恋する大淀
・レンズ越しのあなた
作戦報告書をファイリングして一息つきながら背もたれに身体を預ける。
時刻は二二〇〇になろうとしているところだ。
今日は一日中机の前に張り付いていたせいか肩が凝る。
「提督、ここら辺で一度休憩しませんか?」
飲み物でも淹れるために席を立とうと腰を椅子から浮かす。
しかし提督に手で制される。
「今日くらいは俺が淹れよう、そのままゆっくりしててくれ。」
提督がそんなこと言うなんて珍しい。
いつもなら少しの時間すら惜しいと言わんばかりに書類に目を通しているのに。
「いけません、これくらいは私が。」
それを聞いた提督は若干目尻を下げてフッと笑う。
「俺が大淀にできることはこれくらいなんだ、頼まれたと思ってごちそうされてくれ。」
「はあ...、ではお言葉に甘えて。」
そこまで言われると私も弱いところがある。
私は浮かせていた腰を再び椅子に下す。
提督がお茶を淹れている様子を眺めていると、メガネのレンズが汚れていることに気が付いた。
どおりで書類の文字が少しだけ読みにくかったわけです。
メガネを外して、机の引き出しからメガネ拭きを取り出して片方ずつ綺麗に汚れを拭きとっていく。
「こんなものですかね。」
独り言をこぼしながら黒ぶちのメガネをつける。
このメガネは私の目だけじゃ見えない全てを映してくれる。
特に提督、あなたのことは。
キレイなレンズはあなたの後ろ姿をより鮮明に見せてくれる、長時間座っていた事を意味するその軍服のシワまでも。
それでも、これだけずっと一緒にいてもあなたの気持ちまでは写してはくれませんね。
あなたの心にあるものはなんでしょう、そのいつの間にかお揃いになった黒ぶちのメガメには何が映っていますか?
私はその中にいるでしょうか。
いえ、きっといつも目の前の書類で一杯でしょうね、そこまで器用な人じゃないですもの。
このレンズがあなたの心を映してくれなくても意外と分かることもあります。
それは驚いたときに増える瞬き、考え事をしている時に遊ばせる指とかです。
メガネを拭いて綺麗にするたびにあなたの気持ちを体現する行動を見ることができます。
なので見えなくてもいいのです、私はそんなわかりやすい提督にも好いているのですから。
「待たせたな大淀、ほうじ茶だがよかったか?」
スッと湯呑を机に置いてくれる。
控えめな湯気が上がっており、それは丁寧に粗熱を冷ましたものだということがすぐに分かった。
きっと美味しさとかを考えてのことではなく、私が猫舌ということを知っているからだろう。
「ありがとうございます提督。」
私は提督が淹れてくれたそのお茶にゆっくり口をつけた。
少々濃くて渋みを感じる。
普段は私が淹れているから慣れていないのだろう。
「ちょっと濃すぎたなこれは。」
眉をひそめて自分が淹れたそれにケチをつけている。
「そうですか?私は好きですよ、提督が淹れてくれたこのお茶。」
「それは大淀も大概物好きの類だな。」
笑いながら提督はそんなことを言う。
味じゃないんですよ、こういうものは。
別に特別に美味しいとかまずいとかいった出来ではないですけど、あなたが私の為に淹れてくれたところが重要なんです。
たとえ茶柱が立っていなくたっていいんです。
水平線の向こうで戦い続ける私達にとってこの温もりがどれだけ安心できるものか。
拭きたてのメガネが湯気で曇ってしまっても嫌な気はしません。
だって戦場の血で染まるよりは、あなたの優しさで染まったほうがずっといい。
艦娘として戦うために生まれてきた私達だけれど、こうしている時間が一番好きかもしれません。
揺れるお茶の表面を感慨深く見つめているとペンを走らせる音が聞こえる。
「もう少しくらい休まれてはいかがですか?」
その音の主に私は提案してみる、でもきっと答えは決まっているだろう。
「キリがいいところまでやらせてくれないか。」
あなたという人は。
大きなこの鎮守府で重責を担うあなたは誰よりも頑張っているというのに。
睡眠時間を削って私達のために働いている。
艦娘達はあなたの下に来られて幸せかもしれません。
少なくとも私は。
「その書類だけですよ、無理は身体に障りますから。」
私は困ったような表情で少し笑う。
「ああ。」
私はあなたの力になっているでしょうか、少しでも支えになっていますか?
