※Lostbelt No.6『妖精円卓領域アヴァロン・ル・フェ』の核心的なネタバレのほか、Lostbelt No.7『黄金樹海紀行ナウイ・ミクトラン』〜2部奏章『オーディール・コール』の一部内容に触れています。
※本作は後日、作者本人のpixivアカウントにおいても投稿予定の内容となります。
以上の事柄をどうぞあらかじめご了承ください。
◆◇◇
空を視る。
「(────なに、これ)」
いつもどおりに広がるはずの、天を覆う黄昏色は──しかし。
「(内陸側の空が──真っ赤っかだ)」
いつもどおりとは程遠く、異常なまでに赤かった。
「……となると、山脈越しに見えるあれらは雨雲じゃなく──ブリテンから立ち昇る黒煙、大規模火災の産物か……!」
「(──火災……?)」
……火災。火、炎。それらが現在進行形で妖精國に蔓延る、鎮めるべき災いのなかで生じた現象ならば──その火元には、ともすれば。
「……山火事、ということでしょうか。あるいは、モースたちから逃れることに必死で、火をつけっぱなしのままにした家屋などが──」
──思考する。特筆性を有した何か、誰かではなく、現状においてもっとも自然で、より凡庸な原因こそを、選び取るように思考する。
「──その可能性は充分に考えられる。都市部などは特に大混乱の只中だ。避難に際しては台所の火など気にしている余裕はないだろうし、蝋燭が倒れる程度のアクシデントは些事に等しい。それらが各所で生じてしまえば、大火災に繋がるのにそう時間はかかるまいさ」
……パニック状態に陥った集団の常。彼の言はいわゆる、『二次災害』の可能性を示すものだ。それが平時の火災ではなく、非常時の火災ともなれば──ああ。これほどの規模になることも、さして不自然な話じゃあない。
「……だが。それにしても、あれほどの延焼速度は異常だ。地理関係からは都市部のみならず、山間部とおぼしき地点からも火が上がっている。大規模な都市火災に、山火事──両者が発生するにしては、あまりにタイミングが近すぎる。……もしかしたらこれも、『大厄災』に関わる現象なのかもしれない」
──しかし。次いで語られた所感は、およそ自然の範疇を超えたところにまで及んでいた。
「……そんな。『大厄災』は、モースの大量発生をもたらすだけの災害では……」
「──ああ。しかし状況的にみて、どうやらその限りでもなさそうだ。……フェノゼリー殿、これはどういう状況だい?」
ふたりして荷車の先頭を振り向き、フェノゼリーさんの言葉を待つ。すると──
「……まさか……『
──此方の問いが聴こえていたのか、否か。ひとり耳慣れない言葉を放つとともに、動揺を隠せない様子をみせていた。
「フェノゼリー殿。『あかい災い』と言ったのかい? それはいったい──」
「……わからねえ。ブリテンじゅうで囁かれていた『
──『予言の歌』……?
「俺も詳しくは知らねえし、流行に乗って囁いていた連中だって同じはずだ。だが今思えば、『予言の歌』にあった内容はおおよそ、現状までの出来事を言い当てちまってる。だとすれば、あの大火災に該当しそうな文言は『あかい災い』しかないだろう。……そうだったところで、正直どうしようもねえんだが」
……『あかい災い』……
「同感だな。それを示唆するとおぼしき文言があったところで、詳細がわからないのなら状況は同じことだ。しかし、『現状までの出来事を言い当てている』との見解は、この場において有意といえるだろう。今はとにかく、無に等しくとも情報が欲しい。その歌にはほかに、これからの事柄を示していそうな文言はあるのかい?」
ノッカーさんはあくまで冷静に、現状理解に繋がり得る事柄を取りこぼすまいと重ねて問う。
「……そうだな。『あかい災い』の言及に並んで、『
……『くろい災い』……
「……『あかい災い』の文言が出てくるのは、『予言の歌』のなかでも最後のほうだ。以降の文言はフワっとしてて要領を得ねえし、それより前の言及については、実現したと言えはするものの、要はほとんど済んじまった事柄だから蒸し返しても意味がないだろう。……まあ、そうだな。念のため、覚えている限りの内容を共有しておくか──」
フェノゼリーさんは目を瞑りながら、『予言の歌』の内容を音読する。結果的にその内容は、直前に彼が前置いたとおりの印象に尽きるものだった。現状理解の足しにはなりそうなものの、現状打破には繋がりそうにない。
ただ──
「──そのお話……断片的にではありますが、ノリッジの滞在中、来客のみなさんから聞いた覚えがあります。当時は要領を得ませんでしたが、あれらは『予言の歌』から抜粋された話題だったんですね」
──それが氏族、種族を問わず、異口同音に語られていたという事実。その一点が明らかである時点で、この世界のすべての住民にとって、深く広く浸透している『共通認識』であることが窺えた。
「……そうか、シルキーも『予言の歌』には触れていたか。まあ、さすがに知らず耳にする程度の経験はあったろうな。ブリテンに住まう以上、一度も耳にしないなんてことは考えにくい話だ。そんなヤツが居るとすりゃ、よっぽどの変わりモンだろうぜ。逆に会ってみてえもんだ──」
