ハピエンです。
ドクターと喧嘩して落ち込むスルトが見たかったので書きました。

弊ロドスの彼女は信頼度500%くらいなので、たびたび解釈違いなどあるかもしれませんが大目に見てもらえると助かります。

ちなみに今回登場するロンディニウムのケーキ屋とは、ムースの実家のことです。
また、珈琲のカップはティファニーの『プラチナブルーバンドマグカップ』をモデルにしました。

※この話はpixivさんにも投稿してます

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大事なものは。

 ドクターの執務室の冷凍庫には、私と彼のアイスたちが所狭しと並んでいる。

 すぐに買えるものから、待たなきゃ買えない限定品まで、その品揃えはさながら専門店だ。

 そんな楽園のなかに私は、ちょうど遠征先で買ってきた一際綺麗なアイスを並べた。

 数は二つ。

 

「……ふん」

 

 そう、明日は私がドクターの秘書を勤めて二年になる。

 記念日なんて意識したこともなかったが、去年にドクターからのお祝いを受けて、私も秘書としてなにかしようと考えた。

 いろいろ迷っていたらちょうど、ロンディニウムのケーキ屋が期間限定でとびきり美味しいアイスを売ってると聞いたから、なんとか都合を合わせて買ったんだ。

 店の名前はたしかヴァレリーと言ったか。雰囲気のある良い店だったな。

 

 そうして旅を振り返りながら、入れ替えるように別のアイスを取り出してソファに座る。

 これはついさっき購買部で買ったものだ。

 ラテラーノから仕入れたというこのアイスはとにかく硬いと話題で、普通なら食べられるまで数十分は待たなきゃいけない。

 しかし私は、スプーンから自分の熱を伝えることで容易にその乳白色の大地をえぐり取った。

 

「ん……」

 

 一口。

 スプーンを咥えたまま、思わず声が漏れる。

 濃密なバニラの海に舞う、かすかなスパイスハーブの香り。

 素晴らしい、さすがは地上の楽園と称されるだけはある。

 朝から並んだ甲斐があったというものだ。

 

「美味しそうだな」

 

 自分への褒美を堪能していると、仕事が一段落ついたのかドクターがおぼつかない足取りで寄ってきた。

 珍しくバイザーを外している。目元のクマがひどい有り様だ。

 

「あったりまえだ。……あんたは随分疲れてるようだな」

 

 少し休もう、これを食べたら私もやるから。

 そう言うとドクターは一瞬目を細めて黙ったが、すぐにまたフラフラと冷凍庫まで歩き、そしてデスクに戻っていった。

 

 にしてもこのアイスは美味い。気づけばもう無くなりそうだ。

 クロージャをはじめ、購買部のオペレーター達には感謝すべきだな。

 ありがたく最後の一口をいただく。

 ……美味。

 

「ごちそうさま」

 

 容器を捨ててスプーンを洗ったら、ドクターのところに書類を取りに行く。

 

「これが今日の分だな? もらっていくぞ」

「あぁ、頼む」

 

 アイスで換算すると八段はありそうな……いや、さすがの私もそんなものは知らないが、まぁかなりの量だ。

 これは長くなりそうだな。

 そう思って、ふとドクターが食べているアイスを見た。

 

「……ん? あんた、それ」

「なんだ」

「そのアイス、よく見せろ」

 

 素直に差し出されたそれを見た私は、熱が全身に迸るようだった。

 

「待て。あんた、それ食ったのか」

 

 間違うはずもない、その煌びやかなアイスは私が記念日のために買ってきたものだ。

 嘘だろ。包装からして明らかに他のと違うじゃないか。

 

「悪かったか?」

「……っ、なんで私に確認もせずに食べたんだ!」

「確認って、あれはお互いに好きなのを食べていいんじゃないのか」

 

 それは確かに認めざるをえない。

 ただそれでも、せっかく頑張って手に入れたアイスなのに、という気持ちは消えない。

 

「それでも一言くらいあったっていいだろ」

 

 私がそう言うと、ドクターはすこし語気を強めた。

 

