約束の15分前に、待ち合わせた場所に到着すると、そのウマ娘はもう既に駅の改札前に立っていた。
彼女は一度、構内の時計をちらと確認してから、小さく息を吐く素振りを見せて、左手の親指と人差し指で前髪に触れた。
形を整えるように、何度か摘んだ前髪を左に流すと、またちらと時計を見やった。
服装はオーバーサイズのニットと、デニム生地のスキニーパンツというシンプルな組み合わせで、上下ともに大人しく、暗くて静かなカラーは普段の彼女らしさを物語っていた。
「──お待たせ」
どこかそわそわとしている気がしないでもない彼女の姿をしばし目に焼き付けて、ようやく近づいて声をかけた男──彼女の担当トレーナーは、能天気な笑顔を浮かべた。
「別に。待ってないわ。……なに? にやにやして」
「え? してた……かな?」
「してたわ。だらしない顔」
「厳しいな」
トゥインクル・シリーズでの最初の3年間を、なんとか2人で駆け抜けた。
それを大きなひとつの区切りということにして、以前商店街の福引で引き当てた温泉旅行券を使って、温泉旅行に行くこととなった。
温泉だけではなく、星空がとても綺麗なのだという前情報は、少なからず彼女──アドマイヤベガの心を揺さぶっていた。
しかし、温泉旅行券を引き当てたときには、やはりというべきか、アドマイヤベガはそのチケットを受け取らず、自身のトレーナーに預けていた。
星空には興味があるが、行きたいのかどうか、自分でもわからないと。そして、期限を過ぎてしまうようなら好きに使っていいと、そんな言葉を残していた。
トレーナーも、3年間を共に過ごした彼女のことはそれなりに理解していた。
だから、トゥインクル・シリーズが終わったあと、アドマイヤベガが自分から「行きたい」と言ったときには多少の驚きと、素直な嬉しさが混在した。
「忘れ物は? お財布とか、着替えとか、ちゃんと入ってるの?」
そんなことをトレーナーが思い返していると、彼女は彼が肩にかけているボストンバッグに視線を落としながら、心配そうに問いかけた。
「君は俺のことを子供扱いしすぎなところがあると思う」
「そうかしら? ……いえ、そうね。そういえば、たしかに」
それもこれも、姉である彼女の気質なのだろう──と、握った右手を口元にあてながら、「でも、よくわからない人だし……抜けてるところもいっぱいあるし……」なんて、おそらく声に出てしまっていることには気づいていないのであろう彼女を眺めながらトレーナーは苦笑した。
「……そろそろ行こっか。売店でお菓子とか、なにか買う?」
「いらない」
「そ。でも俺は買う。チョコとかポッキーとかチョコパイとかチョコとか」
「お好きにどうぞ。……全部チョコじゃない」
呆れたようにため息を吐いたアドマイヤベガと、改札口を通って売店に入った。
彼女は呆れた様子で、棚の前にかがんでまじまじとチョコレートを物色していたトレーナーの後ろ姿を、見下ろしていた。
時折り小さな声で「どれも同じじゃないの?」とか、「そういうところが子供っぽいのよ……」などと、なにやらぶつぶつ言いながら。
「時間切れね。間に合わなくなるわよ」
ついに発車5分前までなにを買うか悩んでいたトレーナーを急かしたてると、彼は結局なにも買わずに売店を飛び出し、2人して発車直前の新幹線に駆け込んだ。
トレーナーはチケットに印字されている席番号を確認して、頭上の荷物棚に2人分の荷物を載せると、どちらでも構わないと、興味のない口ぶりで言ったアドマイヤベガに窓際の席を譲った。
シートに腰を下ろして間も無く新幹線は動き出し、駅を離れてぐんぐんとスピードを上げていった。
「──いや、新幹線もいいけどさ、俺はやっぱりローカル線の方が好きなんだよな。片田舎のバスとか電車とかに揺られて、こう、物思いに耽る時間って、なんというか詩的じゃない?」
なんとも中身のないことを嬉しそうに話す彼の顔を一瞥すると、彼女は「そう……」と軽く流して、窓枠に片肘をついたまま手のひらに顎を乗せ、窓の外の景色を眺め始めた。
しかし、そういった光景はとくに珍しいものでもなく、普段とさして変わらない彼女の質素な相槌に、構わず話を続けた。
「田舎っていいよね。そりゃあ住んでみたら不便で大変なことはたくさんあるんだろうけどさ、美しいのだって事実だ。星とか、絶対満天だよ」
〝星〟という、アドマイヤベガを形作るひとつの単語に、彼女の耳はぴくりと反応した。
「わかるよ」
────君の気を引く方法なら。
心の中でそう付け足すと、トレーナーはふっと揶揄うように笑いかけた。
