ソリテール様結婚しましょう…貴方が旦那様です。 作:ごすろじ
零落の王墓、その最深部。
崩れた天井から細かな砂塵が降り続けていた。
つい先ほどまで最奥を封じていた門は跡形もない。
ソリテールの放った極光は門だけでなく迷宮と山腹を一直線に貫き、巨大な円孔の向こうに青空さえ覗かせている。
焼け爛れた広間を、第二次試験の試験官であるゼンゼが歩いていく。
倒れた受験者たちの状態を確認し、周囲を見渡した後、ソリテールへと視線を向けた。
ソリテールは、極光の余熱に揺らぐ景色の中に立っている。
空になった右袖が、山腹から吹き込む風に揺れていた。
ゼンゼは彼女へと歩み寄り、淡々と告げる。
「この場にいる全員、第二次試験合格だ」
「……よかった」
言葉だけを拾えば、試験官と合格者のありふれた応答だった。
しかし、二人の間に合格を喜ぶ空気などない。
ソリテールとゼンゼは視線を合わせたまま、互いを中心に円を描くようにゆっくりと歩き始めた。
一歩ごとに距離は変わらず、どちらも決して相手から目を逸らさない。
ゼンゼの長い髪が、浮かび上がる。
ソリテールも左手へ大剣を呼び戻し、柄を握り直した。
崩れ落ちた広間の壁際では、余波に吹き飛ばされたフリーレンやデンケンたちが、砂塵を払いながら身を起こそうとしていた。
リヒターとラオフェンは打ちどころが悪かったのか、完全に意識を失っていた。
ソリテールは一瞬だけ視線を流し、それだけでフリーレンとデンケンを制した。
動かなくていい。
そう告げる眼差しだった。
フリーレンは不快そうに眉を寄せたが、杖を構えることなく成り行きを見守る。
デンケンもまた、すぐには介入せず、ソリテールとゼンゼの間に満ちる張りつめた空気を見定めていた。
「最終試験は、今から?」
「……予想できていたことだろう?」
今更、言葉を重ねるまでもない。
一方は、フルーフを奪還するためにゼーリエのもとへ向かおうとする大魔族。
もう一方は、大陸魔法協会の長から直接命を受けた一級魔法使い。
互いの目的は、初めから相容れない。
「そうね」
その一言が戦端となった。
ゼンゼの髪が一斉に硬質化し、数え切れない斬撃と刺突となって放たれる。
空気が裂けた。
ソリテールは大剣を逆手に持ち、迫る髪を刃の腹で逸らす。
金属同士を打ち合わせたような甲高い音が、広間へ連続して響いた。
ゼンゼは近距離戦を得意とする魔法使いだ。
髪を操る魔法は、術式を構築してから攻撃へ移るまでの時間が極端に短い。思考とほぼ同時に、斬撃が殺到する。
対するソリテールも近距離戦へと対応できる。
だがそれは、複数の魔法と剣の精密制御を組み合わせることで実現した、戦士の模倣に過ぎない。術式の構築から発動まで、どうしてもゼンゼより一歩遅れる。
まして今のソリテールは片腕を失い、魔力も残り少ない。
長期戦になれば不利だ。
故に、守りへは回らない。
被弾を承知で、真正面から突き進む。
一本の髪が腿へ突き刺さった。
別の一房が脇腹を浅く切り裂き、血が衣服を濡らす。
それでも足は止まらない。
もともとの距離が近かったこともあり、数度の斬撃を受けるだけでソリテールはゼンゼの懐へ潜り込んだ。
大剣の切っ先が、ゼンゼの首筋へ突きつけられる。
薄皮が裂け、赤い線が垂れた。
「悪いな。お前の相手は私ではない」
ゼンゼの表情に焦りはなかった。
その長い髪の一房には、いつの間にか小瓶が握られていた。
瓶は既に砕かれている。
ソリテールの左肩へ、ずしりと重い掌が置かれた。
首だけを僅かに巡らせる。
