軽く息を吸い込み、踏み入る。
手には道中の技術室で拝借したピックツール。
グリップまで合わせても30センチメートルにも満たないような武器とも呼べぬ物だが、なんだかよく手に馴染むソレは既にその身を赤く染めていた。
「“ヤツら”になってもずっとここにいるなんて、働き者だね」
一体や二体はいるだろうと予測していたが、案の定一番可能性の高い個体が存在していたことにどこか白けた感覚を覚える。
まあ、その役職を考えれば当然か。
レジカウンターの内側には此処を切り盛りしていたであろう老婆、その成れの果てが呻き声を上げながら壁に向かって歩き続けていた。ひしゃげた頭部から溢れた脳漿を記念写真の貼り付けられたコルクボードに擦り続けるソイツは、今にも動きを止めそうなほど弱っているようにも見えた。
これなら霧子でも倒せそうかな。
……いや、今の霧子に任せるのは荷が重いか。“ヤツら”とはいえ人間であったことには変わらない。抵抗はあるだろう。
「失礼っと」
小さく足音を立てて意識が向いた隙、カウンター裏に軽快な動きで飛び込みソイツの背後へ。
そのままピックツールをぞぶっと勢いよく頭部に突き立てた。
老婆のものとはいえ僕の腕力で頭蓋骨を割るのは難しいため、防御力の低い耳の穴から突き入れる形だ。耳の穴が残っていたのは幸いだった。
「人ってやっぱり汚いな」
ぐじゅぐじゅと音を立てながら脳を撹拌する。吹き出した脳漿が手に掛かることも気にせず徹底的に。
びくびくと痙攣していたソイツは、やがてだらりと力を失って動かなくなった。
“ヤツら”は何もチェーンソーで原型を留めないくらいバラバラにせずとも、無力化する方法、その活動を止めさせる方法ならいくらでもある。
例えばある程度深いプールに突き落とす。鈍重な“ヤツら”は泳げないから陸に上がってくることはない。
例えば急な段差の上に逃げる。学校の階段程度では厳しいが、一般に急だなと思うような段差であれば大抵の“ヤツら”は登ってこれない。
力は強いものの目が利かない上に痛覚もほとんどないか、全くないらしい“ヤツら”は手で壁やフェンス、梯子を登ったりはせず、躓いて転んだことすら認識できずに起き上がらないで床に転がったままの個体だって道中で見掛けた。大体の個体が腕を前の方に垂らしているのや、音が聞こえた方に手を伸ばす習性は目が見えない故だろう。あるいは手のひらの感覚は生前と変わらないレベルで残っているか。たらればの話でしかないが。
そして、いちばん手っ取り早いのは
これは完全に“ヤツら”の活動を止めることができる。
指示中枢機関である脳を破壊すれば、“ヤツら”は今度こそ終わる。脳のある頭を失えば身体の方は動かなくなるし、今みたいに脳を破壊してやればそれも同様だ。
もちろん、これらはさっきも言ったようにたらればの話だ。全部自分の目で見て集めた情報に過ぎず、確証と言える確証もほとんどない。
なんなら個体差という概念も元が人間である以上“ヤツら”にだって存在し得るし、脳を失っていても動き続ける個体が在る可能性だって全く否定はできないのだ。
……だが、今はそれで良い。
自らの腕の内で活動を止めたままの老婆の遺体が、それを証明してくれている限りは。
「さて、と。こんなもんかな。霧子ー、入っていいよー!」
「あ、あんた、そんな大声出しても良いの……!?」
「もう全部倒したから大丈夫だよ」
幸いなことに此処に居た“ヤツら”は一体だけ。こういう時、映画ならオールクリアとでも言うのだろうか。いやこんな状況じゃそんなこと言ってる余裕は無いか。
廊下にいた霧子に中の安全を確認した旨を伝え、中に呼び寄せる。
事前に周りに残っていた“ヤツら”は排除してから中に入ったため霧子のことはそれほど心配していなかったが、無事であったようでほっと一息。
「霧子、手伝って」
「え、ええ。何すれば良いの?」
「ソレ、外に放って来て」
そう言って床に転がしていた老婆の遺体を指さすと、霧子はひっと小さく悲鳴を上げて首をぶんぶんと横に振った。
平静時にこれはちょっと刺激が強かったかな? 顔を真っ青にする霧子を放って、ズボンを引っ張って遺体を引き摺る。
「冗談だよ。取り敢えず窓のブラインド下ろしておいて。僕はコレ捨ててくるから」
老婆の遺体を捨てるついでに辺りの“ヤツら”の数も確認する。
なぜかこの周囲の“ヤツら”は数が少ない。高等部校舎の端の方であること、三階であることを鑑みても異様だ。
まあ、その理由もこれから明らかになるだろうが。
再びそこに戻ってきて、看板を一瞥した僕はふっと笑みを零した。
「
購買部。学生達の昼の園。
商品の陳列された棚がいくらかに、まだ電気が通っているままの飲み物コーナー。そしてカウンターの奥には倉庫と書かれた紙の貼られた扉が一つ。今見るべきは棚の品物だ。
そこには昼休みを経て品揃えこそ大分寂しくなっているものの、僕と霧子だけでは到底一日二日じゃ食べきれないであろう数のパンやおにぎりが陳列されている。
それだけではない。手提げ鞄やリュックサック、ライトや電池など僕が今欲しいものはだいたい置かれている。それもこれもあの老婆の遊び心のお陰か。ありがとう購買のお婆さん。
合掌して感謝を告げてから僕は購買部のシャッターを下ろした。
既に時刻は午後の四時、あまり時間は残されていない。日が暮れてから動き出すのではあまりに遅いだろう。学校に泊まることも視野に入れなくてはならない。