……あっ。それはちょっと失言……
「ははは。ということは私は、そのよっぽどの変わりモンということになるな!」
「──ここに居た、だと……!」
……遅かった。でもまあ、フォローの必要もないか。
「──と、ともかくだな。よくわからねえ、ってのがやっぱりなところだ。……それで、どうする?」
そうだ。いくら現状について考えたところで、起きていることは変わらない。私たちが考えるべきは、『これから』の身の振りかただ。
「目算だが、ノリッジまではあと三時間ってトコまで来ている。見たところあの火の手も、まだノリッジまでは到達しちゃいねえ。とはいえ、延焼が及ぶのも時間の問題だ。言わずもがな、モースの大量発生だって据え置きだ。……こと現状に至ってはもう、『このままノリッジに向かうか否か』と、『ノリッジに辿り着いた後のこと』を考えるべきだろう。つまり──」
────、
「──『ノリッジに着いたら最後、
────。
「……シルキー。お前さんが決めていい。お前さんの決めたことなら、俺は何も文句は言わねえよ。行くならキッチリ運んでやる。逃げるならどこまでだって運んでやる。俺にできることは──いや。俺の『やりたいこと』は、そのどちらでも叶えられるんだからな」
────私は────
「────何だ、アレは」
「────え?」
と。一瞬のうちに思考を凝縮していた私の背後で、ノッカーさんが不意に──これまでに聞いたことのない声色で、驚嘆のそれとおぼしき言葉を溢した。
「何だ、あの────」
彼が凝視める、はるか上空。赤く染まる黄昏を背景に、悠々と拡がっていた光景は。
「────空を駆ける、
幻想でなければ何なのかというほどに。現実味という凡庸な認識──その境界を、易々と凌駕するものだった。
◆◆◇
「──『竜』って……まさか、本当に……?」
「……何だよ、ありゃあ。あんな生物、ブリテンじゅうを走り回った俺だって見たことがねえ……!」
フェノゼリーさんと揃って空を仰ぎ、控えめに言っても超常現象と呼ぶべき光景に目を見開く。……大きな肢体、広がる両翼。なにより──
「(……高度が保たれているぶん、私の眼でも姿が追える。ものすごい速さで飛びながら……
──軍用機もかくやといった飛行速度。旋回する躯体から絶え間なく吐き出される炎。その様相はまさしく、空想上の『竜』そのものだった。
「……ブリテンが焼かれているのは、アレの仕業だってのか。……はは。火災だの山火事だの、見当違いもいいとこだ。アレ自体がもはや、ひとつの『厄災』みたいなモンじゃねえかよ……!」
「(────、…………!)」
──眼を逸らせない。全身に震えがくる。
「(あんな生物が、本当に存在するなんて──)」
恐怖というよりも、これは畏怖の念に近いだろう。あれは魔猪たちや、モースたちに抱かれる脅威のほどを遥かに超えている。それらが世界の住民を脅かすレベルの存在なら、あの『竜』は世界そのものを脅かすレベルの存在だろう。『自然の中の脅威』なんて範疇にとどまらない──『自然の脅威』そのものだ。
「(……待って)」
そして。上空ばかりを見上げていたせいで、思考に及ばなかった事柄を──大地に視線を下ろした途端に、ようやく認識することができた。いや──
「(あの空の、下には──)」
──認識して、しまったのだ。
「──ソールズベリーが、燃えて──」
畏怖の念はそのままに。全身の震えは一周して、虚脱感へと転じていく。状況確認のため咄嗟にとった、膝立ちの姿勢すら維持することは適わず。私はひとり、荷台の上にへたりこんだ。
「……そうだな。あっちはソールズベリーがある方向だ。立ち昇る煙に加え、ああも空が赤く染まってりゃ──あの街はおろか、ブリテン西北部が軒並み焼け野原だろうよ」
「──っ……!」
力なく、飛翔する『竜』へと視線を送る。なおも絶え間なく炎を吐くそれは、ブリテン西北部の一切を焼き払わんと飛びまわっている。
「(──なんで、あんな──)」
現実はとうに、己が理解の許容範囲を超えている。それでも……いや。だからこそ、なのだろうか。
「(──あんなにも、あの『竜』は──)」
到底理解には及びそうもない現実ながら。理解不能な情報を五感が無意識に拒絶しつつも、辛うじて眼に映る光景自体は──フレームに収められた一枚の絵画、あるいは画面に切り取られた映像を観ているかのように。極めて端的な、俯瞰的な視覚情報として、私の網膜に飛び込んでくる。
ゆえに、このときの私には──
「(──ブリテンの
──『彼』、あるいは『彼女』が。まるで機械制御でも受けているかのような、偏執的な行動を取っているのであろうことを、わずかに感じ取ることができていた。
「──────はは」
そうしていると。
「──はは。ははは──はははははは!」
およそこの場に不釣り合いな音節、その響きを耳にした私の横には。荷台の上で真っ直ぐに立ち上がり、『竜』を仰ぎ見て哄笑の声を響かせる──ノッカーさんの姿があった。