背後に立っていたのは、瓶から解放された筋骨隆々のゴーレムだった。
石とも土ともつかない指が、逃さぬとばかりに肩へ食い込んでいる。
ゼンゼとの攻防へ意識を割いた、あの一瞬の間に起動していたのだろう。
「――やられたわ」
ソリテールが薄く笑った、その直後。
空間が一瞬だけ歪んだ。
シュン、と短い音を残し、ゼンゼとソリテールの姿が広間から掻き消える。
後に残ったのは、舞い落ちる砂塵と、床石へ点々と散った血痕だけだった。
二人が消えた空間を、フリーレンは無言で見つめている。
やがて杖を握り直し、山腹まで貫かれた大穴の先――差し込む陽光を浴びながら、下方に広がる森林の方角へと目を向けた。
◇◇◇
転移直後、ソリテールの視界は黒一色へ塗り潰された。
だが、闇ではない。
無数の黒金の羽根が、眼前を埋め尽くしている。
ソリテールは反射的に大剣の腹を立てた。
羽根と刃が擦れ合い、ギャリギャリと耳障りな音を上げる。
火花が顔の前で連続して爆ぜ、黒金の羽根がヤスリのように大剣を削っていく。
最初の攻撃を大剣で受け流した直後。
足元へ落ちたソリテール自身の影が、急激に輪郭を変えた。
ぼやけていた黒が鋭利な鞭となり、額を断つ軌道で跳ね上がる。
ソリテールは咄嗟に身を捻ったーーなんとか、急所からは逸れた。
しかし避け切ることはできない。
冷たい線が右頬から額へ走る。
斬撃は眼球を深々と裂き、眼窩の奥まで達した。
視界の右半分が、赤黒い闇へと沈む。
温かな血が傷口から溢れ、頬を伝って顎先から滴り落ちた。
痛覚を認識するより早く、ソリテールは魔力を脚へ圧縮する。
爆発的な踏み込みによって足元の土ごと影を破壊し、同時に大剣を振り上げて黒金の羽根を弾き飛ばす。
ようやく視界が開けた。
青空。鬱蒼と生い茂る森林。
そして、ソリテールを包囲する魔法使いたち。
左目で確認できるだけでも、ゼンゼ、ゲナウ、そして影を操る一級魔法使い。
魔力探知で捉えられる反応は十を超えている。
その大半が、ゆらぎの練度から見て二級以上だろう。
完全な待ち伏せだった。
いずれは、こうなることは予測できていた。だが――随分な大所帯での歓迎である。
ソリテールが全員の位置を把握し終えるより早く、別方向から魔法が押し寄せる。
炎。雷。圧縮された風。
灼熱が全身を包み、髪と皮膚の焦げる臭いが鼻腔を塞ぐ。
雷が皮膚を貫いて内臓まで焼き、続く風圧が骨格を内側から軋ませた。
ソリテールの身体が宙へ浮く。
次の瞬間、背中が大樹へ激突した。
幹が中央からへし折れ、乾いた木片が辺りへ飛び散る。
肺から空気と血がまとめて押し出され、 喉を逆流した血が舌の上へ広がる。
鉄と、焦げた炭の味。
飲み下すと、焼けた食道が内側から引き攣れた。
耳の奥では甲高い音が鳴り続け、包囲する魔法使いたちの声も、風の音も、水の底から聞いているように遠い。
ソリテールは折れた木を背に、そのまま地面へ滑り落ちる。
表情は動かないまま、口元から血を垂れ流す。
焼けた肉体の損傷を確認し、残る魔力を測る。
右腕の欠損。右目の喪失。全身の火傷に、雷による内臓損傷。
そして、魔力残量は……総量の二割程度。
生存へ繋がる芽は、ほとんど残されていない。
だが、それは諦める理由にはならなかった。
ソリテールは大樹へ背を預けたまま、左手を地面につく。
立ち上がろうとした、その時だった。
膨大な魔力が現れる。
ただ大きい、などという表現では足りない。
魔力探知による知覚が、たった一人の反応で塗り潰された。
森も、地面も、空も。
