ほぼ原作通り。
その町は今や地図上には存在しなく、私の記憶に戸口町という名前が記憶されているのみだった。町の名前も変わるものであるが、役場の台帳にすら残っていない。今や山の奥のたどり着くことさえできないダムの底に沈んでしまったのだ。かつて紫安エリカが音楽を奏でた場所は。
当時の私はわずかな仕送りに頼った哲学科の貧乏学生で、町から少し外れたいくつものきつい坂を登った先にある今にも崩れそうなボロボロな四階建てのアパートに間借りしていた。
借間は三階にあり、立地が悪いためかその階にほかに店子はいなかった。アパート全体がほとんど空だったのだ。引っ越したその夜、アパートの最上階の一室から風変わりな音楽が流れてくるのが聞こえたので、その翌日大家に尋ねてみた。妙齢で夫に先立たれた未亡人のヴァイオリン弾きで、唖者であり、紫安エリカという名前だという。夕方になるとこの町唯一の酒場で演奏しており、夜中に帰宅した後も演奏をしたいので人のいないアパートの最上階を所望した。このアパートの最上階は町を見下ろし一望できる唯一の場所であった。
その後私は毎夜、紫安エリカの演奏を聞いた。それはこの世の物とも思えない音楽で、とても眠れるようなものではなく、私は取り憑かれてしまったのだ。音楽芸術には疎いのだが、その和声はそれまでに聞いたいかなる音楽とも関連がなかったと断言できる。彼女は極めて独創的な作曲家だったのである。聞けば聞く程に惹きつけられ、とうとう一週間後、彼女に会ってみようと思い立ったのだ。
ある夜私は、仕事帰りの紫安エリカを廊下で待ち構え、貴女のことを教えてくれないか、また演奏中そばで聞かせてくれないだろうかと頼んだ。彼女は小柄で痩せっぽちで、背筋が曲がっていた。暗い色の服を着ていて、影があり疲れたように見えるが美しいな顔をしており、ほとんど伸ばしっぱなしの髪を無理やり後ろで括っていた。私の初めてかけた言葉に、怒りと戦きを感じたようだったが、見え見えの馴れ馴れしさでついには彼女を懐柔することができた。不承不承、身ぶりでついてくるよう示し、上階に続く暗くてきしる錆の浮いたの階段を上がって行った。
彼女の部屋は階段を上って一番奥にあり、このあたりの建築では珍しく洋間になっていた。狭い部屋だが、がらんとして荒れ果てた様子が、その部屋を広く見せていた。家具も小さなパイプベッドにテーブル、本棚、鉄製の譜面台、それに椅子が三脚ある。床の上には散らかされた楽譜が積みあがっていた。壁は漆喰が崩れかけ、周りにかけらが散っている。異彩を放つのは枝をまげて作った輪の中に蜘蛛の巣状に糸を張った飾りがいくつも天井から吊るされていることだった。
座るよう身体で促しながら、その彼女は扉を閉め、吊るされた裸電球に明かりを灯した。そこで虫食いだらけのケースからヴァイオリンを取り出すと、椅子の中で最も具合が悪くないのを選んで座った。彼女は譜面台を使わず、曲の選択の余地を与えず、暗譜で演奏した。演奏は一時間以上に渉ったが、これまで耳にしたことのない旋律に私は魅了されたままだった。それらの曲は自作のものであったに違いない。音楽の門外漢故、どのような曲であったか正確な描写はしかねるが、それらは、複数のこの上なく魅惑的な走句が繰り返し回帰する遁走曲の一種だった。しかし、階下でこれまでに聞いた怪異な音律が全く現れなかったことにも気付かされた。
私はそれらの音律に取り憑かれ、覚えてしまっていて、しばしば一人で、鼻歌や口笛で不正確ながらそれをなぞってもいた。そこで、奏者がついに弓を持つ手を下ろした時、その内のどれかを弾いてもらえないものかと頼んだ。疲れたような彼女の顔も、演奏中は忍耐強い平静さに保たれていた。しかし私の望みを聞くとすぐに顔色を変え、最初に話し掛けた時と同様の、怒りと戦きが奇妙にないまぜになった顔つきになったのだ。初めは軽く見て、説得してやろうと考えた。そればかりでなく、彼女に怪異な気分を起こさせるために前夜聞いた旋律をいくたりか口笛で吹くことすらした。ところが、それは寸刻も続かなかった。口笛の曲を耳にした途端、唖の音楽家は到底分析できない表情に顔を歪ませ、長く冷たく骨張った右手を延ばして私の口を押さえ、粗雑な模倣を押し殺したのである。同時に、なんとも頭がいかれたことに、ただ一枚のカーテンが下がった窓の方をびくびくしながら睨んだのだ。まるで何か恐ろしい侵入者がいるかのように。そのように睨むのは二重の意味で馬鹿げていた。アパートは高く聳えていたし、近所には近付くことができる建物などない。この部屋は急坂の町を一望できる最も高い場所にある唯一の点だったからだ。
