真夜中の大海原に、青年の怒号が響いた。
「おいコラ、ハイドぉおおおおおっ!? てめぇ、また余計なことをしやがったなぁあああああああっ!」
炎上する貨物船の甲板を灰色髪の青年が全速力で駆けている。
青年はディン共和国のスパイだった。本来ならば大声を出したりなど目立つ行為は行わないし、スパイであるならば、このぐらいの事態は冷静かつ的確に対応すべきだ。
しかし、相棒──ハイドのもう何回目になるか分からない失態に青年は叫ばずにはいられなかった。
一種のストレス発散方法。この理不尽に対する怒りを定期的に発散しなければ、青年の胃が持たなかった。
一瞬だけ耳障りな機械音を響かせた通信機から、ハイドの不満そうな声が聞こえてくる。
『余計な事とは失礼な、ジキル殿! 拙者、今回こそは何もしていないでござるっ』
お決まりの言いわけを口にするハイドに、青年──ジキルは「嘘つけっ」と怒鳴る。
『本当に何もしていないでござるよ! ……ただ、時限式の爆弾を見つけて。前にジキル殿がやっていたように解除しようとして……でも、よく分からなかくて……こう、ヒュパッとごちゃごちゃした線を全部切り落としただけでござる』
「やっぱり、してんじゃねぇえええかぁああああああっ!?」
これもまたお決まりの展開に、ジキルは頭を抱えて天に向かって吠えた。
戦闘面では頼りになる相棒だが、それ以外がまるでダメだった。
まず、任務内容を覚えない。独断で単独行動を行う。任務中に予想外の事態が起きた際の報告、連絡、相談もしない。罠を見つけたら、興味本位で自分から突っ込んで行く。
そして、そのしわ寄せをジキルがすべて被っていた。今もそうだ。敵が仕掛けたであろう爆弾の解除をハイドが試みたせいで、爆発に巻き込まれて死にかけている。
「このじゃじゃ馬め! それは一番やっちゃいけない爆弾の処理方法だろうがっ?」
『む、むぅ……拙者だって、ジキル殿みたいにカッコよく爆弾解除してみたかったんでござるよぉ』
拗ねたような物言いにジキルはもう一言、二言と恨み言を言いかけたが、あるものを見つけてとっさに身を屈めた。
乗員が大慌てで炎上する貨物船から脱出する中、4人がかりで大きな木箱を運ぶ人影があった。さらにその周りには2人、周辺を警戒するように左右に張り付いている。全員が黒い外套を羽織り、フードで顔を隠すその姿はジキルたちが追っている標的だった。
「……おい、ハイド。『
思考を切り替えたジキルは声を潜めて、ハイドに呼びかけた。
『鴉羽』──それは十年前の世界大戦後も世界中で暗躍する暗殺集団を指す名だ。元々は東方の国に所属する諜報部隊だったらしいが、詳しいことは分からない。
ただ、所属する暗殺者は一人一人が暗殺術の達人であり、各国の要人や諜報員が彼らによって殺されていた。
『承知っ。ジキル殿はクソザコでござるからな。拙者もそちらに向かうでござるよ』
ハイドからの応答にジキルが口元を引き攣かせる。
「おいコラ、馬鹿ハイド。その悪意しか感じられない返事はなんだ? 喧嘩売ってんのか?」
『ん? ジキル殿、どうして怒っているでござる? 拙者は事実を言っただけでござるが』
どうやら本人は無自覚らしい。ジキルは自分を落ち着かせるように小さく息を吸って、吐いた。
……べつにハイドは煽っているわけではないのだ。それに今は重要な任務中だ。心労が重なっていた(9割方ハイドのせいで)とはいえ、自分はスパイなのだ。いかなる時も常に平静を保っていなければ。
そう心の中で自分に言い聞かせたジキルは努めて落ち着いた声音で口を開く。
「おーけー、ハイド。俺が悪かった。それがお前の素だもんな? あぁ、分かっていたさ。安心しろ。俺は、怒っていない。だから早く来てくれ。俺だけじゃ流石に分が悪い」
『もちろんでござるよ。すぐに駆け付けるゆえ、ジキル殿はのんびりと海でも眺めて──って、ん? というか、拙者は今どこにいるでござるか? ジキル殿、ちょっと教え──』
最後まで聞かず、ぶつんと通信機を切るジキル。
ハイドの到着は期待できそうにない。というか、間に合ったとしても標的の前に相棒の息の根を止めてしまいそうだった。
ジキルは『鴉羽』へと再び注意を向ける。暗殺者たちはまだこちらに気づいていないようだ。