肝心なところに限ってこのレンズは何も映してくれません。
あなたの双肩の重みを少しでも私が変わってあげられたらいいのに。
・切った前髪
「こんなもんでどう大淀。」
明石が自信満々に両手を腰に当てて私を見る。
私は目の前の鏡で首を動かしながら髪の毛のバランスを確認する。
素人にお願いしたにしてはいい感じかもしれない、特に変な箇所も無さそうだ。
「急にお願いしたのにありがとうございます。」
明石にお礼をしながら制服にところどころついた髪の毛を払う。
「これならこの道でも食べていけそうかも。」
後ろで明石が変に自信をつけたのか目をキラキラさせながらすきばさみをチョキチョキさせている。
明石らしいといえば明石らしい。
「では私は仕事にもどりますね。」
私は苦笑しながらもう一度お礼を言って工廠を後にした。
正直、明石が髪も切れて助かった。
外に出て髪を切るには時間がなかったし、ヘアピンをしても抑えきれなくて目にかかり邪魔だったからだ。
「それにしても金剛さんや浦風さんはいつもおしゃれな髪型をしていて凄いですね。」
あのフレンチクルーラーみたいなのはなんて言うのでしょう。
私も何かアレンジをすればあんな風にかわいくなれるでしょうか。
いえ、きっと私はそんな柄じゃないですね。
心の中で軽く笑ってそう言い聞かせる。
ふと廊下で立ち止まり、切ってもらった前髪をクルクルと指で遊ばせる。
「これくらいでもあの人も気付いてくれるでしょうか。」
そんなことを考えてしまう。
別にいつもの長さに戻っただけなのに、気付いてもらいたい。
そう思うのはおかしいでしょうか。
「提督失礼します。」
慣れた動作で執務室のドアをノックして中に入る。
提督はノックの癖で私だと分かるのか、いつも特に返事はせずこちらを確認もしない。
これは信頼の証なのだろうが、今日ばかりはその確認くらいしてほしいと思う。
「こっちの山貰いますね。」
私は提督の机にあった書類の山を一つ自分の机に移動させた。
「ああ、助かるよ。」
一度こちらを見たが、そのひと言だけ言ってすぐに目下の仕事に戻った。
私は少し息を吐いて提督を見つめた。
そもそも、男性が女性の前髪をちょっと切ったくらいで気が付くなんてそうそうない話です。
あなたならと淡い期待を持ちましたが少し難しいことだったかもしれませんね。
しょうがのないことです。
私は椅子に座り、愛用の万年筆を手に取って淡々と仕事を進めることにした。
最初の方は艦娘達からの申請書ばかりで、そのほとんどが休暇や施設利用のもの。
出撃や遠征のスケジュール表を見ながら処理していけばすぐに片が付くような内容ばかりだ。
この後は...。
資材管理報告書ですか...。
こう見えて私はあまり数字が得意ではないのでいつもは提督がやってくれています。
ですが、今日はこれを含めて私がやると言ったので今更返すのもばつが悪いものがありますね。
少しだけ自分で頑張ってみましょう。
電卓をつかいながら先月比や収支を記載していく。
しかし、その手は他の書類を捌く時よりもたついているのは誰から見ても明らかなものだった。
なんとか進めていたが分からないところがでてきた。
これは提督に聞かないと終わらないかもしれない。
「あの、提督この欄なんですが。」
席を立ち提督の傍まで寄って尋ねる。
「これか、ここはこっちの数値から引っ張ってきて...。」
私のちっぽけなプライドをよそに提督は丁寧に教えてくれる。
ふと、普段より提督との距離が近いことに気が付いた。
もしかして今なら気付いてくれるかもしれません。
さっき忘れたはずの淡い期待が蘇ってくる。
私は前髪をわざとらしく整える動作をしてみる。
提督の様子はいつもと変わらず懇切丁寧に説明を続けている。
