かわいい!!!!
ハッピーエンドです。
フロストリーフに脳を焼かれたドクターが、フロストリーフの話を聞くだけの話です。
フロストリーフが健全な少女であるということは、ある種よく知られている事実だ。
「ある種」と文句を付けたのは彼女が一見して勘違いされやすい性であるからに他ならない。
一人を疎まず、敢えて語弊を含んで言うのであれば自分勝手に生きている——知る者であれば自分勝手に生きられている、と解釈する——彼女は一見して近寄りがたい。
しかしながら実際にして孤立しているわけではない。
食堂のフロストリーフに相席を頼む者は多く、フロストリーフから声をかけることもまた多い。
戦場で垣間見える苛烈な姿勢やストイックな考え方は彼女の一面に過ぎない。
つまり、彼女は先入観を持たれることが多いものの、至って一般な少女であるということだ。
カチン、と硝子が擦れる。
琥珀の液体が金に輝いて小さな海を作る。
波濤は透明の壁に阻まれてすぐに消えてしまった。
乾杯と言えば虫の鳴くような声が返ってくる。
さて、どうしたものか。
グラスに口をつけながらカウンター席の横を盗み見れば、未だ手をつけられていない酒と深刻そうな顔の少女がいた。
この場に似合わず真白に染まった頬が彫像に似た印象を与える。どこか褪せた撫子色の髪もまたその一助となっているだろう。
彼女は小さく息を吐いた。
グラスを持ってすぐさまグイッと流して嚥下する。
呆気に取られているこちらをチラリと見て、ふっと笑った。
「誘っておいて悪かったな。もう大丈夫だ」
とんでもないと否定する。
何かあったのなら隠されるより話してもらった方がこちらとしても楽だ。
そう言うと、フロストリーフは「そうか」と言って少しだけ下を向く。悩んでいるように見える。
しかしこちらは何を言えばいいのだろうか。
それなりに仲が良いと自負しているのだが、見当も付かない。
昨今の血腥い情勢ばかりが頭に浮かぶ。
日が出ているうちに処理した書類の群れが大挙して濁流となる。
今だけはこの立場を恨んでもいいだろうか。
気の利いた言葉を一つもかけてやれないことは、恐らくそれだけが理由ではないのだろうが、それだけに押し付けてしまいたい気分だ。
「ドクター」
思考に沈みつつあった意識が引き戻された。
「私事になるが聞いてくれるか。それと、誰にも話さないと約束してくれ」
そう言って答えを待つフロストリーフ。
顔はナッツ一つ分だって曇っていない。
それどころかつまらなさそうだ。
裏切られることはないと信じているからだろう。
「だろうな」
勿論だと頷けば、フロストリーフはまた小さく笑った。酒が入った彼女は笑う頻度が少しだけ高くなる。
それを知る者が果たしてどれだけいるか——何やら変な方向に走り始めた思考を堰き止めた。
酒は飲んでも飲まれるな、と繰り返し自戒する。
「少し前から、気になっていた人が居たんだ」
するすると流れ落ちていった酒はどうやら道を違えたらしい。思わず咽せて咳き込む。
何か支えているような異物感が絶えず存在を主張している。何も意外なことではない。
フロストリーフは年頃なのだから、そういった相手が居たとして何らおかしくはないだろう。
少しして落ち着いた。
背中を摩ってくれていたフロストリーフに心配されながらも話の続きを促した。
恋愛相談ならあまり得意な分野ではない。
しかし何か知恵は出せるはずだ。
「よく二人で休日の時間を潰すことがあった。恋人と呼ぶには焦燥でも、それに近しいものだと思っていた。だが、全く愚かな勘違いだった」
嘲るように上がった口角。含蓄された情動は判然たるものだ。
文脈からして次の展開は容易に想像できていた。
「どうやら先約がいたらしいことを、今日、知った。散々思わせぶりなことを言っておきながらだ」
傾けたグラスから中身が流れ落ちていく。
やがて空になったそれを横に押しやり、大きなため息を吐いた。悪酔いしそうなペースが心配になる。
少しの間沈黙が訪れていた。
彼女が何を考え、照明を眺めているのかは分からない。それは推察できるほど余裕がなかったからだ。
再度おかしな方向に動き出した思考の流れを断ち切ろうと苦闘して、脳のリソースは全てそれに注ぎ込まれていた。
フロストリーフの一言一句が全てずっしりと質量を持っていた。それは本当に小さく、そして淡い欲望を所以とするものだと分かっていた。
知っていて、しかし手の届かない領分にあるのだ。それらは往々にして行手を阻み、この言葉に纏わりつく重量もまた、その一つが道に支えていたというだけの然して珍しくもないことだった。
少し息を止めて、吐いて、次に考えるのはフロストリーフの話だ。
まず、好意は残っているのか、と質した。
「どうだろうな」
手持ち無沙汰の彼女はコースターをスライドさせて、それをただ見つめている。
