嫌な夢を見た翌日、同じような見たくないものを見ることなく一日を始められたため詩折は気分が良かった。
昨日ほど人相は悪くはなく、隈もほぼなくなっている。気分が良すぎて朝のうちに緑化委員の仕事である花壇の手入れや水やりまで済ませてしまうレベルだった。
そんな日の昼休み、詩折は持参したパンにかぶりつき暇なときにしているスマホゲームに興じる。
基本はポチポチと画面をタップして戦闘を進めていくだけなのだが、高難易度になるにつれスキルの発動タイミングや順番など考えることが多くなる。
シンプルだが戦略性が強く、またスマホとはいえRPGとしての完成度も高いため詩折は暇な時を見つけては遊ぶというはまりっぷりを見せていた。
どのクエストを進めようかと画面を押しつつ口にパンを運びながら考えていると頭上から声がかかる。
「依亥さん、ちょっといいか?」
「……ん?」
聞こえてきたのは男子の声。ふっと顔を上げるとそこには話したことがない男子の姿があった。
同じクラスで一度も話したことがないというのもおかしな話なのだが、そもそも詩折自身は自分から話しかけにはいかないので用事がない場合は一日誰とも全く話さないということが日常的に存在する。
そのため名前と顔が一致しない、そもそも名前すら知らないなんてこともざらである。
だが今回話しかけてきた男子の名前は知っている。
青柳冬弥。濃紺と水色で二分化された髪色が特徴的過ぎて覚えようとしなくても記憶に残ってしまう。
しかし記憶に残っていたとしても彼が何の用事があるんだろうと思案する。委員会は所属しているものが違うためなし、クラスのことはたいてい学級委員長から話が来るためこれもない。
となるとあと残っている可能性は気まぐれで話しかけに来たか呼び出しの伝言かのどちらかだろうと予想がつく。
だけど呼ぶにしたっていったい誰が、と疑問に思っていたことはすぐさま答えが明らかになった。
「何か用?」
「司先…いや天馬先輩が呼んでいたぞ。放課後話したいことがあるから教室で待っていてほしいそうだ」
時間が止まったかのような感覚に陥る。先ほどまで正常に回っていたはずの思考が焼き切れる形で停止し、すぐさま異音を立てて動き出す。
詩折にとっては誰かから呼び出されるなんて経験はほぼないし、あったとしてもそれは教師からの呼び出しだ。当然先輩に呼び出されたこともなければ異性なんてもってのほかだ。
しかしそれが普通の何の噂もない男子生徒であればすぐに持ち直して特に何も思わないことだろう。それどころか忙しいから今度にしてと伝言者に伝えるまである。だが今回は一筋縄ではいかないと頭を抱える。
何せ相手があの変人ワンツーの一人の司なのだ。話があるにしても予想できるものではないし、そもそも関係を持つ時点で何かに巻き込まれそうな予感さえある。背筋に走る嫌な予感と脳裏に浮かんだ最悪の事態とに板挟みにされながら恐る恐る口にする。
「ほ、放課後は少し用事が…」
「もし放課後用事があるなら終わるまで待つと言っていたぞ」
用意周到なのか誰かの入れ知恵なのか、さらっと逃げ場を潰してこようとする。用事と言いはしたが学校で放課後に何かする予定は今のところない。緑化委員の仕事をしてもいいのだが、程よく疲労感がある放課後まで作業してしまえば疲労感がかなり増してしまう。というよりも緑化委員の仕事をしたとしても終わるまで待たれれば逃げることはできない。
加えて今日はバイトのシフトも入ってはいない。本格的に詰んでいる。
「できるなら断りたいんだけど…」
「その表情から察するにそうなんだろうが、司先輩は一度断っても何度も来ると思うぞ。時間があるのなら話だけ聞いてみるのはどうだろうか?」
「うっ…」
冬弥は司のことを理解しているのか、断ろうとしたことをやんわりと制してくる。冬弥の言う通り、司の性格であれば一度で終わるはずがないなと悔しいが納得してしまう。というよりも一度逃げれば次は必ずといった感じでエスカレートする可能性がなくはない。それで常に付きまとわれるようにでもなったらたまったものではない。その状況を想像しただけでも背筋がぞわっとする感覚に襲われる。
仕方ないかと諦め、了承の意を冬弥に伝える。
冬弥は微笑んで頷き、教室を出ていく。詩折が了承したのを伝えに行ったのだろう。廊下からあの大きな声が聞こえないことから1-Bの付近にはいないのだろう。何もなしに直接会いに来られるよりはましだが、それよりも入れたくない予定が入ってしまったと上がっていた気分が落ち込む。
開いていたゲームをやる気もなくなったので終了させ、食べかけのパンをそのままにして机に突っ伏す。まだ昼なのに疲れたとため息をつくのだった。
