サイレンススズカのトレーナーの悩みごとのお話。


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虹と影

「7月も中旬を過ぎようとしていますが、20日ごろにいよいよ梅雨明けとなりそうです」

トレーナー室のテレビで気象予報士がにこやかに梅雨の終わりを告げている。

走ることが本分のウマ娘たちにとって、とりわけ走ることが大好きなうちの担当ウマ娘にとってこれほど嬉しい知らせはないだろう。

「トレーナーさん、私、少し走ってきますねっ!」

「ええっ、スズカ、待って!?」

うちの担当のウマ娘こと、サイレンススズカは綺麗な栗色のロングヘアを靡かせながらトレーナー室を飛び出して行った。

「まいったな。今日ジムでトレーニングの予定を組んでたんだけど……」

 

リスケを余儀なくされたので、ジムをキャンセルして屋上に足を運んでいた。

まだ少しどんよりとした鈍色の雲を見やりながら、せめて爽快な青空なら気分も晴れたろうにと息をついた。

「ごきげんよう、G1トレーナー。えらく景気の悪いオーラが出てるわね」

後ろからの声に反応するより早く、頬に当てられた冷たい感触に間抜けな声が出る。

「先輩……?」

「これでも飲みなさいな」

振り返ると、よく見知った女性がいたずらっぽい顔で笑っていた。

新米のころの自分にイロハを叩き込んでくれた、要は姉貴分とも言える人だ。

そんな人に言われて断れるわけもなく、差し出された缶コーヒーを受け取る。

「ありがとうございます。先輩はオーラまで見えるんですか」

ブラックコーヒーの苦味と缶の金属らしい独特の風味が口の中に広がって、身体に冷たく染み込んでいく。

「まあそれは冗談として。担当があんたをたまたま見かけて、死んだ顔してたって聞いたのよ。この前宝塚記念を勝ったトレーナーがそんな顔して歩くなよっ」

「あはは……」

先輩の言う通り、先日の宝塚記念をスズカと俺のコンビで制覇した。

クラシック期のG1こそ同期のウマ娘たちに遅れをとったが、彼女と俺にとって初のG1タイトルを勝つことができた。

トレーナーを志した時に勝つことを夢見たG1のレース、それもグランプリの宝塚記念を勝ったのだから、嬉しくないはずがない。しかし……

「先輩。第三者から見た意見をもらいたいんですが、スズカに俺って必要だと思いますか?」

「ああ、そういうこと……」

「……だって俺が組んだメニューこなすことなくてもG1勝てちゃうんですもん。俺、いらないんじゃないかって」

「まあそういう見方もできるかもしれないけど」

「じゃあ……」

「私は、それは違うと思うわ。むしろあんただから務まったんじゃないかしら。サイレンススズカというウマ娘の担当は。だって、あの子ミーティングの途中に抜け出していくんでしょう? 普通そんなウマ娘を担当し続けられる人間の方がいないって」

……そうなんだろうか?

先輩の言葉をゆっくりと飲み込む。

口の中のブラックコーヒーがほろ苦い後口を残して胸に流れて行く感覚。

空に目を向けると、雲の間から夏の日差しが差し込んでいた。

もう一回振り返ると先輩はいなくなっていた。

「あの人、神出鬼没にも程があるな」

独りごちて、トレーナー室に引き返すことにした。

 

出て行って30分くらいだから、どこまで行ったんだろう。人間ならともかく、ウマ娘の足だから……

「いつ頃に戻れそうかな?」

メッセージアプリで手短に文言をしたためて送信ボタンを押そうとしたその時、それより早くトレーナー室の戸が開いた。

「トレーナーさん!」

「スズカ!? もう戻ったのか?」

花が咲くような笑顔を見せるスズカ。

普段儚げで美しい彼女だが、どこかに飛び出して行く時は、こんなふうにいつも無邪気な顔で帰って来る。

「思ったより近場に行っていたんだな」

「はいっ! 景色がとても綺麗で……」

「ん、綺麗だったのにそんなにすぐ引き返してきたの?」

「ええ。だってトレーナーさんにも見て欲しくて」

「えっ」

スズカの華奢な手に掴まれる手。頭で状況を理解するよりも早く、足は駆け出していた。

 

