ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
古い蝶番の音が途切れ、扉は人一人分の隙間を残したまま止まっていた。
その隙間の奥から、乾いた土の匂いに混じって二種類の魔力が流れ出している。
片方は静かに深く、もう片方は甘く濁った死の気配を纏っていた。
ソリテールは左手で大剣を引き抜いた。赤黒い管が刀身へ絡みつき、脈打つように一度だけ膨らむ。
背後で、魔法使いたちが息を詰める気配があった。
「ソリテール、本気?」
唯一、フリーレンだけはソリテールへと一声かける。
いきなり本気で複製体の討伐に向かうなら、フリーレンがそこに付いていかない理由がなかった。
だが、ソリテールは軽く散歩をしてくるような調子で、大剣を手にした左手を軽く上げる。
「まさか。威力偵察、といった程度よ。どこまで再現出来ているか確認しないといけないわ――『
爆ぜるような音とともに、背後の空気が壁を叩いた。
ソリテールの身体は、砲弾のように扉の隙間へ射出される。
半端に開いていた扉板が衝撃で内側へ跳ね、蝶番が悲鳴を上げた。
床石を削る足音は、一歩きりしか鳴らなかった。
石張りの床を、翡翠の髪が一本の斜線を引いて横断する。
最奥の扉を守る二つの影のうち、片方だけが動いた。
刃が交差するーー金属の悲鳴。
刃と刃が噛み合い、火花が扇状に爆ぜた。
受け止めたのは、寸分違わぬ同じ形の大剣だった。
脈打つ管も、柄の擦り傷の一本まで同じ。
そして、それを支える腕も、左の一本きりだった。
肘から先を失った右。空になった袖が、風圧に煽られて同じ角度で跳ね上がる。
『
『
鍔元で噛み合った刃が、瞬きの間に何百度も離れ、また当たった。
歯を鳴らすような連打は、耳が一打ずつ拾い切る前に、一本の細長い持続音へ潰れる。
接触と離脱の一往復ごとに、噛み合わせの一点から不可視の刃が零れた。
同じものが、向かい側からも零れている。複製体もまた、同じ二つの魔法を、同じ位相で重ねていた。
生まれた斬撃は互いの中心線で正面から喰い合い散る。
潰し合いの余波だけが上下左右の別なく吹き散り、床石を舐め、天井の梁を薄く削いだ。剥がれ落ちた石片は、地面へ届く前に細かな粒へ変わる。
ソリテールの左頬が薄く裂けた。 血の玉が顎へ垂れた。
同じ瞬間、正面の複製体の左頬にも同じ長さの線が走る。
ソリテールは杖越しに干渉を試みるが、当然のように妨害され、大剣を斜めへ跳ね上げる。
互いの刃が弾かれ、押し合っていた力が解放された瞬間、両者の脚が同じ角度で床を蹴った。
離れ際、視界の端で土色が動く。
フリーレンの複製体が、既に杖先を向けていた。
閃光が連射される。
線ではなく面と呼ぶべき密度で、床を、壁を、空間そのものを抉りながら押し寄せてきた。
ソリテールは防御魔法を張らない。
宙に数十本の細剣が生じ、彼女を囲んで滞空する。
指を一度も動かさぬまま、それらが踊った。
斜めに走る刃が閃光を撫でて逸らし、腹を返した剣身が盾となって直撃を受け止める。
耐えきれず砕けた一本は、次の瞬間には新しい一本に入れ替わっている。
破裂音が連続し、金属の破片が硝子の雨となって床を叩いた。
被弾は一発もない。剣の位置は、着弾のすべてより数瞬だけ早く決まっていた。
そこへ、真横から別の剣群が滑り込む。
複製体の操る刃だ。角度も速度も、ソリテールが選ぶものと寸分違わない軌道で、首と脇と膝の裏を狙ってくる。
大剣の腹でまとめて薙ぎ払い、身体を捻って残りを見送った。
大剣を側に滞空させ、空いた掌を剣群へと向けてひらく。黒い雷光が数度弾けた。
『
黒い閃光が、四条。
滞空していた複製体の剣を根元から呑み、輪郭ごと融かして消す。
物質であれば貫通し、魔力であれば概念のまま融解させる極光。
同じ黒が、正面から返ってきた。
ソリテールは半歩だけ腰を落とし、肩を抜き、髪の先だけを黒に舐めさせて躱す。
翡翠色が一房、灰にもならず消え失せた。