時間は過ぎて放課後。何が起きるかが不安すぎて授業にも集中できず、気分を紛らわせようとしてもうまくいかず気分が沈むだけだった。
それにやっぱり逃げようと詩折は策を練っていたが相手が逃げることも視野に入れて待機されていたらそれこそ気まずくなるし今後マークされ続けることになる。一度で終わるならそれでいいじゃないかと、いあやそれでも面倒ごとの気配がするしと葛藤に葛藤を重ねているうちに件の放課後になってしまった。
逃げるための策を練る時間もなければ心構えをする時間も残されてはいない。どうしようと頭を抱えているとバンッ!と勢いよく教室の扉が開かれ、煩い音が教室内に響き渡る。あまりの音に驚き、びくっと肩が揺れる。
「依亥ー!いるかー!」
静かな教室には似つかない声量が耳を劈く。五月蠅い、とにかく五月蠅い。昨日会った時よりも迫力のある大音量に詩折は気圧される。そもそも放課後で部活や委員会のある生徒たちは教室をそそくさと出ていき、その他の生徒もHR後に全員教室から出ていっているため、今は詩折しかいない。当然詩折だけなので教室は静寂そのものだった。司が来るまではだったが。
「お、いるな!」
「いますよ…逃げたら何されるか分かったものじゃないですし」
「いや、別に何もしないが…。まあいい。今日は依亥に話があってだな!」
「話…?というか昨日会ったばかりなのに話って」
「まあそれもそうなのだがな。お前以上に適任がいないと思ってな」
「適任?」
いったい何の話をしているのかが詩折には見えてこない。昨日会ったばかりの人間に対して適任なんて言葉を使うことがあるだろうか。そもそも適任って何に対して適任と言っているのだろう。
話が見えてこず困惑している詩折を特に気にする様子もなく司は詩折を眺める。
「あの、何の適任なんですか?」
「…………」
「……あの?」
「あ、ああ、すまない。話を進めよう」
こちらを見ていた司が一瞬ぼーっとしていたが意識を戻し、話を戻すために咳払いして切り出す。
「俺にとって、いや俺達にとって大事なことで依亥に頼みたいことがあるのだ」
真剣な表情でこちらを見据える司の表情は真剣そのもので、先程までまとっていた空気とはガラッと違う印象が見て取れる。その様子に詩折は息を吞む。それと同時に昼間に考えていた何かに巻き込まれるのではないかと予感がよぎる。
「俺は四人でとある場所でショーをしていてな」
ショーという単語に心が跳ねる。思考が一瞬にして停止してしまう。今まで耳に入れないようにしていた類の言葉が目の前にいる司から放たれた。
「そこでは来る人々に笑顔を届けているのだ!」
聞こえてくる言葉が耳に入っているはずなのに頭には入ってこない。自信満々といったように胸を張っている。だが詩折にはその様子が正常に認識できない。
「だが一つ問題があってな。次に行うショーなのだが人手が少々足りん。そこでだ依亥!」
思考が、視界が歪む。平面の床に立っているはずなのに傾いているような感覚に陥る。平衡感覚が崩れ、よろけそうになるのを必死に耐える。
その先に司が放つ言葉は今の詩折でも察せられた。
「俺達の、ワンダーランズ×ショウタイムのショーの手伝いをしてはもらえないだろうか!!」
予想した通りの言葉だった。ここまで言われれば誰でも察しが付くだろう。当の詩折もそうだった。しかし、それは詩折にとっては一番聞きたくない言葉で、すぐにでも拒んでしまいたい言葉であった。
「……どうして私なんですか?」
「む?どうして、か」
倒れそうになるのを耐えて言葉を振り絞る。今の状態を面には出さないよう詩折は我慢しながら司の返答を待つ。司はうーんとうなりつつもこちらに向き直る。
「俺の感、というのもあるが、依亥であれば俺も予想のつかないくらいの演技ができるのではないかと思ってな!今こうして話していてもそれを実感した。お前ならばできるとな!」
何を感じて、どこをそう思って、予想を確信にまで変えているのかを詩折は理解できない。理解しようとしてもその要因も理由も一切心当たりがない。だから余計に頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
それに疑問が多すぎる。昨日話しただけでそこまで確信に至れるものなのかという疑問を口にしようとしたところで声がどこからともなく聞こえてくる。
『お前にその資格なんてない』
聞いたことのある声で、二度と聞きたくなかった声で音となって詩折に届く。忘れたはずの声が鮮明に響き、あの光景を呼び起こす。
見たくない
上手く空気が取り込めず、胸が酷く痛くなる感覚が詩折を襲う。
様子がおかしいことに気が付いた司が心配そうな表情で詩折を見つめている。
「お、おいどうした?どこか悪いのか?」
「い、え…だい、じょうぶです」