すべてがその魔力の内側に沈み、探知という概念が曖昧になっていく。
周囲にいる一級・二級魔法使いたちの魔力反応が、広大な海へ落ちた砂粒のように見えなくなった。
ソリテールが本来持つ魔力総量でさえ、比較することが馬鹿らしくなる。
呼吸が止まった。筋肉が硬直する。
心臓だけが、生存本能に突き動かされ、壊れそうなほど激しく脈打っている。
戦えば死ぬ。そんな次元ではない。
逆らうという選択肢そのものが、生物の思考として成立しない。
身体を動かすな。刺激するな。視線を合わせるな。
ただ平伏し、この場をやり過ごせ。
魔族としての本能が、絶叫に近い警告を全身へ叩き込んでくる。
身に覚えのある魔力だが、先日の制限時の魔力とは文字通り桁が違うーーしかし、それでも……身体は動いた。
大剣の柄を握り直そうとしたが、それより早く弾かれ、粉々に砕けた。
赤黒い管が千切れ、脈打っていた肉塊が細かな肉片となって降り注ぐ。
どうやら、心を完全に折りにきているようだ。
その魔力の中心から、小柄なエルフが歩み出た。
「……ゼーリエ」
ソリテールは木を背にしたまま、口元を動かした。
微笑んだつもりだった。だが、焼け爛れた頬からは何の感触も返ってこず、それが笑みの形をしているのかどうか、自分では確かめようがなかった。
「初めまして。私はフルーフの旦那様。遅れたけれど、結婚の挨拶に来たわ」
掠れた声には、普段のような余裕がない。
「私の奥さんを返してくれない?」
ゼーリエは感情の読めない目で、血塗れの魔族を見下ろした。
「状況が見えていないようだな。嬲る真似はしない。大人しくしておけ」
「……そう」
ソリテールは潰れた右目を伏せ、残った左目だけでゼーリエを見据える。
血が瞼を塞ごうとするのを、瞬きだけで押し返した。
「随分と情け深い。……いえ、違う。フルーフへの罪悪感を抱えているのね。切り捨てたはずのものまで惜しむだなんて。やっぱり人類は面白い」
視線が自然と天を仰ぐ。
「理解できず、不合理で満ちている。本人にその良心を向けることなく、間接的に私へ向けて、苦しみから逃れようとしているの?」
血で詰まる肺へと一拍、息を入れる。
「話で聞いていたよりも……不器用で、残念な人ね。大魔法使いゼーリエ」
「くだらん」
ゼーリエの声に揺らぎはない。
「お前がいては、あの子が死ぬに死ねないだけだ。だからこそ、ここで確実に殺しておく」
「フルーフの様子はどう?」
「聞いてどうする」
「聞かないと、何か仕出かすかもしれないわ」
「何もしていない。自身の延命以外のことは、何もな」
「約束を信じてくれているのね」
ソリテールは、ほんの僅かに表情を緩めた。
それが安堵なのか、満足なのか、自分でも分かっていない。
「私は……駄目ね。怖気づいて、動けないわ」
動いていたはずの身体が、地面へ縫い止められたように応じない。
武器の喪失、それに伴う諦念と恐怖が全身を支配している。
だが、震えることも命乞いをすることも決してない。
それは約束の一部として先約済みだ、口から漏れることはない。
「怖気か。その顔でよく言う」
「私?」
ソリテールは動かぬ指先を、どうにか顔へ持ち上げた。
自分の頬へ触れる。
「今、どんな顔をしているか教えてほしいわ。感覚がないの」
「今にも私の喉元へ噛みつき、殺したくて仕方がない。そんな顔をしているぞ」
ソリテールは指先で口角を押し上げる。
いつもの温和な笑みに、形だけを整えた。
「まさか。私は争いを好まないの」