黒閃が壁を舐め、床石が音もなく飴のように垂れる。
石の焼ける匂いに、髪の焦げる刺すような臭いが混ざり……突如、風が変わった。
『
床から大気が捻れ上がる。
石片と砂と剣の破片が巻き上げられ、天井へ叩きつけられて砕けた。
フリーレンの複製体が引き起こす、その渦へ、もう一体が魔法を重ねる。
『
渦を成す風のすべてが、刃に変わった。
単純で、致命的な合わせ技だ。
避けた先にも刃があり、壁際へ逃げても、壁ごと削られる。
壁は剥ぐように層で落ち、柱には数えきれない切れ込みが刻まれた。
逃げ場という概念が、数秒で消滅する。
ソリテールは散っていた剣をすべて呼び戻した。
剣先を外へ向け、自身を芯にして、円筒状に組み上げた刃の群れを高速で回旋させる。
『
甲高い摩擦音と共に、剣が空を切り、飛来した斬撃を同じ不可視で返した。
斬撃同士が噛み合って中和し、輪郭のない衝撃だけが皮膚を叩く。
即席の繭の内側で、ソリテールは竜巻の芯を見据え、掌を向けた。
黒い閃光を連射。
渦の中心を貫かれた竜巻は、支えを失って内側から爆ぜる。
石礫と土煙が広間全体へ吹き散らばり、視界が一瞬で灰色に潰れた。
その灰の中から、ソリテールの複製体と剣群が飛び出してきた。
回旋する剣群は、すべて外から止められる。
一本ごとに、鍔を絡めるようにギチギチと同じ形の刃が噛み合わされていた。
ソリテールは大剣を握り直し、柄を立て、複製体から振り下ろされた刃を鍔で受け止める。
「ーー。」
だが、狙いは剣ではなかった。
腹へーー魔力を纏った蹴りが入る。
肋の内側で骨と臓物がまとめて撓み、ソリテールの身体が腹から折り畳まれた。
踵が床を離れ、視界が横へ流れる。
背中が扉を捉えた。
古い木材が背骨の形に凹み、蝶番ごと引き千切れて外へ弾け飛ぶ。
ソリテールは、その勢いのまま通路を横断した。
轟音ーー土造りの壁が放射状に砕け、亀裂が天井まで走る。
砂と石粉が滝のように降り注いだ。
壁へ埋まったソリテールは、微笑みを崩さないまま、コフ、と喉から血が零れ、顎を伝って胸元へ落ちる。
折れた肋が肺を掻いている。その感覚を確かめるように、一度だけ深く息を吸った。
握った大剣を空間へ仕舞い、埋まっていた四肢を壁から引き抜く。
軽い音を立てて地面へ降り立ち、砕けた壁の粉を左手で払った。
視線を広間の奥へ戻すが、追撃は来なかった。
ソリテールを蹴り飛ばした複製体は、既に元の位置へ戻っている。
二体は最奥の扉の前に並び、こちらへ杖も剣も向けず、ただ静かに立っていた。
広間から一歩も出る気配がない、門番としての役に徹しているのだろう。
釣り出して門を破る隙を作る、という小細工は通じないようだ。
ソリテールは試すように、壁へ左手を添えた。
石壁を挟んだ向こう側、複製体へと不意打ちの要領で魔法を通そうとする。
その瞬間、壁の向こうで複製体が動いた。
どうやら迷宮の内側で起きることは、残らず筒抜けらしい。
「……」
ソリテールは軽い足取りでフリーレンの元に近づく。
デンケンやリヒターは呆れ顔だが、フリーレンは早速収穫を聞いてくる。
「で、あの複製について、何かわかったの」
「えぇ、個人的にわかったことが多くある。精神魔法は駄目ね、手応えがまるでなかった。遠隔操作型、あるいは自律型のゴーレムのようなものだと思うわ」
鍔迫り合いとなった際に拘束、精神、混乱、様々な魔法を試していたソリテールだが、その手応えは無かった。
フリーレンはそれを聞き意外そうな表情を浮かべる。
「お前、精神魔法なんて使えたの?」
「便利な魔法は習得しておくべきでしょう?余り巧くはないけれど、それなりに使える方だと自負しているわ」
魔族が人間の精神へと深く干渉できる練度まで精神魔法を修めるなど、共感性皆無のソリテールには不可能だが、今の対象は複製体。
それも自分自身を模したものとなれば、例外的に、その精度は精神魔法の熟練者と並ぶ領域へと跳ね上がる。
だが、それでも手応えがなかったのだ。