「さっきのスルトだって私に断らないで食べたじゃないか。なんで人のことばかり言うんだ」

「は?」

 

 思わず私も言い返す。

 

「それは私が買ってきたものだからだ。知らずにそんなことを言うな」

 

 するとドクターはペンを置いて、私にまっすぐ向き直った。

 

「君は遅刻の連絡もしないでアイスを買いに行っていたのか?」

「何を……」

 

 何を言っているんだ、と一瞬思った。

 今朝ならちゃんと遅れると伝えたはずだ。

 

「たまには言いたくないこともあるだろうと敢えて聞かなかったが、君が何もなしに遅れたから計算が狂ってるんだぞ」

「いや待て、ドクター」

 

 私は連絡を入れたはずだぞ。

 そう言おうとしたが、ドクターに遮られてしまう。

 

「それで来てみたら、ゆっくりアイスを楽しんでいる。一言いれるべきはそっちじゃないのか」

 

 普段のドクターならこんなことは言わない。

 それが明確に非難されたものだから、少し動揺してしまった。

 

「ちが……私はしっかり伝えたはずだ、もう一度確認してみろ。あんたが見てないんでしょ」

 

 しかしドクターは端末を見ようともしない。

 まるで私が全て間違っているとでも言うかのように、ジェスチャーまで加えて話す。

 

「朝は確認するが、昼間の仕事中にそんないちいち見てられるか。こっちはアーミヤ達との話し合いもあるんだぞ」

 

 分かってる、それは分かってるが、私が嘘つきでサボりの悪者みたいに言われるのは解せない。

 私もついに抑えがきかなくなってきた。

 そもそもあんただって、私との会話履歴すら振り返ろうとしないじゃないか。

 なぜここまで言われなきゃいけないんだ。

 

「じゃあ今見れば遅刻うんぬんについては分かるだろ。それもせずに私のことを、そんな不誠実な人間だって言うのか!」

 

 しかしドクターは、ついに私を突き放した。

 

「スルト。こう言っちゃなんだが、仕事しないなら出ていってもらえるか。ただでさえ徹夜続きで限界なんだ」

「な……」

「このアイスが食べちゃいけなかったなら謝る。ただそれなら自分の部屋で保管すべきじゃないのか? それか先に、私に言ってくれれば絶対食べないよ。それは君も分かるだろう」

「……」

 

 ここでとっておいたのは理由があるが、私の不注意も認めないことはない。

 だが、出ていけとまで言わなくてもいいんじゃないのか。

 そんな私とは話すこともないと言いたいのか?

 頭に浮かぶ言葉はどれも、口から出ることはなかった。

 

「……分かった。じゃあ行く」

 

 記念日に一緒に食べられなかったショックと、一連のやり取りで、私はもうなにも言い返す気にならなかった。

 これ以上話しても傷つくだけだ。私は鬱々とした気持ちを引っ提げて、ドアのほうへ向いた。

 最後にせめて、アイスのことだけは言っておこう。

 

「……それ、秘書二年の記念日のために買ったんだ。あんたと食べようと思ってな」

「え?」

 

 戸惑うような声が背中越しに聞こえる。

 

「日が変わったときに一緒に食べたかったから、ここに入れたんだ」

「スルト」

「もういい。すこし頭を冷やしてくる」

 

 そのまま制止の声を振り切って、私は扉に走った。

 

 

 

 息もつかずに自室へ駆け込んですぐ、私は糸の切れた人形のように座り込んだ。

 迎えてくれる奴なんていないから部屋は真っ暗のまま。

 だけど今の私には、明かりをつける気力すら湧かなかった。

 

「ドクター……」

 

 ドアに背を預けたまま独りごつ。

 確かに私にも非はあった。

 しかしまだ「せっかく明日のために頑張ったのに」という気持ちが生まれてしまう。

 そんな私はどうしようもない愚か者なのだろうか?