私からお願いしたことなのに、ちょっぴりおもしろくない。
今度は大げさに髪の毛を手でファサッとなびかせる、流石にこれは提督の視界に入ったはず。
「大淀、聞いてるか?」
不思議そうな表情でこちら覗いてくる。
「あ、えっとすいません...。」
提督は真面目に答えてくれていたのに、こんな事で私は憂いているなんて愚かみたい。
私の小さな乙女心が生んだ行動に恥ずかしくなる。
勝手に期待して勝手に落ち込むなんてどうかしている。
肩を落としながら自分の席に戻って説明してもらった通りに仕事を進め始める。
さっきまであんなに謎だった箇所が少し教えてもらっただけでスラスラ進めることができた。
やっぱりあなたに追いつくにはまだまだほど遠いですね。
戦闘ではあまり役に立てないから、執務くらいまともにお手伝いできたらと思っていたのに。
こんな自分が嫌になってきますね。
それからは黙々と二人で書類の山を片づけた。
それが終わった頃には二〇〇〇になっていた。
「ではお疲れさまでした提督、先に失礼しますね。」
窓際で外の灯台の明かりを眺めている提督の背中に声をかける。
「今日も助かったよありがとう。」
「いえ、これくらしかできませんから。」
軽く会釈をしてブランケットを片手に執務室のドアに手をかける。
「それと、前髪。いいじゃないか?」
その手がピクッと止まる。
もう、そういうことは気付いたときに言ってください。
じゃないと今日一日あなたを見て一喜一憂していた私がバカみたいじゃないですか。
でもあなたはそういう人でしたね。
私はそれで十分です。
私は色づいた頬で振り返る。
「もっと早く言ってくれてもよかったんですよ?」
そう言って私は廊下に出て、閉めたドアに身体を預けた。
前髪をクルクルいじりながら胸の前で手を握る。
「ふふ、やっぱりいい感じかもしれませんね。」
・老いない身体
シーンと静まり返った作戦指令室。
提督と私はそこである吉報を待っている。
机がカタカタ揺れる音が聞こえる、これはいつもの光景だ。
腕を組み利き足である右足を貧乏ゆすりして、普段は嗜まないたばこをこの時ばかりは吸っている。
私にもその気持ちは分かる気がします。
ここで何もできずただ結果を待っているだけなんですから。
その時、一通の無線が入る。
「はい、こちら作戦本部。はい、はい...。」
主力艦隊からの報告を聞きながらメモを取る。
「どうだ?」
無線を置くと食い気味に提督が聞いてくる、よほど気になるのだろう。
私はにっこり笑いかけて提督に向き直る。
「敵主力の撃破に成功、作戦成功です。おめでとうございます提督。」
ふうっと息を大きく吐きながら提督は椅子にもたれかかる。
「何度経験しても慣れないものですか?」
冷えたお茶を下げて、新しい湯呑にお茶を入れ直しながら尋ねる。
「待つというのがこれほどまでに苦しいと思うことはないな。」
まったくあなたという人は優しいですね。
自分が戦えないもどかしさを感じ取ってくれるのですから。
今回も含めてあなたとは数多の作戦を一緒にこうして乗り越えてきましたね。
思えば随分と長く過ごしてきた気がします。
その貧乏ゆすりの癖はあなたが駆け出しの頃から何も変わっていませんね。
私がいないと執務も滞って、熱気だけある危うかったあの頃が懐かしいです。
「お疲れさまでした提督。どうぞ、今度は冷めないうちに。」
私は淹れたてのお茶を差し出す。
提督は帽子を脱いで机の上に置いた。
「それ貸してくれるか。」
そう言って私の手から急須を取って、もう一つある湯呑にお茶を淹れだした。
「お疲れさまは大淀もだ、いつも助かっている。」
自分だけの手柄だと思っていないそういうところですよ提督。
その一言で私はどれだけ報われるか知っていますか?