自意識と呼べるものが存在しないと考えるのが道理だろう。
デンケンが顎髭を撫でながら眉間の皺を深める。
「ゴーレムのようなものか。厄介だな」
精神性を有しないということは、感情がない。
それは怯みや怖じ気と言った、生物であれば当然存在する、付け入る隙が存在していないということだ。
深刻そうに考え込むデンケン達を他所に、フリーレンとソリテールは気楽そうにやり取りを続ける。
「そっちは、何かわかったの」
「あの門。その先が、まず間違いなく迷宮の最深部だ。『命がけで宝物庫を閉じる魔法』が施されている。たぶん、私の複製体の仕業だ。あの扉は術者が死ぬまで開くことはない」
「解析は出来んのか?」
「無理だと思う。記憶まで読まれているとしたら、術式に細工をしているはずだ。乱戦で注意を引きつけるにしても時間が足りない」
リヒターが脚を崩し、身体の向きをフリーレン達へと傾ける。
「術者がいるのならば位置を特定し、倒すことが鉄則なんだがな……」
複製体が迷宮の罠やギミックではなく、何者かに産み出された存在だと仮定すれば、その術者本体を叩くことが最も効率的だ。
だが、リヒターはこれと言った動きを見せず、考え込むばかりだった。
「なにがいるかは知らんが、相手が考えることの出来る生物であるなら、所在など考えるまでもない」
全員が扉の奥、複製体二体に守られる門へと視線を向けた。
相手からすれば、最も警戒するのも本体への直接攻撃。多少でも知恵があれば、絶対的な安全圏を構築し引き篭もる戦略を取らないはずがない。
つまりは正攻法以外の選択肢は、迷宮に潜った時点で封じられているということだ。
全員が押し黙った所で、ソリテールは案を通そうと口を開く。
「あの扉を破るわ」
「リスクと条件付で強度が底上げされている。それに加えて、お前の魔法も重ね掛けされているはずだから……強引に突破するのは、難しいだろうね」
複製体のスペックはソリテール自身がその身で確認した通り、本人との差は存在していない。
経験、行動、全てが鏡写しだ。当然使用出来る魔法も全て写し取られているだろう。施せる防衛手段全てであの門はガチガチに固められているという訳だ。
策なしの特攻など愚策もいいところだ。フリーレンは諌めるように否定する。
が、口角は若干浮いており、反論を待っているかのようだった。
「いいえ、出来るわ」
ソリテールは意見を曲げない。
先程の戦闘で、あの複製体には致命的な問題があることに気づいていた。
ソリテールが切り札の一つとして持ち得る手札の一枚をーー向こうは有していなかったのだ。
「十秒、時間稼いで。それで全部終わらせるわ」
十秒。ただそれだけで、この局面を畳むと言い切った。
フリーレンは無言で杖を構え立ち上がる。賛成、と言わずとも、それだけで全員に伝わった。
メトーデが数秒考えた後、ソリテールに笑みを見せ質問する。
「我々が命を預ける訳ですが。成功の自信はいかほどですか?ソリテールさん」
「必ず成功させるわ」
ソリテールはメトーデと目を合わせ、そう言い切る。
メトーデは軽く、結構です、と呟くき、フリーレンと同じように立ち上がり杖を構える。
デンケンはせめて作戦内容くらいは話せと視線で圧をかける。
リヒターも同調するように、その圧へと声を重ねる。
「何をどうするか。それも分からず協力などできるものか」
「力尽くで、吹き飛ばすわ」
ラオフェンは少し可笑しそうに笑うと、賛成したと立ち上がる。
慎重な中年と老体と違い、ラオフェンには危険に挑む血の気と無謀さがあった。
多数決で考えれば、賛同が半数以上で可決だ。
この場で数に従う意味は無いが、デンケンは元々ソリテールに協力する気があった為、これ幸いと腰を上げる。
「はぁ……。儂はソリテールの複製体を抑える、ラオフェン、お前は若い、ソリテールの複製体へは近づかず、フリーレンの方の注意を引きつけろ」
「私もソリテールさんを抑えます。フリーレンさんはご自身の複製体を相手取るほうがやりやすいでしょうか?」