「見てください!」

顔を綻ばせるスズカ。

流しているとはいえウマ娘と“並走”したわけで。膝に手をついて息を整えてから目線を上げる。その瞬間俺は思わず息を呑んだ。

河川敷から遠くの空に、美しく七色のアーチが架かっている。

「……虹か」

「はい!」

「トレセン学園の近くにも、こんな景色があったんだなあ」

思わず見惚れてしまっていた。虹をこんなにしっかり見たのはいつぶりのことだろう。

虹の架かる空をバックに、スズカの姿が映える。

「ふふ。トレーナーさんにも見て欲しかったんです」

「ありがとうな」

「そんな。お礼を言うのは私の方です。私、トレーナーさんがせっかくメニューを組んでくれているのに、いつも走りに行くのでいっぱいになってしまって……」

そんなふうに思っていたのかと、思わず虚を突かれた気持ちになった。

「何かお礼をできないかと思って、それならトレーナーさんにも私の見ている景色を見てほしいな、と……」

まさかそこまで考えていたとは思いもしなかった。担当して1年以上経っているのに、俺はスズカのことをまだちゃんとわかっていないんだ。

「実を言うとな、スズカは俺が担当しない方がいいんじゃないか、契約を解消したほうがいいんじゃないかと思っていたんだ」

「えっ」

スズカの表情が曇る……を通り越して凍ったように見えた。即座に言葉を続けようとしたら、スズカに遮られてしまった。

「だってそうだろう。君は宝塚記念も勝ったし、現に俺のメニューなんかなくたって……」

「絶対イヤです!」

「……スズカ?」

初めて聞いたくらいの彼女の大きな声。

「トレーナーさん。私は、トレーナーさんと一緒だからこの走りができるんです。私の走りを認めてくれたあなただから……」

今にも泣き出しそうな声。

「ごめんごめん、もうこんなこと言わないから!」

「本当ですか……?」

上目遣いに胸が罪悪感でいっぱいになる。

「本当だよ。特に宝塚を勝ってから気になっててな。でも、スズカがこの景色を見せてくれて、俺はなんで小さなことで悩んでたのかと思うと、どうでも良くなってしまったよ」

「トレーナーさん……ごめんなさい。私こそ、そんなふうに思わせていたなんて」

「いや、俺が未熟だったんだ。今後はもっと君のことを理解しないと……だから、今日のことはどうか忘れてほしい」

「忘れません」

スズカはきっぱりと言い切った。

「ええっ」

「私、忘れません。今日見た虹も、トレーナーさんの顔も」

小悪魔のような顔に思わずどきりとさせられた。

「ふふっ。悲しいことを言ったお返しです。忘れて欲しかったら、そうですね……もっと私といろんな景色を見てくれたら、今日のことなんて忘れちゃうかも」

俺の方こそ今日の虹と、今のスズカの表情を、一生忘れることはできないんだろうと思わされた。

すっかり茜色に染まった空の下、2人の影帽子が伸びていた。

 

残暑も過ぎて冬の足音が聞こえてきたある日のこと。

私は肌寒さを感じながらも、トレーナー寮を出て朝食を摂りに出るところだった。

担当のウマ娘のトレーニングまでにはまだ時間がある。

「あ、先輩」

寮を出てすぐに見知った顔に出くわした。

「おはようございます」

「あら、サイレンススズカも一緒なのね」

「ええ。スズカと少し走っていたんです」

確かに、その格好はスポーツブランドのジャージで、今走ってきたと言われて納得するものだ。

「朝早くからよくやるわね」

「あははっ。スズカが起こしてくれたんですよ。おかげでとても良い景色が見られました。先輩も今度どうです?」

「アホか。4時5時なんかに起きられるわけないでしょ。私は遠慮しておくわ」

なんか、サイレンススズカからも、遠慮してくださいみたいなオーラが飛んでいるし……

「それよりも、その様子ならもう悩みの方も大丈夫そうね。というか、天皇賞秋勝ってまだ悩んでますなんて言われたら、あんたのケツを蹴っ飛ばすところだから」

「やめてくださいよ。物騒だなあ……でも、その節はお世話になりました」

後輩は照れくさそうに頰を掻く。まあ、この様子なら大丈夫なんだろう。

「悩み……?」

「アレだよ、例の虹の時の」

「ああ、あれですか!」

合点がいったように手を打つサイレンススズカ。

「ふふ。私とトレーナーさんはもう大丈夫ですよ」

「その様子なら本当に問題なさそうね。よかった。これでジャパンカップでは私たちが心置きなく勝てるから。首を洗って待っていなさい」

「ええ、大人げねえ……」

「ふふん。覚悟しなさい、後輩」

「でも、スズカと俺も負けませんから」

不敵に笑う後輩の姿に、私はまた成長を感じた。担当がもう大丈夫と言うのも頷ける。現に、“栄光の日曜日”を勝ち取った、G1トレーナーのオーラが見えるように思えた。

「言ってなさい。あ、でもジャパンカップ終わったらまた併走とかお願いね」

「ああ、そこはいつも通りなんですね」

「当たり前でしょ!」

「良いかな。スズカ」

「ええ、是非お願いします」

同性の私でも見惚れるような笑顔のサイレンススズカに、眠気が飛んでいきそうだった。

「じゃ、私は朝飯だから」

「はい。お気をつけて」

カップルと見紛うような2人と別れる。独り身には目に毒だ。影が見えなくなってから呟く。

「まったく。あんな甘い空気作っておいて『俺、いらないんじゃないか』なんてよく言えるわ」

普通のトレーナーなら宝塚記念勝つ前にとっくに匙投げてるか、サイレンススズカの良さを完全に殺してるんだっていうのに。

そういえば、後輩は悩むとついそのことに囚われてしまう性格だった。

でも、さっきの様子を見るにその性格ももう大丈夫だろう。

私はもう一度振り返る。

目に映るのは朝日に向かって歩いている、伸びる2人の影。寄り添って並び立っているように見えて、私にはとても眩しく見えた。

「似てるのよ。あんた達2人は」

私の独り言は、当然2人には届かない。

彼と彼女はもうずっと先にいるのだから。




約5年ぶりにSSを書きました。
まだまだ未熟な文章力ですが、今後ウマ娘を題材に色々書いていけたらと思います。

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