僕は一般人です   作:~のほほん~

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誤算

 

「……どういうことですか?」

 

それは拳願絶命トーナメントの開催。その発表のわずか数日前のことだった 。

斉藤真珠は、重苦しい空気が沈殿する応接室で、ある男と向かい合っていた。

目の前の老人が放つ、どろりとした悪意に満ちた空気を肌で感じていた 。

 

「速水会長」

 

真珠の声は、凪いだ海のように静かだった。だが、その瞳の奥には、かつて家族である「苺プロ」を蹂躙しようとしたこの男への、消えない怒りが灯っている 。

 

視線の先に座るのは、東洋電力会長・速水勝正 。

ケロイド状に焼けただれた右目が、不気味に真珠を射抜く 。男はすでに勝利を確信しているのか、不敵な笑みを浮かべながら言葉を継ぐ 。

 

「簡単なことだ。貴様を許してやろうという、私なりの最後の酌量だよ」

 

「今までのことを、水に流せと?」

 

「勘違いするな。こちらが『流してやる』と言っているのだ。貴様が我が百人会にかけた、多大なる――迷惑をな」

 

「迷惑」――。

真珠がフリーの闘技者として活動した四年間、意図的に東洋電力傘下の企業を狙い撃ちにし、敗北という名の莫大な損失を叩きつけ続けてきた事実 。その累積額は、一企業の存立を揺るがすほどの重みとなっていた 。

 

「...へぇ、それはありがたいですね。ですが何が望みです?」

 

速水は、ケロイドの刻まれた顔を醜く歪め、喉の奥で押し殺したような笑い声を漏らした。その指先が、机の上に置かれた一枚の書類を真珠の方へと滑らせる。

 

「……ッ」

 

真珠の喉が、微かに鳴った。これまで八十二戦の間、どんな怪物を前にしても揺らがなかった彼の鉄の心に、初めて目に見える亀裂が走る。

 

「望み、か。相変わらず話が早くて助かる。単純な算数の話だ。貴様がこの四年間、わが『百人会』から掠め取った勝ち星――それに伴う配当金、事業利権、株価の下落……その総計は、優に九百億を超える 。一介の闘技者が背負うには、いささか命の値段が安すぎると思わんかね?」

 

「…なるほど。あなたの余裕の正体はこれですか」

 

速水は愉悦を隠そうともせず、卓上に書類を指先で弾いた。

印刷された書類には無機質な監視カメラの映像、あるいは遠距離から隠し撮りされたであろう数枚の写真。それに加え、調査方向と記されたこと細かな内容だった。

そこには、幼いアクアとルビーが、アイと共に無邪気な笑顔を浮かべる日常の断片が、あまりにも鮮明に記録されていた。

 

「美しい家族愛だ。伝説のアイドル、星野アイの隠し子。……世間がこれを放っておくと思うかね? ネットの狂乱、マスコミの追及、そして狂信的なファンたちの憎悪。この映像をしかるべき場で『放送』すれば、貴様らが必死に築いてきた薄氷の平和は、一晩で瓦解するだろう」

 

速水が淡々と告げる言葉の羅列が、真珠の思考を塗り潰していく。

斉藤真珠の顔から、血の気が引いた。唇がわずかに震え、指先が感覚を失っていく。これまで八十二戦、どんな死地でも保ち続けてきた「斉藤真珠」という平穏を崩さなかった彼の仮面が、音を立てて砕け散った。

 

(どこで……。どこで漏れた?)