「そうだね。拮抗へもっていくこと自体は簡単だよ」
唯一リヒターだけが、こいつら正気か?と、でも言いたげな目を向けている。
これだけ居れば、時間は余裕で稼げるが……ソリテールは、敢えてリヒターの方を向いて見下ろす。
「参加したくないなら、いいわ。だけど……ーー最奥にはいかせない。言ってる意味、わかるかしら?リヒター」
笑顔でそんなことを宣うソリテール。
こっちが先に試験を合格したら、全力で邪魔してやるという嫌がらせ宣言だ。
ここまで苦労して来て、邪魔されて失格など洒落にもならん。
迎え撃とうにも、リヒターには眼の前のソリテールを出し抜き、無事試験クリアまで漕ぎ着ける気がしなかった。
説明不足にも程がある。
到底正気ではない作戦モドキだが、リヒターは重い溜息を吐き立ち上がった。
「私を信用してくれたのね。嬉しいわ、リヒター。今度、お話しましょう」
「おい、誰か。こいつの知り合いはいないのか、性格が悪いにも程があるぞ」
リヒターは無作法に、コイツ呼びでソリテールを指さす。
だが、全員首を横に振り、赤の他人のフリをする。
唯一ラオフェンだけが、知らないと律儀に返事を返していた。
◇◇◇
フリーレンを先頭に、メトーデ、デンケン、リヒター、ラオフェンの五人が一斉に広間へ突入した。
それを戦端の合図として、最奥に立つ二体の複製体も同時に動いた。
フリーレンの複製体の周囲では青白い魔力光が明滅し、もう一体の背後には、空間を押し退けるように展開された剣が動く。
フリーレンが杖を振るうと、複数の一般攻撃魔法が間隔なく放たれた。
杖を携えた複製体も寸分違わぬ速度で応じ、互いの閃光は広間の中央で正面衝突する。
白い火花が網の目となって空間へ広がり、左右の壁へ弾け飛んだ。
その光に紛れ、ソリテールの複製体が剣群を射出する。
剣は僅かな時間差を伴って複数の軌道へ分かれた。
正面から防御を強いる刃、その陰に隠れて首や手足を狙う刃、回避先を塞ぐように壁や床を這う刃。
さらに剣群の隙間を縫って、黒い閃光が音もなく迫る。
事前にソリテールから受けた説明は二つのみ。
黒い魔法は防御せず回避すること。
直線上に立たず、生存第一で時間を稼ぐこと。
デンケンたちは、事前に告げられたとおり防御を選ばなかった。
ラオフェンが高速移動で射線から離れ、メトーデも地面すれすれまで姿勢を落として黒い極光の下を潜り抜ける。
デンケンは飛行魔法で上空へ逃れ、リヒターは岩壁を生じさせると同時に横へ跳んだ。
直後、黒い極光が岩壁へ触れる。
衝突音もなく岩壁は、その箇所だけが存在を失ったように円形へ抉れ融解する。
数瞬前まで誰かが立っていた場所には、向こう側を見通せるほど滑らかな穴だけが残されていた。
それでも五人は足を止めない。
リヒターが床へ掌を当てると、複製体の足元から無数の岩柱が突き上がった。
複製体は大剣で正面の柱を切断するが、その動きに合わせてデンケンの光矢が四方から降り注ぐ。
滞空していた剣が光矢を迎撃し、金属と魔力の炸裂音が連続して広間を震わせた。
さらにメトーデの拘束魔法が大剣へ絡みつき、その軌道を僅かに鈍らせる。
生じた隙へラオフェンが飛び込み、複製体の背後へ杖を叩きつけようとした。
杖が頭部へ届く寸前、複製体の身体が反転する。
振り抜かれた大剣が、ラオフェンの胴体を横一文字に捉えようと迫った。
「ラオフェン!フリーレンの方だと言っただろう!」
「こっちの奴に背中を狙われてて行けないんだよ、爺さん」
彼女は高速移動で間合いを外したが、逃げ遅れた前髪が刃に触れ、数房まとめて切断される。
大剣はそのまま岩柱へ食い込み、抵抗らしい抵抗を受けることなく、巨大な柱を斜めに両断した。
痛みも恐怖もなく、自らの損傷すら勘定に入れず、ただ最適な手順で侵入者を殺しに来る。
生物の形と経験だけを写し取り、生存本能を持たない複製体は、防御を捨てるべき瞬間に一切の躊躇を見せなかった。
フリーレンの複製体も同様だった。