彼女の視線で私はふと、外に広がる目も眩むような光景、坂を下った先にある月明かりを浴びた屋根や街の灯を見たくなった。戸口町の住民の中で、それを見られるのはこの演奏家だけなのだ。窓まで進み、これからそのありふれたカーテンを開けようとしたその時、唖の間借人は私を止め、以前にも増して戦くような怒りをぶつけてきた。今度は頭を扉の方に向け、両手でもって私をば引きずり出すべく神経質に試みたのである。私は彼女にまったく愛想を尽かし、手を離せ、すぐ出て行ってやると言った。私の嫌悪と反感を見て取ると、彼女の怒りは萎えていくようだった。ゆるめた手を今度は親しみを込めて握り直すと、椅子に座らせ、思いに沈む様子で散らかったテーブルに向かった。そこで彼女は鉛筆を持ち、苦労しながら長い文章を書いた。
やっとのことで手渡されたメモには、忍耐と寛容とを願う旨が書いてあった。紫安が言うには、自分は夫に先立たれて孤独であり、奇怪な恐怖と神経性の失調とに悩まされており、それは音楽とその他の事どもに関係があるとのことであった。彼女は私が演奏を聞いてくれたことを喜び、自分の奇矯さを気にせずまた来て欲しいと書いていた。ただし、あの怪異な和音を他人の前で演奏することはできず、誰かからそれを聞かされるのも耐えられないし、室内の物に手を触れることも許し難い。廊下で話をするまでは、階下の部屋で演奏が聞こえることには気付かなかった、申し訳ないが大家に頼んで夜間の演奏が聞こえないもっと下の階の部屋に移ってもらえないだろうか、家賃の差額については彼女がひきうけるであろう、とすら。
椅子に座りたどたどしい文章を読んでいるうちに、彼女に対する惻隠の情が起ってきた。彼女は心身ともに摩滅した犠牲者なのだ。哲学の研究を通して、私は慈愛の念というものを学んでいた。静寂の中、窓から幽かな音が聞こえた。雨戸が夜風に吹かれたに違いない。どういうわけか、私も紫安エリカと同じように酷く驚いた。文を読み終わると、私は彼女の手を握り、友好的に別れたのであった。
翌日、大家は私に二階にあるもっと家賃の高い部屋をあてがってくれた。両隣りには高齢の金貸しと大工が住んでいた。今は三階には誰も住んでいなかった。
それ程時を経ずして、仲良くしてほしい紫安の気持ちというのが、四階から下に降りてくれと懇願した時限りだったらしいことに気付かされた。彼女は私を招くでもなければ、こちらから訪ねても落ち着かない様子で気のない演奏をするだけであった。訪ねるのは常に夜のことで、日中は彼女は寝ており、誰の訪問も受け付けなかった。彼女に対する親愛の情は深まることがなく、しかし最上階の部屋と怪異な音楽は不思議に心を捉えて離さなかったのだ。私はなんとかあの窓から壁の外を眺めたいという奇妙な切望を感じていた。見たことのない斜面を見下ろし、そこに広がっているに違いない屋根や灯りが煌めく様を見たいと。一度、紫安の留守を狙って、酒場が開いている時間帯に四階への階段を登ってみたが、扉は施錠されていた。
私にできたのは、唖の未亡人の演奏を、夜毎隠れて聞き続けることであった。最初は抜き足差し足で以前の三階の部屋に登ったのだが、次第に厚顔無恥にも階段をぎしぎし軋ませて、彼女の部屋の前まで登っていくようになった。扉は固く閉ざされており、郵便受けはは覆いで隠されていた。そこで私はしばしば定義不能な恐怖に満ちた音を聞いた。私は謎と困惑に満ちた恐怖で一杯だった。音自体の醜さの問題ではなかった。醜い音ではなかったのだ。だがその間断なき音の揺れが暗示するものは、この地上のものではあり得ず、ある間合いを置いて交響楽を思わせるものがあり、到底一人の奏者が演奏し得るものとは思えなかったのである。確かに紫安エリカは恐るべき体力を秘めた天才だったのだ。幾週かが過ぎるにつれ、演奏は更に狂暴になっていった。その一方で演奏家は正視に耐えない程悲惨に衰弱しこそこそした態度になっていった。今ではいかなる時であれ私の訪問を拒否するようになった。階段で顔を合わせても常に無視された。