「────ついに。ついに出逢ったぞ。まさかこの世界に、あれほどの上位存在が居ようとは!」
声高に響くそれらの言葉に、恐怖や畏怖の気配は無く。
「──ああ、あの『竜』こそ! まさしく──」
あるのは、ただ──
「──私が求めていた、『願望』そのものだ!」
──彼が掲げる『願望』。その具現に等しき存在との、邂逅に向けられる歓喜だった。
「うお? お、おい! 何してんだあんちゃん! 荷台に戻れ、そっちの方角には向かわんぞ!」
「!」
すると。ノッカーさんは荷台から飛び出し、背を向けたままこう言った。
「──シルキーさん。フェノゼリー殿。すまないが、貴方たちとはここでお別れだ! 私はあの『竜』を追う。いや、追わなければならない。私の抱いた『願望』が、現実のものとして顕れたがゆえに!」
曇りはなく、澱みもなく。どこまでも凛然とした、無邪気さすら感じさせる声色で。己が求めるものは『そう』なのだと──『やりたいこと』を宣言してみせた。
「の、ノッカーさ──」
──と、咄嗟に声をかけようとしたとき。
「──ばかやろう! あんなモン追ってどうするんだ! 魔猪やモースを相手にするのとは話が違うんだぞ! それに、アレは空を飛んでんだ! アレが降り立つのを待っている間に、アンタは大地ごと焼き殺されるぞ!」
私よりも早く、強い口調でもって。ずんずんと足音を鳴らしながら、フェノゼリーさんが荷台の後ろに歩み寄り、大声を上げていた。
「ああ、
「────な、────」
……生の放棄よりも、恐ろしい──。
「しかし……そうだね。唯一心を痛める点があるとすれば、貴方がたとの縁に背を向けることになるという事実だ。ゆえに、
己が求める『願望』。その具現たる存在が駆ける、赤き黄昏を仰いでいた彼は。これが最後とばかりに此方へ向き直り、光の灯った眼でこう告げた。
「──シルキーさん。フェノゼリー殿。勝手を言って同行させてもらった挙句、勝手に去ることをお詫びする。しかし、前衛を担った私の離席はいまや、貴方がたの損失になることはない!」
それは真実、誠意を尽くしての言ではあった。しかし──
「(……ノッカーさんが、居なくても……?)」
──その内容は、およそ理解が追いつかないものでもあった。
「これは一介の武芸者にして、魔術使いとしての私が、この数刻の出来事から見立てた結論だ。貴方がたは前衛を欠いたとしても、必ず目的地へと辿り着ける!」
「! は、はぁ?」
「…………────」
──それは、どういう──
「ああ、それと──フェノゼリー殿。これは余計なお世話だったかもしれないが、『
……えっ。ここにきて運賃の話? それはもちろん、私も用意がないワケではないけれど──
「……? え、──! おい、まさかアンタ──いや、こいつは……ああ、そういうことか……」
────…………?
「……わかったよ。なら──ああ。さっきの言葉、信じるさ」
「ははは。誠意ともども、甘んじて受け取ってくれ。ずるい真似をしてすまないね」
……おふたりは、何の話をして──
「そして──シルキーさん!」
「──は、はい!」
──と、ひとり合点もできぬうちに。真っ直ぐに視線を向ける彼は、私に向けて言葉を紡ぐ。
「貴女と共にしたここまでの旅、とても楽しかったよ。心から感謝する。そして、貴女の人生に敬意を表する。この世界で得られた経験のすべてが、貴女の道往きを助けるだろう。だから──」
それは、まるで──
「──
──錆びついた鐘を打つかのような、心を鳴らす激励だった。
「さらばだ。どうか、悔いのない一生を。そして──」
踵を返し、己が『願望』を見据えた彼は。
「──私に、『
声高にそう叫び、一番槍のように駆けていった。
◆◆◆
草原の只中に、静寂が訪れる。
「──い、行っちまったな……」
強行軍の途中に生じた、束の間の空白。
「……はい。なんというか、ノッカーさんらしいお別れの仕方でしたね──」
「──ああ、まったくだ」
しかし、そんな私たちの状況とは裏腹に。
「(…………空が、より赤く、黒く────)」
巻き起こる火の手は、内陸から届く喧騒とともに──しだいに規模を増しているようだった。
「……そんじゃ、まあ……続きといくか、シルキー」
──ああ。そういえばまだ、お話の途中だったんだ。
「────はい」
とうに姿の視えなくなった、彼が向かった先に背を向ける。ここから向き合うべきは、ほかならぬ私自身だ。
「言うまでもねえコトだが、さっきよりも状況はマズくなった。モースの大量発生は据え置き、火災は広がる一方。そこに加え、ノッカーのあんちゃんが離脱ときた。つまり──ノリッジに着いてからの事はもちろん、ノリッジに着くまでと、ノリッジに向かわない場合の危険要素さえも、回避できるか怪しいってのが現状だ」
そう。先刻まで想定していたプラン群はいずれも、ノッカーさんという個人を含めることが大前提のものだった。ただでさえ無鉄砲なプランであったというのに、その大前提たる張本人が欠けたとあれば、より根本的な部分から練り直し、問い直す必要がある。
