの建物の中で。
学園都市であるキヴォトスにおいては意味合いが遥かに違う、退学一歩手前の処分を。
この少女に至っては、覗きの罪だけで。
「……チェリノ。いくら罰だとしてもやり過ぎだろう」
色々と考えた結果、俺はそういった結論に至った。
クーデターの首謀者がトイレ掃除程度の罰則であるのに、覗きで流刑ではあまりにも釣り合っていない。
今更言及するのも何だが、キヴォトスは随分と罪と罰のバランスが悪い。レッドウィンターでは特にそれが顕著である。
覗きの犯人と、クーデターの首謀者。
本来であれば、比較にさえならないはずの罪だが……レッドウィンターでは、それがまかり通っている。
ならば、キヴォトスにおいて最も重い罪とは何だ?
弾丸が人の命を奪わない世界では、何をもって罪が重いとされる?
何を基準に?
「騙されるなカムラッド! お前の裸体がこんなエロガキに覗かれたのだぞ! もっと怒るべきだ!」
「だからそんなことしてません! 美しいものを見るのは普通でしょう!」
「…………」
擁護した俺を叱責するチェリノに、反論する少女。
常識的に考えれば、少女の主張は苦しいとしか言いようがないが……どうにも、彼女の発言には違和感が残る。
一度ならまだしも、二度の聞き間違いはなかろう。
しかし、どう見繕っても、この老体が美しいとは思えん。少なくとも、天体望遠鏡を使ってまで見る価値のある人間ではない自覚はある。
「うーん……ノドカがそんな趣味だったなんて知らなかったな。まあ、若かったら分かんないけど……」
「そんな、シグレちゃんまで⁉︎ ほら、見てくださいよ! ウォルター先生の
「────っ!」
「……?」
ただ続けて放たれた彼女──ノドカというらしい少女の言葉に、俺は息を呑む。
俺は咄嗟に全員の表情を確認したが、その意味を理解したものは誰一人としていないようだった。
「……赤? 先生は色で言うなら黒じゃない?」
周囲の様子からして、幸い見えているのはノドカだけのようだが……しかし、一人であろうと見えているのが問題だ。
彼女には見えているらしい。
赤が。
俺の中に眠る呪いが。
……俺の意識に関わらず、こうも本質を見抜かれることが多いとなると、対処を考えなくてはならない。
体内に眠り、体外に漏出すると神秘に変換されるコーラルを見抜く力に、どう対応すればいいかなど想像もつかないが。
ただ、幸いノドカはアスナやミモリほど強くは見えていないようで、シグレの発言を受けた後、しげしげと俺を見つめてから、「……確かに、黒いですね」と肯定した。
推測だが、彼女は俺の状態を望遠鏡経由でしか観測できないようだ。……いや、この場合、何らかの素質がある人間は望遠鏡経由で観測できてしまうという可能性の方が高いか。
こんな老人を覗くような奴はいないだろうが……しかしシャーレの重要人物として監視されるパターンは否定できない。思わぬ方向で秘密が露呈する可能性がある。
とは言え、今更俺の存在そのものを秘匿するのは立場上現実的ではない──とすれば、必然的に見抜かれない努力をする必要があるだろう。
コーラルという存在の秘匿、及び制御。
そして──抹消までを。
……皮肉なものだ。ルビコンでさえ成しえなかったことを、俺はキヴォトスで実現しなければならないらしい。
──621。
目を閉じれば、赤が見える。
友人と共に、俺へ立ち向かうあいつの姿を思い出す。
「…………」
焼却は、後だ。
俺を燃やし尽くしてもキヴォトスに影響がないことを確認できるまでは、俺は努力するべきだろう。
俺は別に……キヴォトスを火の海にしたいわけではないのだから。
621が選んだのは──きっと、そういう道だ。
「そ、それはともかく! こうやってチェリノ会長が直接来てくださったということは、もう私たちは旧校舎から出られるってことですか?」
「いや、それは……」
「残念ですが今の私たちには、みなさんの措置を取り消してあげられる権限がありません」
あっさりと、トモエは現状を打ち明けた。
口ごもったチェリノに反して、トモエに言い淀む様子は見られない。
「ど、どうしてですか⁉︎」
「チェリノ会長は今、クーデターで生徒会長の座から失脚してしまい、逃げている途中なんです」
「…………」
明け透けなまでに、包み隠さずトモエは言う。
この状況は些事だとでも言いたげである。
