望郷漂流客船イナバマル 祝福された後継   作:qlo

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※Lostbelt No.6『妖精円卓領域アヴァロン・ル・フェ』の核心的なネタバレのほか、Lostbelt No.7『黄金樹海紀行ナウイ・ミクトラン』〜2部奏章『オーディール・コール』の一部内容に触れています。

※本作は後日、作者本人のpixivアカウントにおいても投稿予定の内容となります。

以上の事柄をどうぞあらかじめご了承ください。





借屍還魂(弍)【十】

 

 

◆◇◇◇

 

 

 

「──そうか。そうして貴女は今、此処で働いておられると」

 

 ウィールドさんは私のお話中、たいへん親身になり耳を傾けてくださった。……そういえば、ノッカーさんとは『漂流者』同士としての身の上話まではできず仕舞いだった。この世界の人間であるマーガレットさんは別として、同じ『漂流者』の人間を相手に打ち明けたのは初めてだ。

 

「はい。ほんと、思い返せばいろいろありました。此処での任期は残りひと月半ですが、それもあっという間に過ぎちゃいそうです」

 

 ……言い換えれば、私は現在に至るまで──彼らや自分以外にも大勢居るであろう『漂流者』の方々について、寡聞にして知り得なかったのだ。

 

「……それは実に幸運なことだ。貴女のような経緯を辿れた同胞は、きっと数えるほども居ないだろう」

「──え……」

 

 おそらく、ウィールドさんはご存知なのだ。私たちと同じ『漂流者』の方々が、どんな境遇に置かれていたのかを。

 

「我々がこの世界で生きるには、あらゆる面で過酷を極める。故郷で武芸に腕を鳴らした者も、知略に優れた者も例外じゃない。妖精國独自の環境に馴染めなければ、その時点で末路は見えている。迎合できずに身を滅ぼすか、野垂れ死ぬかのどちらかだ」

 

 …………。

 

「話を聞いた限り、貴女は後者になりかけたが、前者を乗り越えて今があるらしい。幸運だったのはその過程もだ。人間に対する理解が深い、()()()()()()に出逢えた事。()()()()()()()()に出遭っていれば──生き方はおろか、死に方でさえ尊厳を損なっていただろう」

 

 グノーム邸に招かれた夜、マーガレットさんがおっしゃっていた事を思い出す。妖精國では土地柄によって、『人間』であるというだけで立場が危ぶまれる場合があり、それは『漂流者』であれば尚更の事なのだと。

 

「……兵法訓練の野外演習の折、遠征地の各所で遺体を目にしたよ。妖精國では見慣れぬ衣類とともに、山間部には野生動物に食い荒らされた白骨が。『涙の河』の河川敷や下流には、()()()の果てに流れ着いたのであろう亡骸が。あの分では発見できた数以外にも、見えぬ所で果てた者達が大勢いることだろう」

「(…………────)」

 

 ──実情を知れば知るほど、自分の境遇がいかに恵まれているのかとともに、いかに死と紙一重だったのかが窺える。……同時に、そんな環境下でサバイバルをやってのける、ノッカーさんの異常性が際立つようだった。

 

「私もその点、貴女と同じく幸運に恵まれたようだ。私はジャック監督に拾われ、貴女はグノーム氏に拾われた。……監督は晩年こそ悪妖精と化してしまったが、出会った当時はまだ、野良の武芸者としての私を面白がる余裕があった。だが、それすらも様変わりするのが妖精らしい。出逢うのが五年遅れていたら、私が彼に殺されていたかもしれないな。前情報無しにモース化予備軍を相手取るなんて、さすがに私も対処が難しかっただろう」

 

 先のお話によると、ジャック監督と出会われたのは五年前の事らしい。当時から例のパワハラ気質は見受けられたものの、ウィールドさんの武芸は一目が置かれ、人間兵としてオックスフォードに招かれたとのことだ。

 

「……モース化の兆しが認められる妖精──此処での仕事は、そうした個体の洗い出しを兼ねていると言ったね。貴女を高待遇で雇われた、オーナー氏の手厚さにも頷ける話だ」

「……そっか。やけにお給金が高額だとは思いましたが、あれは危険手当も込みの額だったんですね」

 

 モースの脅威は『大橋』での一件で身に染みている。ただそれは、例えるなら猛獣に出くわしたようなもの。だんだんと『モース化』を経る過程にある、不安定な妖精に接することの危険性については、確固たる想像には及んでいなかった。

 

「ああ。……そして、『漂流物』の管理か。私たち人間の『漂流者』が居るのだから、モノだって例外ではないわけだ。此処にはこの『矛』以外にも収蔵しているんだったね? 差し支えなければ、少し庫内を見学させてほしい。私たちの状況を理解するうえで、何かヒントがあるかもしれない」

 

 ……たしかに、そういう視点も持ち得るか。利用者には収容環境を見学する権利がある。ウィールドさんは譲渡先というお立場だけれど、見学いただく分には問題ないだろう。

 

「わかりました。ご案内します」

 

 並んで左室群一号室に踏み入り、『矛』が置かれていた場所付近から室内を流し見る。

 

「……なるほど。通路で紅茶を飲んでいた際にも感じてはいたが、さすがに中はレベルが違うな。掃除は見事に行き届き、換気も充分になされているけれど、物量感や衛生面とは別の意味で──()()()()()()()()()()

「え。淀み、ですか?」

 

 ……何のことだろう。埃っぽくて息苦しいとか、物量由来の圧迫感があるとかいう意味なら、まだ私も共感できるお話だった。……でも、それ以外の感覚で受ける印象は、特に……

 

「ああ。十中八九、収容物の各個が有する存在強度によるものだろう。片や妖精の手による神秘の残滓、片や外界から持ち込まれた異物の縁起。それらを纏う各個はいずれも、充分に『()()()()』と呼べる水準だ。こうして一堂に会していれば、室内の空気も淀むはずだ」

「────?」

 

 …………まじゅつれいそう?

 

「──ん? なぜそこで、きょとんとしたお顔をなさるんだ?」

 

 あれ、私は今そんな顔をしているらしい。だって仕方がないじゃないか。当たり前のように語られるそれらの言葉は、ぜんぜん当たり前ではないのだから。

 

「……いや、待ってくれ。貴女はこれらが『そういうもの』だと知らずに、此処を任されているのかい?」

「え、ええと──」

 

 待ってほしいのは私のほうだ。知る知らない以前に、何をおっしゃっているのかが判らない。ノッカーさんといい彼といい、漂流者の殿()()()は怪談がお好きなのだろうか。

 

「……まいったな。その反応は当たりらしい。推測がひとつ外れたが、しかし同時に収穫にもなった。『漂流者』となるうえで何かの条件があるとして、魔術への関わりの有無は重要じゃないのかもしれないんだね」

 

 つまり彼は、私が『それ』に関わる者だと思っておられたのか。……『まじゅつ』……おそらくは音のとおり、『魔術』の事と理解していいのだろうけれど──いやいや。こうして異世界に転がり出るという、超常極まる経験こそしているものの、そこを差し引いたとしても、私に関係のある事だとは思えない。彼はどうして、そんな発想に及ばれたのか。

 

「しかし……そうなると一層信じがたい話だ。此処の収容物はどれもが礼装級。貴女はそれらの管理を任されているばかりか、モース化予備軍の妖精の対処すら請け負っている。現に今だって、数百年間の縁起で編まれた神秘を纏う、上等な『古武器』を選んできてくれたんだ。……そうした要素を鑑みておいて、魔術と無縁な御仁だとは思わないよ」

 

 ……ええと……少なくともたぶん、私が何かマズいことをやらかした、といった話ではなさそうだ。

 

「……どうしたものかな。此処が元の世界であれば、さすがに私でも神秘の秘匿を案じるところだが……まあ、この世界においてはその必要も無いか。むしろ状況的には、貴女に含み置いておくほうが次善だろう」

 

 ……判らない。依然として加わり続ける、耳馴染みのない言葉が聞こえるだけだ。でも──

 

「貴女が魔術に縁なき御仁だとしたら、これらの話は要領を得ないものだろう。なのでせめて、『そういうものか』程度の姿勢で捉えてほしい。私とて、一から十まで講釈を垂れるような知識は無い。この身は魔術師ではなく、せいぜい魔術使いがいいところだからね」

 

 ──判らないなりに、聞き入れるしかない。この世界での超常的なアレコレを思えば、通常の観念に収まらない話がいくつ増えても、いまさら大差はないのだから。

 

「……教えてくださり、ありがとうございます。代理の従業員たる私にできる仕事は変わらないと思いますが、頭の隅に置かせていただきますね」

 

 ……あるいは。フミコさんは、私と違って──そうした事柄もご存知のうえで、此処で活動されていたんだろうか。

 

「ああ、基本的にはそれでいいと思う。……しかし……」

 

 などと、他人様のことを思っていると。彼は再度考え込み、逡巡を経て口を開く。

 

「……シルキーさん。貴女はいったい、何者なんだ?」

 

 ────、

 

「……え……?」

 

 それは、どういう──

 

「……魔術に縁がない経歴を送られた御仁、という自己認識は伝わった。だが、それにしてはどうにも、不可解な点がいくつかある。……例えば、これだ」

 

 彼はそう言うと、手に持つ『矛』を掲げてみせる。

 

「先ほども話したとおり、これは『古武器』の一種だ。数百年間の厚みが刻まれているが、長らく何者にも触れられることなく、ついには『漂流物』として流れ着き、この世界で拾われるに至った異物。……そんな経緯を辿った代物であれば本来、存在強度に()()が生じていても不思議はないところなんだ」

 

 ──存在強度の、ブレ?

 

「長く放置されるにしても、武器庫であれ個人蔵であれ、たとえ場所を移した場合であれ──対象が『それ』として保管され、『そう』として在る環境が途絶えぬだけで、本来の存在意義は保たれ続ける。要はある種の存在証明だ。『今は使っていないが、これは確かにそういう代物だ』というね」

 

 ……いつだったか、元の世界でも似たようなお話を聞いた覚えがある。実際に扱われた代物も、その真偽が定かでない代物も、逸話とセットで祀り上げることにより、霊験あらたかな祭具へと昇華されるとかなんとか。今のお話はたぶん、それをより一般化させた例なのだろう。

 

「(…………ん?)」

 

 ……あれ。『覚えがある』とは思ったものの……私はそんな話をいつ、何処で聞いたんだっけ──。

 

「……しかし、この矛は違う。此処に置かれたのが数十年前の話なら、この世界に漂着してからの期間はもっと長いことだろう。仮に百年間だとすれば、その間はずっと、本来の存在意義を果たせなかったばかりか、『そう』と認める者も居なかったことになる。此処にただ死蔵されていたのが、その証拠だ」

 

 ……なるほど。後にフミコさんが発見なさったものの、管理し始めてからの歳月はまだ七年と浅いため、彼女がそれを『そういうものだ』と理解していたとしても、『存在証明』とやらの足しになっていたかは怪しいだろう。

 

「そして……私が気になったのはその点だ。推定百年余りの期間、本来の存在意義が認められなかった代物にも拘らず、この『矛』に蓄積されて然るべき『淀み』──存在強度のブレが、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……うん?