「……そのうえで、もう一度訊くぜ──シルキー。おまえさんは、どうしたい?」
……でも。
「────私は────」
それでも。
「────私は、このまま真っ直ぐに……ノリッジに向かいたいと思います……!」
それでも、なお。
「────そうか」
この『願望』だけは、問い直す必要がないものだ。
「──ようし、決まりだ!」
荷台に肘を掛け、身を預けていたフェノゼリーさんが踵を返し──ぱん、と大きく手を叩き、荷車の前方へと歩き出す。
「──えっ、あ。あの!」
「あん?」
「──本当に、よろしいんですか」
ともすれば、無粋を通り越して失礼にあたるかもしれないと、そう判っていながら──私はやっぱり、確認しておきたかったのだ。
「──はっ。言っただろ? お前さんが決めていいってな!」
がこん、と鉄塊を軋ませながら。荷車は徐々に徐々に、前へ前へと進みだす。
「だが、安心しろ。自分じゃねえ誰かの意思で動くからといって、こいつは決して、他者任せなアレじゃねえ──」
ただ、この乗り心地。さっきまでの崖を転がるような感覚とは、何かが違っていた。
「──俺は『荷運び』の妖精、フェノゼリー! 受けた依頼は全うする。それだけの話だ!」
「(──、!)」
拓けた草原ではありながら、悪路続きの海岸沿い。先刻までと同様に、未舗装の地を走る荷車は、しかし──
「(──これって……魔力? ……!)」
──舗装済みの公道を走るかの如く。荷台にいっさいの揺れを感じさせず、瞬く間に加速していった。
「驚いたかよ! これが俺の本気ってやつだ! 平生はのんびりだらりと、あくび混じりの安全運転で済んじまう。だがな。何が何でも『積荷』を届けなきゃいけねえって時の為に、何も用意が無えのは違うってモンよ! なんたってそん時は、俺にとっての正念場──大一番の『仕事』になるんだからよォ!」
──このとき初めて、赤茶色の毛で覆われた、フェノゼリーさんの上裸姿を格好いいと思えた私なのであった。
「まあ、こいつはノッカーのあんちゃんの大盤振る舞いもあってのコトだ。この
「(──ノッカーさんの──?)」
それは、つまり。フェノゼリーさんご自身と一緒に、荷車全体を包み込む魔力が……ノッカーさんが支払った、謝礼──
「(……たしかに、ノッカーさんの気配を感じる。でも……展開される魔力のなかには、フェノゼリーさんの気配もあるような──)」
──おそらく。本来ならばフェノゼリーさんがご自身で担うはずの魔力消費を見越し、ノッカーさんはあらかじめ、余剰分の魔力を提供していたのだ。ふたりの気配が魔力内に混在しているのは、両者の魔力を同一の場所に貯蔵し、行使しているためということか。
「しっかし、人間種から力を貰い受ける機会があるばかりか、それが大いに役立っちまう場面があるたあ、発生してこのかた思いもしなかったぜ。いや、むしろ人間種由来だからこそか? 魔術なんていう遠回りで面倒なモンでも、なかなかどうして侮れん。僅かにでも混ぜ込んで使えば、活力が湧いて仕方がねぇ!」
そういえば。人間は妖精にとって、そばに居るだけで活力源になり得る存在だ、というお話を聞いたことがあったっけ。その人間たるノッカーさんが譲渡した魔力にも、僅かに人間由来の『因子』が残っており、活力源として機能しているのかもしれない。
──あるいは。
「(──私が此処に居ることも、その一助になっている──?」
だとすれば。私にも何か、できることが──
「──っと。来やがったか!」
「!」
──なんて。文字どおりの『お荷物』でいるだけの現状に、どこか据わりの悪さのようなものを覚えた矢先。
「(──モースの、群勢……!)」
懸念していた事柄が、容赦なく押し寄せていた。
「(……あの数。見間違いじゃない、よね。そもそもあれは、見間違えることが許される数じゃない──)」
前方に広く跋扈する、モースの群れからなる黒い波。甘く見積もっても、五十は下らない数の暴力。……いや。あれはもはや、数を数えるものではなく、量で計るべき規模に至りつつあるだろう。
「(……フェノゼリーさんにも、荷車にも、魔力が纏われてはいる。これは先刻ノッカーさんが試された、『モース毒』を弾く、魔力の防護膜に近い状態だ)」
ただし。いくらノッカーさんから譲り受けた魔力を混ぜているとはいえ、当の使用者は妖精であるフェノゼリーさんだ。つまり、使用者が人間か妖精かという点において、先刻とは前提条件が大きく違う。モースに直接触れる事態を防げたとしても、症状までもを防ぎ切れる保証はない。
「(────足りない。あのモースの群れを突破するには、まだ────)」
────どうすればいい。
「(────私に、できること────)」
凝縮された刹那の思考。その最中──別れ際に投げ掛けられた、ノッカーさんの言葉を反芻する。
『──貴方がたは前衛を欠いたとしても、必ず目的地へと辿り着ける!』
彼はどうして──そう言い切れた?
『──残る半分については、きっと彼女が払ってくれるさ!』
その根拠は──確証は、何?