「やはりお前も魔族だな。自分自身を嘘で塗り固めているのか」
「嘘から始まる真。そんな言葉もあるでしょう?」
ソリテールは木の幹へ左手を押しつける。
立とうとする。だが膝は動かない。
ゼーリエの魔力を感じ取るたび、脚の筋肉が命令を拒絶する。
屈しろ。抗うな。本能が繰り返す。
その声を、ソリテールは否定しなかった。
だが同時に、フルーフと交わした約束を思い出す。
――本当に駄目だと思った時、私が必ず助けに来ると、ただそう信じて。
口にした言葉。結んだ約束。選んだ役割。
私は旦那様。
旦那様は、愛する奥さんを迎えに行くもの。
それは人間の書物から拾った借り物の定義に過ぎない。
だが、例えそうだとしても……そう行動すると決めている。
「私は、私の嘘を嘘だとは思っていないの」
霞む視線の先で、ゼーリエが掌を向ける。数多の魔法陣が連なり、魔力が収束していく。
空気が押し退けられ、周囲の下草が一斉に外側へ倒れた。
あの一撃を直に貰えば、絶命は避けられない。
最初から、こうなることはわかっていた。予想などという曖昧なものではない、来る前から確信として抱えていた光景だ。
フルーフの奪還など自殺同然の行為だ……らしくないことをしたと、苦笑が鼻から漏れ出る。
だが、ゼーリエの底は見えた。
この桁違いの総量こそがゼーリエの本来持ち得る魔力。
収穫はあった。
故に歩みは止めない。自己の保存を上回る何かに押されて、気づけば尚も動くことが出来るようになっていた。
思考が加速する。
死の直前だからこそ、余計な計算が全て振り落とされ、遠い記憶が浮上してくる。
時空干渉、不可逆性の原理の超越。
未だ魔王軍が存在していた頃の記憶だ。
未来から時空を超えてやってきたフリーレン、あの現象を活用出来れば……長い道のりになるだろうが、活路を見いだすこともできるだろう。
可能なはずだ。
女神の魔法に関する知識はアインザームが持っている。フリーレンもいずれは石碑に辿り着き過去へと渡るだろう。
だからこそ、ここで死ぬわけにはいかない。
魔力を持ち越せないかもしれない、だが、魔法を更に極め、研究し知識を持ち越すくらいは出来るはずだ。
今が駄目だというのなら、潔く引こう。どれだけ無様を晒しても生き残る。
だが、それは歩みを止めることを意味しない、この現実を覆せないのであれば――全てを未来に賭ける。
縫い止められていた身体が、軋みを上げて動き出す。
ソリテールは木の幹へ左手を滑らせ、体重ごと膝を土へ落とした。
骨が地面を打つ鈍い音。貫かれた腿から血が押し出され、土へ黒い染みを広げていく。
「大人しくしていろ」
ゼーリエの眉が不快そうに跳ねた。
「何故まだ動く。あの子のためだとでも言うつもりか」
ソリテールは素直に首を横へ振る。
嘘で欺き、油断を誘う、それが魔族だ。だが、ソリテールは愛と呼ぶべき行動に嘘は吐かないと決めている。
圧倒的絶望に対し、強者へと噛みつく精神を、その意識のあり方を、他者の愛を通じて知っている。
置いていかれた者の末路を幾多も学習し知っている。
例えこれが自己暗示の条件反射であり、感情の伴わない生体活動なのだとしても、まだ立つことは出来た。
精神が肉体を超越するなんて御伽噺は魔族には起こり得ない。理詰めと前準備の為す現象でしかない。
それでも、それで動くのであれば何の問題もない。
「全部、自分のため。私は利己で利他を作り出すことしか出来ない、それでも、それを間違いだとは思わない」
「お前にあの子は救えん。例え、フルーフを奪い返したとて、フランメ亡き今、魔法の解除方法も存在しない」
