ただの口癖みたいなものだって、彼女は言ってくれたのに。
▶︎続きが捻り出せないため供養

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俯く者の眠る日

この頃、ニグリュさんが僕の住む家に泊まらなくなった。前から断られる事はあったけど、近頃となるともう疲れたとぼやいている時でさえ気だるげな動きで帰っていくし、泊まっていきませんかと言ってみてもすげなく断られてしまうのだ。何かがあったような気がするけれど、みんながいつも通りだと言うのを聞くとそうだったような気もしてくるような曖昧な感覚。けれど頭の中に彼女の笑顔がこびりついて離れない。

 

ごめんね。今日は帰るよ。また今度かな。ありがとー。毎回少しだけ変わっていく断りの言葉と、寸分違わず同じ笑顔。以前は見せようとしなかったあの寂しげな笑顔を僕は、どうにも忘れることができなかった。

 

———

 

「よいせー」

 

ニグリュさんの変調がずっと気になって仕方がなかった。一緒に出撃すればついつい横目で見てしまうし、そうでない時も帰ってから他の皆さんにその日の様子を尋ねたりして、周りから見れば完全にニグリュさんにお熱になっているように見えただろう。

 

この日も指示を出しながらどうにもニグリュさんが気になっていた。連携を損なわない程度に彼女を近くに配置して時々様子を確かめていた。危なくなればビビ神様にもお願いして、

 

でもきっと、逆にそれが良くなかったんだ。

 

「っ!ご主人くん!1体抜けてる!っう!」

 

得意の連射を今まさに終え、動けなくなったスズさんが横を見て焦ったような叫びを上げた。ブロックできずに溢れた忍者が1人、弓と魔法をすり抜けて無傷のままに抜けていた。そいつがまっすぐ行く先にはブロックされた5人に向けて今まさに矢を放とうとするニグリュさん。気づく素振りは全く無い。弓を構えた手の陰に敵の体が隠れているから。

 

「ニグリュさん!避けて!」

 

そう言いつつも間に合わないのは分かっていた。僕のせいだ。横道の入り口を潰せばそこからは誰も来ないと思い込んで、抜けた後の対応策に手を抜いた。ちょうど通路が見えない位置にニグリュさんを配置して、そしたらうっかり抜けられて。怪我をするは一体誰だと噛み締めた唇から血が流れた。怪我で済むか?気づいていないニグリュさんはちゃんと致命傷を避けられるのか?散々仲間をやられたならず者は、果たして商品だからと恨みつらみを引っ込められるような人間だろうか?走り出しながら頭を動かす。後悔がグルグルと渦を巻く。

 

「えっ……ぁ」

 

なまじ近かっただけにはっきり見えた。突き出された短刀が白い服を裂いてお腹に吸い込まれていくところが。驚いた顔で倒れていくニグリュさんの目が微かに妖しく光ったところが。裂けた袖から覗く左手が敵の体に僅かに触れて、そして瞬く間に忍者が石に変わるところが。

 

そのままニグリュさんが後ろに倒れ、覆いかぶさるように一息遅れて忍者が倒れ、そして衝撃でその身を粉々に砕けさせた。どろりとした固まりかけの黒々しい血がニグリュさんを汚していく。

 

「ニグリュさん!」

 

「あ、ごしゅ、じん……く」

 

駆け寄った僕の顔を見たいつもよりずっと眠たげな目が、途切れた声と共に閉じた。

 

———

 

3日が経ち、目を覚ましたニグリュさんを僕たちは再び眠らせなければならなかった。

 

意識を取り戻して喜ぶ僕たちの前で「楽になりたい」と呟いて、その身を石に変じさせ始めたからだ。ユラさんが即座に反応し、左の頭でニグリュさんの首元に噛みついた。ニグリュさんは抵抗も無くベッドに押し倒されて目を閉じた。折れそうなほど強く噛み締めた蛇の頭が凄まじい速度で石化していき、ニグリュさんの顔が苦しげに歪んだ。

 

僕たちが我に返って引き剥がそうとする中、僕はユラさんの顔に目をやった。彼女は決してニグリュさんから目を離す事なく、絶対に離そうとはしなかった。ニグリュさんより彼女の方が酷く苦しそうな顔をしていた。

 

「次は、期待しないでください」

 

しばらく経ってニグリュさんの表情が安らかなものに変わると、ユラさんは自ら蛇の頭を叩き割ってそう言った。彼女の首元にまで及んだ石化箇所を見て、僕たちは事の重大さをようやく悟った。僕たちはユラさんを傷つける事ができなかったし、傷つけずともどうにかできると無根拠に信じきっていた。ユラさんは違った。彼女が誰よりも目の前の現実を見ていたからこそ僕たちは命を拾ったのだ。

 

幸いにもニグリュさんが意識を失うと共に石化の効力は弱まっていった。まだらに石化して血流が滞っていた彼女の体も、あわや心臓まで石になるところだったユラさんの体も、普段よりもずいぶん時間がかかったけれどみんなの手によって治療できた。けれど次にニグリュさんが目覚めたら僕たちはどうするべきなのだろうか。沈痛な面持ちのみんなを宥めながら、僕は石化に巻き込まれていた左手をそっと隠した。

 

———

 

「差し迫った命の危機に反応して力が暴走し続けているのだろうな」

 

リコさんはフラスコの中身を排水口に流し込みながら「おそらく、だが」と付け加えた。

 

「じゃあ、傷が治ってもニグリュさんが起きなかったのは」

 

「反動だ。活性化した石化能力で急激にエネルギーを消費したせいで活動できなくなったのだろう。最初に行使してから目覚めるまで3日。今回はユラが止めたとは言え、ろくに栄養も摂らないままで立て続けに2度だ。下手を打てば死ぬだろう」

 

空のフラスコにブラシを突っ込み、シャカシャカと淀みない音を立てながらリコさんは極めて冷静にそう言った。ありがたかった。彼女がこうして冷静に示してくれるから、僕もまだ冷静であろうとしていられる。

 

「であれば栄養面はリンさんにお願いしようと思います」

 

「ああ。彼女なら喜んで——かどうかは分からないが、協力してくれるだろう。だから、問題となるのはニグリュが目覚めた時にどうするか、なのだが」

 

リコさんは口を閉じて、忙しなくフラスコの間を行き来させていた目線を上げた。フラスコの掃除は終わったらしい。彼女は次の作業に入らず僕が答えるのを待っていた。

 

「そもそもニグリュさんを起こすかどうか、ですよね。きっとあまり良い結果にはならないから。でも、起こします。そうしなければならないような気がするんです」

 

リコさんはしばらく僕の目をじっと見てゆっくりと頷き、フラスコを箱の中にしまい始めた。

 

「分かっているならいいんだ」

 

俯いて垂れた前髪が彼女の表情を覆い隠した。隠そうとした声の震えに僕は気づかないふりをした。


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