『──この世界で得られた経験のすべてが、貴女の道往きを助けるだろう。だから──』
──いや。理由なんて、何でもいい。今はただ、『そう』と信じて動くんだ。
「(…………!)」
そうと決まれば、座っている場合じゃない。
「──もうじき接敵だ。このまま振り切るぞ! 振り落とされねえように掴まって……ん? おい、シルキー?」
保証はなくとも、試すんだ。
「────このまま進んでください、フェノゼリーさん!」
荷台の中央で立ち上がり、前を見据える。
「────ば、急に立ち上がって何を言っ────」
見据えたその先にある、己が『願望』に降り掛かる──
「──まさか、おまえさん。そいつで──」
──あらゆる厄を、取り払うために。
「任せてください。あのモースたちが振り撒く呪いから──フェノゼリーさんを護り切ります!」
保証はない。ただ、それが叶うかもしれないという、イメージが湧いたのだ。この手に『それ』を握りしめ、立ち上がった瞬間に。
「──はっはっは。そうかよ!」
──私の記憶。私の経験。私の仕事。
「そんじゃ、お手並み拝見といこうか──」
──人間と妖精が、共に在る事の可能性。
「──『
──それらのすべてを、此処で遣う。
「はい!」
黒濁の波が迫る。
「◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎────!」
赤裸が妖精の背後にて、
「うぉおおらぁあああ!」
白布の束を掲げる。
「───────!」
荷車全体に降り掛かる、呪いに塗れた黒い破片。それらの一切を──この身に移し、取り払う。
「……! ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ────!」
荷車に接触した個体が居たのか、苦悶の声とおぼしき音が上がる。そして──
「──はあっ!」
──白布を振るった一閃が、黒濁の波を払い除けた。
「──よし、突破だ……!」
「──はい!」
背後に流れ去る、夥しいモースの群れ。波として迫り来たそれらは──此方へと押し返す様子を見せず、砕けるように散開していった。
「──やったな、シルキー! お前さんの『
「──え、えへへ。……はい、どうにか──」
……しかし。
「──でも。やっぱり、ちょっと、無理があった、みたい……です」
外的脅威は過ぎ去ったものの、別の問題が生じてしまった。
「──、おい、シルキー! まさか……今ので、おまえさん……!」
消耗した気力、体力と入れ替わるように。吐き気を伴う悪寒が襲うとともに、神経を侵すような痛みに見舞われる。
「(……これ、もしかして……モース毒の、症状──)」
呼吸が乱れる。意識が霞む。
「(……取り払い、きれなかった──)」
──冷静に考えてみれば、当然の結果だった。今回相手取ったモースは五十超。先刻までの倍の規模であったばかりか、引き受けた『モース毒』もまた、誰かの身を経由したものではない。はじめから私の身ひとつで引き受けるには、規模も、純度も、己が許容値を優に超えていたのだ。
降り掛かる『モース毒』を『塵』に例えるなら、それを引き受けるこの身は『掃除機』だろうか。ただし構造的には、フィルターを内蔵していないものとなる。その点でいえば、サイフォン式の『汲み取り機』あたりが妥当な例えになるかもしれない。
「(──でも。やりかたは、合っていたはず)」
いずれにせよ、この身を経由する過程で問題が生じた。要するに──あれほどの『モース毒』を汲み取るには、濾過を経ず、ただ排出するだけの工程をこなすのみでも、己が器では小さすぎたということなのだ。
「(……とりあえず、症状をどうにかしなきゃ……!)」
器の許容量を超えながら、器の内に収まっている『モース毒』。おそらく現象としては、一時的な『生物濃縮』のような状態なのだろう。汚染海水中に投じられた、牡蠣さんの気持ちがわかるようだった。
「(……体表だけじゃなく、体内にまで症状が及んでいる。『取り払う』工程自体はノッカーさんの際と同じでも、これは多くの時間が──)」
濃縮されたうえ、全身を冒したものとなれば、排出にはより慎重さが求められ、所要時間も多くかかる。しかし──
「くそっ、またモースの群れが視えてきやがった! シルキー、大丈夫か!」
──そんな悠長な時間など、この状況下に有るはずもなかった。
「……大丈夫、です……!」
ゆえに私は、そう応じるほかにない。
「(──考えるんだ。私……!)」
神経が千切られるような痛みを堪え、霞む意識を掻き回す。……フェノゼリーさんの視力はノッカーさん以上。数キロ先の異変さえも視認できる彼の眼に映ったばかりなのだから、新たなモースの群れはまだ遠く離れているはずだ。そのわずかな猶予のうちに、死に物狂いで思考を回せ。
「(……『取り払う』だけでは、間に合わない。何か……何か、方法を探さないと──)」
……いや、待って。『取り払う』以外の、方法──?
「(──!)」
──そうだ。そうだった。その対処法を、私は心得ているじゃあないか。
「(……もしかしたら、あれが──)」
痙攣する指先をどうにか伸ばし、積荷の私物を引き寄せる。
「(──あった……!)」
そうだ。体外へ『取り払う』ことが間に合わないのなら──
「(マーガレットさんがくれた──『
──間に合わない分は、体内で『中和』してしまえばいい。
『──試してみるといい。貴女が真に望む事ならば、もうすでに──
「(──はい──!)」
私は試す。調理の際、偶然に溶け出るのみだったその『因子』を、意図的に引き出すことを。言うなれば、これは──
「(……『鉄鍋』から、『鉄の因子』を取り払い──私の身体に流し込む……!)」
──ほんのちょっぴり。食事のスケールを大きくした、
「(──よし。症状が和らいでいく……!)」
私自身の『起源』──『払拭』との相乗効果が発揮されたのか。『モース毒』の体外排出と同時に、体内での中和活動が、淀みなく並走する。
「──もうじき接敵だ。さっきよりも規模が大きい、ざっと百は居るだろうな!」
……もう少し──
「これじゃあ横に逸れることもできやしねえ。……悪いが、このまま突っ込むぞ、シルキー!」
──間に合った!
「──はい!」
そして──
「って……うおぉ? なんだこの感じ! 口ん中でも切ったのか、急に鉄の味が……それに──」
──この身に適った道理なら、彼にだって効くはずだ……!
「◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎、────!」
規模を増して迫り来る、黒濁が如き呪いの波。
「──はっはっは! なるほどな! あんちゃんの言ったとおりだ! こいつが、おまえさんから払われる──残り半分の運賃ってコトか!」
その只中を──
「はい! 遅ればせながら──お受け取りください!」
──赤裸が鉄の妖精は、白布の巫女と共に駆る。
「……! ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
突然夜になったかのように、視界を覆う黒い塵。それらが背後へ流れ去るごとに──絶叫とおぼしき音が、四方八方に響き渡る。
「──おらあああああ!」
負けじと響く雄叫びとともに、荷車は駆け抜ける。そして──
「──よっしゃ、突破だ──!」
「──はい! やりました──!」
──今度こそ。私たちは無事に、死地を切り抜けることができた。
「(──よかった。うまくいった……!)」
実際のところ、ほとんど賭けのようなものだった。そして、それを実行に踏み切ることができたのも、着想に及ぶことができたのも──
「(──『付け焼き刃も遣いよう』、参考になりました!)」
──ノッカーさんという、
「──でかしたぜ、シルキー! そんで、今のは何をやったんだ?」
……おっと。それはまあ、そうなりますよね。ここはしっかり──
「え、ええと……今のはこう、『鉄鍋』を遣って、えいっと念じて、モース毒を中和した感じです!」
──説明なんてできるわけもなく。『魔術使い』どころか、その真似事を必死にこなしただけの私には、そんなフワッとした応答が精一杯だった。
「そういうことか、よくわかったぜ!」
……充分だった。
「しかし、あの『鉄鍋』にそんな使い途があるとはな! はっはっは。やっぱりおまえさんたち人間の想像力には驚かされる! こいつがいわゆる、『ソウイクフウ』ってヤツだな!」
……『創意工夫』……ああ。妖精さんたちにとってそれは、たしかに新鮮な営みに映るだろう。けれど、これは──
「(──いいや。これは決して、私ひとりで見出せたものじゃない──)」
──ノッカーさんのおっしゃるとおり。この世界の環境、文化、住民さんたちに触れ合うなかで得た、『縁』に導かれた結果にほかならない。
「──ようし。視えてきたぜシルキー! ノリッジの街並みが!」
「!」
いつの間にか、ノリッジまであと数キロの地点まで来ていたらしい。ただし──
「……案の定、だな。腹を括れシルキー! ノリッジ外周に、モースの大群が溜まってやがる!」
──目的地たるノリッジとともに。最後の障壁もまた、私たちを待ち構えていた。
「……ラストスパートだ。突っ込むぞ、いいか!」
地平を覆うほどの、黒濁の大波。
「──はい、フェノゼリーさん!」
その懐を、
「──運搬の邪魔だ、道を空けろぉおお!」
真正面から突き進む。
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
──しかし。
「(え──、うそ)」
それらのすべてを斥け、払うには。
「(……ボロボロに、崩れて──)」
些か以上に、準備が足りていなかった。
「シルキー、どうした!」
「──すみません! モース毒を中和するために遣っていた『鉄鍋』が、崩れてしまいました……!」
「──なに……!」
……それも当然だ。相手はモースの大群。一個体の、その微々たる量の毒を中和してきた際とは規模が違う。先の百体分の毒を中和した時点で、この『鉄鍋』に含まれる、ほぼすべての『鉄の因子』が失われていたのだろう。
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
……気づくのが遅かった。いや、むしろ──この大波に身を投じて初めて、抽出すべき『鉄の因子』が枯渇していることに気づけた、というべきか。『起源』を発揮していない状態では、その機微を認識することはないのだから。
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
──『鉄鍋』が崩れてから数秒。その間に私が引き受けた『モース毒』はすでに、先刻被った量を超えている。
「(──まずい……!)」
症状が発現するよりも早く。思考するよりも早く。私は反射的に、積荷の中を弄っていた。
「(……! これは……倉庫から持ち出した、護身用の『鉄の武器』……!)」
先の『鉄鍋』よりも小さいながら、より強固に鍛えられた『鉄の短剣』。それを握りしめ、『モース毒』の中和を試みる。けれど──
「(──、もう、崩れて──)」
──握りしめ、『鉄の因子』を抽出した瞬間に。己が身に引き受けた約半量の『モース毒』を中和したのち、即座に形を失った。
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
もう一度、積荷の中を弄りだす……いや。ここに納めた『鉄の道具』は、先の『鉄鍋』と『短剣』のふたつのみ。ゆえに、今度は──
「(……これも、遣ってしまえ──!)」
──荷物を収めるために自作した、私ひとりならすっぽりと入ってしまう大きさの、『寸胴鍋』のキャリーケース。それを傍に引き寄せて、モース毒の中和に充てる。
「──、◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
──体内の『モース毒』、排斥完了。フェノゼリーさんへの対毒効果、展開完了。
「(……でも──)」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
──依然として分厚さを増していく、黒濁の大波とその喧騒。このままでは、保ってあと数十秒といったところだろう。
「(……まだ、足りない──!)」
……だったら。
「(──大丈夫。私はほかにも、まだ──)」
積荷にはもう、控えの装備はひとつも無い。でも、積荷ではない場所に、とっておきの『贈り物』が残されている。ひとつひとつは『短剣』よりも小さいけれど──『はたき』に次いでもっとも遣い慣れている、『縁起』を慣らした愛用品が。
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
……それを、今ここで──
「シルキー」
──と。腰に掛けた皮袋に、震える手を伸ばした瞬間。
「それは使うな。残しとけ。代わりに──」
両手でしっかりと轅を掴み、荷車を走らせる姿勢はそのままに。
「──
妖精種にとっての存在意義、『目的』。フェノゼリーさんにとっては、その体現にも等しいそれを──彼は自ら差し出した。
「(…………え────)」
たしかに、この荷車のほとんどは『鉄の部品』で構成されている。『鉄鍋』を比較に挙げるなら、少なくともその数十倍の『鉄』が用いられているはずだ。それらから『鉄の因子』を抽出すれば、百体や二百体、それ以上の『モース毒』を中和し切ることができるだろう。
「(…………、でも────)」
しかし。『鉄の因子』を抽出すればするほどに、『荷車』の強度は損なわれることになる。そうなれば……ノッカーさんが施した魔力防壁が外装となり、ある程度の補強が適うとしても、いずれ──
「──使え、シルキー!」
──『荷車』は形を保てず、フェノゼリーさんもまた──
「……でも、それは……!」
──己が『仕事道具』を失い、『目的』を叶えることが、できなく……
「はっはっは! 何を考えてるのかは大体わかるぜ。だがな──おいシルキー、まさか知らなかったのか?」
「……え?」
……と、思いかけた矢先。私の予感とは裏腹に、いつものように悪戯っぽい口調を交えて、フェノゼリーさんは語り出した。
「たしかに『荷車』は大切だ。便利だからな。多くの荷物を運べるし、大きな荷物も運べちまう。荷台は寝台にも使えるし、なんたって車輪が格好良い!」
──うん。……うん?
