「凄まじい妖気を感じる。本気で入るつもりか」
「……妖気……つまりは妖怪がいるってこと?」
「あぁ。ただ、私にもどんな妖怪が――」
かいなは影オロチの助言を遮るよう、金網に巻き付く蔓のような鎖を握りしめた。
ざらざらとした粗い表面、潮風で錆びつき、長い間放置された証拠。彼女の白い手が汚らしい錆色で彩られる。
吹き抜けてゆく海風の異様なまでの冷たさが、これ以上先に踏み込んではならない、という警告のようにも思えた。
しかしながら引き起こる身震いは、もう引き下がれ無い、という覚悟の表れであった。
影オロチの呆れた嘆息が、風音に混じって聞こえてくる。
妖怪から見ても愚かとは、
また、冷たい海風が吹き抜けていった。
雰囲気を凍てつかせるひゅー、という力無き空気の轟きが耳に響く。
ぞわぞわぞわ、と背中を走った悪寒。
かいなは思わず両手で肩を抱き寄せるも、その表情には笑顔が垣間見えていた。
「この先に行けば、私は何を見れるんだろう……」
考えるよりも先に、風で開いてしまった金網の向こう側へと、足を踏み入れるのであった。
◇
暫く進んだ。
何の変哲もない、ただの堤防だった。冷たいコンクリートによって固められた、ただ波を止めるために作られた壁。
海に落ちぬよう覗いてみれば、堤防の肌には大量のフジツボが群を成している。
言ってみれば、妖怪とは縁のない場所だ。
かいなには、そう見えて仕方がなかった。
入る直後は確かにかいなにも、その異様な雰囲気は感じられた。
けれども、今、自分が立っている場所は――。
「……ねぇ、ほんとに妖怪いるの?」
肉付きの良い尻を突き出す形で、下を覗き込んでいたかいなは影オロチに問う。
「……お前は気づいていないのか」
「え?」
影オロチの不審な一言に、かいなは即座に立ち上がった。
冷たい海風が、彼女の髪を撫でた。
「やってしまったな。ここは踏み入れてはならない場所のようだぞ」
影オロチの背後。
そこに、自分が先程までいた海岸は、
あるのはただ、紺碧の大海原とそこに浮かぶ一縷のコンクリートのみ。
かいなの口角が一瞬、吊り下がって、すぐさま上がった。
「……私の求めていたシナリオだ」
戦慄、恐怖、絶望。
そんな物を全て押し殺して出た表情は、笑顔であった。
「行くよ影オロチ。こんないいネタ、最後まで吸い尽くすに限る」
「……理解できない」
かいなは影オロチを差し置いて、遥か彼方きまで続く堤防の先へと歩みだした。
◇
どこまで歩こうが、同じ景色しか見えない。
妖怪の力で、無限回廊のように仕組まれているのか、それとも幻覚を見ているのか。
いずれにせよ、かいなの好奇心はもう止めることができない。
どこまでも、どこまでも延々と続いてしまいそうな堤防を無心になって進んだ。
かつ、かつ、という革靴の乾いた靴底の音が虚しく波に掻き消されてゆく。
「……?」
暫く進んだ時、かいなは何かに気がついて足を止めた。
彼女が、これまで何もなかった堤防で目にしたもの。
それは、人であった。
年齢は若めの男性で、紺色のセーターを身に着けている。
不気味なことに、こんな堤防の真上にも関わらず、彼は犬を連れていた。
犬種はブルドッグだろうか。特段暴れる様子も、怯える様子もなく、ただ漠然と遠くで波打つ水面を眺めているように見える。
「……おや、こんばんわ」
男性は彼女を視界に捉えると、笑みを浮かべながら挨拶を交わしてきた。
気配は確かに人――否、周りの異様な雰囲気で感覚が麻痺し、判別がつかなくなっているだけだ。
「きれいな人だね。海がよく似合う」
「そうでしょう」
かいなは得意気に笑ってみせる。
しかし、特段、相手にはウケなかった。
「仕事は何をしているの」
「仕事は――」
「まって、当てるから」
いち早く言いたいかいなの意思を削ぐよう、男は言葉を遮った。
「看護師だろう」
「漫画家」
眉間にシワを寄せたかいなが速攻訂正すると、不気味なまでに静まり返った空気が二人の間に流れた。
「こんがらがるがら、るんがらこーん」
男は一息置き、そんな事を口走った。
「君に一つ質問をしよう。なに、簡単な質問だよ」
こんがらがる男は唇を三日月形にし、かいなの瞳をじっ、と見つめる。