 

心臓が早鐘を打ち、視界の端が白く爆ぜる。それと同時に思考が高速で逆流した。

苺プロの管理に不備はなかった。母さん(斉藤ミヤコ)や姉さん(星野アイ)から漏れるはずない。何度か危ないことはあったが、呉一族や片原会長のおかげで消してきたはず。

身内の裏切りなど、考えるまでもなくあり得ない。

ならば、誰が。自分と家族しか知らないはずの、あの「聖域」の扉を蹴破ったのは。

 

混濁する思考の渦から、一つの不吉な符号が浮上する。

真珠の脳裏に、かつて対峙した、底の知れない空虚を抱えた男の微笑が重なった。

 

「……神木、さんですか」

 

絞り出すようなその問いに、速水は剥き出しの歯を覗かせた。

 

「……ふっ。相変わらず、嫌なほど勘が良いな。貴様が奴とどのような因縁で結ばれているかは興味がないが、奴は私に最高の『土産』を届けてくれたよ。『拳願会員の資格』。それと引き換えにな。」

 

「速水会長ともあろう人間が落ちたものですね。僕1人を潰すために神木さんと手を組むなんて」

 

「ふん。私と貴様では人間としての格が違うのだよ。たとえ得体の知れぬ人間だろうと使い倒すのが私の流儀でな」

 

速水は愉悦を隠そうともせず、手元にある情報の重みを誇示するように身を乗り出した。

 

「奴は言っていたよ。『真珠くんなら、きっと正しい選択ができる』とな。貴様がこの4年間、守り、積み上げてきた全てを失いたくなければ……わかるな?」

 

 

 

 

 

 

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「……すぅ。それじゃあ、行ってきます」

 

肺の最深部まで冷えた空気を吸い込み、真珠は短く告げた。

わずかに振り返った視線の先には、最愛の家族たちがいる。

アイの、縋るような瞳。ミヤコの、何事かを堪えるような厳しい表情。そして、すべてを察しながらも拳を握りしめるアクアとルビー。

背中に突き刺さるような彼らの憂慮を、真珠は肌の表面で感じ取っていた。

 

だが、彼はあえて「気づかないふり」を選んだ。

今、その温もりに触れてしまえば、心の中に辛うじて築き上げた『   』が狂ってしまう。

 

(これは、僕の闘いだ)

 

「それでは皆様、あちらへのご移動をお願いいたします」

 

静寂を切り裂いたのは、金属のように冷徹な、だが礼節を弁えた声だった。

片原滅堂の直轄護衛者、三番隊隊長『J』。

黒いスーツに身を包んだその男は、感情の読めない顔で一行を促した。

 

「え……? ここで観戦するのは、だめなんですか?」

 

ルビーが戸惑うように声を上げる。

その震える声に、真珠の指先がわずかに動いたが、彼はやはり振り向かなかった。

 

「いえ、可能ですよ。ただ皆様もご存知の通り、これは企業間の代理戦争です。……船内でも起きた『襲撃』が、再び起きる可能性は否定できません。」

 

Jは淡々と、しかし否定の余地を与えない重みを持って言葉を継いだ。

 

「そのため、真珠殿たっての希望で、皆様には最も安全な場所での観戦をお願いしているのです」

 

Jの言葉に、家族たちが息を呑む。

彼らが安全な特別室へと誘導されていく気配が遠ざかるのを、真珠は壁に背を向けたまま聞き届けていた。

 

(ごめん。……でも、ここから先は「一般人」の僕じゃあ、彼を殺せないんだ)

 

真珠はゆっくりと、光を失った左目を閉じた。

 

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一歩、また一歩。

背後の通路に沈殿していた重苦しい静寂を置き去りにして、踏み出す。

通路を抜けた先、網膜を焼くような強烈な照明と、数万人の怒号にも似た歓声が僕を迎え入れる。

 

ここは、姉さんのような「人を笑顔にする人」が立つ、光り輝くステージではない。

美しき嘘も、夢のような幻想も、ここには存在しない。

ただ、剥き出しの生存本能と、勝利という名の渇きだけが、鉄錆の臭いと共に充満している。

 

ここは、僕だけの舞台だ。

 

(……否定は、しません)

 

真珠は、熱狂に沸く観客席を、そして向かい側のゲートから現れるであろう強者たちの存在を、静かに受け入れる。

誰よりも強くありたいと願う、その渇望を。

誰にも負けたくないと祈る、その傲慢さを。

 

そのために彼らがどれほど多くの血を流し、膨大な時間を削り、勝利の美酒と同じだけの苦痛を飲み込んできたか。

 

