うだるような暑さ。ともすればなにかしらの病気にかかってもおかしくないほどの季節も、やがてどこからか吹き始めた秋風にさらわれて、いつの間にか夏と冬を足して2で割ったような、ひどく心地のよい日々が続いていた。
気を緩めれば少し肌寒い昼下がりに、先生は子ウサギ公園のとある拠点を訪れた。
「こんにちは。聞いたよ、ミヤコ」
テントの外に出て、そばに置いた椅子に腰かけて風にあたりながら廃棄された弁当をつついていた彼女──月雪ミヤコに声をかけ、目の前にしゃがみ込んだ。
「……先生? どうしてここに?」
「一応、お見舞い。体調崩して今回の作戦置いていかれたんだってね。昨日電話をもらった。サキとモエが笑ってたよ。ミユはすごく心配そうにしてた」
「……不甲斐ないです」
「仕方ないよ。どうにもならないときってのは往々にしてあるからね」
彼は微笑すると、ガサガサと音を立てて、手に提げていたビニール袋からスポーツドリンク、ゼリー、カップアイスを取り出して、次々とミヤコの膝の上に乗せていった。
履いていたスカート越しに、ひんやりとした重さが伝わってくる。「冷たい……」と小さくひとりごちたミヤコを見て、先生はすぐにそれらを回収した。
「あ、ごめんね。嫌がらせをするつもりじゃなくて」
「いえ。私もそういうつもりで言ったわけではなく。すみません」
お互いに顔を見合わせて、1秒か2秒か、3秒か。少しの間を置いてから、どちらからともなく苦笑した。
それと同時に、ふわりと秋風が吹いて、2人の髪をさらうように揺らすと、そのまま間を通り抜けていった。
「思ってたより寒いね。アイスはいらなかったかな?」
「いえ、ありがたくいただきます」
「そ? ならよかった」
微笑した先生に笑顔を返して、ミヤコは弁当の残った最後の一口を放り込み、ゆっくりと咀嚼してからのみ込んだ。
体調はもうすでに9割ほどは回復している。全快と言っても差し支えない程度には、身体に異常は見当たらない。強いて言うなれば、時折り思い出したかのように2、3回咳が出るくらいだ。
「まあでも、無理はしないでね。きつかったら私が食べさせてあげようか?」
とはいえ、彼がせっかく気遣ってくれているのだ。無下にしてしまうのは忍びないし、今の状況をおいそれと手放してしまえるほど、100%実直に、不器用な振る舞いをするつもりはない。
そう、〝彼が食べさせてくれる〟と言うのなら、お言葉に甘えるのもやぶさかではない、と。
「そうですね──」
「なんて、冗談。怒らないでね」
遮るように、〝冗談〟だと、ミヤコの言葉に重ねて笑った先生は、一旦ビニール袋の中に直したアイスを、もう一度取り出した。
「……? なんか言おうとした?」
「いえ、別に」
「怒ってる?」
「いえ、怒ってません」
あからさまに、顔を背けて目を伏せたミヤコの表情は、不機嫌だった。
そんな様子に、困ったように苦笑した先生は、手にしていたアイスをミヤコの膝の上に置いて、隣に腰を下ろしてからもうひとつ、自分の分のアイスを袋から取り出した。
「……汚れますよ」
地面に座った先生に、見兼ねたミヤコが席を譲ろうと立ち上がった。
「いいよ。病み上がりなんだから楽にしてて。それより、アイス、そっちでよかった?」
先生から手渡されたのはバニラアイスで、彼が手にしているのは抹茶アイスだった。
「私は、どちらでも」
「じゃあありがたく」
カップアイスの蓋を開け、やわらかくなり始めていたアイスにプラスチックのスプーンを突き立てた先生は、それをすくって一口放り込むと、頬を緩めた。
「うん、美味しい」
ふにゃりと、子供みたいに笑いかけてくる先生を見て、ミヤコもついに観念した。
「ふっ……くふ……あははっ」
「え、なに?」
「……っ、いえ、なんでも」
かわいい──と、大人に向かって言ってしまうのは失礼なのだろうと、ミヤコは目を細めて先生を見つめた。
なにがおかしかったのかわからないまま、先生は口もとを手で触ったり、頬や顎にまで手を当てて確認している。
「顔にはなにもついていませんよ」
「……じゃあなんで笑ったの」
「教えません」
「いじわるだな」
「ええ、いじわるです」
軽く握った手を口もとにあてて、くすくすと楽しそうに笑うミヤコと、不貞腐れたようにまたアイスを食べ始めた先生との立場は、すっかりと逆転してしまった。
揶揄うような、けれど愛おしいものを見るような月雪ミヤコの瞳の中に映る先生は、その視線には気づかなかった。
「溶けるよ」
「はい。では、いただきますね」