 

「(……『取り払われている』? それなら別に、問題はないんじゃ……)」

 

 よく判らないけれど、文脈的にそれはむしろ良いことなのでは。長らく損なわれていたという本来の存在意義が、『矛』に戻っているらしいのだから。

 

「あの……すみません。そうだとして、それと私に何の関係が……?」

 

 ウィールドさんはいったい、何をおっしゃりたくて──

 

「……やはり、自覚はないらしい。この分ではおそらくもう、貴女の『血筋』に特別な要因がある、という線は薄いかな。……だとすると……」

 

 ────────?

 

「……うん。おおかた要点は並べたし、もう結論を言ってしまおうか。要するに、私は今──その『取り払われた』原因が、貴女に由来するものではないかと思っているんだよ。シルキーさん」

 

 ────────。

 

「……シルキーさん?」

「──あ、はい!」

 

 ──いけない。どうしたんだろう私。貧血時の立ちくらみのように一瞬、意識が霞んでしまって……いや、それよりも。

 

「──えっと。原因が……私に、ですか?」

 

 ……情報処理も限界なのか、頭がくらくらしているらしい。辛うじて対話に意識を戻すも、やっぱり理解は追いつかない。どういうことなのか。今耳にするまで知り得なかった事柄に、私が関わっているなんて、とても──

 

「ああ。もちろん、貴女が意図的に何かをしたとは思っていない。しかし同時に、貴女が関わっていないとは思えない。魔術行使によるものではないとすれば、別の何かに起因するものなんだろう。残された可能性としては……そうだな。おそらくは、貴女の内にある──『()()』に根差した力の働き、という線だろうか」

 

 ──『起源』……?

 

「言葉のとおりだとも。それは魔術に通ずるか否かに拘らず、誰もがそれぞれ固有に持つものだ。有生物も無生物も等しく与えられる、あらかじめ定められた『方向づけ』──とでも言えば解りやすいかな」

 

 ……ん。それって……

 

「……もしかして──妖精さん達にとっての『目的』のようなもの……ですか?」

「おお、そこについてはご存知だったのか。それなら幾分か話が早い。おおむね、そのように理解してもらえばいいだろう」

 

 ……話にはぜんぜん追いつけていない。けれど、私も知る事柄が引き合いに出たおかげで、いくらか腹落ちしやすくなった。

 

「『方向づけ』というほどだから、人間の『起源』は個人の振る舞いに滲み出ることがある。言動や意識の端々に認められたり、経歴や記憶の内に垣間見られたりとね。……そうだな。貴女が他者からよく受ける『評判』などを省みてもらえば、それらしい心当たりがあるんじゃないかい?」

 

 ──『評判』、といっても……

 

「……そうですね……強いて言えば、『掃除』の出来を褒めていただいたり、お話中に『聞き上手』だと喜んでいただいたりするうちに、そんなお言葉を頂戴している気はします。しかし、それが心当たりと言えるかどうかは、あまり……」

 

 辛うじて捻り出せる回答を述べると、彼は重ねて問いかける。

 

「ふむ。では──そうした評判を受けるようになったのは、いつからの事か判るかな?」

 

 ああ、そこについてはある程度の判別がつく。

 

「この一年余りを過ごすなか、気がついた頃にはといった具合ですね。居候の身にできる仕事がお掃除くらいだった事と、いずれも来客が多かった環境ゆえに、聞き役に徹しがちな立場だった事の結果だとは思いますが──」

 

 ──そうして応えながら。私はふと無意識のうちに、一年余り前のことを思い返していた。

 

「(……以前の私といったら──)」

 

 ──元の世界に居た頃の私は、世界各地を転々としていた。ひとつ処に長期滞在する事はこれまでに無く、数日で出立するのが常だった。現地の方々との交流も短く、先のようなお言葉を頂戴する機会もまた、無縁のものだったのだ。

 

「(……ほんと。自分が現在みたく、現地の方々と密なご縁に恵まれるなんて、想像もしなかったな──)」

 

 ……それもそのはずだ。だって、当時の私は──

 

「……なるほど。今のお話で、貴女が無自覚に発揮していた働きの要因に、おおかたの見当がついたよ」

 

 ──なんて、ひとり勝手に耽っていると。ウィールドさんは顎下あたりに手を当てながら、何かに思い至った様子を見せた。

 

「……見当、って……こんな曖昧なお話に、見出せる何かがお有りだったんですか?」

 

 ……依然として、不可解なお話であることに変わりはない。しかし不思議なことに、彼のお話を否定しきれないような感覚が同時にあった。己が知識の不足に拘らず、現在に至るまでに見聞きした経験からすでに、彼の言葉の意味するところを直感できているような……

 

「順を追って話そう。……貴女は今、『この一年余りを過ごすなか』と言ったね。それはつまり、『この世界に来てから』という意味になる。異郷の地において受けた様々な影響が、貴女の心身に変化をもたらしたという事だ」

 

 ……ああ、それは私も感じているところだ。この世界で過ごしていなければ当然、現在の私には成っていない。

 

「重要なのは、その『様々な影響』の内訳だ。今の文脈ではとりわけ、『この世界の住人』から受ける影響に限定すべきかな。すなわち──『妖精の性質』に触れた事による影響、という話だね」

 

 ……ふむ。これまた専門的な視点のお話になりそうだ。がんばって追いつこう。

 

「それはやはり、さきほど貴女が思い至ったとおりの話になる。つまり、彼ら妖精が固有に持つ、『目的』という概念が鍵になりそうなんだ」

 

 ──それって……

 

「……さすが、察しが早い。そうだとも。貴女は例えのつもりで持ち出してくれたが、実際に人間の『起源』は、妖精の『目的』の相似概念にあたるものと見做せるんだ。つまり、貴女がこの世界で過ごし、妖精の『目的』に触れるなかで──貴女の内にある『起源』もまた触発され、知らぬ間に表面化し始めた可能性があるということだ」

 

 ……やっぱり、そういうお話なのか。

 

「次いで解明すべきは、貴女の『起源』がどういった内容なのかという事だが……それはさきほど伺った、貴女が受けた『評判』の中にヒントがあるはずだ。『掃除上手』に『聞き上手』──シルキーさん、私はね。これらは別々のようでその実、根幹は同じものではないかと思うんだよ」

「……根幹が、同じ……?」

 

 ……つまり、そのふたつを包括するような概念が──

 

「ああ。表す言葉の選びようは無数にあるだろうが、あえてこう断定してしまおう。貴女の『起源』、それはすなわち──『()()』に類する概念だ」

 

 ──私の、『起源』……。

 

「……ふ、『払拭』、ですか?」

「うん。私の語彙と主観の範囲での断定だが、『当たらずとも遠からず』程度には正鵠を射ていると思う。『掃除』においては物質的に働きかけ、『聞き役』においては精神的に働きかける──それぞれに共通して付随する、『淀み』を払う概念としては、相応しい線だろう」

 

 ……『淀み』を払う、か。なんというか、少々大袈裟なお話のように聞こえてしまうのだけれど──どうやら彼が語る文脈においては、一定以上の整合性が取れていることは確からしい。

 

「此処に在る収容物のどれもが、程度の差はあれ、『淀み』の解消傾向を示している。この『矛』はそれが特に顕著だ。シルキーさんが掴んで間もない所為か、微かに貴女の痕跡が残されている。あと数分もすれば消え去るほどの、微弱極まるものではあるんだけどね。私が疑念を持ったのは、それを感じたからだったんだよ。おそらく、先日のボールもそうだったんじゃないかな」

 

 ということは……単純に整理目的で触れたモノよりも、特定の方向性を意図して触れたモノのほうが、『払拭』の影響が強く出るというわけか。ここまで聞いてもなお、まだまだ実覚は伴わないお話だけれど。

 

「──それにしても、異な話があったものだ。こうした文脈に置かれるよりも以前に、貴女は『()()()()』の名を授かっていたのだから。名付けた御仁の先見の明と言うべきか、名は体を表すと言うべきか。……いずれにせよ貴女も、この世界に身を置くなかで、己が在り方を見出せたようだね」

 

 ……ん、貴女も?

 

「ウィールドさんも、『起源』の発露がみられたんですか?」

「ああ。こうして語ってみたおかげで今、私にも同様の兆しがあったことを自覚した。この世界に流れ着いて以来、妙に鍛錬の調子が良くってね。神秘の色濃い風土に身を置いた結果かと思っていたが、なるほど『起源』の線もあったなと。『()()()()()』の名をくださった、ジャック監督の慧眼を思い知ったよ」

 

 ──そっか。

 

「……ふふ。だったら私たち、一緒ですね!」

「ははは。そのようだ!」

 

 彼も私と同じく、この世界で──新たな名前こそを己と定め、第二の生を過ごしているんだ。

 

「と、些か話が長くなってしまったね。混乱させてしまったのなら申し訳ない。どうか今の話はご参考までに。貴女は貴女らしく、在りたいように在ればいい。深刻に考えることはないからね」

「──はい。ご教授いただき、ありがとうございます!」

 

 此処で講義を聞けなかったら、私はきっと、何も気づかないままだっただろう。素直に感謝の言葉を述べて、私たちは『寄託管理庫』を後にする。

 

「いやはや、今日は本当にありがとう。新しい得物を入手できたばかりか、思わぬ情報の収穫もあった。そのうえ、紅茶まで頂戴してしまったし──」

 

 彼はそう言いかけて、バツの悪そうなご様子で立ち止まる。

 

「──うん。やっぱり、このままタダで帰るのは礼儀に(もと)るな。是非とも何か、貴女にお礼をさせてほしい。私にできることなら、可能な限りお応えするよ!」

「えっ。い、いえいえ! お礼を言うのはむしろ私のほうです。こんなにも親身にお話しいただいたのに──」

 

 ──と、わたわた遠慮の意を示していると。ウィールドさんは更に困ったようなお顔を向けて、『そう言わず、どうか遠慮なく』と念を押した。

 

「……わかりました。そのほうがお気持ち的に楽とのことでしたら、ひとつお願いしちゃいますね。ひとまず、一緒に外へ出ていただけますか?」

「うんうん、そう来なくては! 何がお望みだい?」

 

 ノリノリな彼を引き連れて、そのまま屋外に案内する。

 

「──あの山に、山菜を採りに行きたいんです。今日はもう日没まで時間がありませんから、ウィールドさんのご都合がよろしい日に、同行していただけますか?」

「なるほど、山菜狩りの用心棒か。お安いご用さ! あの山がいくら近場とはいえ、ソールズベリーの郊外に出てしまう。貴女ひとりでは危険だし、そもそも許可が下りないだろう。その点、私は職業と立場柄、人間ながら単身での外出が許されている。よし、請け負った!」

「わあ、やった〜!」

 