ここに集う者たちを、僕は否定しない。

拳に己の人生を乗せ、誰よりも強くありたいと願うその執念。

誰にも負けたくないという、幼稚で、それでいてあまりにも純粋な渇望。

そのために彼らが流してきた、夥(おびただ)しい量の血と、孤独な研鑽の時間。

その果てに掴み取った勝利の恍惚も、奈落の底を這うような敗北の苦痛も――。

 

僕はそれらすべてを、一つの「生」の形として称賛する。

僕のような凡夫に、それを否定する権利などありはしない 。

 

ただ、これはあくまで好みの問題なのだ。

 

夢を追い、血の滲むような努力を重ねる人たちの、あの眩い熱の色。様々な感情や思惑が濁流のように渦巻く現場で、それでも「最高のもの」を創り上げようと足掻く人たちの、あの澄んだ色が好きだった 。

だからこそ、誰かを傷つける「暴力」という手段を、僕は心の底から忌み嫌っている。

 

だけど。

 

……ああ、だけど。

 

それで僕の大切な人たちが傷つき、悲しむというのなら。

僕の「好き」という我儘のせいで、あの子たちの未来が闇に閉ざされるというのなら。

 

ならば、僕はここで、僕のすべてを棄てよう。

 

其の心は、悲しみも悪意も全てを包む深淵なり

其の技は、家族の敵を悉く葬る断罪の牙なり

其の体は、決して揺るがぬ不倒の標なり

 

 

全ては、愛する家族の幸福が為に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「まさか、主がこのトーナメントに首を突っ込んでくるとは、意外なこともあるものじゃのう」

 

「ええ。四宮グループが早々に辞退を決め込んだように、私も企業序列を上げるためだけの誘いであれば、丁重にお断りするつもりでしたよ」

 

そこは、片原滅堂がただ「観覧」という贅を貪るためだけに用意された、治外法権の空間だった。

足を踏み入れた瞬間に足首まで沈み込むような、深紅のペルシャ絨毯。一千万の小切手すら安っぽく見えるほど、重厚な輝きを放つ黒檀のデスク。そして、頭上で無数の光の牙を剥く、巨大なシャンデリア。

――この部屋一つで、うちの事務所がいくつ買えるだろうか。

そんな庶民的な計算が脳裏をよぎるたび、自分がこの「怪物の庭」に招かれた異物であることを、嫌でも自覚させられる。

 

「ミヤコママ、顔色悪いよ? 大丈夫?」

 

ルビーの無邪気な心配が、今の私には鋭い棘のように刺さる。

 

「……ええ、大丈夫よ。ちょっと、胃が悲鳴を上げているだけ」

 

「安全な場所だから」――そうJさんに促されて連れてこられたのは、穏やかな待合室などでは断じてなかった。

そこは、拳願会会長・片原滅堂と、その牙に挑む対戦相手のみが入室を許される、選ばれし者のための極限空間。

 

そんな部屋の、あろうことか。

 

「ほっほっほ。案ずるな、取って食いはせぬよ。……気分でも悪いかのう?」

 

隣に座る「生ける伝説」が、クスクスと喉を鳴らしてこちらを覗き込んできた。

 

「は、はいっ! ぜ、全然、全くもって、すこぶる大丈夫ですッ!! どうぞ、お気になさらず……!」

 

(無理! 絶対無理!! なんで私が拳願会のトップの隣に座らされてるのよぉぉぉ!?)

 

内心で絶叫しながら、私はひきつった「社長スマイル」を顔面に貼り付ける。

滅堂から放たれる、捕食者が獲物を観察するような好奇の視線。

隣でケロッとしているルビーの強心臓が恨めしい。

今すぐここから逃げ出して、安物の胃薬を箱ごと飲み干したい。

 

「うわぁ、見て見てアクア! このソファ、座るっていうより体が溶けて沈んでいくよ! ねぇねぇ、これっていくらするのかな? 事務所の月収……ううん、ドーム公演一回分くらいしちゃったりして!」

 