「探すわ、その方法を」
「もう、利用価値はない。死ぬことも、他者に魔法を使う余裕もない」
口角が上がる。確かにそれは困る。
だが、そういうことではないのだとソリテールは内心で呟く。
フルーフに求めるものは、既にそういった物質的な利益から大きく離れた場所にあった。
殺せないなら、他の人間を殺す。食べられないなら、他の人間を食う。研究も何もかも、何か別のもので代用すればいい。
身を削ることも、リスクを冒すことも出来る。
フルーフがフルーフとしての機能を取り戻すまで我慢する程度の甲斐性はある。
「そうね。それは私にとって、とても不都合なことね。……だからといって、今更止まる気はない。でなければ、私はここに来ていないわ」
脚に力を入れ、立ち上がる。
血が吹き出ると同時に、魔力が大幅に流出する。
指先から体温が抜け落ちていく感覚を、ソリテールは他人事のように観察していた。
数本の剣を顕現させ、周囲を囲い、ゼーリエを見据える。
既に瀕死の状態。軽く魔法を放てば崩れるような立ち姿。だが、ゼーリエは更に込める魔力を強めた。
虚飾に満ちたソリテールの目に浮かぶのは底なしの執着。愛のため、未来のため、そんな人間らしい、前向きさに満ちた感情は微塵も感じ取れない。
だが、例えどれ程血反吐を吐こうと歩みを止めない、その不可解な魔族の姿を、大魔法使いゼーリエは、今ここで殺さねばならない脅威と断定した。
ここで始末できなければ、後々大きな厄災となることを直感する。
「生きるわ――例え何百年、何千年かかろうとも、私は……約束を果たさなければならないもの」
黄金色の光が、ゼーリエの掌へ収束した。
ソリテールの総魔力量、その半分を優に超える出力。
直撃すれば、欠片すら残らない。
ソリテールは剣群を前面へ集める。
防げるとは思っていない。
それでも、ただ殺されるつもりはなかった。
黄金の極光が放たれる。
そうして、光が眼前に迫った瞬間ーー
ーー空からナニカが落ちてきた。
ーーぐちゃり、と音がした。
全身を覆う黒いズタボロのローブの中から皮膚を剥いだかのような腕が伸び、光を片手で握りつぶした。
指の間から漏れた黄金の残光が、線香花火のように散って消える。
辺り一面に静寂が満ちる。
ぐちゃ、ぐちゃ、と地面へと生臭い粘液を垂らし、踏みしめる異形の存在。
垂れた液が土へ落ちるたび、湯を注いだような白い湯気が上がった。
腐りかけた果実と鉄錆を混ぜたような臭いが風下へ流れ、包囲していた魔法使いたちの喉を塞ぐ。
森が、静まり返っている。
鳥も虫も、先ほどまで確かにあったはずの音を消している。
眼の前のそれがソリテールへと振り返り、フードの中が見えた。
そこにあったのは、到底顔とは呼べない、悍ましい肉の塊だった。
鼻も口も、輪郭を持たない。
無数の襞と隆起が波打ち、繋ぎ目のない皮膚が絶えず内側から押し出されては、また沈んでいく。
顔があるべき場所で、それは呼吸に似た蠕動を繰り返していた。
ギョロギョロと大きな翡翠色の目玉が四方八方へ動き、ソリテールを捉えた。
ソリテールと同じ色の目が、眼の前にあった。
「――――」
視線が、異形の首元へ落ちた。
肉塊の首元には、錆びついて変形した、二つの鏡蓮華の指輪が揺れていた。
花弁の意匠は摩耗し、輪郭はほとんど溶け落ちている。
それでも、それが何であるかは分かった。
今、自分の左手にあるものと、フルーフの持つものと、同じ型で打たれた対の輪だ。
異形の内側から感じられる魔力にも、僅かな覚えがあった。