クーデターが起きてなお。
……感覚が麻痺してきたが、一般的にクーデターは普通起こらない。もしもクーデターが起こるなら、それはありとあらゆるものが行き着いた結果だと俺は思っている。
思っていた、のだが。
「これも全てマリナのせいだ! あいつがクーデターさえ起こさなければ、おいらが事務局から脱出してこんな汚い場所に来ることもなかったのに!」
「なんだ……ということは、今のチェリノ会長は何の権力もないただのちびっ子ってことですよね? ……ぬか喜びして損しました」
「誰がちびっ子だ! いくら一時的に生徒会長としての権力を失ったとはいえ、おいらはレッドウィンター連邦学園の書記長であり、環境美化部部長であり、清掃部部長で……様々な職責を任されている偉大なチェリノ様なのだ! この権威の象徴である髭が見えないのか!」
「そんな偽物の髭、誰も権威だと思ってませんよ!」
「な、なに……っ⁉︎ ……ト、トモエ。この髭が偽物だということを、なぜこいつらが知っているのだ?」
「ノドカちゃんはきっと、当てずっぽうで言っているだけでしょう。気にしなくて大丈夫です」
流れるような嘘だった。
一応は忠信を示している相手に言うべき嘘ではない。
「そ、そうか! 何も知らないくせに勝手なことを口にするな、このエロガキめ! 休日のたびに高い所に登って、望遠鏡でカムラッドのことを覗きながらハアハア興奮する変態のくせに!」
「だ、誰がエロガキですか⁉︎ そんな頻度でやってませんし、そんな不純な行為と一緒にしないでください!」
「少なくともおいらはストーキングなどしていない! ふん、校内の誰かを覗いただけだったのなら、おいらの寛大な心はトイレ掃除程度で許したのだがな! 校外で、よりにもよってカムラッドをストーキングした挙句、ヴァルキューレの世話になるなど……! 恥を知れ!」
「い、言い過ぎじゃないですか⁉︎」
「…………」
チェリノにしては思わぬ正論だった。
この返し方はノドカも想定していなかったのか、たじろぐ様子を見せる。
そもそもこの視察自体、レッドウィンターの名声を俺を通じてキヴォトスに知らしめようという目的だったはずだ。
チェリノからしてみれば、内部の人間が計画の要である俺に対して覗きを行ったわけだ──確かに許しがたいものだろう。
そう考えれば、ノドカの扱いに理解ができなくもない。
それでも退学一歩手前、停学処分の流刑はやり過ぎだとは思うが。
「…………」
「お、なになに? 先生、今度は私が何したか気になる?」
では、もう一人の少女が同じように停学処分となっている理由はなんだろう、と青髪の少女へ視線を向けると、当の少女──シグレと呼ばれていた彼女は、悪戯っぽく笑った。
旧校舎は更生を促す場所、にしては反省をしている様子は見受けられない。
「聞いて驚け、カムラッド! そいつは配給用カンポットにウォッカを混ぜて飲酒した疑いがある!」
「いやいや、言い掛かりだって」
にへら、とシグレは笑う。
ノドカとは違い、チェリノの追及をものともしていない。余裕を含んだ笑みと態度を崩さず、俺へ視線を向ける。
試すような視線。
その視線を受けながら、俺は考える。
……未成年の飲酒。あるいはその幇助。
罪と言えば罪だ。だが、流刑になるほどかと言われると怪しい。少なくとも、クーデターには遠く及ばないだろう。法──キヴォトスだと校則か──が各学園によって多少の差異があるのだとしても、妙に厳しく取り締まっている印象だ。
これは老人の偏見かもしれないが……未成年の飲酒など、クーデターに比べたら珍しくもないというのが正直な印象だ。
それこそ飲酒など、不良ならいくらでも──とまで考えて、俺は気付く。
今まで出会った生徒で、飲酒をしていた子供が
出会ってきた不良、誰一人として、だ。
「…………」
しばし思い返す。
今まで出会ってきた生徒たちを思い出す。
そして振り返ってみれば、どの生徒も──この場合、不良に限らず指名手配犯までひっくるめてという意味で、どんな生徒も
ロイたちも
手っ取り早い犯罪行為、と言ってしまうと語弊があるが……手の伸ばしやすい犯罪の候補として、あるいは現実逃避として、まず選択肢に上がるであろう飲酒という行為が、まるで本当の禁忌であるかのように触れられていないのは不自然ではないか?