 思わずガッツポーズなんてやっちゃいながら、私は跳んで喜んだ。

 

「ははは! そういえばさっき、お料理が趣味だと言っていたね。此処に来る道中、それらしき植物が自生しているのを目にしたよ。決行は『雨期』が治まる頃になってしまうが、誰かに採り尽くされてしまう事はあるまい。ちょうど二週間後に休みが取れるから、その日の朝に迎えに来よう!」

「ありがとうございます! 二週間後ですね、私もお休みをいただいておきます。当日はよろしくお願いします!」

 

 オーナーさんにも『休日を取れ』と言われちゃったことだし、この機に大いに趣味へ走ってしまおう。久しぶりのアウトドアだ。今から楽しみで仕方ない。

 

「それじゃ、お礼はそのときに。改めて今日はありがとう、シルキーさん!」

「こちらこそ。今日はありがとうございました、ウィールドさん!」

 

 互いに笑顔で手を振り合い、束の間の邂逅に区切りを付ける。『矛』を担ぐ彼の背中が見えなくなるまで、石造りの蔵より見送った。

 

 

 

◆◆◇◇

 

 

 

『──、──』

 

 声が、聞こえる。

 

『──、◼︎◼︎』

 

 私の名を呼ぶ、声が聞こえる。

 

『──さあ、◼︎◼︎。……を、──なさい』

 

 何度も何度も耳にした、誰かの声が聞こえる。

 

『──お前の役目を、果たしなさい』

 

 それは、かつて『いつもどおり』だったこと。

 

『──お前はそのためにこそ、我が家に生まれた子なのだから』

 

 まるで、草花が陽光を浴びるように。河川が水を運ぶように。『そうすること』が当然のものとして、かつての『私』がそこに居た。

 

「(────ああ。やな夢だ)」

 

 これはいわゆる、明晰夢というものらしい。夢であると自覚しながら、醒めたいと願う意思に関係なく、かつての記憶が再生される。

 

「(……こんなことを──なんで今まで、忘れていられたんだろう)」

 

 そう。これは記憶なんだ。身に覚えのない出来事を見るものでもなければ、見聞きした物語の追体験でもない。『私』自身の経験を想起するだけの、ごくありきたりな脳内現象にほかならない。

 

「(……忘れていた──?)」

 

 では。どうして今になって、それを見てしまったのか。忘れていた事にも気づかずにいた、夢の内にすら立ち現れることのなかった、とっくに無くしたはずの記憶なのに。

 

「(──ああ、そっか)」

 

 ……そんな理由は、決まりきっている。

 

「(──忘れていたんじゃ、ない)」

 

 なんのことはない。これはつまり、ただ単に──

 

「(……無かったことに、しようとして──)」

 

 ──閉じていた蓋が、開かれただけなんだ。

 

『……逃げましょう』

 

 そうして私は、思い出す。

 

『……もう、あなたが搾取されることに耐えられない。一緒に逃げましょう。善は急げと云うには、些か待ちすぎてしまったわ。行動するなら、今しかない』

 

 かつての『いつもどおり』を、手放すに至った記憶のすべてを。

 

『……無茶だよ、お母さん。だってお家には逆らえない。それに……逃げるって、どうやって?』

 

 そうだ。逃げるなんてとんでもない。だって私にはもう、父の家名が、課された『役目』が染みついている。お母さんには離れる希望があるかもしれないけれど、私には父の血も流れている。たとえ一緒に逃げたとしても、彼らがその気になれば容易に探し当てる。そうなればまたすぐにでも、この家に連れ戻されてしまうだけだ。

 

『……大丈夫、考えはあるから。私とあなたの立場を逆手に取るの。お家に反発しちゃった私はどのみち、このまま追い出されるのも時間の問題。むしろ今まで見逃されていたぐらいよ。だったらこの際、此方から三行半(みくだりはん)を突きつけてやるわ』

 

 両親の仲は冷めており、お母さんは父方の一家に嫌われていた。孤立無縁の身であった彼女は、半ば保護される形で嫁ぐに至り、長子の私を出産した。のちに私の生育方針を巡り、お家に異を唱え続けたことで扱いは一転し、もはや用済みと看做されたのだ。

 

『あのひとたちの命題は、あなたに家名を継がせ、その一生を所有すること。血を混ぜるための駒にすぎなかった私は今や、お家にとってどうでもいい存在なの。拾われた恩義ひとつで呑み込んできたけれど、そんな我慢ももうおしまい。娘として生まれたあなたにまで、代償を払わせてなるものですか』

 

 彼女は私の頬に触れ、決意を宿した眼でこう言った。

 

『……だから、ね。あのひとたちのお望みどおり──役目を果たしてあげましょう』

 

 ──後日。両親の離別は、まるで互いが望み、予定されていた事かのように、なんの障害もなく実現した。

 

『……やれやれ、分を弁えるのが遅すぎる。体よく拾われた身の分際で、よくも庇護者に意見し続けたものだ。ましてや長子の生育を阻もうなどと、勘違いも甚だしい』

 

 父の言う事は解らない。判る事といえば、逆らってはならないということだけだ。

 

『安心しなさい、◼︎◼︎。お前の才覚を無駄にはしない。今後はもう二度と、あれに邪魔されることはない。我が家名を冠した──として、何不自由なく育ててやろう』

 

 真実それは、愛情ではあったのだろう。歪な部分があったとすれば、それがありきたりな人間に向けられる、ありきたりなものではなかったこと。父にとってそれは一重に、貫くべき責務にほかならない、当主として当然の姿勢だった。

 

『差し当たっては、あれが示す条件を呑むことにした。ひと月ばかりの期間、母子水入らずの記念旅行をご所望らしい。それを最後に金輪際、この家に関わらんと誓ってくれたのだ。……勤勉なお前としても煩わしい限りだろうが、それっきりで縁を絶てるのなら安いものだ。今後の家名の発展のためにも、禍根共々に払拭してきてくれるかな──◼︎◼︎よ』

 

 それゆえに。このひとは最後まで、私の気持ちを疑わなかったのだ。

 

『……はい。仰せのままに』

 

 ──名目上の旅行に繰り出してからというもの、お母さんの行動は早かった。

 

『よし、まずはひとつ──ね、大丈夫だったでしょう?』

 

 役所から空港へ向かう道すがら、お母さんは晴れやかに語りかける。

 

『今年まで待った甲斐があったわ。世間一般の公的手続きなんて、あのひとたちにとっては些事も些事なのね。それとも単に、あなたの意向を疑わなかったのかしら』

 

 私はちょうどその年、自分の苗字を自分で選べる歳になっていたらしい。戸籍上はお母さんの家名となり、一般人としても事実上、父方の籍から外れたことになる。もちろんこれは、父の知らないうちに断行した事だ。

 

『……お母さん。でも──』

 

 ただ。いくら名前が変わっても、この身に流れる血までは変わらない。父方との縁がある以上、たとえ海を渡ろうとも、彼らは私を見つけるだろう。ゆえにこの改名は、最悪の事態に遭った場合、体面上は『お母さんの計略だった』と釈明する事になっている、甚だ無謀な強硬策なのだ。

 

『……そうね。それについては賭けになる。一カ月という時間のなかで、間に合うかどうかの勝負だわ。ひとまず、向こうに着いてから話しましょう。あなたにとっては初めての空の旅だし、せっかくなら楽しまなきゃ。……それに、今日はとても疲れたでしょ。ゆっくり休んでいいからね』

『……うん。おやすみなさい』

 

 空を征く機体の中、隣のシートで眼を閉じる。暫定的なものとはいえ、お家から離れられた安堵感のせいか、はたまた追跡される可能性への焦燥感のせいか。気疲れはピークに達し、意識は次第に閉じていった。

 

『──ああ。よかったわ、本当に』

 

 眠りに落ちるまでの刹那の間。微かに震える、お母さんの声を聞いた気がした。

 

『……あなたの中にはまだちゃんと、自分の気持ちが残っていたのね──』

 

 ──空の旅を終えて数日。私たちは陸路を進み、山間部の村を訪れた。

 

『──何年ぶりかしら。母を看取って以来だから、もう二十年も前になるのかな。ちょうど私が、あなたと同じ歳だった頃の事よ』

 

 アイルランドはコノート地方、スライゴ某所の辺境地。お母さんが祖母と暮らしたという、一軒の民家に辿り着く。

 

『……因果なものね。私もこうして昔、母に連れられて此処へ来たの。いまさらながら、当時の母の気持ちがわかるようだわ』

 

 今日のような時が来ることを予感していたのか、ずっと手元に残していたらしい。古びた鍵を取り出して、鍵穴を回しドアを開ける。

 

『中も変わりなく残っているわね。家中の窓、片っ端から開けてくれる?』

『……うん。わかった』

 

 二十年も放置されていたため、家屋の中はひどく埃っぽかった。窓から差し込む光の筋が、立体物のように見えている。

 

『でもまあ、あなたに仕込む予定の諸々を思えば、この環境もちょうどいいわ。今日からさっそく取り掛かりましょう』

『……何をすればいいの?』

 

 踏み込むたびに舞い上がる埃を眺めながら、これからの事を訊いてみる。

 

『やることはひとつよ。あなたにはこれから三週間──新築同然に綺麗になるまで、此処の()()()に励んでもらいます』

 

 そうして、お掃除三昧の日々が始まった。

 

『──ねえ。おばあちゃんは、此処でずっと暮らしていたの?』

 

 必然の流れとして、お掃除三昧な期間はそのまま、お母さんとおばあちゃんの事を知る、追憶の機会にもなっていた。

 

『そうよ。若い頃に母は、この家の持ち主に拾われたの。ひと回り年上の男の人だったって。平生は母に家事全般を任せきりにして、毎日のように山へ出かけていたみたい』

 

 変な話。お母さんもおばあちゃんも、誰かに拾われた過去があるなんて。

 

『そっか。……もしかして、その人が私のおじいちゃん?』

『あはは。普通はそう思うわよね。でも、そうじゃなかったみたいよ。その人はただの家主で、母はあくまで居候だったの。あなたのおじいちゃん──私の父のことは、どこの誰かも教えてくれなかった。私が生まれた頃にはもう、母は逃避行の最中にいたから。言えない理由があったんでしょう。今の私たちの有様を思えば、だいたい察しはつくけどね』

 

 ……おばあちゃんもまた、私たちと似たり寄ったりな境遇に置かれていたということか。

 

『じゃあ、おばあちゃんは一度ここを出て、お母さんを連れて戻ってきたんだね』

『そういうこと。当時の私もあなたみたいに、当分の間はひたすら掃除をしろって言われたわ。こうしているとまるで、あの頃の焼き直しね』

 

 ──あれ? それはちょっとおかしい話だ。

 

『当分の間は掃除、って──その頃はまだ、ここの家主さんも居たんだよね?』

『いいえ。居なかったわ。母がここを出る数年前に、いつもどおり山へ行ったきり、戻ってこなかったらしいの。私が母と初めて来た日の埃っぽさも、ちょうど今回みたいな具合だった。それを思えばやっぱり、その後一度も戻らなかったんでしょう』