「どーぞ」
ぶっきらぼうに、しかし彼女の反応を気にしてちらと横目で窺った先生に、一口食べてから、求められていた答えを返した。
「美味しいです」
「そ。よかった」
安心したように、ふわりと笑った彼に、自然と口もとが緩む。
「たまには、いいのかもしれませんね」
「なにが?」
「こうして、体調を崩してしまうのも」
「ミヤコが言うなら、いいんじゃない?」
「はい」
どちらからともなく、小さく笑い合った。
抜けるような空は高く、青かった。太陽のぬくもりは心地よく、しかし風は少しばかり冷たい。少し先で、さらわれた落ち葉が踊るように揺れている。
先生がアイスを一口食べると、真似るようにミヤコも手と口を動かした。
舌の上に冷たさを残したまま喉奥を流れていくアイスクリームの美味さが格別に感じるのは、きっと彼が隣にいるからなのだろう、と。ミヤコは目を細めて、先生の動きを追った。
「……? 食べる?」
「へ?」
「見てたから。欲しいのかと思って」
「いえ、それは……」
「いいよ、一口だけなら」
言って、先生はスプーンですくったアイスを、ミヤコの口もとに差し出した。
どうするべきか、頭をぐるぐると悩ませたのち、思い切って、ぱくりと食いついた。
「どう?」
「美味しい、です……」
味など、わからなかった。
バニラか、グリーンティーか。ストロベリーだったかマカデミアナッツだったか。
そんなことよりも、今はただ、熱くなった頬が先生にバレてしまわないように、平静を装うことで精いっぱいだった。
「……先生も、一口……どうですか?」
「え、いいの?」
「はい……」
俯いたまま、目元まで前髪で隠して、そのまますくいとったアイスを先生の口もとまで近づけた。
「……」
右手の先にあるスプーンから、振動と、少しだけ重さが伝わってきて、視線を上げると、すくいとったアイスは綺麗になくなっていた。
「ありがと。美味しいね」
「……」
その後も、口にしたアイスの味は不明瞭だった。悶々と、行き場のない想いだけが、口の中で溶けていくアイスとは反して、どこへにも行けずただそこに残り続けた。
「あんまり長居してもミヤコがゆっくり休めないだろうし、私はそろそろ帰るね」
アイスも食べ終わり、ゴミをまとめて立ち上がった先生の上着の裾を、ミヤコはとっさに掴んだ。
考えるよりも先に、手が勝手に動いてしまったことに驚きながら、風の音にかき消されてしまいそうなほど小さな声で、自身の気持ちを伝えようと口を開いた。
「……まだ、」
まだ少し。もう少し。このまま、彼の傍にいたかった。傍にいてほしかった。
時が止まればいいのに──なんて、歯が浮くような言葉さえ、口走ってしまいそうになった。
掴まれた上着の裾を、ミヤコの指の先を、不思議そうに見下ろす先生は、黙ったまま彼女の言葉の続きを待っていた。
「あと、少しだけ……」
ここまでお膳立てされてしまえば、もうあとは言わなくても伝わるだろう。
掴まれた裾から指をほどいて、握ってやればいい。もう一度腰を下ろして、手を握ったまま、たあいのない話をしてやればいい。
中身などいらない。傍にいて、繋いだ指の先から、温もりをわけあえばいい。
「なに、もしかしてひとりじゃ寂しいの?」
「……」
しかし的外れ、とまではいかないものの、それでも「この大人まじか……」と思わず言ってしまいそうなほど鈍感な応えに、目を細めてじとりと睨めつけてから、それでもやはり、この大人はそうでないと困る、と。不意に小さく笑った。
「はい。私はうさぎですので」
「以前と言ってることが違うね」
「そうでしょうか」
「そうでしょうなあ」
やれやれと、そんなことを言いたげにため息を吐いた先生の表情は、しかし、どこか嬉しそうだった。
月雪ミヤコは意外と甘え上手で、意外と感情をストレートに伝えてくる。
少し語弊があった。
月雪ミヤコは、意外と好意をストレートに伝えてくる。
「うさぎは寂しくても弱らないし、君はうさぎじゃなかったはずだ」
「細かいことを気にするのは、先生らしくありませんね」
「そうさ。私は大抵のことは雑だからね。けど、君のこととなると話は別だ」
「……! それは、なぜでしょうか……?」
先生の上着の裾を掴んでいた指先に、きゅっと力が入った。
その手に手を重ねて、指先を優しくほどいていくと、先生は握り直して、ミヤコの真正面にしゃがみ込むように腰を下ろした。
椅子に腰かけているミヤコより少し低くなった目線で、揶揄うように上目遣いで、口の
「さあ、なぜでしょう」