まるで音階を確かめるため鍵盤を一つ一つ叩いていくかのように言葉を紡いでいく。
「好意が残っているから吹っ切れられていないのだろうかと思う。その一方で、抱いていた感情が恋愛のそれだったのか、既に不確かだ」
こちらの納得がいっていないことを察してフロストリーフは言葉を重ねた。
「失望したが、涙は出なかった。独占欲があったことは恐らく確かなのだろうが、悲しみはなく怒りだけが薄ぼんやりと見えるこれを失恋と呼んでいいのか、私にも分からないんだ」
やはり恋愛は理解が難しい。
文面上の意味こそ理解できたが、あまりピンと来ていない。
半端な返事で応えるには余りにも大切なやりとりで、しかし何か言いたくて、そんな煮え切らない態度を察してかフロストリーフは小さく笑みをこぼした。
「お前の答えは私の答えじゃない。何を言おうが構わない。仕事以外で私を強制できるなどと思わないことだ」
彼女は冗談のようにそう言って顔を逸らした。
「聞いてもらえただけで充分だろう」
染み入るように呟く。そしてつまみを口に放った。
静かに咀嚼する。普段と変わらない様子でありながら、そんな彼女がどうしてか小さく見えた。
案山子に言って聞かせたところで充分なはずがないのだから、それも当然か。
トクトクと注がれた竹葉の波は溶け消えた。漣がいつまでも響いている心にはいい薬となるだろう。
箸にも棒にもかからない助言のフリをした放言よりも、余程痛みを隠してくれるだろう。
憎らしいほどだ。
「何か言いたいことがあるのなら言ってくれ。そうわかりやすく溜め込まれると、折角の酔いが台無しだろう。何のための酒だと思ってる」
冗談半分に口先を尖らせた彼女の無理が透けて見えて、いっそう正しいことを言わなければいけないような気がしてくる。
人の心はどれだけ観察しても見えてこない。
とは言え沈黙は誰も望んでいない。
正しいことより間違っていない言葉を探して、口に出す。
合理に従えば、件の彼とは距離を置いて、そして忘れるべきだ。既に手は届かないのだと心で整理をつけなければ前も向けやしないだろう。
「合理か。卑怯な言葉だな」
論理を盾に正しいようなことを言って煙に巻く——それは正しく卑怯な行いなのだろう。
心は勘定に従わず、合理など空論であるから、彼女は悩んでいる。
「……すまない。八つ当たりだった」
唇を湿らせる。頬を染める。
カラカラと音を出す氷のカケラたちが浮かんでいる。
フロストリーフにとって、その感情は大切なものだったのだろうと思う。
遣る方ない情動にはそれだけの質量があるはずだ。
フロストリーフに対して感じている、この小さくとも激烈な感情と同じように。
チクリと胸が痛む。そしてハッとした。
どうやら適格だったらしい。
今の今まで、相談相手として役者不足この上ないと自認していたが、フロストリーフの慧眼は侮れない。
ああ、それにしてもなんと鈍間なことだろうか。
今になって、フロストリーフが持つ感情をとっくに理解していたことに気付くとは。
彼女が件の男を思うように、こちらもまたフロストリーフにそのような思いを抱いていたことに、今更気付くとは。
件の彼に小さな対抗心を、そして彼女には多少の独占欲を。
ひとたび自覚してみれば、ずっと前から存在していたものにライトが当たったというだけのことだった。
そうして胸中で転がすうちに、彼女がこれを失恋と呼ぶに憚られていた理由も理解した。
恐らく恋愛ではない。
ただ自分の中で価値が高いだけだ。
人気者と仲良くなりたいと思う心理によく似ていて、その人気が自分の中のみで測られているというだけのことだ。
憧れと呼ぶには利己的で、尊敬と呼ぶには私心が介在し、友情と呼ぶには非対等だ。
恋愛以外の形容は当てはまらないだろう。
されどこれを恋愛と呼ぶには、余りにも薄く、汚く、そして自己中心的だ。
「一つ聞きたい。私はどうすればいい?」
緋色の目はこちらを向いていなかった。
意中だった彼の幻影を見つめているのだろうか。
酒精が見せる幻を追いかけているのだろうか。
そう思うとやはり吐く息が大きくなってしまう。
返した言葉はそう多くない。
心を占めるそれの正体を見つめてから出すべきものだと、そんなことを言った。
それだけで、終わりだった。
臆病だった。
心の中ではフロストリーフを理解したと言ったが、実際にそれを口から出すことはできなかった。
本当に同一なのか分からないと、フロストリーフが自分で決めるべきことだと、尤もらしい理由付けで逃げたのだ。
そんな風だから鈍間なんだ、とどこかで叫ぶ者がいる。うるさいと抑えつけて酒に酔う。
鈍間でなかったとして、何ができたのか。何もできなかっただろう。鈍間だけではなく臆病の性質まで備えているのだから、全く打つ手はない。
「意外だな。私はてっきり合理に諭されるものだと思っていたが」
付け加えるならば卑怯か。鈍間で臆病な卑怯者。