 

 ……遭難した、ということだろうか。それも無理のない話ではあるだろう。この近辺の山は深い緑に覆われている。いつもどおりの登山だとしても、わずかにでも迷ってしまえば、取り返しのつかない事態に見舞われても不思議はない。

 

『だから、私もここの家主に会ったことがない。こうして訪れるまで、残っていたのは幸運ね』

『……うん。そうだね』

 

 複雑な心境になりながら、私はそっと心の中で、見知らぬ家主さんに感謝を述べる。

 

『そういうわけだから、ね。少なくともあと一週間、思いっきり綺麗にしてちょうだい。私は今日もこのあと、食材を用立てに出ていくわ』

『──うん!』

 

 そうした経緯を知ったからか。あるいは、当時のお母さんの追体験ができて嬉しかったのか。早くも十日目を迎えた、修行じみた掃除の日々が──不思議と、私の心身に馴染んでいった。

 

 瞬く間に、三週間が過ぎたころ。

 

『──うん。こんなところかしらね。三週間のお勤め、ご苦労さま』

『えへへ。よかった! さすがにもう、綺麗にする場所が見当たらなくなってたの!』

 

 お許しが出る頃にはもう、屋内はおろか、外壁や屋根の上、お庭の外側まで手を入れていた。これ以上のクリーニングとなれば、もはやリフォームの域に達してしまうところだ。

 

『あはは。ええ、そこまで思えたなら充分よ』

 

 お母さんはそう言うと、私の眼を見て──こんなことを訊いてきた。

 

『──ねえ。あなたはこの三週間で、何か変化はあったかしら? 何でもいいわ。思ったこと、感じたことを言ってみて』

 

 ──変化?

 

『ええと……とにかく、お掃除が楽しかった。お家でやってきた事も似てはいたけど、これはまるで真逆の仕事っていうか。なんだか──綺麗にする側の私まで、スッキリしていく気がしたの!』

 

 ああ。大きな違いがあるとすれば、この三週間は今までとは真逆で──何かを自らで拭うのではなく、何かから自分が拭われるような、そんな感覚を得られたことだ。

 

『そう──よかった。間に合ったのね』

 

 ……間に合った?

 

『あなたは今、まっさらな衣に戻れたの。身に移された望まぬ穢れを、清めの行為に溶かしたことで──誰かの代わりに汚れずにいた、自然体のあなたにね』

『……どういうこと?』

 

 お母さんの言葉は不可解だった。内容それ自体がではなく、そんなことが可能だという言い分が。

 

『そうね。判らないのも無理はないわ。あのひとたちはあなたの素質に、都合の良い解釈を植え付け、利用していたんだもの。その歪んだ認識も、今ここで正してしまいましょう』

 

 ──物心がついたころ、父は私にこう言い聞かせた。

 

『◼︎◼︎。おまえの母親の血族は、他者の穢れを移し取ることで、己を高めた家の末裔だ。すでに血の薄れた代ながら、我が家に生まれたおまえは特別、その素質を色濃く発現してみせたのだ』

 

 父の家系は代々、お祓いを生業とする一族だった。保護を名目にお母さんを囲った理由も、彼女の血が秘める因子を取り込むことで、家名の発展を目論んだ計略にすぎない。その家に生まれた私は必然、『巫女』としての役割を課されることが、生まれる前から決定していた。

 

『いいかい、◼︎◼︎。お前は我が家名を冠した巫女として、訪れる者の穢れをその身に移し取り、その存在意義を確かなものに定めるのだ。やがてお前は個たる在り方を脱し、純粋な濾過装置としての機能を得る。……なに、それに伴う自我の摩耗など、悲願の成就にとっては些細な代償だ。それはむしろ、栄誉な事なのだよ──』

 

 父の、お家の言葉を聞いて育った私は、それが正しい事なのかどうかなんて、疑う余地があるはずもなかった。

 

『──違う。そうじゃないわ。あなたに気持ちが残っている限り、心のどこかで疑いなさい』

 

 だからこそ、お母さんはお家に反発した。隙を見て私に語りかけ、私がお家に言い聞かされた事柄に、私自身が疑問を抱く余地を捩じ込むことで。

 

『──お前は賢い子だ。あれの戯言に耳を貸す必要はない。巫女を務めて十年足らずで、もはや完成を目前に迎えているのだから。……誇りなさい、◼︎◼︎。じきにお前の自我は解け、その機能を純化させ、万人の穢れを祓い得る存在となる。それは紛れもない偉業だ。我らの悲願はおろか、魔術師どもの悲願にすら迫る可能性を得るだろう。その役目を、どうか果たしてくれたまえ!』

 

 そうして私は──お家の定める『役目』の話を、幾度も、幾度も、言い聞かされ続けてきた。

 

『──あの教えは、デタラメだったってこと?』

 

 だからこそ、先のお母さんの言葉は不可解だった。私の『役目』が言い聞かされたとおりでないのなら、いったい何だというのだろう。

 

『……いいえ。全部がデタラメではないわ。タチの悪い事にね。あのひとの語った事柄も、それが叶い得るものだった事も確かよ。これはただ──あなたの素質をどこへ導くかという、方向性の問題なの』

 

 ──方向性……。

 

『連中はあなたの素質を、余人の穢れを移し取るものと定義した。都合の良い解釈、と言ったのはその事よ。でも、正確にはそうじゃない。あなたの……いえ。私たちの素質の根本は──移し取る事ではなく、取り払う事にあるのよ』

 

 ……取り払う?

 

『あなたに此処で掃除をさせたのは、そうした本来の方向性を呼び起こすためだったの。ある種の作業療法みたいなものかしらね。本来の、というだけあって、得られた効果はてきめんだったわ。十年余りの歪んだ因子を、たった三週間で打ち消せたんだもの』

 

 ……そうか。このスッキリした感覚は、それゆえの状態ということか。この実感を覚えてしまえば──なるほど。かつての私の方向性が、歪んでいたという話にも納得がいくようだ。

 

『……皮肉な話ね。あのひとたち、あなたの素質に対する見込みだけは確かだったから。だからあれほど頑なに、役目という名目を振り翳し、何度も言い聞かせようとしたんだわ』

『──……』

 

 それを聞くと同時に、新たな懸念が頭をよぎる。

 

『……ねえ、まってよお母さん。そんなことをしたと知られたら、もう怒られるだけじゃ済まなくない?』

 

 そうだ。私から取り払われたものは、父が、お家が、十年余りの歳月をかけ、私に課してきた『役目』の成果そのものだ。それを水面下で御破算にしたのだから、見つかればいよいよ後がない。

 

『まあね。連中も当然、私があなたに何かを吹き込む程度の事は、たしかに警戒しているでしょう。でも──連中は今の私に、それ以上の事ができるとも、ましてやあなたを変えられるとも思っていない。あの家から離れるまでずっと、そう思わせないようにしてきたから』

『……──?』

 

 お母さんはそう言うと、まるで別人になったかのような表情で──私も知らない気配を露わに、真剣な声色で呟いた。

 

『……連中もさすがに、こちらの異変を察したようね。二、三……五人は居るかしら。たった今、村の辺りまで来たみたい。少しずつ、こちらに近づいているわ』

『──!』

 

 ……やっぱり、こうなってしまうのか。お家のひとたちが、私を連れ戻しに此処へ来る。

 

『あのひとに加えて、従者も着いてきちゃったか。……でも、まだ時間はある。村中に仕掛けた妨害工作のおかげで、此処の探知まではしきれていないみたい』

 

 妨害工作って、いつの間に……ああ、そうか。食料調達にしては毎回、ずいぶん帰りが遅い気はしていたけれど──お母さんは私が掃除をしている間、密かに手を打ってくれていたんだ。

 

『……どうするの? 此処から逃げる?』

 

 お家の目標は自分だ。私ひとりが此処を離れれば、お母さんは見つからずに済むかもしれない。それ以外にはもう、取り得る手段なんて──

 

『──いいえ。その必要はないわ。連中が此処を突きとめるより先に、私たちの目的は果たせてしまうから。……最後の仕上げよ。大丈夫、ゆっくり息を整えて』

 

 ──ある、という事らしい。

 

『……うん──』

 

 穏やかな声色に緊張はほぐれ、かろうじて平静を取り戻す。

 

『……最後の確認よ。……ねえ。今のあなたは──あの家に帰って、役目を課される生活に戻りたい?』

 

 ……それは。

 

『……いや。もうあそこに戻るのは──いや』

 

 絞り出すように、奮い立たせるように。お母さんに促されるのではなく、真に私の気持ちから、自分の意思を口にする。

 

『……うん。じゃあ、もうひとつ。今のあなたは──あの家で刻まれた記憶を、思い出せないようにしたい?』

『──それは……』

 

 辛くはあった。怖くもあった。それでもやっぱり、あの家で過ごした日々だけが、私の生きた記憶のすべてなんだ。それを忘れてしまったら──私はいったい、誰になるというのだろう。

 

 ……ああ。でも──

 

『(……忘れてしまうのは怖い。怖いけど、それ以上に──)』

 

 ──自分が自分でなくなる結果が同じなら。私はここから新しく、私自身に成ってみたい。

 

『……うん。忘れたい。私を私でなくす日々のことを、忘れてしまいたい──!』

 

 そう願えたときには、すでに心が決まっていた。

 

『……ええ、わかったわ。あなたのその気持ちを以て、すべての条件が揃いました。あなたは今日から──あなた自身として生きなさい』

 

 お母さんはそう言って、私を強く抱きしめる。

 

『(──何かが、私の身体に流れてる……)』

 

 同時に、言い表せない何かを実感する。

 

『……お母さん。この感じは、何──?』

『──これは、私の身に流れる血の記憶。遠い祖先が残した微かな因子、()()()()の素質の具現。怖いものじゃないから、安心なさい。……あなたはこのまま、心身を楽にしていてね』

 

 ──『共感能力』……?

