【地の底 "タルタロス・アビス"】
戦いを司る女神デュアルが残した神威の残滓が消え、アレスは再び独りタルタロス・アビスの重苦しい静寂の中にいた。
神に見捨てられ愛する主からも引き離された絶望が、鉛のように四肢に絡みつく。だがそれ以上に、先ほどの悪神との対話がアレスの心を乱していた。
『エリーヌを手に入れる為に命を斬るのだ』
デュアルの言葉が甘美な毒のように思考に染み込もうとする。あの魔剣を手にしていれば、この飢えも渇きも、蠢く魔獣への恐怖も、容易く克服できたのかもしれない。楽園への道も、あるいは…。
「違う…!」
アレスは力なく首を振った。脳裏に浮かぶのは、命の尊さを説き戦場で散った名もなき兵士のために涙を流していたエリーヌの姿。彼女から教わったもの、共に育んだ想い。それを踏みにじって得る未来に、意味などない。
「俺は、奪わない…奪わずに、必ずエリーヌ様の元へ…!」
虚空に誓う声は震えていた。
しかし、その瞳にはか細くとも消えぬ意志の光が宿っていた。
生き延びなければならない。
そのためには、まずこの荒涼とした大地で糧を見つけ、身を隠す場所を確保する必要があった。
アレスは傷ついた身体を引きずるようにして歩き出した。大地は乾き、不気味な形をした岩々が墓標のように連なっている。時折、遠くで原初の魔獣(プライマル・ビースト)のものらしき咆哮が響き、肌を粟立たせた。
食料になりそうな植物は見当たらない。
水も、濁ったわずかな水たまりがあるだけだ。焦りが募る中、ふと、微かな感覚がアレスの意識を捉えた。
それは、エリーヌの傍に長く仕えるうちに、無意識に研ぎ澄まされたのかもしれない、微弱な生命の気配だった。
注意深く気配の源を探ると、岩陰に、わずかに発光する苔のようなものが群生しているのを見つけた。飢えを満たすものではないかもしれないが、暗闇の中でのささやかな希望に見えた。そして、その近くに、岩が崩れてできた天然の洞窟があった。魔獣の気配は…今は感じない。
「ここなら…少しは休めるかもしれない」
疲労困憊のアレスは、洞窟の中へと転がり込んだ。
硬い岩肌に身を横たえると、どっと疲れが押し寄せる。浅い眠りの中で、アレスはエリーヌの夢を見た。
◇
【神界 "アストラル・ヘヴン"】
アレスが追放された後の神界アストラル・ヘヴンでは、静かな波紋が広がっていた。
殺戮と鎮魂の女神エリーヌは、自らが統べる神殿の奥深く、星屑が流れる窓辺に佇んでいた。その表情は、いつものように硬く、感情の起伏をうかがわせない。
だが、その白く細い指が、胸元の神聖な装飾を強く握りしめているのを、古くから彼女に仕える侍女は見逃さなかった。
侍女は、主がアレスを追放した真意を知る数少ない一人だった。
「エリーヌ様…」
「…何も言うな」
静かな拒絶。
その声には抑えきれない悲しみと、アレスの無事を祈る切実な響きが滲んでいた。
彼女の力。
「唯一神を蘇らせる力」は今や神界の秩序派にとって両刃の剣となっていた。アレスへの情は、彼女の弱みとして、あるいは利用価値として、虎視眈々と狙われているのだ。
◇
一方、戦いと進化の女神デュアルは自らの神域で愉快そうに口元を歪めていた。彼女の前にはタルタロス・アビスの光景を映し出す水鏡が置かれている。
そこには、洞窟で苦痛に顔を歪めながらも必死に呼吸を整えようとするアレスの姿があった。
「ククク…良いぞ、人の子アレス。それでこそだ。媚びへつらい、容易く力に屈する惰弱な魂など、我は見飽きた」
デュアルの周囲には、彼女の奔放な行動を諌めようとする秩序派の神々の気配があったが、彼女は意に介さない。
「あの男の魂の輝き…久方ぶりに見る、磨き甲斐のある原石よ。エリーヌ…お前の育てた『道具』は、存外な傑物かもしれんぞ?」
その呟きは誰に聞かせるでもなく、アストラル・ヘヴンの空気に溶けていった。
◇
神々の評議会では、レスの追放と、デュアルの接触が議題に上がっていた。
「人と神の境界を侵した罪は重い。エリーヌの処断は甘すぎるのではないか?」
「いや、あの『地の底』へ送ったのだ。生きて戻ることはあるまい」
「問題はデュアルだ。あのアレスという人間に肩入れしているように見える。何を企んでいるのか…」
「エリーヌの『力』も含め、混沌派の動きには注意が必要だ…」
神々の思惑が天上で交錯していた。
◇
【再び、地の底 "タルタロス・アビス"】
悪夢と現実の狭間でアレスは身動いだ。
何かが洞窟に近づいてくる気配。それはこれまで感じた魔獣の獰猛な気配とは少し異なっていた。
息を殺し、入り口を窺う。
暗闇に二つの燐光が浮かび上がった。
それはゆっくりと洞窟の中へ入ってくる。獣のような四肢を持つ影。だが、その動きにはどこか知性を感じさせた。それはアレスがこれまで遭遇した原初の魔獣とは明らかに違う存在だった。
影はアレスの存在に気づくと動きを止めた。
低い唸り声が洞窟に響く。アレスは身構えた。武器はない。だが、逃げることもできない。
『…神の…匂い…? いや…人か…?』
不意に、直接脳内に響くような思念が流れ込んできた。
それは言葉とは言えない、断片的な意思の伝達。目の前の異形の存在は、原始的ながらも知性を持っているようだった。
『何故…此処に…? 此処は…棄てられた者の…墓場…』
思念は問いかけてくる。
アレスは驚きながらも、警戒を解かずに答えた。
「俺はアレス…追放された者だ」
『追放者…また一人…』
影は、それ以上近づこうとはせず、ただアレスを見つめているようだった。敵意は、今のところ感じられない。
「お前は…?」
『我は…名など…とうに失せた…古き…澱(おり)…』
その時、洞窟の外から複数の凶暴な魔獣の気配が急速に近づいてきた。おそらく、アレスか、この「古き澱」の匂いを嗅ぎつけてきたのだろう。
「来る…!」
アレスが叫ぶのと、影が素早く身を翻すのは同時だった。
『…運の無い…追放者よ…生き延びたければ…足掻け…!』
そう言い残し、影は洞窟の奥の暗闇へと消えていった。
入り口には、涎を垂らした数体の魔獣が、飢えた目でアレスを捉えていた。
絶体絶命。
しかし、アレスの心には、先ほどの「古き澱」との短い接触が、奇妙な感覚を残していた。この地の底にも、ただ喰らうだけの存在ではないものがいる。そして、自分はまだ、死ぬわけにはいかない。
「うぉぉぉぉっ!」
アレスは雄叫びを上げ、手近にあった手頃な石を握りしめ、魔獣へと対峙した。たとえ武器がなくとも、たとえ勝ち目がなくとも、諦めない。エリーヌの元へ帰る、その一念だけが、彼を突き動かしていた。
深淵の闇の中で、小さな、しかし強靭な魂の抵抗が、今、始まろうとしていた。