「……」
その仕草に。心の奥を覗き込むような瞳に。どくんと、心臓が高鳴った。
なにか言葉を発しようとしても、小さく開いた口からは、微かな吐息が漏れるだけだった。
「傍にいるよ。ミヤコがそう望むなら、私はいつでも。いつまでも、ずっと」
そんなミヤコの様子は気にも留めず、左手だけは離さずに繋いだまま、また彼女の隣に腰を下ろした。
「寒くない?」
問われて、ミヤコは少し考えたのち、一度立ち上がると、椅子を少し横にずらして、先生の真隣に腰を下ろした。
肩をぴったりとくっつけて、右手は繋いだまま。
「こうすれば、あたたかいです。とても……」
「……そ。なら、こうしていよう」
こつんと、頭までくっつけて、お互いに目を閉じたまま、時が流れるのを感じていた。
照らしてくれる陽の光が心地よく、どこからか吹く秋風が少し肌寒い。
ここには誰もいない。
先生とミヤコ以外。この公園には、誰の目も、誰の声も届かない。
ふたりだけの時が、驚くほどゆっくりと、青空の下で流れ続けていた。
「先生」
「ん」
「ありがとうございます」
「なに、どうしたの、急に」
「伝えたくなりました」
言って、ミヤコは繋いだ手を握り直して、指と指を絡めた。
「先生に出会えてよかったと、そう思っています」
「うん」
「本当に、よかったです」
「うん」
「先生も同じことを思っていてくれたら、と……欲張りなことも──」
「同じだよ」
少し照れくさくて、苦笑を織り交ぜて笑ったミヤコの言葉を遮り、先生はぐりぐりとミヤコの頭に自分の頭を押し付けた。
「私も、ミヤコに出会えてよかったと思ってるよ」
「……」
「私にとってミヤコは──」
そこまで言って、一度言葉を切った先生は、頭の中を整理するように、右手で目元を覆った。
しばらく黙ったまま、幾らか時が流れると、不意に繋いでいた左手に力を入れて、先生は口を開いた。
「特別……なんだよ。離したくないくらい、ずっと、いつまでも……君の手に触れていたいくらい。特別なんだ」
「……っ」
渇いた心に水を
一粒だけ、瞳からこぼれ落ちた涙が一瞬、どこから来たのかわからなかった。
しかし、それは簡単な答えで、すぐに理解することができた。
ただ、真隣の彼が。俯いて、前髪で目元が少し隠れている彼が。繋いだ指の先から伝わってくる熱が。
どうしようもなく、ただ愛おしかった。
──ただ、それだけだった。
「……」
ぽろぽろとこぼれ落ちてくる涙を、左手の母指球で何度も拭った。
好きだと、そう言ってしまえば、きっと彼は距離を置いてしまう。
シャーレオフィスに戻ったら、今日の発言を思い出して、自身を戒めてしまうかもしれない。
それでも。それでも────
「私も……私にとっても、特別です……」
ただ愛おしかった。
「……うん。知ってる」
「先生、だけです……」
────こんなにも、愛おしいのは。
「それも、知ってるよ」
それ以上、お互いに言葉は口にしなかった。
ただ肩を寄せ合い、指を絡めて、頭をくっつけたまま。
静かに泣きじゃくるミヤコと、空のずっと向こうを見つめたまま動かない先生だけが、そこに在った。
× × ×
『先生』
『今日はありがとうございました』
『アイスや、ゼリーなど』
23時を少し過ぎた頃、書類仕事が行き詰まり、投げ出して給湯室で珈琲を淹れていると、携帯機器が鳴って立て続けにメッセージが送られてきた。
『サキたちには、うまく言って誤魔化しておきました』
そのメッセージにふっと笑って、淹れた珈琲に口をつけた。
あのあと、作戦から帰ってきたRABBIT小隊のみんなに運悪く見つかり、色々と問い詰められた。
主に泣いているミヤコと、隣にいた私を見て、「あ、コラ! なに泣かせてるんだ!」とか、「なになに? 修羅場〜?」だとか、「み、ミヤコちゃん……なにされたの……?」など。
結果として私は、ミヤコに背を押され、逃げるように公園をあとにした。
こちらでなんとかしておきますので、と言われ。
「……」
本当にうまく誤魔化せたのかは、定かではないけれど、次に送られてきたメッセージを見ると、そんなことはどうでもよくなった。
「……もう少しだけ、がんばろうかな」
珈琲を飲み終えて、ぐっと大きく伸びをした。
いつの間にか携帯は自動ロックされていて、画面は真っ暗になっている。
ひとつ、小さく息を吐き、携帯をポケットの中にしまってから、マグカップを水につけて執務室へと戻った。
『お仕事』
『がんばってください』
『無理をしすぎない程度に』
『おやすみなさい』