 

『……それって、なに?』

『──もう、楽にしてって言ってるのに。……まあ、言ってしまえば、私たちが持つ特性のことよ。在り方、と云うには薄すぎるし、まっとうに継承されたものでもないけれど。現にあなたには、その特性の一欠片だって遺伝してはいないもの。名実ともに、私の代で最後だわ』

 

 ……そっか。私にも関係のある話かと思ったけれど、どうやらそうじゃなかったみたいだ。

 

『でもね。あなたは遺伝を受けなかった代わりに、幼くして別の素質が開花したの。連中は遺伝と勘違いしたみたいだけれど、そう思うのも無理ないわ。なぜなら、それが──共感能力の本領に匹敵するほどの、払拭にまつわる起源だったんだから』

 

 ──『払拭』の、『起源』……

 

『私は今、あなたの起源に働きかけているの。抜け落ちた(ページ)のそのまた断片、この身に残された端切れが如き、なけなしの素質から搾り出すように。……私の全霊は、今ここで遣い切る』

 

 ──それって。

 

『……お母さん、大丈夫?』

 

 まって。そんな事を続けたら、お母さんは──

 

『大丈夫。だって、親は子を守るものよ? こんな当たり前の行いで、音を上げてなるものですか』

 

 ────、…………。

 

『……ごめんね。こうしている理由を話す時間は無いの。でも、せめて後の事だけは伝えておくわ。あなたはこれから数日、意識がぼーっとする日々を過ごすと思う。言語活動や日常生活に必要な記憶は残るけど、しばらくは生活もままならなくなるでしょう」

 

 ──思考が、途切れる。

 

「だから、地図を一枚渡しておくわ。目が醒めたらひとまず、ここに書いてある場所を訪ねてね。それからはもう、何をするのもあなたの自由よ』

 

 ──意識が、遠のく。

 

『……またね、私の愛しい子。来世があるなら、きっとまた逢いましょう。それまでどうか健やかに、自分の人生を生きてくれますように──』

 

 ──閉じゆく記憶の端っこに、彼女の最期を垣間見る。

 

『見つけたぞ! ◼︎◼︎、ここに居たんだ、な──』

 

 最中に聴こえたのは、ドアを蹴破る音と。

 

『──貴様……やってくれたな……!』

 

 誰かに向けられた、誰かの怒号。

 

『──あの。恐れ入りますが、どちら様でしょうか……? ……困ります。扉が、壊れ、て……』

『──っ、くそっ、くそぉッ!』

 

 怒った誰かが、困る誰かの元に駆けていく。

 

『──当主様、撤退を!』

『これは罠です! 妨害工作に組み込まれていた、感知術式の発動と同時に……!』

『時間がありません! もうすぐそこまで、教会の連中が駆けつけて……!』

『お急ぎください、当主様!』

『──なに……!』

 

 大勢の誰かが、大声で慌てふためいている。

 

『──当主様、お二人はもう手遅れです!』

『母体は一見して絶命! それに……』

『……巫女様は、もはや──』

『わかっている! いちいち口に出すな! ……撤退するぞ……!』

『はっ!』

 

 大勢の足音に遅れて、ひとつの足音が遠ざかる。

 

『──保護対象二名を確認。依頼者と思われる一名が死亡、残る一名が存命。掃討対象、残存魔力から追跡開始。発見次第捕縛、遂行が困難とあらば処分せよ』

 

 しばらくの間をおいて、ゆっくりとした足音を耳にする。

 

『──この娘を残して場を収めろ、と。……やれやれ。第三者に宛てる遺言にしては、なんとも重たい内容だな』

 

 呟く誰かが、横たわる誰かを持ち上げる。

 

『……悪いね、お嬢ちゃん。私はただ、顧客の依頼をこなすだけだ。まあせめて、宗派が何かは知らないが、弔うぐらいはさせてもらうよ。だから安心して眠るといい──目が醒めたら、がんばれよ』

 

 そうして。わずかに残る意識の線は、頬を伝う細い感触とともに──静かに静かに、眠りのなかへと閉じていった。

 

 

 

◆◆◆◇

 

 

 

 ──ソールズベリー滞在期間、二十四日目。

 

「持ち物よし、戸締まりよし──と」

 

 今日は倉庫もお休みの日。外出するに差し当たり、建物内のチェックに励んでいる最中だ。

 

「(留守中、ご来訪があったら悪いなぁ。でも今回だけは、どうかご勘弁願います)」

 

 この二週間、倉庫には訪問者が相次いでいた。ご新規さんに常連さん、数年ぶりに来られたらしいお方に加え、倉庫の利用に関係なく、コミュニティスペース代わりに訪れるようになった御仁まで。

 

「(ふふ。倉庫のお仕事を除いたら、まるでグノームさんちに居た頃の生活みたい)」

 

 なんて、ひとりで勝手に懐かしんでいると。施錠を終えた私の背後から、ひときわ清々しい声が耳に届く。

 

「──おはよう、シルキーさん! 準備はできているかい?」

 

 そう。今日は待ちに待った、山菜狩りの決行日なのである。二週間前の約束どおり、ウィールドさんが迎えにきてくれた。

 

「おはようございます、ウィールドさん! 今日はよろしくお願いします!」

 

 前日のうちに作っておいた、樹皮で編んだカゴを背に担ぎ、藁帽子の鍔を上げて挨拶をする。グノームさん特製の野外キットはもちろん、充分な携帯食と水筒をぶらさげて、汗拭き用の布も装備している。控えめに言ってカンペキだ。

 

「ははは! さすがに気合いが入っているね! だが、私もそこは負けていない。山に着いたら、どちらが多く採れるか競うとしよう!」

「えっ──まさか!」

 

 よく見ると、彼もカゴを背負って来たらしい。屈強な背中に隠れていたせいで、隣に立ってみるまで気がつかなかった。

 

「まさかも何も! せっかくのアウトドアなんだ。貴女の楽しむ姿をただ、指をくわえて見ているだけじゃ勿体ない。私も一緒に、自然の遊びを満喫させてもらうよ!」

 

 めちゃくちゃノリノリである。そう来なくては。

 

「さあ、行こうか!」

「はい!」

 

 ──ソールズベリーを北上し、郊外の野原を歩き始める。

 

「ご足労をおかけしましたね、ウィールドさん。往路は大変だったのでは?」

「なんてことないさ。昨日の朝にはオックスフォードを出て、八時間ばかりのマラソンを楽しんだよ。貴女が手配してくれた、オーナー氏の宿も最高だった。どうかお礼を伝えて欲しい!」

「はい! ──って、は、はちじかん……!」

 

 ……頭がくらっとしてしまう。オックスフォードからソールズベリーまでは、直線距離でも百キロ近くはあったはず。徒歩で目指した場合には、無休無失速でも丸一日を要する行程だ。此方のマッチョさんはそれを、マラソン気分で走破してしまったという。

 

「ははは! 野外遠征のハードさに比べれば、ぜんぜん散歩の範疇さ。プライベートゆえに緊張感も無かったし、おかげで昨晩はよく眠れたよ。今日の行程に支障はないから、そこは安心してくれるといい!」

「すご……さすがは兵士さんですね……」

 

 近場といっても、今向かっている山までの道のりも馬鹿にはできない。徒歩で片道およそ六時間の距離だから、このまま最速で進んだとしても、到着はお昼過ぎになる計算だ。

 

「……野営を想定して連休まで取ってくださり、ありがとうございます。ご無理はありませんでしたか?」

 

 ウィールドさん自らの申し出もあり、今回の山菜狩りは、野営で一泊二日をすることになった。『案外日帰りで行けるかも!』なんて考えていた、二週間前の自分を反省する。

 

「ご心配なく。私がジャック監督の役職を引き継いだから、スケジュールの管理にも多少の自由が効いたんだ。カーシー監督もこの連休取得を強く薦めてくれてね。『俺の分もシルキーにお礼しといてくれ!』だってさ!」

 

 そっか。今回のウィールドさんの同行は、カーシーさんのお力添えもあって実現したんだ。

 

「そういうわけだから、どうかお気になさらず。この二日間はたっぷりと、貴女の用心棒を務めさせてもらおう!」

「はい。とても心強いです!」

 

 ──こまめに休憩をとりながら、歩き続けること五時間半。私たちは山の麓に差し掛かり、お気楽な内容ばかりだった話題もまた、次第に深いところへと及んでいった。

 

「ときに、シルキーさん。もしかして最近、何かあったりしたのかな? なんというか、二週間前とは違った印象を覚えるのだけど──その……大丈夫かい?」

「えっ」

 

 ……隠していたつもりはなかったけれど、さすがにお見通しだったらしい。

 

「……ええ。実は、ウィールドさんにお話ししたい事があって──」

「うん?」

 

 ──私は歩きながら、例の夢に見た記憶のことを打ち明けた。

 

「……そうか。そういう経緯が……」

「……はい。私自身、頭の整理に時間が掛かりました」

 

 常に足を動かしている現状のせいか、お口のほうもよく回ってくれた。こういうのを『歩行禅』、というんだっけ。少々込み入った事情ながら、そこそこ上手く話せたと思う。

 

「では、以前話した『起源』の見立ては正しかったんだね。不謹慎ながら正直、的外れなことを口走り、いたずらに混乱を強いたことにならず安心したよ。……ただやはり、あのとき私は踏み込みすぎてしまったようだ。夢に見られた原因もおそらく、私の追求があったからだろう。……すまなかったね」

「いえ、そんな! むしろ感謝しています。おかげでもう一度、母のことを思い出せたんですから!」

 

 彼の言うとおり、あの夢を見た原因は二週間にあるんだろう。でもそれは、きっと起こるべくして起きたものにすぎない。遅かれ早かれ、いつかは思い出すことになったのだ。

 

「……そう言ってもらえると嬉しいよ。まずは、貴女に敬意を。開かれた記憶によくぞ向き合い、ご自身を奮い立たせてみせましたね。シルキーさん」

「そんな。……でも、はい。ありがとうございます、ウィールドさん」

 

 心細さが無かった、といえば嘘になる。彼の激励は実際に、私の心を軽くしてくれた。

 

 ……そういえば。戻った記憶の一部には、いまだ解せない点があるんだった。

 

「……ただ、不可解な事柄がありまして。あの夢を見た今でさえ、私は、以前の──」

 

 ──『◼︎◼︎』という名前だけが、どうしても思い出せずにいたのだ。

 

「ああ。私もその点が気になった。いくつかの理由は考えられるが……うん。おそらく主たる要因は、こんなところだろう」

 

 山の斜面を踏み込みながら、ウィールドさんは私見を開示する。

 

「私が思うに、今の貴女……『シルキー』さんとしての存在が──『◼︎◼︎』さんとして在った過去を凌ぐまでに、貴女の多くを占めるに至っていた……という事じゃないかな」

 

 ──過去の私を、凌ぐほど……か。

 

「……やっぱり、そういうことなんですね」

 

 なんとなく、そんな理由だろうと思ってはいた。彼も私と同様の推測を持たれた以上、それが正解に近いのだろう。

 

「ああ。それが最も順当な線じゃないかな。封じていた記憶の蓋は開かれたが、今の貴女にはもう、新たに歩んだ経歴がある。その存在証明が堰となり、すべてが元どおりにはならず、以前の名を思い出すには至らなかった──という具合だろう」

 

 ──なるほど。

 

「これほど深く、妖精の『目的』に触れた貴女だからね。自身の記憶に蓋をした『起源』もまた、知らず知らずのうちに開かれつつあったわけだ」

 

 ……ああ。解せない点といえば、そのあたりもそうだった。

 

「──その、『蓋』についての事なんですが……母はあのとき、私に何をしたんでしょうか?」

 

 一刻を争う状況だったため、あの行為の詳細を聞かされることはなかった。判るものなら、どうにかここらで判っておきたい。

 

「うーん……そうだな。これまた踏み込んだ推測になるが、それでもよければお話しするよ。構わないかい?」

「はい、もちろん」

 

 彼はそう前置くと。山中深くを進む現状と同じように、私の記憶へと分け入った。

 

「──おそらく母君は、身に宿る僅かな『共感能力』を以って、貴女の『起源』の働きを増幅したんだ。それに伴う、自身にかかるリスクを承知のうえでね」

 

 ……リスク?