 

「……う」

 

 何かが喉をせりあがる。

 熱いものが頬を洗う。

 らしくない、といえばそうだ。

 いつもの私ならもっと強く、そして賢明であるはずだ。

 最近ドクターと関わると常にこうなのは自覚してるが、ここまで困ったのは初めてだった。

 

「連絡……」

 

 そういえばドクターは私からの連絡が来てないと言っていたが、あれはなぜなんだ。

 ふと思い出して、手元の端末を見る。

 定まらない指先でアプリを開くと、数少ない連絡先の一番上に彼の顔があった。

 ドクターとの履歴は……私が今朝遅れると送信したのが最後だ。

 やっぱりあんたが見てないじゃないか。

 

「……」

 

 また怒りが湧きそうになったところで、暗所に慣れた目が靴箱の上のフォトフレームにとまる。

 あれはドクターと一緒に龍門まで出かけたときのツーショットか。

 相変わらず彼の顔はバイザーとマスクで分からないが、私は不本意にというか、不自然にというか……いや、誤魔化すのはやめよう。

 不慣れながらも幸せそうに、笑っている。

 

「あんたは──」

 

 私のことを、ただの秘書だと思ってるのか?

 私がそれに選ばれたから、あるいはこうすべきだからしていると、そんなふうに考えてるのか?

 写真のなかのドクターに問いかけても、答えは返ってこない。

 

「アイス、あんたと食べたかった」

 

 不意に漏れた言葉が胸を締めつける。

 これは紛れもない本心だ。私はただ、ドクターと一緒にあのアイスを食べたいだけだった。

 だけど、後悔しても遅いのだ。

 私は目を瞑り、しばらくこの冷たい熱が落ち着くまで待つことにした。

 

 数分か、あるいは数十分か。

 どちらにせよ、かなり時間がたったようだ。

 私はずっとこうしていても困らない──というより何も意欲が湧かないが、撓んだ腰が悲鳴を上げるから仕方なく立ち上がった。

 さっきはひどく遠かった照明のスイッチが、すぐ手の届く距離にあったことに少し驚く。

 

「まぶし……あ」

 

 そして視界が明かりに満たされて、やっと私は気が付いた。

 あのとき分けた書類を、今でも持ったままなことに。

 

「今から、いやでも」

 

 これはすぐに持っていくべきだ。多方に迷惑をかけかねない。

 そう頭では分かっているが、執務室の扉をノックする想像がどうしてもできなかった。

 途端にあれこれが思い出されて、ロードノイズのように思考を掠めていく。

 

「チッ」

 

 初めから何のために買ってきたのか、伝えていれば。

 ちゃんと連絡した証拠に、私の端末を見せていれば。

 そうしたらこんな言い合いにはならず、私もドクターも嫌な気持ちにならなかったかもしれない。

 なんて、終わったことに囚われているのは馬鹿みたいで、でもそんな自分を捨てられなかった。

 

「この私が……情けない」

 

 反省や自嘲、そしてドクターに対する形容しがたい思い。

 さっさと部屋着に着替えると、私はこのアンバランスな心の行き場を探してベッドに腰かけた。

 机の置き時計を見れば、短針は五時を指している。

 執務室を飛び出したのは昼の三時頃だったから、かなり長く玄関にいたようだ。

 

「ドクター……」

 

 ここへ帰ってくる途中、たくさんのオペレーターに見られた。

 もし書類のことで何かあれば、もしくは私とまた話したいなんて……あるかは分からないが、であればドクターはもう来ているだろう。

 つまりはそういうことだ。

 

「当然か」

 

 ひとつため息をついて、書類整理のことを考え始めたときだった。

 

 ──リリリン。

 

 玄関に備え付けの電子端末に、来客の通知が届く。

 なんだ、医療班か? こんな個室までわざわざ来るなんて何の用だ。

 しかし思い当たるふしはない。ひとまず端末のマイクごしに返事する。

 

「いるよ。誰だ?」

「……私だ」

 

 するとドアの向こうから聞こえたのは、誰よりも耳に馴染んだ声だった。

 ストップモーションのように体が止まる。

 間違えるはずがない。ドクターだ。

 

「え、あ」

「急にすまない。時間はあるか? 昼間のことを詫びたいんだ」

 

 詫びたい?