(……奇襲をかけるなら今しかない、か)
ジキルは懐から拳銃を取り出し、片手には手榴弾を構える。
6人の暗殺者のうち、4人がかりで木箱を運んでいるため4人はすぐには動けない。木箱の中身が
問題は残りの2人。『鴉羽』の暗殺者はかなりの手練れだ。ジキル程度の実力では正面から行けば確実に返り討ちにあうだろう。
だからこそ、最初の一手でほぼ同時に2人の暗殺者を無力化しなければならない。
「────ふぅ」
短く息を吐く。シミュレーションは完璧。あとは寸分の違いなく体を動かすだけ。
警戒するように周りを伺う暗殺者の後ろから、ジキルは壁を死角に狙撃した。放たれた弾丸は暗殺者の後頭部を貫き、脳漿をまき散らす。
襲撃に気づいた暗殺者たちが撃ち殺された同胞に目を向けることもなく、一斉にジキルのいる場所へと目を向けた。
いまだに船内ではあちこちで爆発音やら怒号が響き渡っているにも関わらず、一瞬でジキルの位置を把握するなど、やはり只者ではない。
しかし、それも分かったうえでジキルは次の一手を打っていた。
狙撃とほぼ同時に放り投げられた手榴弾。きれいな弧を描いて木箱に向かって落ちていくそれを──もう一人の暗殺者が短刀を放ち、空中で爆発させた。
次の瞬間には、その暗殺者の脳天を弾丸が撃ち抜いていた。
数秒のうちに、ジキルは2人の『鴉羽』の暗殺者を無力化してみせた。
(よし、ここまでは計画通り。次の問題は──っ)
眼前に迫る短刀を、首を捩って紙一重で躱す。
少し遅れて襲ってくる刃を横に転がって避ける──が、体勢を整える前に腹部を強い衝撃が襲った。甲板を勢いよく転がったジキルは船の手すりに背中を激しく打ちつける。
「かっは!? ……っ……はは、さすがは『鴉羽』ってところか」
痛みに耐えるようにお腹を抱えて、何とか立ち上がる。目の前には2人の『鴉羽』の暗殺者が短刀を構えている。
視界半分がみるみる赤く染まっていく。額に触れてみれば、生温かい赤い液体。どうやら2回目の斬撃は避けきれていなかったようだ。
奇襲には成功したものの、瞬く間に窮地に立たされてしまった。
(つーか、残り4人の対応なんて考えていなかったしな。そりゃ、こうなるわな……)
当然の帰結にジキルは自嘲交じりに口元を歪ませる。
そもそも、『鴉羽』の暗殺者6人が相手では、力量差から考えてジキル一人ではどうしようもなかったのだが。
突然の襲撃で同胞2人を殺され、ジキルを警戒して様子を窺っていた暗殺者だったが、すでに策は尽きていると看破されたらしい。
獲物を仕留める猛虎のように、2人の暗殺者が真っ直ぐジキルに向かって駆ける。
対するジキルは直進してくる暗殺者に向かって、あるだけの弾丸を撃ち出す──しかし、それらは全て短刀に弾かれてしまった。
「ち、バケモンかよっ」
歯噛みするジキルは迫り来る凶刃から逃れようと回避行動を取ろうとするが、もはや間に合わない。
闇夜に妖しく煌めく白刃が、ジキルの首へと肉薄する──。
「──おっそいでござるなぁ!」
突如、場違いな少女の声がジキルの耳を叩く。それと同時に二本の腕がジキルの前で宙を舞っていた。
それぞれ片腕を切り落とされた2人の暗殺者は悲鳴を上げることはなく、その場から大きく後退する。
ジキルの目の前には、刀を肩に担いで仁王立ちする少女。
刀を横薙ぎに振るって張り付いた血を払うと、振り向いた少女が満面の笑みを浮かべた。
「危機一髪でござったなぁ、ジキル殿!」
ハイドだ。艶やかな黒髪を揺らし、人懐っこい笑みを浮かべる頬には、不釣り合いな返り血がべったりとついている。
ジキルがため息交じりに口を開く。
「……あぁ、誰かさんのせいでな」
「ふ、でも拙者のお陰で命拾いしたわけでござるし? 頭を撫でてくれても良いでござるよ?」
嫌味が伝わっているのか、伝わっていないのか。厚かましく頭を突き出してくるハイドに、ジキルは口角を上げて張り付けたような笑みを作る。
次にハイドの頭に手を伸ばし──と見せかけてこめかみを鷲掴みし、その小さな頭を万力のように締め上げた。
「……ちょっとジキル殿? これ、拙者が知ってる頭ナデナデと違う気がするのでござるが?」
まったく痛がる素振りを見せないハイドに、ジキルが呆れ顔で目を細める。