フリーレンが牽制として放った魔法を受けながら、判断に鈍りが起きない。
魔法が幾重にも交差し、広間の上空で衝突を繰り返すたび、白い爆炎と衝撃波が天井を削り取った。
砕けた石片は雨のように降り注ぐが、その多くは地面へ届く前に次の魔法へ巻き込まれ、細かな砂へ変わり飛ばされていく。
その激戦の中を、ソリテールは最奥の門へ向かって歩いていた。
空の袖が、魔法の余波に煽られて激しく揺れる。
剣や閃光が何度も傍らを掠めても、その歩調は変わらない。
フリーレンたちが十秒を稼ぎ切ることを、最初から疑っていない足取りだった。
ソリテールは、己の複製体を横目で見ながら、傍らへ浮かべた大剣を左手の甲で軽く叩いた。
大剣の側面から、管で接続された聖典と硝子瓶がゆっくりとせり出した。
「やっぱり。向こうは、使えないのね」
ソリテールが聖典へ魔力を流す。
魔力が大剣の内部を走る管へ流れ込み、組み込まれたものへと染み渡っていく。
鼓動に似た振動が刀身から伝わり、刃を覆う肉塊が生物のように収縮を繰り返した。
古びた頁が風もないのに捲れ、刻まれた文字列が緑色の光を放ち始めた。
女神の魔法。
それこそが複製体には使用できない、ソリテール本人だけが持ち得る切り札だった。
ソリテールは、女神の魔法を前提として組み上げた戦略を複数有している。
そのいずれもが、大抵の相手に対し、ほぼ確実な優位を作り出せるものばかりだ。
だというのに、先ほどの交戦で複製体は女神の魔法を一度も使用しなかった。
死を恐れず、被弾にも頓着しない土塊の人形であれば、温存する理由などない。
使えば優位を取れる状況で、それでも使わなかったのだ。
使わないのではないーー使えない。
ソリテールは、あの短い攻防の中でそう結論づけていた。
記憶、魔法、経験。
複製体は、ソリテールを構成するそれらの要素を、寸分違わず模倣している。
大剣の形状も、内部機構も、組み込まれた肉体も同じであるはずなのに、何故か女神の魔法だけは発動しない。
その理由は、ソリテールが取り出した聖典と、赤黒い管で繋がる硝子瓶にあった。
「強さとは……既存の倫理や常識をどれだけ超越出来るかにあるわ」
流れ込む魔力へと呼応し、大剣が心臓のように大きく脈打った。
緑色の光が更に強くなる。
「女神の魔法を行使するには、三つの大原則が存在する。一つ聖典の所持。二つ加護を受けし肉体。そして三つ――信仰深い魂」
硝子瓶の中は、空虚な空間があるだけで、液体も物体も確認できない。
それでも、瓶は内側から押されるように……見る者に、まるで細かく震えているかのような錯覚を与える。
そこに封じられているのは、ソリテールがこれまで集めてきた、高位聖職者たちの魂だった。
女神の寵愛を受けるに相応しい信仰を宿した魂が、硝子瓶の許容量を埋め尽くすほど押し込められている。
加護を受けた肉体として組み込まれているのは、アインザームが鍛え上げた、監獄所の副所長を務める者から無断で複製した脳の一部と心臓である。
ソリテール自身には、女神の魔法を扱う適性など一切ない。
だが、組み込まれた脳と心臓が加護を受けた肉体の役割を果たし、瓶へ封じた魂が信仰心を担い、聖典が女神の魔法へ至る術式を与える。
つまり……ソリテールの扱う女神の魔法は、三つの大原則を完全に外部へと依存することで実現しているのだ。
どれか一つでも欠けていれば、女神の魔法は発動し得ないのであれば、方法を問わず全てを揃えればいいだけだ。
「ある程度の再現までは出来ても、魂までは複製出来なかったようね」
ソリテールは広間の中央へ立ち、最奥の門を見据えた。
——五秒経過。
ソリテールは浮遊する大剣を身体の右側へ移し、空いた左手を広げた。
直後、残存魔力の四分の一が掌へ集中していく。
集められたのは、術式も与えられていない純粋な魔力だった。
魔力そのものは無色透明であり、肉眼で色を捉えることはできない。
それでも、常軌を逸した密度で球形へ圧縮されたことで、掌の上にある空間だけが水晶玉のように歪み、背後の光景を大きく屈折させている。