私は笑みをこぼしながら提督の横の席に座った。
「では私も頂きますね。」
大型作戦がある度に私達はこうして吉報をドキドキしながら待って、成功したときは束の間の安息をこうやって感じていますね。
あなたは年月が経って少し貫禄がでましたか?
でも、いつも皆には見せない落ち着きのなさを見るとあんまり変わってない様にも思えちゃいます。
私だけが知っている提督みたいで優越感に浸ってしまいますね。
あなたは昇進していってその分年を重ねました。
でも艦娘である私の姿はであったころと変わらない。
こんなこと思ってはいけないですが、そんな自分に課せられた枷が少しだけ疎ましい。
私もあなたと同じ時間の流れを感じられたらどれだけ幸せでしょう。
湯呑を机に置いて両手で軽く回す。
「提督、これからも私の提督でいてくれますか?」
「おかしなことを聞くんだな。」
たばこを大きく吸って私と反対側にその煙を吐き、その火を慣れない所作で消した。
「変な事を言いました、忘れてください。」
私は俯いて私達の終わりを想起する。
あなたは人間で私は艦娘、それである以上は寿命という別れが来る。
もしかしたら戦争が終わってその前に来るかもしれない。
考えるだけで胸が締め付けられる。
あなたの隣で寄り添い遂げることもできないのでしょうか。
提督が足を組んで天井を見上げる。
「俺には大淀が必要だし、大淀が俺を必要とするならこれからもそういうよう。」
湯呑を持つ手に少し力が入る。
「この回答じゃ不満か?」
ずるいですねそんな言い方。
好きな人に必要とされて嬉しくない女性がこの世にいるわけないじゃないですか。
「今日のところはそれで騙されてあげます。」
私は横目でチラっと提督と目を合わせて一瞬だけ微笑んだ。
いまはこれが限界。
だって、今の私はきっと誰にも見せられない表情をしているだろうから。
「今日以外はダメか。」
フッと笑いながら提督はお茶に口をつける。
あなたの言葉はまるで魔法ですね、なんたって私の感傷的な気持ちをひと言で吹き飛ばしてしまうんですから。
いいでしょう同じ時間の流れを感じられなくても、せめてあなたの行く末をいつまでも見守っていきましょう。
ふふ、こればっかりはこの身体に感謝するところかもしれませんね。
私はどこまでもついていきますから。
だから見せてくださいあなたの進む道の光景を私にも隣で。
・脱ぎ捨てた軍服
「大淀、ただいま戻りました。」
久しぶりの出撃で小破になった私は入渠をして執務室に戻った。
しかし、いつもそこにある提督の姿はなかった。
併設された仮眠室を覗いてもおらず、珍しい出来事に少々困惑してしまう。
「演習の様子でも見に行っているのでしょうか。」
執務室の窓から訓練弾を撃つ音がする海の方向を眺める。
当然ここから見える距離で行っているわけもなく、もし見ているなら提督がいそうな防波堤も工廠の建物の影になっていてここからは見通せない。
なんにせよ普段から書類の山に埋もれて一日の大半を過ごしている人だ、何か気分転換に出ていてもいいだろう。
私は開発指示書を挟んでいるバインダーを自分の机の上に置いて、散らかった提督の机周りを見る。
「整理整頓できないのは相変わらずですね。」
仕方ないと軽く溜息を吐いて書類を種類ごとに分類する。
ファイリングしようと棚から一つ青いファイルを取ると、一枚の紙が床に落ちた。
何かとそれを拾って見てみるとつい笑みがこぼれる。
「これはまた懐かしいですね。」