 あんたが、私に?

 まるで頭が回らない。ずっとああだこうだと悩んでいたくせに、簡単な返事ひとつすらも浮かんでこなかった。

 

「なによ、どういう……」

 

 それを察したのか、ドクターは一拍おいて続けた。

 

「もし話したくないなら日を改める。君が……スルトが嫌だというなら、無理強いはしない」

 

 心から私と話したくて来たのか。

 いや、それは時間を割いてここまで来てる時点で分かってる。

 言いたいのはつまり、これは私から拒絶してはいけないチャンスということだ。

 半ば本能的にそう理解した私は、すぐに思考を現実へ引き戻し、乾いた口で答える。

 

「そんなわけ、ないでしょ」

 

 急いで入室許可のボタンを押して玄関に向かう。

 くすんだアルミ製の引き戸が、音もたてずに開かれる。

 そしてついにドクターと、真正面から向き合った。

 

「ありがとう、スルト」

 

 そう言う彼の目は昼の鋭さなど失せて、いつもの柔和なものになっていた。

 

「……早く入って」

「助かる。お邪魔するよ」

 

 すぐに招き入れて、誰かに邪魔されないよう鍵をかける。

 ドクターが靴を脱ごうとすると、その嵩張るジャケットが私を角に追いやった。

 個室の玄関は狭いから仕方ないが、いかんせん窮屈だし暑い。

 すると彼は靴をいじっていた手を止めて、ふいに上体を起こした。

 危うく背中に顔面をぶつけそうになる。

 

「おい、何だ」

「これ……」

 

 彼が指したのを目で追うと、あの龍門での写真があった。

 

「秘書になってすぐの頃だな。覚えてるよ」

 

 そう言いながら彼は優しく微笑む。

 

「ちょうどあったイベントの新作クレープとアイスが美味しくて、何回も行ったんだ」

 

 二人で突っ立って、一枚の写真を眺める。

 ドクターに視線を戻せば、その目は写真の向こうにいる私たちを見ているようだ。

 いつもなら急かすところだが、覚えていてくれたのが自分でも意外なほどに嬉しいせいで、私は何も言えずにいた。

 

「……」

 

 じっと横顔を見つめる私に気づいて、彼は軽く笑う。

 

「すまない、邪魔だったな。上がらせてもらうよ」

 

 そう言ってドクターは、リビングにあるいつもの定位置へと歩いていった。

 彼がこの部屋に来るのは稀だが、そのときは決まって全面バニラホワイト色のソファに座る。

 そして珈琲を一杯飲み、窓外の景色を眺めるのだ。

 

「……今日は何が良い」

「クレオパトラのブラックを頼めるかな」

 

 普段は面倒だから自分で淹れろと言うときもあるが、今は大事なときだ。

 きちんと要望を聞いてやることにした。

 そして淹れた珈琲をそれぞれのマグカップに注ぎ──もちろん私のはバニラアイス乗せだ──、私はドクターの横にある自分用の座椅子に腰を下ろした。

 

「ありがとう」

「……フン」

 

 ドクターがカップを手に取る。購買部のブラッドブルードに頼んで取り寄せた、プラチナとブルーが輝く一級品だ。

 ほっとため息を付いて、しばし互いの心を均すように味わう。

 無論私はアイスから。

 そうして香りが部屋を満たしたころ、彼は一言、美味しいとだけ零して私に向き直った。

 

「それで、今日のことだが」

「……あぁ」

 

 スプーンを置く。

 一瞬なにを言われるだろうと身構える。

 ただ、彼はたしかに詫びたいと言ったはずだし、部屋に来てからの空気は悪くない。

 らしくもなく怯えるようなマネをしたが、舌に残ったアイスの冷たさが引き戻してくれた。

 

「まずは、せっかく用意してくれた大切なアイスを確認もせずに食べてしまって、すまなかった」

 

 そしてドクターが申し訳なさそうに、私を見つめて言った。

 凝り固まっていた心がひとつ、このフロートのように溶かされる。

 