周囲を漂っていた砂粒が見えない表面へ触れた瞬間、音もなく弾き飛ばされ、その輪郭だけを浮かび上がらせた。
ソリテールは、大剣を介して聖典へ注いでいた魔力の流れをさらに強める。
「私は七崩賢のような特異な魔法を持たない魔族だけれど。これは呪いと称してもいいと、私は思うの」
左右に浮かぶ魔力の塊。
右に浮かぶのは、この世界から最も遠い力。神域より零れ落ちた、この世から逸脱した、未知と特異性に満ちた神聖な魔力。
左に浮かぶのは、この世界に最も近い力。大気にも、土にも、生命にも等しく満ちる、普遍的魔の根源。
性質も、成り立ちも、存在する階層すら異なる二つの力が、ソリテールを挟んで浮かんでいた。
「女神の加護、あるいは緑色の魔力には、魔法や呪いを退け反発する特性があるの。それらは、極限まで近づいた瞬間……対消滅ともとれる作用を引き起こす――『調律』」
ソリテールは、左手に浮かぶ透明な魔力球を、右側で輝く聖典へ近づけていく。
両者の間隔が狭まった瞬間、左腕に抵抗が生まれる。
聖典を介して生じた魔力が、接近してくる高密度の魔力と弾き合う。
何もないはずの空間に見えない壁が生じ、磁石の同極を押し合わせたような強烈な反発が、ソリテールの掌を外側へ押し返した。
それでもソリテールは、左腕を止めない。
左右の魔力を制御し、絶妙な出力で押し込んでいく。
距離が縮まるほど反発は強まり、掌の皮膚が内側から裂け、指の間から滲んだ血が、白い蒸気となって消える。
大剣へ組み込まれた複数の脳部位が並列して演算を続け、二つの力の位置と密度を寸分違わず調整する。
反発によって僅かにでも軸がずれれば、圧縮された魔力球は横へ弾けることは必然。
透明な魔力球と、緑色の光が接触する。
瞬間、二つの力の境界から、目を焼くほど眩い白光が弾けた。
女神の魔力が、触れた魔力の構造を消滅させていく。
本来であれば、両者は反発によって離れ、消滅反応もそこで終わる。
しかし、反発する二つの力を同一座標へ固定し、消滅すればするほど、残る魔力をさらに圧縮して接触面へ送り込んでいく。
概念の異なる二つの力が反発の限界を越え、互いを喰らうように対消滅を始めた。
接触点では白い極光が激しく点滅し、そこから漏れ出した白電が雷のように床と天井を往復する。
空気が焼け、床石が触れてもいないのに蜘蛛の巣状へ陥没し、砕けた岩や砂が重力を失ったように宙へ浮かび上がった。
これらは、サヤから教わった数多の概念知識を、ソリテールがこの世界へ成立し得る形へと落とし込んだ産物。
消滅した質量と、生み出されるエネルギーの等価関係。
双方が失われる際に生じる莫大なエネルギーを、熱や光として散逸させず、一点へ留め続ける。
点滅する白光は、魔力でも神聖な力でもない、新たなエネルギーへと変わり始めていた。
——八秒経過。
白い点滅の間隔が急速に短くなり、やがて明滅の境目が見えなくなる。
緑色の輝きも透明な魔力球も、互いを消滅させながら白一色へ塗り潰され、その中心で小さな光球が脈打つように膨張した。
広間全体を、地鳴りに似た振動が揺さぶる。
床へ刻まれた亀裂がソリテールを中心として放射状に広がり、壁から剥がれた石材が地面へ落ちることなく空中で震え続けた。
白電が一度大きく爆ぜるたび、周囲の空間が押し潰されたように歪み、複製体も含め、その場にいる全員の視界が焼きつくほどの極光で覆われる。
フリーレンたちの放つ魔法も、複製体が振るう剣も、白い明滅の中では黒い影のようにしか見えない。
それでも激突音だけは途切れず、剣と魔法がぶつかる衝撃が、地鳴りへ幾重にも重なっていた。
何度目かの大きな明滅が広間を真白に染め、天井から大量の砂塵を降らせる。
——九秒経過。
光が薄れる。ソリテールの目前には、両手で包めるほどの小さな白い光球が浮かんでいた。
先ほどまで存在していた魔力は、既にどこにも残っていない。