彼女はばつが悪そうに、流し目でトレーナーの方を見やると、はあっとひとつため息を吐き、小さな声で「あなたってほんと……意地が悪い」と吐き捨てた。
「そんなことないよ。アヤベさんが素っ気なさすぎるから、つい揶揄いたくなるだけ」
「……そういうとこ」
「あはは」と声に出して笑ったトレーナーとは対照的で、アドマイヤベガは鬱陶しそうにまた窓の外へと、顔を背けた。
しかし、ひとつ息を吐くと、陽の光を吸い込んだ窓ガラスに映る自身の後ろで楽しそうに笑っているトレーナーの顔を見つめて、
「ほんと、よくわからない人」
わずかに口の
「そう? 俺からしたらアヤベさんもよくわからないところ結構あるよ。ほら、ファースリッパのふわふわ度にレビューしてるとことか」
予想だにしなかった返答に、彼女はくるりと彼の方へ向き直った。
「は? 何故それを?」
「たまに声に出てる、から……くふっ……」
トレーナーは、アドマイヤベガがひとり、ファースリッパにレビューしていたことを思い出し、思わず込み上げた笑いを噛み殺した。
──以前、トレーナー室でミーティングを予定していたときに、用事があって少し遅れて行ったことがある。当然アドマイヤベガは先に到着していて、部屋の真ん中に置かれたソファに座りながら彼を待っていた。
遅れてきたトレーナーが、彼女の機嫌を確かめるためにそっと扉を開き中を確認すると、目に飛び込んできた光景は全く予想していなかったものだった。
彼女は新品のファースリッパを手に取りながら、ぶつぶつと口を動かしていた。そんな彼女の声に耳を傾け、その言葉をなんとか聞き取った。
「これは、確かにふわふわだけれど……悩むわね」
あとからアドマイヤベガと同室のカレンチャンに訊いてみると、「あぁそれ、ふわふわ度にレビューしてるんです。部屋でもたまーに声に出ちゃってるんですよ〜。でもでも、アヤベさんのそういうところ、す〜っごく、カワイイですよねっ」なんてにこやかに笑いながら教えられた。
そのあとは情報提供の報酬として、カレンチャンのウマスタグラムをフォローさせられ、カレンチャンから情報を得たということは絶対に他言しないこと、ときつく言いつけられた。
「いや、アヤベさんのそういうとこ、ほんと、カワイイと思……くっ……」
ぷるぷると肩を震わせ、笑いを堪えながら言ったトレーナーを、彼女は鋭い目つきで睨めつけながら、両耳を引き絞った。
「言いたいことはそれだけ?」
「……え? いや、ちょっと待って。ごめん、とりあえず落ち着い……あぁ! 俺の温泉旅行券を破ろうとしないで!」
平謝りする彼と、頬を真っ赤に染めたまま両耳を引き絞り、「知らない」と顔を背けた彼女。
そんな2人を乗せた新幹線は、ウマ娘よりもずっと速いスピードで進んでいく。
宿に着いたときに、温泉旅行券が無事であるようにと、彼は大人しく座って、口を閉じていることにした。
× × ×
駅に着いて改札を出て、しばらく歩いてから、宿に向かうための電車に乗る前に昼飯を食べようということになった。
なにが食べたいかと問いかけた彼に、彼女はなんでもいいと、ほとほと困り果ててしまいそうな返答を寄越した。
エスコートするにはその街への知識はあまりに少なく、どうしたものかと頭を悩ませていたところ、10メートルも歩いたところにある喫茶店が視界に入った。
とりあえずあそこに入ってみようと彼が提案すると、彼女も構わないと納得し、流れのまま店に入って通された席に腰をかけて、ひとつのメニュー表を2人で眺めた。
「ここのサンドイッチと、アヤベさんのサンドイッチ……どっちが美味しいかな?」
体を乗り出して、向かいに座るアドマイヤベガの耳に口を近づけて、トレーナーは小さな声で訊ねてみた。
「なにバカなこと言ってるのよ。お店で食べる方が美味しいに決まってるじゃない」
「確かめてみないとわからないよ。俺は〝アヤベさんの方が美味しい〟にジュース1本賭ける」
「……好きにすればいいじゃない」
「負けたらジュース、奢ってね」
「審査するのがあなたなら、賭けにならないわ」
「贔屓はしないよ」
「嫌」
「えぇ〜、遊び心がないなぁ」
そんな会話をしているうちに、お冷を2杯運んできた店員が、ご注文はお決まりですかと訊ねたので、彼はミックスサンドとアイスカフェラテ、彼女はナポリタンと、食後にホットコーヒーを頼んだ。
それらを食べ終えて、店を出て駅に向かい、宿のある場所まで向かう電車に乗り込んだ。