「それは私が言ってなかったのも、悪かったし」

 

 不慣れながらも重ねて謝ると、ドクターは首を横に振った。

 

「食べたのは私だからさ」

 

 ふん。

 それだけ申し訳ないと思ってくれているのは分かるが、しかしどこか強引に謝りきられるような感じはスッキリしない。

 私もすぐに出して食べたかったからとはいえ、二人用の冷凍庫に入れなければ、事は起こらなかったからだ。

 

「……もともと確認しなくていいって話はどうなるのよ」

 

 それでもドクターは曲がらなかった。

 

「決められたルールは、柔軟な気遣いを怠っていい理由にはならない」

 

 ──まぁ仕事の疲れもあったんだけど。

 

 伏せ目がちにそう付け足す。

 もちろんそれが言い訳だなんて思わない。彼の勤務時間はおそらくロドスで一番だし、それはいつも半日以上をともにする私がよく分かっている。

 これはどう言っても覆らないだろう、というより今はどっちが多く謝るかなんてやってるわけじゃない。

 彼の気持ちを聞けた私は、つぎの話に移ることにした。

 

「……分かった。でも、あんたが私の連絡を見てなかったのは何だったの?」

 

 するとドクターは自身の端末を出して、その画面を私に見せてきた。 

 フキダシのような形をした送信履歴が連なり、最後にぶら下がるのは昨日のやり取りだ。

 ……昨日?

 

「スルトからの連絡、やっぱり来てなかったんだ」

「なぜだ。私はちゃんと送ったぞ」

 

 同様に私の画面を見せる。

 こっちの履歴には『今日は所用で遅れる。昼から行く』と、朝六時のメッセージ。

 彼はこれも分かっていたのか、軽く頷いた。

 

「事務のオペレーターに聞いた話だと、朝早くに一部のサーバーが不具合を起こしたらしい」

 

 そう聞いて、インフラ設備に詳しくない私でも悟った。

 つまり今朝、私がちょうど連絡したタイミングで、サーバーが駄目になったということだ。

 

「……ふざけるな。ただの不運じゃないか」

「悪いが、そうなるな」

 

 よりによってなぜ今日に──と、苛立ちが顔をのぞかせる。

 

「じゃあこんなに言い合わなくてもよかったのか」

 

 しかしこれはやり場のない怒りだ。彼が悪いわけではないと知れてよかったと思おう。

 まだ冷たいアイスを一口含むと、落ち着きが戻るのを感じた。

 そもそも仮に連絡が届いていたとして、彼は何もなしに無視するような人じゃない。今ならそう思える。

 執務室では先に食べられたショックで、ヒートアップしすぎたのだ。

 

「あのときスルトが連絡したと言った時点で、私が確認すればよかった話だけどな」

 

 すまない、とドクターは自嘲気味に笑った。

 たしかにそれで解決はするが、責めるような気にはならない。

 彼から見れば私は単なるサボりだったから、疲れと怒りでそうなるのも分かるし、私も冷静さを欠いていた。

 

「……謝らなくていい。あんたは悪くないし、私はもうすこし落ち着けるようにする」

 

 そう言って、私はカップに残っていた珈琲を呷った。

 続いてドクターも飲み干すと、カチャリという磁器の音色のあとに少しだけ静寂が生まれる。

 間をおいて、彼がおずおずと口を開いた。

 

「あと一つ、いいか」

「なんだ」

 

 てっきりドクターからの話は終わったと思い込んでいた私は、まだ何かあったかと記憶を探す。

 すると彼がいきなり、深々と頭を下げた。

 

「出ていけなんて言って、すまなかった」

 

 ……そうだ。

 言われたときはザラついた悲しみで一杯だったのに、こうして話しているうちにすっかり忘れていた。

 これだって連絡や仕事など、諸々が重ならなければ出てこなかった言葉だ。

 今日のドクターは誰がどう見ても限界だった。状況的に仕方ないと思うことにしよう。

 

「それはもういい」

「……申し訳ない」

 