 

「いいかい。ここで云う『共感』とは、一方が一方の事を感じ取る精神作用じゃなく、『一方が共鳴して感受する』行為を指す。つまり母君は、貴女が記憶を『払拭』していく最中、その効果の増幅を図りながら──自身もまた同様に、『払拭』の影響を引き受けていたということだ。……この意味がわかるね?」

 

 ──────、

 

「……そう。母君が今際の際に、貴女の父君を認識できなくなったのもそのためだ。……立派な御仁だよ。これからすべてを忘れ、事切れる直前とあっては、親なら子へ『自分のぶんまで生きてくれ』とでも言って託しそうなところを──最期の瞬間まで決して、貴女に何かを背負わせる事はしなかったのだから」

 

 ……………。

 

「……母君はただ、己が娘の未来を守ろうとしたのさ。それだけは間違いようのない、推測するまでもない真実だ。だから──母君が下された決断を、貴女が過度に悔やむ必要はない。胸を張って受け取るといいさ。違うかい?」

 

 ……ああ。そのとおりだ。

 

「──はい。ありがとうございます、ウィールドさん。おかげでようやく、気持ちの整理がつきました」

 

 この世界に流れ着き、新たな自分を得た事が、記憶を思い出す契機になったと云うのなら。今の私はきっともう、過去を思い出しても構わないほどに──。

 

「うん、それはよかった!」

 

 ウィールドさんの笑顔につられ、私も自然と笑顔をこぼす。……本当に、得がたい縁に巡り逢えたものだ。きっと彼のお力添えがなかったら、ここまでの理解は得られていない。

 

「……おっと。夢中で話し込んでいたら、もうかなりの所まで進んで来たようだ──さあ、シルキーさん! 貴女が以前言っていた、念願の景色を拝めるぞう!」

「──えっ?」

 

 おや。そういえば私たち、山菜狩りに来たはずなのに、それにしてはずいぶんな距離を登っている。この先に進めば、もうそこは──

 

「──わあ〜!」

 

 ──妖精國を一望できる、山頂だ。

 

「ははは! いやあ、佳い眺めだ! やっぱり登山はこうじゃなきゃね!」

「すごい……! ソールズベリーがあんなに小さく!」

 

 ふたたびくるりと向き直ると、北西にはグロスター、北東にはオックスフォードが目に入る。私たちは今まさに、三都市の描くトライアングルの中心に立っているのだ。

 

「(──もしかしたら、ノリッジも見えるかも。方角はこっちの……)」

 

 ……ん……?

 

「(……何だろう、あれ。黒い──雨雲?)」

 

 今日はお天気に恵まれ、『雨期』のピークも過ぎ去った。にも拘らず生じた雨雲であれば、ゲリラ豪雨か何かだろうか。ノリッジは海に近い立地で、鍛冶場街に特有の煤や煙が立ち上る環境ではあるから、雨雲が生じ、空の色が濁るのも不思議はない。しかし──

 

「(──それにしては、何だか……)」

 

 ……心配、しすぎかな。

 

「……よいしょ、っと──ふう! 何はともあれ、予定どおりに着くことができたね。ちょうど時間もお昼時だ。ここでひと息つくとしよう!」

 

 すると。ちょうど荷物をおろされたのか、背後からウィールドさんの声が掛かる。

 

「あ、はい! そうですね──」

 

 ……さすがに歩き詰めで参っていたのか、妙な方向に頭が回っていたらしい。彼の呼び掛けを受けて初めて、疲労感と空腹感に気づく。そうとくれば、ここは私の仕事だ。すぐさまピクニックの準備を整え、二人で昼食にありついた。

 

「私の分までありがとう、いただきます! ……おお、美味い! 以前に頂戴した紅茶も素晴らしかったが、こちらの出来栄えも見事なものだ。もう店を出せるんじゃないかい?」

「えへへ。それほどでもありませんが、ありがとうございます!」

 

 彼はサンドウィッチを頬張りながら、目を丸くして嬉しい言葉を投げかける。今回のメニューは、薄切りにしたバゲットに、自家製の山菜ピクルスを挟んで作ったものだ。好みの分かれる風味だけれど、どうやらお口に合ったみたい。

 

「む、わりと本気の提案だったんだが。この山菜メニューを主軸にオックスフォードで出店すれば、『ガチでイケる菜食料理が食べられるぞ!』と、街中でトレンドになりそうなものなのに。ソールズベリーでの任期を終えたら、一度検討してみてくれないかい? 出店された暁には、仕事終わりに必ず通うからさ!」

「え、ええっ!」

 

 むむ。そういう文脈で言われると、けっこう真剣に考えてもいいのかもしれない。倉庫での任期はもう半分ちょっとだし、後の計画を立てるべき時期なのも確かだ。

 

「『好きこそものの上手なれ』ってね。貴女のように、『やりたいこと』と『できること』が一致している御仁なら尚更だ。私たち『漂流者』が妖精國を生き抜くうえで、モチベーションを抱く事柄が在ることは、何より大切な要素だからね!」

 

 ──『やりたいこと』、か。そういえば、彼のほうはどうなんだろう。

 

「ウィールドさんもやっぱり、なにか『やりたいこと』がお有りなんですか?」

 

 そうだ。彼はこの世界に流れ着いてからの五年間、オックスフォードに居を構え、人間兵として逞しく生き抜いてこられた御仁だ。こうも溌剌としたお人柄を保っていられるのは、彼もまた何かに対し、モチベーションを維持している事の証だろう。

 

「──ああ、あるとも。今も昔も変わらない、たったひとつの『目標』がね」

 

 ……今も、昔も……。

 

「それはいたってシンプルなものだ。『己が腕を磨く』という、時と場所を問うことのない、宣誓にも似た願望だよ。ゆえにこそ私は、妖精國に流れ着いた今も変わらず、自分自身で在れている。兵士を続けている現状もまた、その願望のうちというワケさ」

 

 ────。

 

「(……すごいなあ。昔と同じ気持ちのままで、この世界を生きてこられたんだ)」

 

 ……それは実際、驚異的なことに違いなかった。ある日突然、異なる世界に身を置くとなれば、普通は同じままではいられない。異郷の空気に恐れ、慄き、戸惑う日々の最中にあっては──やがて自己同一性も揺れ動き、変化を余儀なくされるのが常だろう。

 

「……シルキーさん?」

「あ……いえ。私とは違って、ウィールドさんは立派だなぁと思いまして。私も生き延びること自体は叶っていますが、流れ着く以前の自分とは、すっかり様変わりしていますから」

 

 ……いけない。ひとり勝手に思い耽っていた流れで、無粋なことを口走ってしまった。

 

「──何をおっしゃるかと思えば。私に言わせてもらうなら、貴女のほうこそ立派だよ。それこそ膝を突き合わせ、ご教授を乞いたくなるほどに」

 

 ──え?

 

「私の場合は単純に、異なる世界に自らを合わせる事など意識せず、以前からの自分を貫いただけだ。これは適合と云うよりも、向こう見ずな突貫のそれに近い。対する貴女は、驚くほど自然な形で、妖精國への適合を叶えておられる。それは到底、狙って実現し得るものではない業だ。だからそうして、自らを貶める必要は微塵もないさ」

 

 ……私が、自らを貶めている──

 

「それとも……貴女は本気で、自信が持てていないのかな? だったら私が保証しよう。それでも足りなければ──そうだな。自信を持つ事を妨げている、枷の排除を手伝おう!」

 

 ……ああ、そうか。どうやら私は、以前の自分を振り払うようにして得た現在を──心のどこかで、受け止めきれずにいたらしい。

 

「……ありがとうございます。では──」

 

 彼の胸を借りる思いで、以前の私──お家の記憶を封じて以降の、この世界に流れつくまでの事を打ち明ける。

 

「──私はずっと、旅をしてきました」

 

 スライゴの民家で目覚めたあと。数日ほどで動けるようになった私は、ポケットに入っていた地図を頼りに、指定の教会を訪れた。お母さんが根回しを済ませておいてくれたのか、そこのシスターから手厚い保護を受け、当面の居住を許された。

 

 その際に知らされたのは、自分はアイルランド国籍を有しておらず、隣国に籍が置かれているという事だった。必然として私は、滞在権が無効になる前に、その国への到着を目指すことになる。

 

「──アイルランドから、イギリスへ。着くまでの過程も、着いてからの日々も。いろんな場所を訪れて、いろんな人々に出会いました」

 

 当時の私の境遇は表面上、各地を転々とする記憶喪失の旅人だった。記憶の内に住まいは無く、向かうべき場所の宛てもない──文字どおりの『放浪者』である。

 

「……しかし。自らの所在も覚束ずにいた私は、定住地を見出すことも、人々との繋がりを築くことも、それを得ようとする気概も持ち合わせてはいませんでした。数日過ごせばまた次へ、そのまた次へと──『やりたいこと』も判らないまま、ただ放浪の日々に明け暮れたのです」

 

 拒絶感を抱いていたわけではない。ただ、違和感だけが常にあった。まるで、ひとつ処に身を置く自分が、根本的に矛盾したものであると告げられているような──内側を占める感覚が。

 

「……今になって思えば、それも当然だったのでしょう。当時の私の内側では、お家の記憶を『払拭』した事が影響し──その力が常に、『自らを淀ませない』ほうに働いていたのですから」

 

 ……そんなある日のことだ。いつもどおりに流離う私は──見知らぬ土地に訪れるどころか、見知らぬ世界へと迷い込んでいた。

 

「──それ以降のことは、以前にお話ししたとおりです。ノリッジ近郊の森で目覚めた私は、グノームさんたちと出逢い、現在に至ります」

 

 ゆえに、語り得る事はこれがすべて。胸を張れる何かが有あったわけでもなし、現在との連続性すら有って無いようなもの。妖精國に慣れ親しんだ私とは、まるで別人の事のようだ。

 

「(……そう。当時の私は、居るか居ないかも判らない──この世界に流れ着いた現在よりずっと、『漂流者』らしい存在だった)」

 

 だからこそ、ウィールドさんのお話には舌を巻いた。身を置く場所が何処であろうと、たとえ異世界に迷い込もうと──彼は彼のまま、以前と同じく在られたのだから。そうした意味で捉えるならば、彼の実質的な境遇はもはや、『漂流者』と呼べるものではないかもしれない。

 

「……そうか。貴女は現在のご自身と、以前のご自身との折り合いがつけられずにいる事に、戸惑われているんだね。『元の世界には馴染めなかった』という認識を抱くあまり、『この世界には馴染めた』ことが、不可解に思えてならないがゆえに」

 

 ……そういうことになる、かな。

 

「ふむ。それならやっぱり、過度に気に病む必要はないさ。人が以前の自分とのギャップに戸惑うときは、大抵の場合──己の内に、前進的な『変化』を来しているときなのだから」