かいなの足元にいるブルドッグは、まんまるとした目で、依然として海を眺めていた。
「どうぞ、お好きに」
かいながそう言うや否や、男は口を開く。
「君は小学生だ。まだ何にも知らない、世間知らずの子供だ。そんな君は、ある日交通事故を目の当たりにしてしまった。……さて、子供まである君が咄嗟に感じるのは、次のうちどっちだろう?」
そう言って男は、二本の指を立てた。
「一つ『轢いた方が悪い』。二つ『轢かれた方が悪い』」
さぁ、どっち。と言わんばかりの静寂が訪れる。
かいなは、不思議にも少し悩んだ。
常識的に考えれば、轢いた方が悪いに決まっていた。
でも、かいなはふと思う。
この異質な空間の中で、常識というのは通用するのか、と。
この男が人間である保証だって無いわけだ。
「どうしたの。答えは二択だよ」
「……私は……轢いた方が悪い、と思うわ」
かいなが答えを出すと、足元にいた犬が突然吠える。
男はにぃと笑い満足そうな表情を浮かべた。
「ふふっ、なるほどねぇ」
瞬間、風が吹いた。
ふと、その出所たる道の先に目をやった。
何かが違った。
遥か彼方の地平線へと続く堤防は、なぜだか、初めからこんなに長い気がしない。
形容し難い変化が、必ず訪れていた。
「ありがとう。良いことが聞けた。僕はこれで」
男は犬を連れ、彼女が歩んできた道を踏みしめていった。
「……あれ妖怪?」
「……いや。違うな。だが似たようなものだ」
「ふぅん」
影オロチに聞き、かいなは何故か興味なさげに返事をした。
◇
また暫く歩いた。
歩いても歩いても、広がるのは一本の堤防ばかり。
いい加減気が狂いそうなものだが、かいなは違う。
この永遠とも思える先に何があるのか――それを知るまで彼女の火は消えることはないだろう。
「……妖怪だ」
「おっ」
影オロチの言葉に、かいなは目を輝かせた。
反対方向から歩いてきたのは、一匹の妖怪。
名前を知っている。その雫のようなシルエットの妖怪は――じめりんぼう だ。
「人間?」
じめりんぼうは彼女の姿に気が付き、高い位置にある顔を見上げた。
「こんばんは。今日は涼しいわね」
妖怪相手に世間話を投げかける人間など、彼女くらいだろう。
だが、じめりんぼうはその問いに一向に答える様子はなかった。
「……おいらはもう帰るんだ」
「どうしてよ。良い散歩スポットじゃない」
じめりんぼうの垂れ目が、明後日の方向を見つめた。
その様はまるで、何か一つの、虚しいことに渇望しているかのようだった。
「取り憑いてもいいよ。妖怪はそれが好きなんでしょう」
「……さよなら」
身体を預けるよう両腕を広げてみたが、じめりんぼうはそんな彼女までも無視して先に進んでしまった。
ろくに面白い話もできず逃がしてしまった。
かいなは唇を尖らせ、先に進むことを決意する。
「妖怪にも性格があるのね」
かいなは、また暫く歩いた。
広がるのはまだ見ぬ海原だけ。
少し疲れたかいなは、その場にしゃがみ込んで休憩でもしようと試みた。
一丁前に女の子らしくしゃがみ込み、ほっ、も一息ついた。
尻餅をつくと、ひんやりした感覚が伝わってきて気持ちが良い。
「品のかけらもないな」
「誰もいないからいいのよ」
見下すような影オロチに対し、かいなはお茶目さを見せながら言った。
休憩し終えてから、かいなは再び歩き始めた。
だいぶ歩いたが、いつまで経っても真相に辿り着けそうにない。
期待を胸に、かいなは大股で歩いていたが、ある変化に真っ先に気がついた。
「……船……?」
どこまでも続くとばかり思っていた堤防の先。
そこに、一隻の小さな漁船が停まっていた。
彼女はそれに歩み寄り、甲板へ躊躇なく足を踏み入れた。
「……?」
ぐら、と船体が大きく揺れる。
不気味なまでの寒気を彼女が襲った。
背筋に走る悪寒。
彼女の表情が、初めて険悪なものへと変わる。
背にしていたのはガラス張りの操縦室。
振り向きたかったが、かいなは好奇心を持ってしてもそれができなかった。
長い葛藤の末、彼女は振り向く決心をした。
次に彼女が見たのは、あまり見慣れぬ、旅館の天井であった。
「……あれ……?」
窓の外は、いつの間にか朝であった。