拳願会という闇の深淵を煮詰めたような場所で、アイの放つ天真爛漫な輝きだけが、そこが血生臭い闘技場であることを忘れさせるほどに場違いに弾けていた。彼女にとって、片原滅堂という怪物の威圧感も、この部屋に漂う緊張感も、単なる「すごい場所の、すごい内装」という認識でしかない。

 

その傍らで、アクアは眉間に深く皺を寄せ、高級な革の匂いが鼻をつく室内の空気に、わずかな警戒心を解かずにいた。

 

「……アイ、あんまりバタバタ跳ねるな。はしたないし、この素材はたぶん最高級の銀面革だ。傷をつけたら、それこそ君の次のシングルの印税が全部吹き飛ぶかもしれないぞ。少しは場所をわきまえてくれ」

 

大人びた――というより、人生を二周している者にしか出せない達観した溜息を吐きながら、アクアは周囲の観察を続ける。ミヤコが泡を吹かんばかりに硬直していることも、目の前の老人がただの富豪ではないことも、彼の鋭い感性は察知していた。

 

「ほっほっほっ。さすが真珠の弟じゃのう。いい眼をしとるわい」

 

しかし、当のアイは「えー、そんなに高いの?」と面白そうに瞳を輝かせ、さらに深くソファに身を預ける。

 

「でもさ、これだけふかふかだと、真珠君も試合のあとにぐっすり眠れそうだよね。ね、アクアも座ってみなよ」

 

「……俺は立っておく。いつ何が起きても、逃げられるようにな」

 

「あはは、過保護だなぁ」

 

「心配せんでもここは安全じゃよ。主たちがこの部屋(・・・・)の敷居を跨いで外に出ようとせん限りはな」

 

アイの屈託のない笑い声が、重苦しい空気を場違いなほど明るく塗り替える。

だが、その隣でアクアは、滅堂という老人の底知れぬ瞳を見据えたまま、一歩も引かなかった。

 

「――失礼を承知で申し上げますが。あなた自身が『敵』という可能性も、計算に入れておく必要がありますから」

 

「……ッ!?」

 

アクアの言葉に、ミヤコの心臓が跳ね上がった。

この「魔王」を前にして、あろうことか敵対の可能性を口にする。それは、死神の鎌を素手で弄ぶような暴挙だ。

 

「ほっほっほ……。本当に、面白いほどに肝が据わっておるわい」

 

滅堂が愉しげに目を細めた、その瞬間。

 

――ガタッ、と。

 

背後の影に控えていた護衛者たちの空気が一変した。

主を愚弄されたことへの静かな、だが苛烈な憤怒。部屋の温度が物理的に数度下がったのではないかと錯覚するほどの、剥き出しの「殺気」がアクアの小さな背中に集中する。

 

「こ、こら……っ! アクア、なんてことを……!」

 

ミヤコが震える声で制止しようとしたが、それよりも早く、滅堂が短く手を挙げた。

 

「よい、よい。気にするな。……いい警戒心じゃ。その猜疑心こそが、この狂った祭典を生き抜くための必須条件よ」

 

滅堂が笑うと、部屋を支配していた刺すような殺気は、霧が晴れるようにスッと消え去った。

 

「好きに過ごすがよい。この部屋にある最高級の飲み物も、贅を尽くした家具も、全ては主らの自由じゃ。それが、斉藤真珠が掴み取った『契約』の内容なのだからな」

 

「え?片原さんって真珠君のお友達じゃないの?」

 

「ぶっ」

 

隣で必死に「粗相のないように」と震えていたミヤコが、噴き出しそうになるのを必死で堪えて咳き込む。アイはというと、こてんと首を傾げて無垢な笑顔を浮かべた。

「拳願会会長」という生ける伝説を、こともあろうに「お友達」呼ばわり。それは不敬を通り越して、もはや一種の暴力に近い純粋さだった。

 

「ほっほっほ……! お友達、か。それはまた、愉快な表現じゃのう」

 

滅堂は一瞬だけ呆気に取られたような顔をしたが、すぐに腹の底から楽しそうに笑い出した。

 