相談相手としては適格でも、役者不足という評価は間違えていないように思える。
もっと相応しい人がいただろうに。
フロストリーフはそんなことを意にも介していないようだった。
「お前が言う通りにしたとして、それが恋愛感情だったなら、どうすればいいと思う?」
障害の一切を考慮しないのであればその彼に告白するべきだろう。しかし、できなくともいい。
言葉が与える区切りは不確かなものに形を与える。名前を付けてしまえばそれだけで、大きく前に進むことができるだろう。
「そんなものか?」
腑に落ちていない彼女に曖昧な返答をして、酒を一口。
仮定の話はどこまで突き詰めても仮定の話だ。
その時になってどう思うか、確率で物を言える世界の話だ。
必要以上に詰めるのは賢い選択と言えない。
「どうしたって、この胸痛は袋小路か」
小さな声が空のグラスに響いている。
そんな彼女の姿を見て共鳴するように胸が痛くなる。喉を焼く酒精は痛みを掻き消してくれない。
イライラさせるような、しかし我慢できないほどではない程度の痛痒が頭の中を引っ掻き回す。無性に腹が立って、やるせなさが溜まっていく。
フロストリーフはすぐ横に居る。
恐らくそれが理由だった。近くに居て、心の距離もまた近く、故に悲しいと感じない。
その一方で彼女の心はこちらを向いていなかった。
近くに居るからこそ分かってしまう、感じてしまう、だからひどく嫌な気分にさせられる。
そんなことを考えていると、失くしたはずの万年筆が引き出しの奥から見つかった時のように、すぅっと淡い期待が浮き上がった。
余りにも楽観的で、魅力的で、信じがたい。
そうではないだろうと思いつつ、そうであってほしい思いを否定できない。
そんな薄いとすら表現できない、ひたすらに淡い楽観が頭の中を埋め尽くした。
後味の悪いバッドエンドに似た、この鬱屈とした不快感を共にしているのなら、渇いた喉が水を求めてヒリつくような、この塗炭が共有されているのなら、思いの向きは全く同じなのではないかと、そう思った。
言わば愚痴の体を取った皮肉なのではないか、と。
そして問うているのではないか。
好意に気づかせ、窘められるか、それとも背を押されるか——つまるところ、これは告白だったのではないか。
この推測とすら言えない僅かな可能性はやはり奇妙だ。
まさか当人を相手に相談する者など居ないだろうと勿論思っている。
しかしフロストリーフは、どこかその一線を軽々と踏み越えてしまいそうな空気を纏わせていた。
期待が多分に含まれているのだと理解しているが、それでもゼロであるとは思えなかった。
楽観だ。知っている。
ただ自分を重ねているだけだ。分かっている。
期待と呼んでいいものか分からない妄想だ。理解している。
溺れる者が藁をも掴むのは、藁を藁と認識できていないからではない。無駄であれ、逃れようとすらしなければ絶望に呑まれてしまうからだ。
「ドクター」
ひんやりとした感覚が肩に伝い、思わず飛び上がった。
「何を考えていたんだ?」
咎めるような視線が注がれ、反射的に何でもないと返した。
不思議そうに、そして極々小さくとも不機嫌そうになった顔が少しだけ、ほんの少しだけ、嬉しくなってしまう。
期待が色を増したように思えてしまう。
舞い上がった心を自覚しつつ、敢えて止めなかった。
きっとこの期待はここで散らしてしまった方が良いのだと勝手な理屈をつけていた。
「彼については、あまり話したいことではない。ハッキリ言ったところで無駄な話だ」
逸る。頭の中身がそのまま外へ出ていきそうなくらいに、逸っている。きっとこれは酒の勢いだ。
ただの小さな不快感がこれほどまでに駆り立てるとは思ってもみなかった。
この情意が失恋だったのだと、今や言説が覆されていた。否、これは失恋ではない。
これこそ恋情だったのだ。
人を慕い、知らぬ誰かに奪われて傷つく、その作用がどうして恋愛以外によって為せられようか。
「フロストリーフ」
頭の中と口が初めてリンクしたように思う。
今までは『フロストリーフ』という七文字を入力していたものが、『名前を呼ぶ』というワンキーでそのままに出力されていた。
「好きだ」
余りにも唐突な言葉だった。
しかし彼女にとっては待ちくたびれていた言葉だった。
「……遅い」
ふい、と顔が逸れる。
飲んでいるからか、はたまた別の要因があるのか、その頬は鮮やかな赤に染まっていた。
それが落ち着かないままに、彼女は機嫌を直した。
「愚痴はやめだ。だから、飲み直そう」
そんなことを言って、フロストリーフは瓶を手に取る。
「注いでやる」
「ああ、ありがとう、フロスト——」
逸って、逸って、勢いを増した思考は遂に止められた。しかし、ああ、どうしてだ。
飲み直すのだろう。全くバカなことをしてくれた。何故分からないんだ。
これほど甘美な