それは提督が司令長官になった時に二人で撮った写真だった。
提督は正式な写真じゃないのに律儀に軍服の一番上までボタンを止めてぎこちない表情をしている。
横にいる私は嬉しそうな顔で両手を後ろで組み少し前かがみで写っている。
これも三年前のこと。
この時はあなたよりも私の方が喜んでた気がしますね。
だって自分の好きな人が周りに認められたんですから。
私は自分の引き出しから写真立てを取り出して、勲章が飾られている棚に一緒に飾った。
こんなところかとやり切った顔をしていると、ソファーに提督の上着が脱いでそのままの状態であることに気が付いた。
「もう、シワになりますよと言っているのに。」
やれやれとポールハンガーにかけるためにそれを手に取る。
よく見ると三つ目のボタンが取れかけていた。
「後で縫ってあげないといけませんね。」
そうしていると、提督の香りが漂ってきた。
男の人特有の香りと少しだけ汗の匂い。
私の好きな匂いだ。
ソファーにそのまま腰を下してその軍服を抱きしめる。
ダメだとは分かっているが、抑えがきかない。
目を閉じて、その香りをもう一度確かめる。
なんだか安心してしまう。
そこにあなたはいないはずなのに、あなたに全身を包まれている気分。
少しだけ。
もう少しだけあなたを感じさせてほし...い...。
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ゆっくりと目を開けると天井の照明に明かりがともっている。
あれ。
私もしかして寝て...。
ガバっとソファーから身を起こす。
辺りを見回すと提督は既に戻ってきて執務をしており、私には提督の上着がかけれらている。
提督はチラッと一度こちらを見て起きたのを確認すると、また眼前の執務に意識を戻した。
時計を見ると一九〇〇だ、あれから四時間も寝ていたことになる。
提督を補佐する立場なのにこんな...。
それに寝顔をあなたに見られただなんて、恥ずかしくて何を言ったらいいかわからない。
私はその上着をポールハンガーにかけて自分の席に着いた。
「あの、提督。その...申し訳ありません。」
視線の端で提督の反応を伺う。
提督は動かしていたペンを止め、息をつきながら机の上に置いた。
「いつもあれだの仕事をしているんだ、たまにはいいんじゃないか?」
「しかし、起こしてくださっても...。」
気まずさを逃がすように膝の上で両手の指を絡める。
「あれだけ気持ちよさそうに寝てるところを起こすのは流石の俺でも気が引けるな。」
笑いながら提督はそう言う。
やっぱり寝顔を見られていた。
変な寝言は言っていなかったでしょうか。
でもあなたの笑顔を見られただけでこれは清算しましょう。
それは私が一番好きな表情なんですから。
私もクスっと笑いながら提督に向き直る。
「残り、分けてください手伝います。」
「それは助かる今日は何故かたくさん残っているからな。」
意地悪な顔を私に向ける。
「そんなことを言うならもう自室に帰ります。」
私は素っ気ない態度を見せながらドアの方向に振り向く。
その瞬間ふわっと私の使っている香水とは違う香りがした。
これは提督の...。
ふふ、寝ている間に私の制服に移っていたんですね。
「待ってくれ、悪かったよ大淀。」
「しょうがないですね、今は気分がいいので残ってあげます。」
自分でもこんなのどうかと思う。
けれど恋なんてこんなものでしょう?