「お前に助けられたのは事実だけどな。それ以前が問題だらけだ、馬鹿ハイド……調子に乗るな」
こめかみから手を離したジキルが人差し指でハイドの額を弾く。
むぅ、とハイドが不満そうに唇を尖らせる。本当に褒めてもらえると思っていたらしい。厚かましいにもほどがある。
「……あ。そういえば」
思い出したようにハイドが口を開く。
「まだ『鴉羽』を仕留めていなかったでござる。拙者としたことが、ついうっかり──ぅん?」
振り向いたハイドが首を傾げる。そこにはもう、2人の暗殺者の姿はなかった。
あまりにもマイペースなハイドの様子に、ジキルは今度こそ盛大なため息をこぼした。
「馬鹿ハイド……『鴉羽』なら全員とっくに逃げたわ。奪還するはずの
そもそも敵前でこんな緊張感のないやりとりをするはずがないだろう、とジキルが小言をもらす。
それもそうでござるなぁ、とハイドが緊張感のない笑い声をあげる。
「………………」
「………………」
炎上する船内で、二人の間で流れる微妙な沈黙。
「えぇと。『鴉羽』も撃退したことでござるし、これにて一件落着! ……でござる?」
「『鴉羽』には逃げられて、木箱は持ち去られた。任務失敗の間違いだろ」
白い歯をのぞかせてサムズアップするハイドを、ジキルは心底蔑んだ目で睨みつけた。
示し合わせたように、どぉぉぉおおおんっとひと際大きい爆発音が轟いた。船体が大きく傾き、悲鳴を上げる。
「ちっ、もうこの船はもたねぇな……俺たちも逃げるぞ、ハイド」
「ん、承知でござるっ」
反省は後だと言わんばかりにジキルが駆けだす。それに頷いたハイドも後を追う。
沈み始めた貨物船から逃れるため、二人のスパイは大海原に向かって飛び出した。
♦︎♦︎♦︎
──世界は、痛みに満ちている。
歴史上最大規模の戦争が世界に残したのは、理不尽な苦痛、そして、生々しい傷跡だった。世界大戦と呼ばれる戦争はガルガド帝国の降伏で終結したが、戦勝国側も死傷者が一千万人を超え、実質、勝者のいない戦争となった。
死傷者の多くは民間人。それも世界大戦の特徴だった。
戦争はもはや剣や弓の時代ではない。
科学技術が進歩した時代。短機関銃、毒ガス、戦闘機、対人地雷などなど──どれも大量殺戮に特化した兵器ばかりだ。特にお互いが理性を失う大戦終盤は、見境のない虐殺が各地で行われた。
特に狙われたのは、力のない女子供だった。
終戦後、惨状を目の当たりにした世界中の政治家が認識する。
戦争はコスパが悪い──と。
つまるところ、戦争は外交手段の一つに過ぎない。
他に代替する手段があれば別にいい。
金、人質、ハニートラップ、スキャンダル、交渉、暗殺などなど──。
かくして、「光の戦争」は終焉を迎える。
現代で繰り広げられるのは、スパイたちの情報戦──「影の戦争」だった。
──二年前。
そこは、薄暗い地下牢だった。
『ふぅん……アンタ、あの根暗男の弟子かね』
タンクトップ姿の武骨な老女は咥えた三本の煙草をうまそうに吸うと、ぶはぁあと大量の紫煙を吐き出した。
女に顔を踏みつけられて動けずにいる青年は、
しかし、女は青年から放たれる殺気をまるで気にしていないようで、顎を撫でながら少し考え事にふける。
そして、妙案でも思いついたように手を叩いた。
『ちょうどいい。アンタ、そこで転がっているじゃじゃ馬娘とバディを組みな。それで、根暗男──「朽木」の任務を引き継ぐんだよ』
女は青年の隣で気を失っている黒髪の少女に視線を移す。
半袖で、みすぼらしい少年のような服装に身を包む少女の肌には痛々しい傷跡がいくつもあった。
『復讐したいんだろう? アンタの家族を、師匠を殺した──『鴉羽』に。その娘となら、果たせるかもしれないさね』
女がしゃがれた声でくつくつと笑う。その笑い声が、青年には非常に不愉快な音となって耳の奥で響いた。
『娘を殺すのは復讐を果たした後。それからでも遅くはないはずさ』
それは、青年にとって受け入れ難い提案であった。唯一残された家族を奪った連中の、同族である少女を相棒とするなど。
しかし結論から言えば、青年──ジキルはその提案を受け入れた。
黒髪の少女──ハイドを相棒として迎えた日の出来事である。