「だが、そいつはあくまで運搬中の利便性や趣味の話だ。……いいか。『荷運び』の仕事ってのはな──
────、
「だから使え! ここを駆け抜けた先で、もしぶっ壊れちまっていたのなら──そんときは俺が、おまえさんを抱えて届けてやるからよ!」
…………!
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
「── ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
……『荷車』に手を添える。
「──はい……!」
車体の形に刻まれた、持ち主との『縁起』を尊びながら。
「──いくぜぇえええ!」
その存在意義を、敬意をもって取り払う。
「……! ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
黒濁の大波が砕けゆくとともに、
「──はああああっ!」
車体の形が解けていく。
「(──荷台が、後ろから崩れて──)」
そして、
「──背に飛び乗れ、シルキー!」
「──、……はい……ッ!」
彼が握る轅の消滅を以って、その形を完全に失った。
「──、◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ──!」
抽出され、励起され、ふたりに纏われた膨大な『鉄の因子』。その気配に圧されたのか──黒濁の大波は自ら穴を空け、一条の道を譲り渡す。
「そこを──」
「──どいてください──!」
そして。赤裸が妖精に背負われた、白布の巫女は──
「──よっしゃああ!」
「──や、やった……!」
──呪いの海を渡り切り、ノリッジの港に辿り着いた。
「──、◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎ ◼︎……」
モースの大群は背後に流れ去り、何処かへと向かってゆく。
「(──どうして。彼らはみんな、昨日まで……)」
かつては個たる意思を宿していた、妖精さんたちの成れの果て。それらが地平を染める、黒き異常とは対照的に──
「(……この世界での生活を、謳歌していたはずなのに──)」
──ノリッジの上空には、いつもどおりの黄昏が広がっていた。
「……コッチはまだ健在だな。火の手が延びる前に間に合ったらしい。俺が飛び出したときから、火災の被害は拡がっていなさそうだ」
私を背に乗せて歩きながら、フェノゼリーさんは安堵の声をこぼす。
「──はい。こうも早期に辿り着くことができたのは、フェノゼリーさんのおかげです!」
そして、ノッカーさんも。私ひとりで進んでいれば、仮にモースの襲撃に遭わなかったとしても、あと数日間は歩き続けていたことだろう。その場合はノリッジはおろか、ブリテン南東全域にまで火の手が及んでいたかもしれない。
「はっはっは。そいつはどうも!」
──すると。
「(?)」
フェノゼリーさんは突然足を止め、腰を落としながらこう言った。
「そんじゃ、俺の仕事は完了だ。到着したぜ、お客さん! えーと、こういう時は何て言うんだったか……ああ、『お降りの際は足元に気をつけて』、だっけか! ほら、降りた降りた!」
「──は、はい!」
まるでタクシーの運転手さんのような台詞を、本業は『荷運び』である彼は真似て言う──そうだった。もう目的地に着いた以上、乗客を乗せっぱなしにさせるわけにもいかない。私はもぞもぞと身をよじりながら、久方ぶりに地へ足をつける。
「──悪いな。結局運んでやれたのは、おまえさんの身ひとつだけになった」
……そういえば。先の土壇場の最中に『寸胴鍋』のキャリーケースも遣ったため、その中に詰め込んでいた私物のすべてが転がり落ちてしまったのか。
「そんな、謝らないでください。あの中に入っていたのは、ほとんど野営時に必要な物資ばかりですので。旅程を終えた今、無くて困るということはありません。どうか、お気になさらず」
むしろ、謝るべきは私のほうだ。何かを失ったのは、彼も同じことなのだから──
「……こちらこそ、申し訳ございません。フェノゼリーさんの大切な『荷車』が、私のせいで……」
「おいおい、そいつは言いっこナシだぜ。さっきも言ったとおりだ。『荷運び』の本懐は『運転』じゃなく『運搬』。道具の有無は二の次さ。その証拠に──」
──違う。同じでは、ない。
「──おまえさんを届けられたことで。俺の『目的』は、無事に果たすことができたんだからな」
「────え」
──失った……いや。むしろ彼は、
「(────なんで)」
妖精種が個々に持つ、己が存在意義を定める方向性──『目的』。それは彼らが生きる原動力にして、生き延びるための『理由』でもあったもの。
「(──なんで、貴方に──)」
その在り方が、此なる『大厄災』……あらゆる妖精種をモースと化す、世界を覆う呪いの渦中にあってさえ。彼を彼たらしめる、個たる様相を保ち得た『理由』でもあったのならば──
「(──
──それが取り払われたとき、何が起こって然るべきなのかを……私は、そこに思い至っておくべきだったのだ。
「(────、…………!)」
いや。おそらく私も、気づいてはいたんだろう。彼の『願望』を叶えた先に、『次』がなければ