意中の相手に振り回されてばかりだけど、この毎日が楽しい。
惚れたほうが負けだなんてあながち間違いではないかもしれない。
私は二回ポンポンと制服を軽く叩いた。
そしてそこから漂う香りに肩をすぼめて微笑む。
これはきっとどんな香水よりも貴重で高価なものですね。
・手の傷
「よし、もう全員入渠してきていいぞー。」
作戦報告書に目を通した提督が、出撃した艦隊メンバーに号令をかける。
「「了解です、失礼しました。」」
今回の結果もまずまずといったところで提督もご満悦な様子だ。
表情は変わらないから誤解されがちだけれど、指を鳴らしながら報告を受けているときは上機嫌な時だと私は知っている。
そんな様子を横で見て微笑んでいると、夕立がまだ残って提督をジーっと見つめている。
私はキョトンと夕立を見て、どうしたのか尋ねようとした。
「提督さんも入渠が必要っぽい?」
口に指を当てながら心配そうな目をしている。
ああ、そういうことでしたか。
私は一人で納得して、先の報告書を今月分の出撃記録と一緒にまとめる。
「俺がか?」
提督はどういう意味か分からず、自分の体を見回している。
「その左手、痛そうっぽい...。」
その言葉で思い出したようにそこにある大きな傷跡を見る。
「士官学校時代にちょっとやらかしてな、これならもう心配ない大丈夫だ。」
わざとらしいガッツポーズを夕立に見せて、なんともないことをアピールしている。
「ならいいっぽい!」
夕立はそれを聞いてか、ペタンとしおれてた改二を再びパタパタさせて屈託のない笑顔を見せる。
駆逐の子たちはどこまでもまっすぐで時々羨ましくなる。
「だからほら、夕立もその傷なおしてこい。」
夕立はうんと元気な返事を残して走り去っていった。
やがて閉まったドア越しに廊下を走ったことを足柄に怒られている声が聞こえた。
そんな活気のある鎮守府の光景に提督は微笑んでいる。
提督が目指す鎮守府とはこういうものなのかもしれない。
「また嘘なんかついて、いつか駆逐の子たちに嫌われても知りませんよ?」
眉を下げながら引き出しからシャチハタを探す。
「何のことだ?」
大きく伸びをしてあくびをしながらそんなことを言う。
「もう。」
私は知っている。
その傷ができたのは士官学校時代じゃないことを。
あれはまだここが十人程度の艦娘しかいない泊地だったころでしたか。
妖精さんも全然いなくて、資材も一週間に一度二人で一つ一つ数えていましたね。
そんな日々が続いていたある日。
狭い倉庫で私が振り向きざまに棚にぶつかってしまって、上に置いていた資材が落ちてきました。
艦娘である私はそれが直撃しても少しかすり傷を追う程度でしかありません。
しかし、私が傷を負うことはありませんでした。
なぜなら提督が庇ってくれたからです。
彼から流れる血が私の白い制服に染みる中で何をしているんですかと私は言いました。
そしたらなんて言ったと思いますか?
艦娘であろうと女性に傷を残すわけにはいかない。
って言ったんです。
おかしいでしょう?
私の注意不足で起きたことなのに提督が今に残る怪我をしてしまうんですから。
でも嬉しかったです。
なんて言ったって兵器である私を人間の女の子として見ていてくれたから。
きっとそんなあなただからここまで多くの艦娘に信頼を置かれているのでしょう。
そして私も。
何年たっても私は忘れませんよ、その傷と同時に私の恋も生まれたのですから。
「本当の事言ってもいいんですよ?」
「んー。」
提督は左手の傷を反対の手でさすっている。
私は時々その傷がうずいてしまうのも知っている。
自分のせいで提督に傷を負わせるなんて艦娘として失格だ、それを受け入れる準備はとっくにできている。
「これはこれで歴戦の猛者感でていいと思うんだがなあ。」
そういうところですよ。
こんなの何で返せばいいのでしょうか。
今も嘘を付いているのは、まだ私の尊厳を庇い続けているのでしょう。
「あなたって人は本当に優しいですね。」
・あなたと私の身長差