自分自身に似た魔力の残滓。
異形は震える腕を上げた。
指が、不器用に形を作る。
そのハンドサインを、ソリテールは知っていた。
フルーフとの旅の最中。リーニエと共に行動する時。
離れた場所から意思を伝えるため、限られた状況で用いていた合図。
「……あぁ、そう」
ソリテールの口元から、呆けた声が漏れる。
未来から、過去へ。
だが、それはこれから起こることではない。
ソリテールが今この瞬間に決意し、これから積み上げていく年月ではない。
それは、とうの昔に――この世界が今の形に定まるより前に、既に踏破されていた道だ。
そして、これまで不可解だった断片が、音を立てて一本へ繋がっていく。
記憶の底へ沈めたまま、答えの出せなかったものたちが、順に浮かび上がってきた。
勇者ヒンメルへ尋ねた、遥か昔の時空干渉の痕跡。
サヤが口にした、フルーフを死なせる為の魔法へ至るまでに必要な、五千年以上という時間。
フランメが完成させたはずの、時代から逸脱した魔法。
そして今、目の前へ立つ、鏡蓮華を持つ異形。
全てが、一つの線の上で重なった。
この世界はーー既に書き換えられた過去の上に成り立っている。
五千年以上、恐らくはそれを更に上回る年月の旅路を経てきたのだろう。
それは魔族の寿命を大きく超えている。
異形からは意思や思考といった複雑なものを感じ取れない。
その身は魔族であること、既存の生物であるという事を完全に放棄していた。
こうまで成り果てるまでに長い道のりを……今のソリテールは想像すら出来ない。
ただ一つ、わかることは。
始点だと思われたここは……終点だった。
「ここが、約束を果たすべき場所だったのね」
乱入者である異形の存在にゼーリエは反応を示さない。
神話の時代から生きる大魔法使いにとっては、この程度は動揺にも値しないのかもしれない。
ゼーリエは即座に次の魔法を放つ。
黄金の光が三条。
先ほどよりも速く、より高密度に圧縮されていた。
異形は一瞬遅れて反応する。
フードの内側、胸元の肉が裂け、そこから一本のフランベルジュが射出された。
刀身が地面へ突き刺さる。
異形はその柄を蹴り上げ、空中で掴み取った。
突きの構え。
刀身が一瞬で赤熱し、白に近い光を放つ。
次の瞬間、炎が閃光となって放たれた。
ゼーリエの三条の魔法を正面から呑み込み、燃やし、融かし、消し飛ばす。
炎の閃光はそのままゼーリエへ迫り、背後の森林と大地を根こそぎ融解させた。
熱に耐えきれず大気が膨張し、森全体を押し倒す爆風が吹き荒れる。
蒸気と土煙が空へ立ち上った。
肉塊は追撃もせず、一言も発さず、ただ、呆然と立ち尽くしているだけだった。
蒸気が晴れた先に、ゼーリエは立っていた。
足元の土は硝子質へ変わり、背後にあったはずの森は、地平が覗くほど深く抉り取られている。
焼け残った木の一本すらない。
その只中で、彼女の外套だけが裾と袖口を悠然と垂らしていた。
肌には煤の一つも乗っていない。髪の一筋すら焦げていなかった。
敵かどうか、判断に迷っていた魔法使い達も、異形の敵対行動を見て動き出す。
もっとも、実際に前へ出られたのは一級の三名だけだ。
残る者たちは杖を構えたまま一歩も踏み込めず、あの肉塊から漏れる何かに、足の裏を縫い止められている。
ゼンゼが髪をうねらせ、ゲナウが黒金の羽根を羽ばたかせ、影を操る男が接近してくる。
だがそれよりも早く、巨大な陰りが空を覆う。
再び空から三つの人影が、地表に向けて降下し、魔法使い達の間へと割り込んだ。