だが、特別酒造が禁止されているわけでもない。柴大将が店に用意していたように、俺のような大人が飲む分には普通に流通している。
つまり、数々の犯罪行為がまかり通っているキヴォトスにおいて、生徒たちは何故か飲酒だけを徹底的に忌避しているのだ。
キヴォトス全体で共有されている法律があるわけでもない。
もっと別の──何か大きな枠組みのようなものが、彼女たちを縛っている。
──神秘。
「…………」
もしも。
もしも黒服の言う通り、生徒たちが神々であったとして。
彼女たちの誰もが
概ね神々というのは──神話というのは、酒好きのくせに酒による失敗談が付き物だ。
事実かどうかはさておき、逸話においては事欠かない。ならば、かつての神々が『生徒』という概念を与えられ子供となっている今、彼女たちが無意識下で酒を禁じているという可能性は、無いでも無い。
そして、その前提ありきで話を進めるのならば、酒を密造し、飲酒をしている(疑いのある)シグレは確かに、罰則を受け、隔離されてしかるべき禁忌に触れていると言えるだろう。
この説は、我ながらこじつけにしては筋が通っているような気がした──……が。
「……カムラッド?」
「いや……何でもない」
息を吐いて、飛躍した思考を整える。
俺は一体、何を真面目に考えているのか。
俺は研究者でもなければ、考古学者でもない。
酒が禁忌であれなんであれ──生徒が神々であれなんであれ。
子供は子供。
俺の対応は変わらない。
神々が生徒であるというのなら、逆説的には『この世界に神がいない』証明にもなるため、むしろ俺としては気が楽にさえなった。
そして何より、全員が全員神格めいたものを持っていると考えるのは、あいつらの努力を否定する考え方だ。
神秘とやらは黒服が勝手に研究するだろう──俺は俺の仕事をするだけだ。
偽物の、先生という仕事を。
「まあ、皆様色々と言いたいことはあるかもしれませんが……しかしマリナ委員長が事務局を占拠した今、私たちまで喧嘩していては何も解決できません。特別クラスのみなさんも旧校舎から出たいのでしたら、私たちに力を貸してくれませんか?」
空気を切り替えるためか、トモエは手を叩いて視線を集めた後、そう提案した。
黙りこくってしまった俺に助け舟を出したのかもしれない。
「でも、こんな生意気なチビと手を組むなんて……お断りです!」
「おいらもだ! こんなエロガキとは仲間になれない!」
「お二人とも、意見を曲げる気は無さそうですね……困りました」
ただ、その提案も二人に一蹴されてしまったが。
かなり雑に断られたように見えたが、トモエは笑顔のままだ。困っている様子はなく、むしろ楽しんでいるようですらあった。
そして、ここには状況を面白がる少女がもう一人。
「ふっふーん。どっちがチビなのか決着をつけたいのであれば、ちょうど良い方法があるよ?」
「シグレちゃん?」
「昔から、真の大人はお酒をどれだけ飲んでも酔わない……って言われてるでしょう? だから『飲み比べ勝負』でどっちが本当の大人なのか、そしてどっちがチビなのかを決めよう!」
聞いたことのない説をあたかも真実かのように言い、今度はシグレが提案した。
この少女、明らかに面白がって煽っている。
「シグレちゃん、いくらここが旧校舎だといっても、生徒がお酒を飲むのはレッドウインター連邦学園の校則に反することですよ!」
「もちろん、本当のお酒を飲むつもりはないよ。代わりに使うのは今回の『イワン・クパーラ』に向けて私が作った、特製カンポット。ただ旧校舎に冷蔵施設なんてものはほぼ無いから、ちょっと発酵してるかもしれないけど………」
「なんだか今、かなり嫌なことを聞いた気が……」
「怖いなら参加しなくてもいいよ、チェリノ会長。その場合はもちろん、弱虫って汚名は避けられないけど」
「だ、誰が弱虫だ! そんなジュースぐらい、いくらでも飲んでやる!」
「わ、私も同じです!チェリノ会長に負けたりはしません!」
「じゃあ決まり。ついに、去年の秋に作っておいたカンポットの出番が……!」
大人として、あるいは教師として、ここは止めるべきなのかもしれなかったが、生憎俺はそこまでモラリストではない。
本当にアルコールにまでなっているとなれば流石に止めるが、冷蔵施設がないとは言え、この極寒の環境下ではほぼ冷蔵施設と遜色ないだろう。
シグレがうきうきしながら手渡した果実の飲み物らしきものを、二人が一斉に呷ったのを見つつ、俺は考える。
先程は考えるのを意図的に止めたが、それでもつい考えてしまう。
神秘。
生徒。
先生。
大人のカード。
神秘の源泉。
「ううっ……ううう……」
「く、苦しい……こんなカンポットがあるなんて、聞いたことがない……」
「あれ、チェリノお姉ちゃん。やっぱりお酒が混ざってたの?」
「いや、そういう問題ではない……」
そうあれと決まっている。
そうあれと望まれている。
そうあれと願われているのなら──この世界はそうなる、のかも、しれない。
「甘っ! 甘過ぎます! いったい何ですか、シグレちゃん! この歯が溶けそうなほど甘いカンポットは⁉︎」
「カンポットは元々、果物を砂糖に漬けて作る飲み物。それに、この旧校舎の極寒に耐えるためには、大量の糖分は必須……!」
「でもこれはやりすぎですよ! 飲むたびに口の中で砂糖がじゃりじゃりして、脳まで溶けそうです! ううっ、あと一口でも飲んだら、もう……!」
学園都市として決まっている。
生徒であれと望まれている。
先生であれと──願われている?
何に?
「ふ、ふふ……お前はもう限界のようだな。だが、事務局であらゆるスイーツを食べてきたこのチェリノ様にとって、これぐらいの糖分は何てことない! 諦めるなら今がチャンスだぞ!」
──意味が宿る世界ですよ、キヴォトスは。
……ならば。
想いが願いとなり、祝いが呪いと化すのなら。
それこそが──
「ううっ……敗北を認めたくはないですが……も、もうこれ以上は無理です、私の負け……」
「ばんざーい! 勝った!」
「素晴らしい勝利です、チェリノ会長! さすが会長です!」
だとすれば、この世界は。
方舟と言うよりも、箱庭だ。