私達は他鎮守府との演習を船の上で一緒に見ていた。
提督は双眼鏡で遠くにいる艦隊の動きを確認している。
「やはり大和さんの改二は破壊力が桁違いですね。」
武蔵さんに遅れたものの、無事に改二改装をした大和さんの試験運用も兼ねて今回は演習を組んでもらっている。
「資源の消費には目をつむれないが、それでもあまりある火力には惚れ惚れするな。」
いつも気だるそうな顔をしている提督が、新しいおもちゃを買ってもらった子供のように目を輝かせている。
そんな様子を横から眺めてかわいいと思ってしまう。
それと同時に、こんな視線を向けてもらえる大和さんが羨ましかった。
私も戦艦のような火力が、空母のような制空力があればその目を向けてもらえたでしょうか。
軽巡洋艦の私には無理だと頭では分かっているのに、そうであったらと望んでしまう自分がいる。
「そろそろ終わりか、データはとれたな。」
双眼鏡を下しながら提督が私に視線を向ける。
「あ、はい。問題なく収集できています。」
ぼーっとしていたせいか少し言い淀む。
演習を終えた艦隊が私達の乗っている船を追い抜いていく。
こちらに手を振って過ぎ去る彼女らに私は作り笑いをして手を振り返した。
これでもないくらいの快勝にその面々は明るい表情を浮かべている。
「...。」
十分程その船に乗って私達は港に降りた。
「じゃあ私はこれから今のデータを元に資料作ってきま―――」
「大淀、少し歩くか。」
私の言葉を途中で遮るように提督が散歩を提案してきた。
その意味が分からなくて私は目をぱちくりさせる。
「そのままの意味だよ。」
フッと笑みを浮かべて歩き出す。
その後を追うように私も提督についていった。
砂浜を特に会話もなく二人でゆっくりあるく。
傾いた陽が海面に反射して少しまぶしい。
手でその光を遮っていると、不意に提督が立ち止まる。
「俺たちも随分と遠いところまできたな。」
その目線はどこまでも続く水平線を見つめている。
「でもまだまだこれからですよ?」
「分かってる。」
「本当ですか?」
冗談じゃないと分かっていたがあえておどけてみせた。
今はそういう気分だった。
「そう茶化すな、俺がここまでこれたのも大淀がいたからだ。」
珍しく提督が真面目な表情をしている。
バインダーを両手で抱きしめるように持ち、私も提督と同じ水平線を眺める。
「私なんて何もしていませんよ。」
「そう謙遜するな大淀がいなければここはなかった。」
提督と私は頭二つ分くらい離れている。
それでも決して見下すような態度は取ったことはない。
「それは...ありがとうございます...。」
いつだって目線は私達と同じだ。
そんな提督だから皆さんついていくのでしょう。
「出撃ばかりが艦娘の役目じゃない、大淀は大淀の役目を全うしている。」
だんだんと私を呼ぶ声がくすぐったくなってくる。
きっと提督は分かっていて散歩に誘ったんでしょう。
私があなたの事を分かってしまうように、あなたも私の事を分かってしまうのでしょう。
あなたが私のことを思ってこうしてくれているのだと思うと胸がキュッとする。
「だから大淀は今のままでいい。」
「あなたは本当にずるいのですね。」
私は背伸びをしながら横にいる提督の袖を引っ張って顔を近づける。
私とあなたの間に水平線の光が差し込んだが、それが途絶えることはなかった。
ふふ、やっぱり届きませんでしたね。
こんなことをしようだなんて少々俗世に染まりすぎたのかもしれません。
「俺の顔に何か付いているか?」
私は下を向いてクスッと笑った。
あなたはこういうのは気付いてくれないんですね。
「私の勇気ですかね。」
「なんだそりゃ。」
でもいつかきっと返してもらいますから。
だから今は今のあなたでもいいです。
「もう陽もくれます、私達の鎮守府に帰りましょう。」
私はあなたの左手を取って歩き出した、私達の始まりの場所でありこれからを紡ぐ場所へ。
待っていますよ。
私の気持ちに気が付いてあなたからその目線を合わせてくれることを。
恋する大淀 ~fin~