黒金の羽根が、交差する双剣に喰い止められた。
刃と羽根が擦れ合い、金属を舌で舐めたような不快な高音が響く。
「多勢に無勢とは見ていられんな。ここからは、人類最強の私がお相手しよう」
鋭利な影の刃を、神々しく輝く剣が真横から打ち払う。
形を保てなくなった影が、軋むような音を残して森の奥へ弾け飛んだ。
「汝ら。如何に罪深きものであろうと、その最期を冒涜する権利は何者にもないと知れ」
硬質化したゼンゼの髪束へ、戦斧の刃が真上から落ちる。
束が根元まで撓み、髪が糸となって宙へ舞った。
「ソリテール様、ボロボロ。で、あの馬鹿弟子捕まったままなの?」
これにはソリテールも、残された左目を大きく見開いた。
感覚のない頬は動かないまま、瞳だけが驚愕の形をしている。傍から見れば、ひどく歪んだ表情だっただろう。
そこに立っていたのは、本来ここにいるはずのない、南の勇者、アインザーム、リーニエだった。
空を見上げれば、巨大な龍がとぐろを巻いており、アウラの姿も見えた。
「リーニエ。どうして来たの?貴女には何も伝えてなかったはずだけど」
アウラ達もそうだが、ソリテールは何故、試験中に一度も連絡を取っていないリーニエが、ここにいるのか。それが真っ先に気になった。
一次試験後は森に潜伏を続け、デンケンもフリーレンも監視を警戒し、リーニエに近づくことはなかったはずだ。
「試験が終わっても帰ってこなかったのと、ゼーリエがいるって聞いたから、速攻で愚弟二号とアウラ姉さん達を呼んでおいた。迎えにきたんだから、感謝」
「そうね、ありがとうリーニエ」
答えが答えになっていない。
が、今はそれほど重要な問題でもない。
形勢は依然不利。だが、一級魔法使いの一人か二人を始末することは出来る。
この場で重要なこと、それはーー
殺意に思考が振れそうになった瞬間、異形が意識を取り戻したかのように、垂れていた首を擡げる。
ソリテールへと近づき、胸ぐらを掴んだ。
粘つく指が布地へ食い込み、湿った熱が鎖骨まで伝ってくる。
『目的を忘れるな……約束、果たしに行け……何をすべきか、わかるだろう……?』
酷く掠れており、何十、何百、何千という声が重なって聞こえてくる。
男も女も、老いも若きも判別がつかない。ただ、その全ての底に、聞き慣れた自分自身の声が沈んでいた。
それだけを発すると、再び意識を感じさせない、脱力した様子に戻り、胸ぐらから力が抜ける。
「そう、ね。するべきことを、しましょうーー私達で、始めましょう。そして終わらせるわ」
ソリテールはリーニエに視線を向け、ハンドサインを出す。
撤退。それだけを理解すると、ゼンゼを足場として蹴りつけ、一息にソリテールへと迫ってくる。
「それじゃ……行くけど、歯を食いしばって我慢しなよ、ソリテール」
「口の利き方がなってないわね。下剋上は感心出来ない」
「今は、私のほうが強い」
「それなら、仕方ない。ーーゼーリエ。私の奥さんは必ず返してもらう。半年後に……また来るわ、歓迎の準備でもしておいて」
それを最後に、ソリテールはリーニエに服を引っ張られ、空へと舞う。
落ちてくるタイミングで背中を蹴り飛ばされ、一気に上空へと飛翔する。
肋が悲鳴を上げたが、ソリテールは声一つ漏らさなかった。
それを、龍が蠢き、アウラがキャッチする。
頭上から、患者を乱暴に扱うなとでも言いたげなアウラの怒鳴り声が降ってくるが、リーニエは聞こえない振りで受け流し、再び襲い来るゼンゼの髪を斧の石突で相殺する。
衝撃が髪の毛一本一本に伝わり、硬質化していた髪束がボフッと開き、隙が出来上がる。