「友人――確かにそうかもしれん。じゃが、この世界においてはその前に、強欲な商人同士の『契約者』よ。互いの利を喰らい合い、背中を預け合う協力関係……といったところかのう」

 

「へぇ~、大人って大変なんだねぇ。」

 

「そうなんじゃよ。最近の退屈な日々に、鮮やかな亀裂を入れてくれる若者は奴(真珠)くらいでのう。……そうは思わんかね、柏木君?」

 

「……ええ。隣にいる私の愛娘が、どうしてもと言って聞かないものでしてね。親馬鹿と言われればそれまでですが、父親として、あの真っ直ぐな瞳の願いを無下にするわけにはいかないでしょう」

 

柏木は困ったような笑みを浮かべる。その仕草はどこからどう見ても『良き父親』そのものだ。だが、その声の低音には、この場に相応しい「計算」が冷たく脈打っている。

 

「ほっほっほ、父親ならではの苦労か。……じゃが、やはり解せぬな。野心家でもなければ、石橋を叩いて壊すほど堅実な君が、娘の願い一つでこの祭典に身を投じるとは、どうにも合点がいかぬのだが?」

 

「……そこらへんの事情は、御老公も既にご存じでしょう」

 

柏木は否定せず、静かにワイングラスを回した。琥珀色の液体が描く波紋が、一瞬だけ鋭い刃のように光る。

 

「少なくとも今後十年間。他企業からの理不尽な干渉や、卑劣な妨害に怯えることなく商売に没頭できるだけの『権利』と『盾』を、彼は既に掴み取ってくれた。我が社にとって、これ以上の地盤固めはありません。その働きの対価として、彼――斉藤真珠が望んだ報酬こそが、このトーナメントへの出場権だった。……ただ、それだけのことですよ」

 

「ふむ。左様か」

 

「正直なところ、優勝できれば重畳。ですが、当初の目的に対する報酬と彼がもたらしてくれたプラスアルファの報酬は、既にこの手の中にあります。私としては、彼が勝とうが負けようが、どちらでもいいのですよ」

 

柏木の口角が、滑らかに吊り上がる。

それは「満足した捕食者」の笑みだった。

真珠という一人の青年を修羅の舞台に上げ、その引き換えに得た『十年の安寧』。その重みを考えれば、この拳願絶命トーナメントという巨大な博打すら、彼にとっては「余興」に過ぎないというのか。

 

「……合点がいったわい。我が『牙』に挑むにしては覇気が足りぬと思うたが、主らは既に『上がり』を済ませておったというわけか。……くふふ、最近の者は、つまらぬほどに賢く、そして強欲よのう」

 

滅堂の喉の奥から漏れるような笑い声が、室内の重い空気を細かく震わせる。その音は、まるで巨大な怪物が獲物を前にして悦んでいるかのようで。

 

「ハッハッハ。私程度では、あなたの遊び相手を務めるには、あまりに器も胆力も足りませんよ」

 

朗らかに笑い合う二人。

端から見れば、それは旧知の仲の睦まじい談笑にしか見えなかっただろう。

だが、その実。言葉の端々に込められた「毒」と、千万単位どころか億単位の金が動く「打算」は、深紅の絨毯にこぼれ落ちた重い血溜まりのように、私の足元にまとわりついて離れない。

 

こんな話、小さな芸能プロダクションの社長風情が聞いていいものではない。

数分前まで「ソファがふかふかだね」なんて笑っていた日常が、遥か遠くの出来事のように思えた。

 

「……お父様。お言葉ですが、真珠君は――斉藤真珠は、必ず勝ちますよ」

 

凛とした声が、重厚な空気の立ち込める室内を真っ直ぐに射抜いた。

その声の主は、柏木。隣に座る柏木氏の愛娘であり、真珠と同い年のはずの少女だ。だが、その瞳に宿る光は同年代のそれとは明らかに異なり、冷徹なまでの理知と、揺るがない意志が同居している。

 

「ほっほぅ。これは驚いた。父親より、隣の可憐なお嬢さんの方がよっぽど『覇気』に満ちておるわい」

 