「──フェノゼリーさん……!」
……慌てるな。まだ間に合う。私にはそれを和らげる方法も、取り払う手段も備えて──
「──いや。いい」
「──、……!」
──備えて、あるのに。
「いいんだよ、シルキー。これでいいんだ。俺は今、心底満足のいく仕事ができたんだからな」
当事者である彼は──それを必要としなかった。
「……でも、でも……!」
何を言うべきかも、伝えるべきかも判らないまま。私はただ、彼の気が変わるかもしれないという──有り得ない可能性に縋りつくしかなかった。
「はっはっは。そんな顔すんじゃねえよ!」
──しかし。
「ちっと意地悪を言っちまうが、そいつはたぶん無駄なことだぜ。なにしろソレ、一応は『治療』だろ? 患部をどうにかできたとしても、治る気のない患者自体には、いくらやっても効かねえさ!」
彼は、笑顔で。
「だから、これでいい。ここがいい。俺は今、此処で上がりてえんだ」
自らの最期を、誇るように選び取った。
「ほら、早く行け。ノリッジはまだ燃えちゃいねえが、ほかの脅威は据え置きだからな。モース化した連中にさえ気をつけりゃ、もう一度逃げ出す時間があるかもだ!」
「……! で……でしたら! そのときにまた、私を何処かへ──」
──伝わってくる。どうしてか、彼の心意が流れ込んでくる。
「おお、そういやその手もあったな。たしかに追加の依頼とあらば、俺も仕事納めを考え直してもいいかもな。はっはっは。やるなシルキー! 俺とソールズベリーを走り回った、出張業の成果が出たか? 交渉の腕も上がったじゃねえか!」
先でもなく、後でもなく。
「そんじゃ、なおさら早く用事を済ませなきゃだ。俺は気が短くてな。一度受けた依頼は気長にこなすが、予約の仕事は待てたコトがねえ。あんまり遅いと、此処に戻る頃には居ないかもしれないぜ?」
彼が彼として此処に在る、今この瞬間という『縁』のうちに身を置きたい。
「……わかり、ました……っ」
此処こそが、『荷運び』たる彼が見出した──自分自身の届け先、行き着くべき場所であるのだと。
「……では……せめて、これを身につけていてください。またいつ、モースが襲って来るとも知れませんので……!」
「ん? これ、っつっても何も見え……うげ、何だこの感じ。上半身が重てえ!」
それはきっと、フェノゼリーさんにとっての矜持。それを失うことが、ノッカーさんが云うところの、『生の放棄よりも恐ろしい』、何か。
「……えへへ。当然です。これはフェノゼリーさんの『荷車』から抽出した、『鉄の因子』の残滓を編んで作った羽織です。なので、持ち主の貴方にお返しします。……魔力、に変換している状態? だと思うので、質量は感じないはずですが……『鉄』が苦手な妖精さんにとっては、ちょっぴり重たく感じるのかもですね!」
だとすれば、もはや余人に口を挟む隙は無く。その決断を尊重することだけが、私に赦される、たったひとつの姿勢なのだろう。
「げ、はぁー! それって要するに服じゃねえか! それも『鉄』でできたヤツ? シルキーおまえさん、よくもやりやがったなー!」
……
「……はっ。そういえばそうでした。フェノゼリーさんはたしか、大の
……ああ、そうだ。何故だか解らないけれど、そうであることだけは判る。彼の心意の、そのまた根底……『妖精種としての彼』から伝わってくる、この感情は。何かに対して『赦し』を乞う、彼らの因果に根差した──
「いーやダメだね。こいつばかりはライン越えだ。口で注意されるだけでもストレスが溜まるってのに、無理矢理に着せられるなんざストレスフルもいいとこだ! 謝ったって許さねえ!」
「え、えぇ〜!」
……って、あれ。そんな内言を掻っ攫うレベルで、実際の私の方こそが、赦しを乞うべき局面に居るような。
「だがまあ、故意じゃねえってんなら、聞く耳ぐらいは持ってやる。此処まで共にした俺たちの仲だからな。条件はひとつだ。俺の気が変わらねえうちに、さっさと用事を済ませて来い! 今すぐに、だ!」
……ああ。これはちょっぴり、私にも非があるかな。うん。その条件は、飲む他にないだろう。
「……はい、わかりました!」
急ごう。彼の気が変わらないうちに。
「はっはっは。わかりゃいいんだ! そら、走れ!」
ノリッジに着いて、用事が済んで。
「──ありがとな、シルキー!」
そのあとに、また会ったときには──
「……はい。はい! フェノゼリーさん──」
──私がまだ知らない、妖精國の何処かへ。賑やかにおしゃべりをしながら、運んで行ってもらうんだ。
「──此処まで、ありがとうございま──」
「────…………」
だから、振り返るのはこれが最後。
「(……ありがとうございました。フェノゼリーさん──)」
私は走る。今度はひとり、自分の足で。
「(──どうか、安らかに──)」
黒き光の残滓が舞う、黄昏の道を駆けて行く。
お読みいただきありがとうございます。
運送完了な回。文字数。
お花イベント!
これはしばらくアフタータイム時系列でやるっぽいですね。バレンタインイベのチラ見せにも所長居ましたし。
あとデメテルさん、そういえば終章でオリュンポス機神勢の退去/消滅描写がなかった気がするんですが。そのへんと何か関係がお有りで…?
引き続き、お付き合いいただけますと幸いです。