光球の表面では白電が絶え間なく弾け、周囲の空間を細かく歪ませている。
それは魔法のような外見をしていながら、魔力探知には何一つ映らなかった。
ただ白い光がそこにあり、周囲の空気と物質を、触れる前から軋ませている。
正体を知覚できなくとも、生物としての本能だけは理解できた。
あれへ触れてはならない。
あれが解放される直線上へ、存在してはならない。
理由も理屈もなく、ただ死そのものへ直面した時のような拒絶感が、広間にいる者たちの全身を走った。
——十秒経過。
白い極光から視界を取り戻した二体の複製体が、一斉にソリテールへ向かう。
フリーレンの複製体は、魔法を身体で受けながら、ソリテールへ照準を向けた。
ソリテールの複製体も、デンケンたちの攻撃によって身体を削られながら包囲を突破し、剣を振り上げて接近する。
だが、既に遅い。
白い光球から最奥の門へ至る方向へと、指向性を一点へ収束させていた。
まるで極限まで膨らませた風船へ、針の先ほどの穴を開けるように。
閉じ込められていた莫大なエネルギーへ、唯一の出口を与える。
ソリテールが左手を光球へ添えた瞬間、純白の輝きが前方へ収束し、極大の極光となって一斉に放出された。
「さぁ、楽しんでーー『
瞬間、世界が白へ塗り潰されーー音が先に消えた。
鼓膜が拾える限界を越えた振動は、もはや音として認識されない。
頭蓋の内側を直接殴りつける圧力だけが、思考を白紙へ叩き潰していく。
遅れて、聴覚ではなく骨が轟音を理解した。
純白の奔流が、進路上のあらゆるものを存在ごと消し飛ばしていく。
燃えるのでも、砕けるのでもない。石も、鉄も、魔力で編まれた障壁も、等しく光へ均されて後に何も残さない。
それは魔力でも魔法でもない、純粋な超エネルギーの暴力だった。
物理防御も、魔法も、意味を成さない。最奥を守る門は、抵抗という手続きすら踏ませてもらえないまま、輪郭ごと白へ融けた。
一瞬だけ、宝石質の外殻を持つ魔物と、その周囲に広がる黄金色の輝きが、白い奔流の中へ映り込んだ。
しかし、それが何であるかを認識する暇すら与えられないまま、迷宮の主は光へ溶けて消えた。
極光はなおも勢いを失わず、土砂と岩盤を一直線に貫いていく。
無数の破砕音と、削り取られた岩盤の悲鳴、急激に押し退けられた大気の鳴動が重なり合い、広間そのものを内側から揺さぶる巨大な重低音へ変わる。
壁面に亀裂が走り、天井から剥がれた土砂が雨のように降り注ぐ中、デンケンたちは咄嗟に防御魔法を展開したが、それでも身体を支え切れず、余波に押し流されるように壁際まで弾き飛ばされた。
極光はそのまま地中を抉り抜き、向かいの山腹へ巨大な円孔を穿ち、雲を突き破って成層圏の彼方へ消えていく。
光が収まった後、しばらく誰も動けなかった。
網膜に焼きついた白い残像が視界を覆い、耳の奥では甲高い耳鳴りが続いている。
崩れた天井から落ちる土砂の音も、罅割れた床石が沈む音も、水中で聞いているかのように遠かった。
広間には焼けた岩と金属の臭いが充満し、空いた大穴から流れ込む外気だけが、熱を帯びた頬を冷たく撫でていく。
やがて白い残像が薄れると、先ほどまで門があった場所の先から、朝の陽光が真っ直ぐ差し込んでいた。
その先には迷宮の壁も岩盤も存在せず、中心を円形に抉られた山と、そのさらに向こうに広がる空までが一望できる。
未踏破だったはずの零落の王墓は、最深部へ至る道ごと一本の巨大な空洞へ変えられていた。
発射地点に立つソリテールは、聖典を大剣の内部へ押し戻す。
白電を纏っていた光球は既に消え、残っているのは焦げた床と、空になった右袖を揺らす熱風だけだった。
ソリテールは倒れた魔法使いたちを一瞥し、陽光の差し込む大穴へ歩き出した。
静けさを取り戻しつつある広間に、軽い靴音だけが一定の間隔で響く。
かつて門だった境界を越えたところで足を止め、入口付近から呆然と惨状を見つめていた試験官ゼンゼへ振り返る。
そして、何事もなかったかのように小首を傾げた。
「合格かしら?」