滅堂が面白そうに目を細める。その視線は、単に若者を愛でる老人のものではない。獲物の価値を品定めする、捕食者の冷たさを孕んでいた。

 

「御老公。先刻は抽選会場にて、私を庇ってくださいまして、誠にありがとうございました」

 

「よいよい、気にするな。速水君も、年下の女子(おなご)に牙を剥くようでは、東洋電力の看板が泣くというものよ。奴も相当に焼きが回ったか、あるいはそれほどまでに余裕を失っておるのか……。して、お嬢さん。〝必ず〟とはまた、随分と豪胆な物言いじゃの?」

 

滅堂の問いかけには、明確な試練が混じっていた。

だが、渚は一歩も退かない。背筋を真っ直ぐに伸ばし、気品に満ちた微笑みを湛える。

 

「はい。私が父に斉藤真珠を推薦したのは、単なる友人のよしみではありません。彼という存在が、我々に勝利という『結果』を運んでくる。その確信があったからです。彼は、期待を裏切る方法を知らない男ですから」

 

淀みなく、それでいて力強い言葉の数々。

私は思わず、隣で彫像のように固まったまま彼女を見つめてしまった。

真珠と同い年。その事実に、脳が拒絶反応を起こしそうになる。その落ち着いた声音、一切の無駄を削ぎ落とした大人びた所作。

――さすがは、名門・秀知院学園を若くして卒業した英才。

煌びやかで、どこか浮世離れした芸能界の人間とは、根底に流れる「血」の重みが違う。歴史と伝統、そして権力争いの最前線で磨き抜かれた風格に、弱小プロダクションの社長である私は、言葉にできないほど圧倒されていた。

 

「…あやつは本当に恵まれておるのう」

 

「滅相もございません。恵まれていたのは、彼に出会えた私たちのほうです。……それに、この戦いは私たち(・・・)が勝ちます。そのための布石は、既にすべて打ち終えておりますので」

 

「くふふ、左様か。流石は、あの『四宮』を出し抜き、泥を舐めさせた子供たちじゃな。威勢がええわい」

 

「ッ……!」

 

滅堂が愉しげに投じたその一言に、渚の端正な貌が、鏡にヒビが入るような一瞬の動揺を見せた。

 

「……渚。顔に出ているよ。」

 

隣に座る父親――柏木の静かな、しかし峻烈な一喝。

渚は、自分が最高位の捕食者の前で「隙」を見せたことを即座に理解し、冷えた指先を握りしめて姿勢を正した。

 

「ほっほっほ、案ずるな。……その若さでこれほどの立ち振る舞い。到底二十代やそこらで身につくものではないわい。今の揺らぎも、経験の差というものじゃよ。恥じることはない」

 

滅堂は、まるで出来のいい孫娘を慈しむような、それでいて全てを見透かしたような昏い瞳で微笑む。

 

「……おみそれいたしました、御老公」

 

渚の声が、わずかに震える。それは恐怖ではなく、己の未熟さを突きつけられたことへの、誇り高き悔恨。

 

「気にせんでもよい。この期間中に、儂が主らにちょっかいをかけるような無粋な真似はせぬ。……少なくとも、主らが『この場』を楽しませてくれる限りはな。せいぜい、その牙を儂に見せてみよ」

 

滅堂の笑い声が、再び重厚な一室に響き渡る。

和やかなはずの会話の裏で、巨大な利権と過去の因縁が、どろどろとした熱量を持って渦巻いていた。ミヤコはただ、胃の奥が焼き切れるような感覚を覚えながら、一秒でも早くこの場が過ぎ去ることを、神に祈るしかなかった。

 

ああ――お腹が痛くなってきた。

 

「ミヤコさん、すごいね。氷の彫刻みたいにカチコチだよ?」

 

「ミヤコママ、あんなに肩を震わせて……。そんなに寒いのかな?」

 

アイの無邪気な観察と、ルビーの的外れな心配が私の心に虚しく響く。

この「魔境」で、恐怖のあまり凍りついている私の苦労など、この二人には一生理解できないのかもしれない。

 

「ミヤコ母さん。……とりあえず、お茶でも飲んで落ち着いたら?」

 