ローカル線──と呼べるほどのものではないが、彼らが普段生活している街を行き交う電車と比べると、人をほとんど乗せていない電車は、そう呼ばれても仕方のないものだった。
しかしトレーナーは、アドマイヤベガを端っこに座らせてその隣に腰を下ろすと、〝片田舎のバスや電車に揺られて物思いに耽る〟どころか、真隣の彼女にしか興味を示していなかった。
「──だからつまり、食材とかの問題じゃないんだよ。お店の人が作るものより美味しいってことは、やっぱりアヤベさんのサンドイッチには愛情が……」
「しつこい」
無情にも会話はその一言であっさりと打ち切られ、トレーナーは仕方なく揺れる吊り革をぼうっと眺めた。
がたんごとんと、一定の間隔で揺れる車内は、満腹になった体に眠気を運んでくる。
せっかくの旅行なのだから、道中も起きていたいという思いとは裏腹に、彼の脳は睡魔に服従し始めて、うつらうつらと船を漕ぎだした。
「……手のかかる人」
薄れゆく意識の中、うっすらと聞こえたその優しい声と、すぐあとに頬に触れたあたたかな手に引き寄せられて、寝心地のよいなにかに支えられたまま、トレーナーは夢を見ることもなく眠った。
× × ×
「起きて。次の駅だから」
アドマイヤベガがトレーナーの体を優しく揺さぶると、「ん……」という吐息のような声を漏らして、トレーナーは目を開けた。
寝ぼけまなこのまま2度まばたきをすると、じわじわと脳内がクリアになっていく。
20秒ほどして、ようやく状況を理解したトレーナーは慌てて、アドマイヤベガの肩に預けていた頭を動かした。
「なんで……いや、ごめん、重くなかった?」
「そうね。すごく重かったわ。おかげで肩が痛くて……っ」
言って、アドマイヤベガは肩を押さえながら、苦痛に顔を歪ませた。
「ほんとごめん、ど、どうしよう。とりあえず降りたら湿布とか買って──」
「うそよ」
「……えっ」
「あなたがいつも、揶揄ってくるから」
アドマイヤベガは、ふふっといたずらに笑って、「お返し」と、してやったりな表情を浮かべた。
「……」
悔しいという感情は確かにわいて出てきたけれど、それ以上に彼女のいたずらな笑顔が、トレーナーの視線を釘付けにした。
そうこうしているうちに電車は降りる予定の駅で停車して、はやく降りろとでも言いたげに、大仰な空気音と共に扉を開いた。
「なにしてるの? 降りるわよ」
固まったまま動かなかったトレーナーを訝しみながら、呆れたように彼の腕を引いて電車を降りた。
そこから15分ほど歩くと宿泊予定の宿が見え、チェックインを済ませて部屋に入った頃には、窓から夕焼けが差し込んでいた。
「少し散歩してみない?」
部屋の隅に荷物を置いて、トレーナーは隣のアドマイヤベガに問いかけた。
「それは構わないけれど。どうして?」
「露天風呂から綺麗な星空が眺められる、ってのがウリらしいけど、もっと絶景スポットがあるかもしれないよ」
「あなたにしてはまともなことを言うのね」
「厳しいな」
少し納得のいかない様子で。しかし散歩には大いに賛成してくれたアドマイヤベガに笑顔を向けた。
浴衣に着替えるのはあとにして、宿の外に出るとしばらく道なりに、街灯の少ない田舎道を無言のまま歩いた。
ガードレールを跨いだ先の大きな道路を、1分に1台くらいのペースで車が走っていく。
ガードレールに沿って坂道を登っていくと、もうコンビニや民家などは見当たらなかった。
「……おあつらえ向きってやつだね。よかった、どこまで行くかと思ったよ」
200メートルほどあった坂道を登り切ると、歩道から少し外れたところに生えそろっている木々の下に、古ぼけた小さなベンチが用意されていた。
もうすでに太陽は沈んで、夜が来ている。
トレーナーが月明かりに照らされたベンチを指差して隣の彼女に笑いかけると、彼女もやわらかく笑い返した。
「よかったわね」
とっておきたかったから、彼も彼女も、そこにたどり着くまでは一度も空を見上げなかった。
「とりあえず座ろっか」
小さく頷いた彼女と2人で歩いて、そこに腰を下ろした。
「あなた、普段運動とかあまりしないし、足にきているんじゃない?」
「あはは。実はもうぷるぷるしてる」
「これを機に少し運動量を増やした方がいいわね。私を背負ってつれて来られるくらいに」
「言うね。また『お返し』?」
「どうかしら」
笑って、両目を瞑ったまま空を仰いだ。
〝せーの〟なんてかけ声はなかったけれど、2人とも、同じタイミングでそっと目を開けた。
「……綺麗」
それは、息をするように、自然と漏れ出た感想だった。