「(────あ、……)」

 

 ……そうだ。そうだった。私はどうしてこの二週間、そこに思い至らなかったのか。その文脈と文意はちょうど、オーナーさんと交わした話題──『変化』の兆しにまつわる様相、そのままじゃないか。

 

「以前の貴女が得られなかったものを、現在の貴女は得ることができた。『漂流』という明確なターニングポイントが有ればこそ、そこに特別な意味を見出したくもなるだろう。しかしそれは、そうした過程にたまたま、世界を跨ぐというイベントが挟まっただけのことだ。要するに──『変化』を来した現在もなお、貴女自身の連続性は、これっぽっちも損なわれちゃいないんだ」

 

 ……ああ、そうか。『変化』の転換点こそ明確なれど、別の誰かに成り果てたり、取り憑かれたというわけでもなし。私はただ素直に、現状を受け容れるだけでよかったんだ。

 

「……私が思うに。貴女の記憶は『拭われて』いたんじゃなく、『預けられて』いたんだ。いつの日か、それが取り戻される事態を予期し、貴女がそれをただ、『思い出』として懐かしむことができるまでの間をね。だから、安心するといい。折り合い如何の問題である以上、あとは時間の流れが薬となる。いずれ貴女自身の内側で、我が事として馴染んでゆくはずさ」

 

 ……『預けられていた』、か。

 

「(……そうだった。お母さんはあのとき、『記憶を忘れる』とは言ったけど、『無くすことになる』とは言わなかった。それは、きっと──)」

 

 ……怖くて、辛くて、苦しかったお家の記憶。それでもやっぱりあの日々も、かつての私を形作った、私自身の思い出だ。お母さんはそれを否定することはせず、完全な『払拭』に至る前に──いつか受け止められる日が来ると信じ、可能性を残してくれたんだ。

 

「(──ありがとう。お母さん──)」

 

 心の中でそう唱えると、その瞬間にはもう──霧の中を彷徨うような感覚は、すっかり取り払われていた。

 

「……うん。佳い表情になったね──よし!」

 

 彼は笑顔でそう言うと、膝を叩いて立ち上がる。

 

「さあ、そうと決まれば現在のことだ。山菜狩りに出る前に、今夜の寝床を拵えておこう。もちろん拠点はこの場所だ。山頂で貸し切りのキャンプと洒落込み、夜は満天の星空を拝もうじゃないか!」

「──!」

 

 すっかり認識の外にあったけれど、此処は見晴らしのいい山頂だ。一望できるのは地上の光景だけじゃなく、雲上の空もまた同じこと。『雨期』も過ぎ去った今なら、夜空の星もよく見えるだろう。

 

「運が良ければ、流れ星だって拝めるかもしれないぞ。目にすることができたならお互い、ひとつ願い事でもしてみるか!」

「わあ──それは素敵な提案ですね! 賛成です!」

 

 私も続いて立ち上がり、彼の眺める先をともに見る。

 

「決まりだね! ……ああ、そうそう。せっかく妖精國全土を見渡せる場所に居るんだ。この機会に、一番の名所を目にしておくといい。少し遠いが、シルキーさんにもあれが視えるかな。ぽっかり空いた大穴の縁に聳える、この国の女王が座す城──『罪都キャメロット』だ!」

 

 えっ、お城も視える? それは是非とも目にしたい。どれどれ。

 

「ええと──はい、ギリギリ視えました!」

 

 すごい。女王様のお城というだけあって、この距離からでもその威容がみて取れる。……あれが、妖精國の中枢都市──

 

「ははは。そうか! 壮観だろう? あそこは夜も輝く場所だ。流れ星があの城の上を通れば、きっと素晴らしい光景が────ん?」

「────あれ?」

 

 ──などと魅入っていた、その瞬間。私たちは同時に、不思議な光景を目の当たりにした。

 

「……ウィールドさん、あの……流れ星って、こんなお昼間にも視えるものでしたっけ?」

 

 呆然とするあまり、私はつい冗談を口にする。だって、あれは──

 

「いやいや! たしかに昼間にも起こる現象だが、地上からの目視は難しいだろう。……というか……あんなふうに飛来したのなら、それはもはや、流れ星というより──」

 

 ──お城を目掛けて降り注ぐ、隕石と呼ぶべきそれだったのだ。

 

「──うお、!」

「──えええ!」

 

 ──次の瞬間。流れ星はふたつに増えて、お城を派手に飛び出した。

 

「……まさか。あの軌道は──」

 

 すると。遥か遠くのそれらを凝視する彼は、何か心当たりがあるように呟いた。

 

「(……軌道?)」

 

 ……ウィールドさんには、あそこで何が起きているのか視えるようだ。私には辛うじて、絶え間ない発光とともに、大きな爆発が起きているらしい事しか──

 

「──『妖精騎士・ランスロット』……!」

 

 ……え?

 

「(……『妖精騎士』……それって……以前私を助けてくださった、『ガウェイン』さまと同じ──)」

 

 ……どういうことなのか。あの爆発の中に居られるのが騎士さまなら、この光景はおそらく、『戦闘行為』の最中のものと考えられる。であればいったい、あそこでどんな事態が発生し、どんな対象と戦って──

 

「──はは。ははははは!」

「!」

 

 ──と、一生懸命に頭を回していると。ウィールドさんは突然、歓喜の哄笑を上げだした。

 

「ああ……なんてことだ! すごいぞシルキーさん、『言霊』って実際にあるんだね! 流れ星などと口にしたおかげで、本当に──私の願いがひとつ、叶えられてしまったよ!」

「え、ええ!」

 

 おお、それはたいへん喜ばしい……じゃなくて。

 

「ど、どういうことですか?」

「──と……ああ、すまない! つい大声ではしゃいでしまった。しかし今回ばかりは、どうか勘弁してほしい!」

 

 よほど嬉しい事だったらしい。彼はこちらを気遣いながらも、興奮冷めやらぬまま熱弁する。

 

「あれこそは、妖精國における最強の騎士にして、最強の生物と謳われる存在──『妖精騎士・ランスロット』! 戦士の端くれたる私が焦がれる、『理想』の在り方そのものだ!」

「……、……!」

 

 ──どうりで興奮なさったわけだ。彼がこの国で生きるためのモチベーション、その体現とでも呼ぶべき対象を、こうして目の当たりにしたというのだから。

 

「……シルキーさん。貴女はさきほど、私の『やりたいこと』が何であるのかと訊いてくれたね。あれこそがその答えだ。彼女のように自由自在な『技』を身につけ……そうしていつの日か、胸を張って相見え、彼女と試合えるまでに強くなる。それこそが、この世界で見出した──私の『やりたいこと』なんだよ!」

 

 そこまで語り終えた頃。ふたつの炸裂光は急降下し、大穴の中へと消えていった。

 

「──す、すごかったですね。今の光景はまるで、花火大会でも観ているような感覚でした……」

「ははは。ああ、まったくだ!」

 

 かろうじて搾り出した感想に、ウィールドさんは笑顔で同意する。……今の出来事はもちろんだけれど、驚くべきなのは、彼が『目標』とする事柄についてもだ。あんなデタラメな光景を繰り広げるような存在に、彼自身も成りたいと願っておられるらしいのだから。

 

「いやあ、まいったね。先日の御礼をさせてほしいからと、貴女の要望を叶えに来たというのに、私が先に美味しい思いをしてしまった──こうしてはいられない。ようし! 今から陽が落ちるまでの間、私が誠心誠意ガイドして、ありったけの山菜を採らせてさしあげよう! さあ、行くぞシルキーさん!」

「あっ。ま、待ってくださいー!」

 

 その後、もはや狩り尽くさんばかりに意気込む彼とともに──互いのカゴがいっぱいになるまで、山菜狩りに明け暮れた。

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 ──ソールズベリー滞在期間、二十五日目。

 

「おはようございます、ウィールドさん!」

 

 野営のテントから這い出て、外の同行者に朝の挨拶をする。

 

「おはよう、シルキーさん! 昨晩はよく眠れたかい?」

「おかげさまで。ウィールドさんこそ、お身体は大丈夫ですか?」

 

 本人の申し出から、彼は私の眠るテントの周囲で、ひと晩じゅう見張り役を担っておられた。山菜狩りを終えた後ということもあり、疲れが溜まっていなければいいのだけれど。

 

「ああ、短時間睡眠を断続的にとっていたからね。睡眠も回復も充分に得られたよ。職業柄、こういう状況には慣れている。お気遣いありがとう!」

 

 さすがは兵士さん。警戒と睡眠を両立するという、一見矛盾した休息法もお手のものらしい。

 

「そうですか、よかったです! 見張り番のお礼に、気合を入れて朝食を準備しますね!」

 

 食材なら山ほどある。カゴいっぱいの山菜から生食に適した種類を見繕い、大盛りのサラダを手早く仕上げた。

 

「いただきます!」

 

 ふたり黙々と頬張りながら、食後の予定を組み立てる。朝のうちに山を下り、昼過ぎまでにはソールズベリーに戻ろうという事になった。

 

「山菜を納めたカゴはふたつとも、私が担いで行くとしよう。明日からは倉庫も再開だろう? 貴女のお仕事に支障が出てはいけないからね」

 

 昨日のウィールドさんの張り切りようといったら、それはもうたいへんな具合だった。私のカゴの三割ほどが山菜で埋まる頃には、彼のカゴは満杯になってしまった。

 

「ありがとうございます。……では、お言葉に甘えて……」

 

 正直な話、私のほうは三割方でも必要充分の量だった。ところが、自前のカゴを満杯にしてもなお、エネルギーを発散しきれていなかった彼は──『おや、其方はまだスペースが空いているね!』と目を光らせ、私のカゴにまで山菜を投げ入れ始めたのだ。

 

「(……ピクルスにしても余っちゃうな。オーナーさんや常連さんにお裾分けしよう)」

 

 こんもりとしたシルエットのカゴを眺め、早くも消費作戦を練る私。うれしい悲鳴というやつである。

 

「ごちそうさま! 山の幸がこんなに美味しかったのは久々だ。まさかこの世界でありつけるものとはね。今後は私も、山菜狩りをトレーニングのひとつに取り入れてみようかな。可否食種の選別眼は瞬時の判断能力を、採取にかかるポージングは足腰を鍛えてくれる。ついでに採取後は腹も満たされる! いやあ、勉強になったよ!」

 

 お、おお。その発想はございませんでした。彼にとってはこの二日間も、鍛錬の一環として成り立っていたらしい。

 

「では、可食種のメモをお渡ししておきますね。ご参考にどうぞ!」

「おお、マーガレット氏の直伝というアレだね。貴重な資料だ、ありがとう!」

 

 ──そんなこんなで食事を終え、キャンプ地からの撤収に取り掛かった。

 

「さて、行こうかシルキーさん。忘れものは無いね?」

「はい、大丈夫です!」

 