背後からかけられた、あまりにも冷静すぎる声。

私は藁にも縋る思いで、その声の主――アクアへと視線を向けた。

アイやルビーに比べれば、彼はまだ話が通じるはず。この異常事態において、私と同じ「常識」を共有しているのは彼しかいない。そう信じていた。

 

けれど。

 

「……っ」

 

私を労うように、そっと肩に置かれた彼の手。

そして、至近距離で目が合った瞬間、私は言葉を失った。

 

「まぁ、諦めなよ。あの兄さんが深く関わっている時点で、僕たちの人生から『平穏』や『常識』なんて言葉は、とっくに消え去っているんだから」

 

その眼差しは、到底、中学生のそれとは思えなかった。

そこに宿っていたのは、若さゆえの輝きではなく、濁流のような人生の荒波に揉まれ、すべてを悟りきった男の「諦念」。

満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げ、冷めたコーヒーを啜りながら明日を憂う――。

そんな、人生の黄昏時を生きる中年男性が浮かべるような、酷く疲れ切った、遠い目だった。

 

「アクア……。あなた、一体何を見てきたの……?」

 

思わず溢れた私の呟きさえ、彼は「いつものことだ」とでも言うように、乾いた微笑ひとつで受け流してしまった。

 

「あ、始まるみたい」

 

アイの、弾むような、けれどどこか他人事のような無邪気な一言。それが、この瞬間の幕開けだった。

 

「え?」

 

ミヤコが小さく、問い返すような声を漏らした。

だが、その疑問が言葉として形を成すよりも早く、世界は一変した。

 

――それは、刹那。

思考が追いつかず、視神経が捉えた残像すら脳が情報として処理を拒むほどの、あまりに短く、あまりに濃密な「一瞬」だった。

 

開始を告げるレフェリーの声が、会場の空気を震わせた。その振動がまだ観客の鼓膜に届ききらぬうちに、勝負は決していた。

 

ガタッ、と。

それまで「魔王」の如き余裕を崩さなかった片原滅堂が、その老躯からは想像もつかない俊敏さで、椅子を蹴るようにして立ち上がる。その手元のグラスからこぼれた琥珀色の液体が、深紅の絨毯に染みを作る暇さえない。

 

「なんと……。これほどとは、これほどまでとはな……!」

 

滅堂の震える声。驚愕か、あるいは狂おしいほどの歓喜か。その瞳には、かつてないほどの烈火が宿っていた。

隣に座る柏木は、信じられないものを見たように口元を歪め、乾いた笑いを漏らす。

 

「ははは……。これは、何とも……。圧倒的、という言葉すら、生温い」

 

「真珠……。あなた、一体何をしたの……?」

 

ミヤコの呟きは、誰にも届かない。

硝子越しに見下ろす闘技場。その中心には、ただ一人の影が、静寂を纏って立っていた。

倒れ伏した「絶対者」の傍らで、一滴の汗も、一糸の乱れも。まるで、日常の家事を終えた後のような、あまりに平然とした佇まいで。

 

審判の、震えるような勝ち名が、静まり返ったドームに響き渡る。

 

『勝者――柏木造船所属、斉藤、真珠ぉぉぉぉ!!』

 

一拍。

深海のような静寂。

そして次の瞬間、ドームの屋根を突き破らんばかりの、爆発的な、狂乱に近い歓声が会場を飲み込んだ。

誰もが予想し得なかった。誰もが「あり得ない」と断じた。

拳願仕合の歴史に燦然と輝く、最強の象徴。

誰もがその背中を見上げ、その無敵を疑わなかった男。

 

五代目『滅堂の牙』――加納アギト。

 

その絶対的な王者が、一歩も踏み出すことなく、ただの一撃。

機能としての暴力を突き詰め、極致へと至った「凡人」の前に、無惨に砕け散っていた。

 

最強という名の神話が、たった数秒。

斉藤真珠という「凡人」を自称する青年の手によって、あまりにも呆気なく、永遠に葬り去られた瞬間だった。

 

 

 

 

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