「これと、これと……」
「ちょっと、これ全部私が持つ感じ?」
「え。そうだけど」
「いや、女子にそういうの任せる?」
早速物色していると霧子が不満そうに僕を見下ろしているのが目に入った。その口振りから察するに、男の僕ではなく女の自分が荷物を持つことに不満を持っているらしい。
当然だろう。身長149センチメートル、体重40キログラムの僕と身長167センチメートル、体重56キログラムの霧子とじゃ確実に霧子の方が力が強い。適性は明らかだ。
「だから霧子が荷物持ちなのは当たり前でしょ?」
「こんのシンデレラ体重がよぉ……!」
なんでそんなに悔しそうなのかがわからない。
たかが身長と体重だ。ある程度は大きい方が良いに決まっている。特に霧子はどちらもバランスが良い。なかなか筋肉の付きにくい僕としては肉の付きやすい霧子の方が良いと考えてしまうが、そういうものでもないのだろうか。
はっ。もしかしてこれが女心というものか。いや、流石に違うか。
「そうしたら霧子、ちょっとだけそのまま作業してて」
「? わかったわ。あんたは?」
「野暮用」
そう言って僕は倉庫と張り紙された扉に視線を向ける。
霧子からは棚に隠れてちょうど見えない位置だ。仮に
神経がざわつくような感覚、ぱちりぱちりと弾けるようなそれに、知らず知らずピックツールを握る手に力が入る。
「あーあ、空いてる」
扉は外側から鍵をかける仕組みのシンプルな物。期待はしていなかったが、ドアノブを握ればするりと回った。
……なんかいるな。警戒しなきゃ行けなさそうなのが。
「たのもー!」
蛇が出るか鬼が出るか。
一か八かで突入した僕は、次には滑り込むような勢いで回避行動を取っていた。
風を切る、というよりは打ち落とすような音と共に何かが僕の頭上を通り、ガァンという硬質な物同士がぶつかり合う音を響かせる。
ちらりと音の方を見ればアルミの棚の一部がひしゃげて変形しているのが分かった。あの威力なら僕の頭なんて容易く潰れたトマトみたく変貌させられるだろう。
正に間一髪。鵺ムズムズが発動してなきゃ死んでいた。
「あっぶないなー。僕じゃなかったら死んでたよあれ」
「いや、あれ避けるか普通。アイツらよりよっぽど危険だよ」
そう言う声の主は追撃のために再び得物を振りかぶり、そしてあっと間の抜けた声を発した。
「その声、もしかして各務か?」
「あれ、糸目センパイ?」
暗がりから見知った顔が現れ、僕も構えていたピックツールを下ろして肩の力を抜いた。
生存者でも襲ってくるようなら敵だ。しかし、それが顔見知りかつ武器を下げるようならその限りではなかった。
この人は
高等部三年生の先輩で、いつもパーカーを着ているけれどそれ以外は上から下まで目立たないような感じ。唯一目を引くのは閉じているのか開いているのか分からない所謂糸目。だから僕は糸目センパイと呼んでいる。
なんということもない顔見知りの先輩と後輩の関係だが、こんな僕がそういった傍から見て普通と呼べる関係を築いていること自体が稀なわけで。
まあ、要するにこの人もどちらかと言えば普通じゃない。
「悪い、助かった」
一度場所を移そうということで倉庫から出た糸目センパイはそう言って軽く頭を下げた。
訳を聞けば、どうやらこの騒動が起きてすぐのこと、物資確保のために購買部の倉庫に忍び込んだらしい。しかし留守にしていた老婆がタイミング悪く“ヤツら”の仲間入りをした上で戻ってきてしまったため、出るに出られない状況になっていた、という話だった。
そういう話なら、まあ確かに助けたことになるのだろうか。
しかしそれなら話は早そうだ。
「じゃあ、糸目センパイ」
「なんだ?」
「僕らこの学校から脱出するので付いてきてくださ「ぬ〜え〜? そちらの先輩のこと、まだ紹介してもらってないんだけど〜?」あ、霧子」
忘れてた。
霧子と糸目センパイは多分初対面。互いのことは知らないか、大して理解度は無いはずだ。今後のことも考えて僕から紹介しておく方が良案か。
それに、集団行動に関しては僕よか余程霧子の方が適性がある。
なんなら霧子は恐らく天才の類だ。他人に自分を良く見せる、他人に自分を崇拝させる天才、何もせずとも向こうが彼女を好くようになる。
糸目センパイも全面的にとは言わずとも多少は信頼を置くようになるだろう。
「霧子、紹介するよ。こちらは糸目センパイ」
「……高等部三年の忍足貴一だ。よろしく頼む」
「っ」
その名乗りに、霧子がはっと息を呑んだのが分かった。纏う雰囲気が変わるのもまた同様に。
これは
長く付き合いのある僕や霧子の家族くらいしかわからないであろう些細な雰囲気の変化。だが、それが分かる僕からすればこれは懸念事項として考えるべき事柄になる。
どうしたのだろうか。久しぶりに見た一面に、僕は事の成り行きを見守る選択肢を取った。
「よろしくお願いしますね、忍足先輩。私は嘉村霧子、高等部二年生です」
「……噂は聞いている」
「ええ、私もです」
噂。霧子の方はともかく、糸目センパイの噂とは。
中等部の生徒である僕にはわからないということは、比較的最近かつ高等部の中でのみ流れている程度のものと推測できる。
霧子がそこまでの警戒感を表す最近流れ始めた噂、だとすれば糸目センパイの人間性への疑念、暴力性の示唆?