上手くできない呼吸を無理やり整え、何でもないように装う。だがどうやっても隠し切れないのか、司の心配そうな表情が取れることはない。
「あの、お願いの件に関してなんですけど」
「お、おお!ゆっくり考えてもらってもいいんだぞ!時間はまだあることだし、返答は後日でも」
「私には無理です」
「いい…………なんだと?」
てっきり受け入れられるものだと思い込んでいた司は予想だにしない返答が返ってきて素で反応してしまう。だが詩折はそんな様子の彼を見たところで彼女の中の答えは変わらない。
変わらないというより変えられない。彼女の中にあるものが願い事を受けることを全力で拒む。
「何故無理だと諦めるのだ?試してみないことにはわからないだろう?」
「いえ、試さなくても…すでに分かっていることなので」
「分かっているって…何を根拠に。とにかく考え直してはくれないか?」
「考え直すつもりはないです。私には無理なので他をあたってください」
司の優しい言葉を棘を感じられる言葉と語気で突き放す。
「そこをなんとか頼む!俺達は――――――」
「だから!!…………他をあたってください。それでは」
それでもなお引き下がろうとしない司を声を荒げて冷たく言い放つ。それ以上の問答は無駄だと詩折は司に背を向け教室を早足で去る。声を荒げて踵を返して出ていく詩折を司は追いかけることはできず、その場に立ち尽くすしかなかった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
教室を出て靴箱まで走ってきたがそこが限界だった。喘鳴が誰もいない昇降口に響く。静かな空間には似つかない、苦しそうな音が鳴りやまない。
肺に空気が送り込まれてこない。視界が明滅して立っているのも苦しくなる。
落ち着かせるために目を強く瞑り、大きく息を吸う。それでも入ってくる空気は少ないが先ほどよりはましになる。視界が正常に戻り、胸のあたりの苦しさが少し和らぐ。
喘鳴が鳴りやんだのはそれからすぐのことだった。
「なんで……」
嫌な予感は最悪の形で的中してしまった。思い起こさないようにしていたものまで掘り起こされ、静寂に保っていた心が荒れに荒れてもう戻らないほどまでに乱れてしまった。
こんなことになるなら逃げておけばよかったと馬鹿正直に話を聞こうとした過去の自分を責める。しかし責めたところで過去は変わらないし現状のこれは解決しない。
司の頼みごとを思い返す。
自分たちのやるショーの手伝いをしてほしい。詩折になら予想もつかないくらいの演技ができるはずだ。そう断言した司の表情は自信に満ちたもので信じて疑っていない、そういった様子だった。
だが―――――
「私には、その資格も」
そう呟きかけて教室で聞こえた幻聴がまた聞こえてくる。
『お前にその資格なんてない』
その声は詩折の心臓の鼓動を早めるが、先程まで酷くはならない。せいぜい呼吸が荒くなる程度だが、すぐに落ち着かせようとする。
「とにかく無理だ。できるわけがない」
未だ静寂にならない心を落ち着かせるように、諦めさせるように言い捨てる。
「荷物……いいや、スマホあるし」
昇降口まで下りてきたはいいが荷物を置きっぱなしにしたままであった。が、今の詩折に教室まで戻る元気はない。それにあんなことを言って突き放した矢先、司と鉢合わせるのが気まずく申し訳なくてしょうがない。
というより、単純に今は会いたくない。
スマホはポケットに入れてあるし、お金は電子マネーがある。今日をしのげば明日荷物は学校に来た時に回収できる。明日家から持って来るものは家にある手提げ袋にでも入れて持ってくればいい。
「帰ろ…」
足取りはおぼつかない、が歩けないほどではない。しかし安定しないのでタクシーでも呼ぼうかなと思いスマホを見るとそこには記憶にないものが映っていた。
【Untitled】
再生してないにもかかわらずロック画面に表示されている。
知らないはずのものがそこにある。しかし、今の詩折にはそれがなぜここにあるのか、いつからあるのかをなどとそこまで考える余裕がない。
というより考えようとしても考えがまとまりそうにない。今以上に面倒ごとになりそうな気がするので今は放置しようとスマホの画面を消してポケットにしまい込む。
乱れた心を一刻でも早く落ち着かせるため、ゆっくりだが歩きで帰路につく。
停滞はやがてゆったりと、だが確実に動き出す。荒れ始めた心はもはや完全な静寂には戻りそうにない。
詩折の追加プロフィールを載せておきます。
・依亥詩折
ゲームは一人用のRPGを好む。ストーリーを重視すると共にゲーム性も奥深く決して簡単ではないものを特に好む。今は新しいゲームタイトルを調べてはホームページを見て楽しんでいるという。
嫌いなもの・こと:笑顔