そうこうする内、ある夜扉の外で聞いていると、泣叫ぶヴァイオリンが混沌とした音の中に飲み込まれるのが聞こえた。音の汎魔殿、閉ざされた扉の向こうから悲鳴が聞こえていなければ、ついに自分の正気が失われたかと思う程の混沌。痛ましいことに、間違いなくそこには現実の恐怖があった。恐ろしい、唖者特有の言葉にならない叫び、それは最悪の恐怖と苦悶に晒された者のみが発し得るものだった。私は扉をくり返しノックしたが、返事はなかった。冷気と恐怖に慄然としながら闇の廊下でじっとしていると、哀れな演奏家が起き上がろうと椅子に掴まって弱々しくもがく気配が聞こえた。先ほどは失神して倒れていたのであろうと、再びノックをくり返し、安心させるように自分の名前を告げた紫安がよろめきながら窓と雨戸を閉める音がした。彼女はよろよろと扉まで辿り着くと、ためらいがちにそれを開け、私を中に入れた。今度ばかりは、私がいることを心から喜んでいた。まるで子供が母親のスカートにすがるように私のコートを掴んだ時、その歪んだ顔にほっとした様子がかすかに見えた。
病的に身体を揺さぶりながら、彼女は私を椅子に座らせ、自分も別の椅子に座った。その横の床にはヴァイオリンと弓とが無造作に投げ出してあった。座ってしばらくは奇妙に首を傾げたまま身じろぎもせず、逆説的にも、恐れながら耳をそばだてているように見えた。ややあって安心したらしく、テーブルの脇にある椅子にかけて短い文章を書き、私に手渡した。またテーブルの所に戻ると、何かを大急ぎでひたすら書き連ねた。メモには容赦の程を哀願する旨があり、貴方の好奇心を満たすために、これから文章を認めるので待って欲しいとあった。自分を取り囲む怪異について、その全てを詳細に説明するつもりだというのである。私は待ち、唖者の鉛筆は走った。
それは恐らく一時間程経った頃であろう、私は待ち続け、演奏家は熱病のように書き続け、その紙は嵩を増していった。突然紫安が恐ろしいショックに撃たれるのを見た。まごう方なく、彼女はカーテンの閉った窓を見、震えおののきながら耳を傾けていた。その時、私にも音が聞こえたような気がしたのだ。それは恐ろしい音ではなく、むしろ不思議に低く、無窮の遠から聞こえてくる音楽的な音色だった。どこか近所に、あるいはまだ見ぬ町の向こうに、演奏者でもいるではないかと暗示するような。その音が紫安に与えた影響は恐るべきもので、鉛筆を取り落とすとやおら立ち上がり、ヴァイオリンを掴むや、闇を切り裂くべく狂暴な演奏を開始した。鍵をかけられた扉の向こうでは、彼女の弓が絞り出すこれ程荒々しい演奏はこれまで聞いたことがなかった。
その怪夜における紫安エリカの演奏について描写する必要はなかろう。扉越しに聞いたいかなる演奏よりも恐ろしかった。今やその顔の表情を見、その動機が硬直した恐怖であることを知ってしまったからだ。彼女は大きな音をたてようとした。何かを追い払おうと、何かを遠ざけるために。想像すら能わないが、戦慄すべきものであることはひしひしと感じとれる何かを。演奏は更に幻想的に、譫言めいて、ヒステリックになっていったが、なおもこの奇矯な演奏家の持つ卓越した天才の片鱗をとどめていたのだ。曲は私も知っているものだった -- それは酒場でよく演奏される粗野なハンガリー舞曲だった。紫安が他人の曲を演奏するのを聞くのはこれが初めてだということに気付いた。
尚も大きく、更に粗暴に、絶望的なヴァイオリンの叫びと啜り泣きは高まっていった。奏者は不自然な程の汗を滴らせ、猿のように身をくねらせた。だが血走った眼は窓のカーテンに向けられたままだった。その狂暴な旋律を聞くと、私はあたかも眼前に雲と霧と電光に沸騰する深淵を通して、かぐろい悪魔の群れが気の触れた回転舞踏を繰り広げる様を見ているかに思えた。その時、私はある音が聞こえたような気がした。ヴァイオリンの音ではない、もっと金属的で、安定した音。冷静で、落ち着いた、決然とした、嘲笑するような音が西の彼方から。