 地面に汚れがないことも確認し、私たちは山頂を後にする。足元に注意しつつ下山したころ、会話をする余裕が戻ってきた。

 

「──ふう、やっと歩きやすくなってきたね。大丈夫かい?」

「……ええ、どうにか。登山は復路のほうが怖いと聞きますが、それって本当ですね。山を下るのは同じ事なのに、山越えとはまた違った集中力が必要でした」

 

 平地に入ったことで心なしか、呼吸も楽になった気がする。ウィールドさんじゃないけれど、確かにこれは鍛錬になりそうだ。

 

「──『家に帰るまでが遠足』とも云うらしいが、この場でもう伝えておこう。今回は此方の押し付けに応じてくれてありがとう、シルキーさん。おかげで御礼が間に合った!」

「こちらこそ! って……『間に合った』、ですか?」

「ああ、明日以降はしばらく出ずっぱりの予定でね。今回を見逃せば、まとまった休日を貰えるのがいつになるか判らなかったんだ」

 

 なんと。私はそうと知らずに、彼の貴重なお休みを頂戴してしまったらしい。

 

「近頃のモースの頻出に加え、シェフィールド周りのゴタゴタもあり、兵舎では準非常時体制が採られることになってね。少なくとも、そのどちらかが落ち着くまでは。ゆえにこのタイミングを逃せば、次にお会いできる機会がいつになるか不明確だったんだ。『女王軍』にいつでも応援できるようにと、オックスフォードの兵力を仕上げておけ、とのお達しだ」

 

 ……そうだった。この国の北半分は現在、戦火の燻りが目に見えるほどに物騒なんだっけ。兵士職である彼もまた、無関係なお話じゃないというわけか。

 

「それに、『厄災溜まり』の事もある。人為的な争いだけじゃなく、自然災害が如き脅威への警戒も強めなければならない。オックスフォードは『涙の河』越しの立地だが、影響が出ないとも限らないからね」

 

 ……『厄災溜まり』?

 

「それって、何のことですか?」

 

 ……いや、もしかして。

 

「ん? 何のこともなにも──ああ、この名称で耳にするのは初めてなのか。貴女がひと月前まで滞在していた、ノリッジの上空に見られる『黒雲』のことだよ」

「──!」

 

 ──やっぱり、あれのことか。

 

「貴女がソールズベリーに向かわれたのも時期的に、避難を見越しての決断だったんだろう。『雨期』がピークとなる前に出発したのは賢明だ。治まるのを待ってから動いていれば、『厄災溜まり』の被害に遭いかねなかったところだ」

 

 …………え?

 

「──どういうことですか?」

 

 ……そういえば、オーナーさんとフェノゼリーさんの会話で──

 

『ああ、マギーは息災で?』

『おう、ノリッジで元気にやってるぜ。相変わらずグノームに手を焼いてらあ』

『それは何より。……ふたりは、次の機会に?』

『いや、あいつらは居残るつもりだ』

『──そうですか。でしたら何も言いますまい。ただ……気が変わるようなら、いつでも』

『あんがとさん。そん時はよろしく頼む』

 

 ──あれは、そういう意味の……

 

「……まて。貴女はそのことをご存知ではないのか? てっきり──いや、そうか……済まない。どうやら私は、グノームご夫妻の配慮に水を差してしまったらしい」

 

 ……おふたりの、配慮──?

 

「(……それは、つまり……『厄災溜まり』のことを知らずに旅立てるよう、私に気を遣われて──)」

 

 ……そうか。妙にノリッジからの送り出しを急いでおられたのは、『雨期』のタイミングだけじゃなく──『厄災溜まり』とやらの危険から、私を遠ざけるためでもあったのか。

 

「──なに、心配することはないさ。『厄災』に関わる事象はすべて、『女王軍』とその最高司令、モルガン陛下御自らが対処される。『厄災溜まり』もまた例外ではない。然るべき機会を以て、ノリッジの安全を確保する策が講じられるだろう」

 

 ……『女王軍』のみならず、女王陛下までもが対処を──それなら安心してもいい、のかな。

 

「……そうでしたか。私、何も知らずに……」

 

 とはいえ、グノーム夫妻のご様子を思い返しても、私にその件を伏せておられるような印象は皆無だった。私の出発をただ激励し、彼らはその後も変わりなく、自分たちの生活を送るつもりでいる──私の眼に映ったおふたりは、まさしく『いつもどおり』の姿だったのだ。

 

「(……)」

 

 ……それが、『女王軍』の対処が施されることを確信してのご様子だったなら、此方もいろいろと安心できるお話だ。でも、そうじゃなかったとしたら──

 

「(……考えすぎ、かな)」

 

 ──根拠はない。杞憂に終わる疑念ならそれでいい。……しかし、何か引っ掛かるものがあるような……。

 

「いずれにせよ、あとはお上の対処を待つだけだ。だから貴女も貴女で、ご自身の仕事に専念するといい。それに、いざとなったらお話どおり、フェノゼリー氏がソールズベリーまで、ご夫妻を連れて来られるだろう。オーナー氏とも知己とのことだし、悪いようにはならないさ!」

 

 ……うん。それもそうか。

 

「──はい!」

 

 だったら、私がするべき事は明白だ。ご夫妻との再会がいつ、何処になろうとも。その時に胸を張り、笑顔で対面できる私であるために、自分の仕事に励むとしよう。

 

「……ああ、そうだ。『厄災溜まり』の件とは関係ないと思うが、昨日の『妖精騎士・ランスロット』の出陣は、冷静に考えると気になる状況だな。彼女が出張る事態であることも異常だが、その現場が『罪都キャメロット』とは……」

「……え。あれって、珍しい事態なんですか?」

 

 妖精騎士とは確か、女王陛下の腹心にあたる兵力のはずだ。王城で生じたトラブルの対処とあれば、そうした立場の御方にとって、出陣は採られて然るべき対応だと思うのだけれど。

 

「もちろんさ。王城には他にも常に、一騎当千の兵力を持つ騎士が控えている。並の賊相手であれば、彼らが対処するだけで間に合う話なんだ。そのはずが昨日のアレだ。国一番の戦力が単騎で出陣した以上、先の『賊』の脅威も相当だったに違いない」

 

 ……なるほど。

 

「それに、そこかしこで内紛の火種が燻っているとはいえ、前触れもなく王城に突貫するような輩が居るとも考え難くてね。……何か、常ならざる事態の動きを感じるよ。ともすれば、妖精國の趨勢そのものに、一石を投じ得る何かが生じているのかもしれない」

 

 ……それが本当だとしたら、その影響はどこまで及ぶのものなんだろう。ノリッジにソールズベリー、彼を含めたオックスフォードの方々と──私の大切な方たちの平穏が、脅かされなければいいのだけれど。

 

 ──平地を歩き始め、休憩をとりつつ五時間半。私たちはようやく、ソールズベリーに帰り着いた。街はいつもと変わりなく、妖精さんと人々の生活で賑わっている。

 

「無事に帰って来られたね。モースに出くわす事態も考えてはいたが、荒事にならなくて何よりだ。このまま倉庫に向かうかい? 買い物があるなら、ついでに寄ってくれて構わないよ」

「ありがとうございます! せっかくのご提案ですが、当面の間は買い物の必要もありません。これだけ山菜がありますし!」

「ははは。それもそうか!」

 

 常連さん宅に山菜を配って回るのもアリだけれど、カゴを担いでおられるのはウィールドさんだ。さすがにそこまでのご苦労はかけられない。寄り道はせずに進み、倉庫の前に辿り着いた。

 

「とりあえずはカゴの置き場所だね。管理棟は貴女のプライベートな領域だから、通路の奥まで運ばせてもらおうかな」

「助かります! 此処まで重たかったでしょう。ウィールドさんの分はどうぞ、建物入り口に下ろしていただいて……」

「いやいや、山菜はすべて貴女のものだ。私の分もどうか、カゴごと貰ってくれたまえ!」

 

 え。マジです?

 

「ははは。量が多すぎる、だろう? そこについては私のお節介だ。オーナー氏の抱える物件には、飲食店も数軒含まれていると言っていたね。それに貴女は普段から、保存食としてピクルスを漬けておられるとも。貴女個人が消費しきれない分の一部は、そちらへ提供なさるといい。味の評判が広まれば、その実績が今後、出店の話に繋がるかもしれないぞ。ソールズベリーに限らずね!」

 

 ──これはまいった。彼は今回の山菜狩りが、単なる休暇で終わらぬよう、先の事まで見越してくれていたらしい。加えてそれは、『倉庫業の次は、オックスフォードで菜食店を開かないかい?』という、彼個人のリクエストを兼ねたご配慮でもあるのだろう。

 

「そこまで考えてくださっていたなんて……はい。後日オーナーさんがいらした時にでも、私からお話を持ちかけてみようと思います!」

「うんうん、それがいい!」

 

 ふたつのカゴを置きながら、彼は満足げに笑ってみせた。

 

「では、私はこのまま帰路につくよ。先の王城での一件で、兵舎にも何らかの触れが出ているかもしれないからね。名残惜しいが、此処でいったんお別れだ」

「そうですね──あっ、少しお待ちいただけますか? お渡ししたいものがあるんです」

 

 山菜の譲渡がいくらご本人希望とはいえ、さすがに手ぶらでお帰しするわけにはいかない。台所へと駆け込み、ほどよく漬かったピクルスの瓶を取って戻る。

 

「ウィールドさんさえよろしければ、せめてこちらをお持ち帰りください。サンドウィッチに使ったものと同じピクルスです!」

「えっ、いいのかい? では遠慮なく頂戴するよ!」

 

 帰路での水分補給の足しになればと、大きめの水筒も一緒に手渡す。そのまま並んで屋外へ向かい、お見送りの時間と相成った。

 

「此処での任期はあとひと月だったね。私が次の休みを取れる頃には、おそらく貴女はもう此処には居ないだろう。本当にお店を開かれたときには、いつか必ず客として会いに行くよ。それ以外の道を選ばれたとしても、何処かでまたお会いできるだろう。その時まで、互いに息災でやっていこう!」

「はい。ぜひ、またいつか!」

 

 互いの再会を祈りつつ、私たちは握手を交わす。

 

「今回は本当にありがとうございました。お元気で、ウィールドさん!」

「こちらこそありがとう! また会おう、シルキーさん!」

 

 偶然か、必然か。望外の機会として得られた『漂流者』同士の交流は、充実のうちに幕を閉じた。

 

 ──数日後。いつもどおりに仕事をこなす日々のなか。ソールズベリーじゅうで広まる『風の知らせ』が私の耳にまで届き、『シェフィールド陥落』の報を知ることになる。

 

 






お読みいただきありがとうございます。


切りづらい内容だからと一話分に収めたら、過去イチのボリュームになってしまいました。二話分の凝縮回です。

妖精の『目的』と『起源』との相似性から展開したお話。

冠位戴冠戦(槍)が始まりましたね。BOXから連続の周回期間、片手間にでもお読みいただければと思います。


引き続き、お付き合いいただけますと幸いです。

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