……ふむ。本人、もしくはその関係者が犯罪を犯している、といったところか。容疑だったりではなく、現行犯か何かで既に逮捕済みと見て良いだろう。
―――ま、いっか。
別に糸目センパイは危険な人じゃないし。初対面らしい霧子にそれを分かってと言う方が酷だろう。
「霧子、霧子。糸目センパイは危なくないよ」
「……はぁ。あんたねえ、この雰囲気の中でそれ言う?」
ぽすっと頭に軽い衝撃。張り詰めていた空気が解けた。
しかし、警戒していた理由もそれが解けた理由だって相変わらずわからないまま。
だから、こういう時は思い切って聞いてしまおう。
「霧子は糸目センパイのこと苦手?」
「別に忍足先輩の事が苦手とかそういうわけじゃないわ。でも、いろいろと言われてるもの」
「ああ。あることないこと散々言われているのは知っているさ」
そこまで糸目センパイ自身は気にしていないようだが、噂というもののはただ流れるだけで良い物も悪い物にするし、そのまた逆も然り。
少なくともその噂を知らない僕からすれば糸目センパイへの印象は変わらないし、たとえその噂を知ったとて僕の反応も態度も変わることは無いだろうが。
でも、と言って霧子は続ける。
「あんたと忍足先輩の様子を見る限り、噂はあくまで噂ってことがわかったってだけよ」
んんっと咳払いをした霧子が手を差し出したのを見て、糸目センパイもその手を握る。
どうやら問題は無くなったらしい。
「それでは改めて。よろしくお願いします、忍足先輩」
「ああ、よろしく嘉村」
これで肉壁、一人目確保。
とはいえ、二人が一応の和解に至ったのは僥倖だが、少しばかり時間を取られ過ぎた。壁に掛けられた時計が指し示すのは午後四時半。
糸目センパイには先に外で周りを警戒してもらうように伝えて、僕は必要そうな物を急いでかき集める。
「よし、これくらいで十分かな」
「お、重……遠慮とかないわけ? まあ、期待してないけど」
リュックサックに水や缶詰など積み込めるだけ詰め込んだ物を霧子に手渡す。やたら重たそうにそれを受け取る霧子だが、こんな時なのだ、荷物持ちくらいはしっかり役目を果たして欲しいものである。
そんな折り、霧子がやはり不満そうに口を尖らせる。
その言葉が妙に突っかかった。
遠慮、遠慮か。ふむ。
遠回しに、慮る。うーん。
距離を取るのか。わざわざ? 僕が霧子に?
……それは、なんか嫌だな。
「だって遠慮したら他人みたいで嫌じゃないか」
「?」
「僕は霧子とだけは他人になりたくないよ」
「っ、〜〜っ!?」
霧子は顔を真っ赤にして押し黙ってしまった。
はて。この反応は予想してなかった。
「おふたりさーん? ラブコメするのはどうぞご自由にって感じなんだが、そろそろ行かないと不味いんじゃないか?」
「ラブコメなんてしてません! 行くわよ鵺!」
ひょいっと僕の分や糸目センパイに持ってもらおうとしていた分の荷物まで背負った霧子は、ずかずかと購買部を後にした。
糸目センパイと顔を見合せて首を傾げれば、糸目センパイは苦笑して霧子の背を追って行ってしまう。
粘い違和感だけがあった。普通は終わったはずなのに、普通の感性が息をしている。
だってわからないんだ。その反応の理由も、意図も。何もかも。
勉強は、たくさんしたはずなんだけど。
「やっぱりわかんないな、人間って」
■後書き
読了ありがとうございました!
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