真夜中。ゲヘナ学園、風紀委員執務室に、こそこそと何かを働く人影があった。
天雨アコである。
彼女は、葛藤していた。と、いうのも、彼女の目の前にはヒナの上着が掛けられている。普段なら、『忘れ物があるな』ぐらいで気にも留めない彼女であるが、今回は事情が違った。
枝毛の跳ねる髪、目元にたまった真っ黒なクマ、長時間の着用によりシワの付いた衣服。
ここ数日の彼女は激務を極めており、まともな睡眠時間を確保することができていなかった。
極限まで疲弊した精神、捌けど捌けど減らない仕事の山。とどのつまり、彼女は正常な判断をするほどの思考力を喪失していたのだ。
うつろな目で上着を手に取り、顔に近づける。
そして、思いっきり息を吸い込んだ。
全身の細胞に優しいお日様の香りが染み渡り、たった一吸い、されど一吸いによって奇跡が起こる。
次の瞬間、天雨アコは万象を理解した。そして、冷静になる。
自分はなんてことをしてしまったんだ。無駄に冴えてしまった思考が、自責の念によって埋め尽くされていく。ヒナ吸いの副作用である。
「アコ......?」
普段なら喜んですぐに振り返っていただろう。しかし、彼女はそうしない。できない。ゆえに、手に持った
「い、委員長......こんな遅くまで、お疲れ様です」
「アコも。お疲れ様」
「こ、これからお帰りですか?」
「ええ。やっと書類の整理があらかた済んだから」
これまでになく回転の速い頭で最適の未来を模索する。が、やらかしたヘマが大きすぎる。上着が置いてあったのだ。帰るときには取りに来るのが当然、恨むならそれが分からないまでに憔悴していた自分をだ。
だが、今日の天雨アコは一味違った。普段なら即座には思いつけないほどの妙案をすでに数個用意している。まずはプランAからの実行だ。
「委員長、
「知ってる。ありがとう」
「お気をつけてお帰りくださいね」
「アコこそ、上着を嗅ぐのはほどほどにね」
言葉遣いこそぎこちなくはあったが、最善の選択をした。彼女はそう信じて疑わなかったが、まず前提が間違っていたのだ。
そう、空崎ヒナはすべてを見ていた。さらに言えば初めから室内にいた。だが彼女はそれを失念していたのだ。その時点ですでに天雨アコの失敗は決定されていたのだった。
静かに上着を受け取ったのち、部屋を後にしたヒナ。軽くため息を吐き、先の部下の行動と、少し前の記憶を照らし合わせる。
「何でみんな―――」
私を嗅ぎたがるのかしら。とは言わなかった。その代わり、頬を少し赤らめ、羽をパタパタとはばたかせながら、その場を後にするのだった。