リーニエとゼンゼは意味深に視線を交わらせる。
「お前だよね?私に変な手紙出してきたの」
「さぁな。私は何も知らん」
「一応感謝しといてあげる」
ゼンゼは視線を逸らし、すこしだけ笑い、衝撃に備え目を瞑る。
そうして、腹部に掌打を打ち込まれ吹き飛んでいった。
リーニエは南の勇者とアインザームに向かって声を上げる。
「おっさんども。撤退」
「アウラの母を取り戻すべきだろう?逃げるのなら、私が足止めしておこう」
『フルーフを取り戻さねばならん。私も残ろう』
南の勇者は双剣を握り直し、隣に立つ霧の魔族へ視線を送った。
「頼もしいな叔父上」
『まかせよ。姪の伴侶よ』
リーニエは舌打ちをする。
どうして魔族より血の気が多いんだと愚痴る。
ゲナウは片翼を切り落とされ、頬が赤黒く歪んでいた。
南の勇者は、ゼーリエの放つ七色とも形容できる魔法群を、二振りの剣を絡めるように振るって切り凌いでいる。
受け流すたび刃が鳴き、腕の筋が軋む。その背後で、アインザームは辺り一面へ霧を充満させ始めていた。
「それは、『私達』の仕事で、お前らじゃない」
そう言って、背後の異形を親指で指さす。
異形は相変わらず佇んでおり、線香のようにか細い魔力しか漏れておらず、存在感が希薄だ
だが、アインザームも南の勇者も、その異形のフードの奥を見て押し黙る。
常人であれば目を逸らさずにいられない肉塊でしかない。だというのに、二人は目を離せない。見ただけで本能的に理解出来てしまうからだ。
これは自分自身だと。
この異形の中に押し込められ、構築される数多のうちの一つが自分なのだと。
「……わかった」
『……そのようだ』
それはリーニエも同じだった。
およそ覇気を感じさせないにもかかわらず、この異形がどれほどの覚悟でこの場に立っているのか、その一端を感じ取れない訳がなかった。
そして、何を成そうとしているのかも……自分自身を通して、その在り方を理解していた。
リーニエは地面を軽く踏み鳴らす。
瞬間、亀裂が広がり土煙が周囲一帯に満ちる。
南の勇者は一歩地を蹴り、遥か上空の龍へと飛び乗る。アインザームは霧状に肉体を分解し龍の上で再構築する。
リーニエは魔法を足場に駆け上がり、瀕死のソリテールの側に着地した。
それを合図に、アウラは北を目指して龍へと命令を下す。
急速に遠ざかる龍の姿をゼーリエは地表から見上げる。
――逃がすわけにはいかない。
魔力が唸り、巨大な砲弾のような魔力球が形成され回旋し凝縮されていく。
龍ごと丸呑みにするには十分な威力を有した魔法だった。
だが、放つ準備が整った瞬間――魔力が爆発する。
異形の存在から漏れていた、か細い線香のような魔力が急速に広がっていく。
街一つを覆う程の……更に上へと際限なく上がっていく。
もはや景色そのものが魔力と錯覚するほどの魔力総量。
探知に反応するのは、たった一つの魔力。だというのに、その一つの内側で、質も色も異なる魔力が数え切れないほど束ねられ、幾重にも折り重なっていた。
一人分の器へ、何百、何千という「誰か」を押し込んだような気配だった。
あのゼーリエの魔力ですら、隣へ並べれば水滴にしか見えない。
桁も単位も異なる、規格外の波動。ゼーリエは数瞬迷った後……魔法の矛先を異形へと向けた。
その顔には、眼の前の異形への恐怖はない。
好戦的な笑みには、抑えきれない興奮が宿っていた。
歯が、微かに鳴っている。
恐れではない。長く忘れていた何かを、ようやく見つけた者の震えだった。