その時、室内の狂ったような演奏に応えるかのようにわき上がった夜の嵐に雨戸が鳴り出した。紫安のヴァイオリンは悲鳴を上げ、ヴァイオリンとは到底思えない音を喚き立てていた。雨戸はがたがたとますます激しく鳴り、ついに留め金が壊れて、窓に向かってバタンと閉じた。窓ガラスは打ち続く衝撃に震えて割れ、冷たい風が吹き込んできた。吊るされた灯りは点滅し、テーブルの上の、紫安が恐怖の秘密を書き始めていた原稿の束がバサバサと震えた。私は紫安を見た。彼女には既にまともに物が見えていなかった。眼は飛び出し、ガラスのようで、何も見ておらず、狂熱的な演奏は盲目で機械的で、筆舌に尽くし難い猥雑な乱舞と化していた。
突然の疾風が、原稿を窓の外に奪っていった。私は必死で追ったが、割れたガラスに達する前にそれらは失われてしまった。その時、私は以前からの願望を思い出したのだ。窓から外を見たい、見下ろした向こうの坂を、その下に延びる町を見られる戸口町で唯一の窓から外を見たい、という。大変暗い夜だったが、町の灯はいつも点っていたし、雨嵐のなかでもそれらは見えるだろうと期待していた。だが、ちらつく灯りと夜風に殷々と響く狂気のヴァイオリンとを背にしてこの最も高い場所にある破風の窓から見たものは、下方に広がる町でも、見なれた街路で煌めく親しい灯りでもなかった。無限の闇、動きと音楽だけが生きる想像を絶した空間、それは地上には類縁のものすらない空間だった。恐怖に竦んでいると、吊るされていた灯りが風に耐えかねてちぎれて落ちた。古びた部屋で、私は残忍で通り抜けることのできない闇に取り残され、目の前の闇には混沌と汎魔殿があり、背後の闇には気の触れたヴァイオリンが悪魔のように吠えていた。
私は明かりもないまま、暗闇の中をよろめきながら後ずさり、テーブルにぶつかり、椅子を倒し、ようやく手探りで衝撃的な音楽を叫びたてる黒いものの場所を探し当てた。いかなる力に逆らうことになろうと、なんとかして紫安エリカと自分自身とを救い出すために。一度何かひやっとするものに触れた気がして、私は叫び声をあげた。しかしそれは醜悪なヴァイオリンにかき消されてしまった。闇の中から急に、狂ったように動く弓がぶつかってきた。演奏者はすぐ近くにいるのだ。前方を探ると、紫安の椅子の背があった。肩に手をかけ、正気に戻そうと強く揺すった。
応えはなかった。ヴァイオリンは尚も金切り声を上げ続けた。ガクガクと機械的に振り回されている頭を掴んでその動きを止め、夜の怪から逃げ出さねばならぬと耳もとで叫んだ。しかし返事はなく、狂熱する言語に絶した音楽が退くでもなかった。部屋はがやがやと騒がしい闇となり、部屋中で風が奇妙な踊りを舞った。手が彼女の耳に触れた時、何故かしら私は震えたが、その訳は動かない顔に触れた時に初めて判った。氷のように冷たく、こわばって、呼吸の止まった顔からはガラスのような眼球がとびだし、ぶらぶらと無様に垂れていた。そこで私は、いかなる奇跡によってか扉と大きなを見つけ、ガラスの眼をぶら下げた闇の物体と食人鬼のような唸りから飛び退った。その時ですら、呪われたヴァイオリンは更に猛り狂っていったのである。
いつ果てるともなく続く階段を飛ぶように駆け降り、私は暗い家から逃げ出した。無我夢中で走った。狭くて急な、石段だらけの古い街路に飛び込み、崩れかけた家々を通り過ぎ、下りの石段と舗装のセメントを鳴らし、馴染みのある街に出た。そこはより広く、より健全で、街路には並木があった。私の心にはいつまでも消えることのない恐怖が留まっている。私は覚えているが、そこでは風もなく、月が出ており、たくさんの街の灯が瞬いていたのだ。
ダム建設の際に買い上げられた町は、湖に沈み町の記録からも記憶からも消え去った。しかし、私はそれを極めて残念だと思ってはいない。夢見ることも叶わぬ深淵に消えた、原稿に細かく書き込まれた紫安エリカの音楽の謎をも。
そのうちこれでTRPGのシナリオ書こう