 そして彼はゆっくりと元の姿勢に戻ると、改めて私の顔を見た。

 何やら言いたいことがあるようだが、口を開閉するだけでなかなか言い出さない。

 ずっと話していたのに急に時計の音が聞こえて、妙な空気になりそうだ。

 そんなことをしばらく続けるから、やむを得ず助け舟を出してやった。

 

「どうした」

「……スルトさえ良ければ、なんだが」

「はぁ」

 

 まだ前置きか。

 こういうのは苦手だからハッキリ言ってほしい。

 そんな私の気持ちを読んだのか、ドクターは真っ直ぐに私の目を見て言った。

 

 「これからもまた秘書に来てほしいんだ。いいかな」

 

 ……なるほど分かった。

 この話の後なんだ、どうりでモゴモゴするわけだ。

 

「私がいないと仕事が回らないからか」

「違う。仕事の効率のためだけに呼んでるんじゃない」

 

 すこし心に余裕が戻ってきた私の意地悪を、彼はつよく頭を振って否定した。

 

「もともと秘書はよく変えてたから、こんなに同じオペレーターと一緒にいるのは初めてなんだ」

 

 誰も聞いていない前任と比べられ、私はドクターの気持ち輝いた瞳を覗く。

 そこにあるのは、いつも通りの優しくて聡明な眼差しだ。

 まぁ悪い気はしない。

 

「フン、言われなくても行く。ただ……」

「ただ?」

 

 もう底が見えたマグカップをいじりながら、私は考える。

 今日買ってきたあの記念のアイスは、うち一つが無くなってしまった。

 そして明日から少しの間、実はドクターの数少ない休暇だ。

 要するに。

 

「あのロンディニウムに行きたいケーキ屋がある。そこに付き合ってもらうぞ」

 

 そう言うと、ドクターは珍しいものを見るような目で答えた。

 

「ケーキ屋? 誰かのすすめかい」

「べつに……私が行きたいだけだ」

 

 少し考える素振りを見せた後、ドクターはふにゃっと笑った。

 

「そうか。まぁ私がいても邪魔じゃないなら行くよ」

「邪魔だったらそもそも言ってない」

「確かにな」

 

 同じことの繰り返しな言葉を交わして、今日の話にどちらともなくピリオドを付ける。張り詰めた心はとうに解れていた。

 私は座椅子から立って、カップやソーサーをキッチンに移す。

 ふとドクターのを見れば、今日も満足だったようでしっかり完飲してあった。

 ……あたりまえだな。

 

「次は何がいい」

「ん? 何の話だ」

「珈琲だ。あんたの望みを聞いてやる」

 

 すっかり茜色の空を眺めながら、ドクターは指で宙をたどる。

 

「うーん、キリマンジャロかな……スルトは?」

「私はべつになんでもいい」

 

 適当に返しながら珈琲用の棚を探すと、ちょうどそれだけ切らしていた。

 良い機会だし、ついでに豆も買いにいくか。

 私はコーヒーには明るくないが、どうせ休みは何日かあるんだし急ぐことはないだろう。そのときはドクターに付いていってもいい。

 休暇の大まかなプランを立てつつ、私はリビングに戻った。

 

「……あ」

 

 するとテーブルには、何やら見覚えのある薄い紙束が積まれていた。

 ドクターがそこから一枚ずつ取って、また別の山に分けている。

 

「これ、やっぱり持ってきてたんだな」

「……」

 

 彼は喋りながらも、私のほうは見ずにペンを走らせる。

 誤魔化すことはない。それは私が執務室から抱えたまま来てしまった、昼間の書類だった。

 

「悪い」

 

 恥を殺して謝ると、ドクターは構わないよと笑ってまた整理に集中する。

 私もすぐに横に座り、倣ってペンと印鑑を取った。

 

「今日はこれが終わったら夕飯にしようか」

「……あぁ」

 

 そして昼間のぶんを取り戻すように二人で仕事に取りかかる。

 もう苛立ちも後悔もない、いつもの私たちだ。

 明日はきっと、良い記念日になるだろう。


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