トレーナーも、海のようにどこまでも広がる満天の夜空を見上げて、彼女と同じ感想を心の中で抱いた。
「こんなの滅多に見れな、い……」
隣の彼女に視線を落とすと、星降る夜の下に、それに負けないくらい綺麗な横顔が瞳の中に映った。
「……なに?」
彼の視線に気づいたアドマイヤベガは、不思議そうに首を傾けて、固まったままの彼を見て困惑している。
「……いや、なんでもないよ。いいもの見れたな──って思ってさ」
「ふふっ。そうね」
彼女は心底嬉しそうに、彼の袖先をきゅっと掴むと、
「ついてきてくれて、ありがとう」
ふにゃりと、今まで一度も見せたことのないようなかわいらしい笑顔で、そんな言葉を夜風にのせた。
× × ×
それから宿に戻って露天風呂に入り、そこから見上げた星空は、先ほど見たものと特に変わりはなかったけれど。
トレーナーは、星よりも綺麗なものが見れたからと、満足げに彼女の横顔と、笑顔を思い返した。
「……なに? じろじろと」
────そう思っていたのだが。
「いや、似合うね」
風呂上がりの、しっとりと濡れた髪を艶めかせたアドマイヤベガの浴衣姿は、トレーナーの気分を高揚させた。
「あなたも、意外と似合うのね」
「おぉ、アヤベさんが褒めてくれるなんて珍しいな。着てよかった」
「……褒めてない」
じとりと細めた目で、冷たい視線を送るアドマイヤベガから目を逸らすと、トレーナーは「晩飯まだかなぁ」と、わざとらしく話題を変えた。
その直後に、タイミングよく運ばれてきた豪勢な食事を2人で堪能すると、部屋の窓からも見える星空を、肩を並べて見上げた。
部屋の電気を消して、差し込んでくる月明かりだけを頼りにしばらくお互いに黙ったまま、心地よい沈黙に身を委ねていると、
「……きっかけは、妹と繋がれると感じたから。妹と話したくて、星を見上げるようになった。……暇さえあれば、実家のベランダに出てはケープにくるまって、夜空を見上げてた」
アドマイヤベガは星空を見上げながら、星に興味を持った理由を話しだした。
本を読んだり調べたり、プラネタリウムで話を聞いたり……と。
「それで、蓄えた知識を、また妹と話した」
星々の連なりに見出された物語について。どこまでも広がる宇宙の不思議について。
「私にとっては──とても楽しかった、大切な思い出」
アドマイヤベガは星空から視線を隣に移すと、ふわりと笑った。
「だから、そんな星空をこうしてあなたと見上げているのは、不思議な気分」
「大切なものなのに、隣が俺でよかったの?」
「……」
「……? あの、アヤベさん?」
「……」
アドマイヤベガは無言のまま、じっとトレーナーの瞳を覗き込んだまま。かと思えば目を伏せて、「はぁ」と呆れたように小さくため息を吐き、もう一度視線を彼に戻した。
「……すき」
「……えっ!?」
真剣な眼差しで、覗き込んだまま言ったアドマイヤベガの心の内が読めなくて、トレーナーは小さく口を開けたまま固まった。
「私は、星を見上げるのが好き」
「……あ、あぁ、なるほどね」
「……好きよ」
「…………」
「星が」
そう言って、揶揄うように笑った。
わかっていても反応してしまうのが悔しくて、トレーナーは一度顔を伏せて、右手で後ろ髪をいじると、しばらくして顔を上げた。
「──俺も好きだよ」
余裕なふりをして、笑みを浮かべながら、貰った言葉を贈り返した。
それは予想外だったのか、アドマイヤベガはなにかを言おうとして、今度は彼女が顔を伏せた。
「曇りで見えないときもあった。こんな綺麗な星空を見上げられるまで、上手くいくことばかりじゃなかった。つまずいて、転んで、立ち止まって……でもやっぱりまた歩き出して、ここまで来たんだよな。……君の隣を歩いてきたから、俺は星の美しさに気づけたんだ」
短いようで長かったような3年間は、決して楽しいことばかりではなかった。
彼女が妹の死を乗り越えるまでも、長い年月を費やした。
〝運命〟を連れて行った──あの日から、ティコが昇るまで。立ち止まった脚は、もう2度と前に踏み出せないのではないかと考えた夜もあった。
「……」
────でも君は決して来た道を戻らなかったから、だからここまで辿り着くことができたんだ。
「だから──」
ばっちりと目と目があって、吸い寄せられるように離せなかった。
「俺も好きだよ」
驚いたように、アドマイヤベガは大きな目を丸くして、月明かりに照らされた白い頬を赤く染めていた。
「……星が?」
「ああ。星が」
────君という、アドマイヤベガという……一等星が。