苦しむ景光と、幽霊のような死神のようなよくわからない「トワ」の奇妙な交流。
わりと暗い。

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生きていくのは辛かろう

 生きていくのは辛かろう、と彼は言った。

 心の奥底から同情したような声音で、表情で。幾度となく聞いたその言葉は、真にオレのためを思って発せられたものだったのだと、今はわかる。

 今なら、わかる。

 

 *

 

 彼と初めて会ったときのことは、正直なところよく覚えていない。確か、両親を喪ってすぐの頃だったとは思う。わけもわからず泣いてばかりだったオレの前にいつのまにか現れて、そして泣き疲れるまで傍にいて背をなでてくれていた。

 

「生きていくのは、辛かろう」

 

 嗚呼、つらい、辛いね、と繰り返し、ひたすらに泣き続けるオレを決して咎めなかったし、馬鹿にすることもなかった。それに、どれだけ助けられたことか。背中に感じるてのひらはひどく冷たかったけれど大きくて、それがあのときのオレの支えだった。同じく残された兄を困らせてはいけないと我慢をしていたが、彼の前ではその強がりが解けた。

 しかし、涙の回数が減っていくのと同時に、彼の姿も徐々に見なくなっていった。いや、そもそも彼という存在が不可思議だった。誰もいないはずの暗がりからそっと現れる。家のなかだろうと、誰も知らない秘密基地だろうと、お構いなく。そしてそこに別の誰かの気配が近づくと、いつのまにか霞のように消えてしまうのだ。

 彼の容貌を兄に尋ねても、そんなひとは知らないと言う。幼さゆえに警戒心の足りなかったオレは、ただ首を捻るしかなかった。

 

「俺のことは、誰にも言ってはいけないよ」

 

 東京の親類に引き取られ数年が経ったころ、彼は再び現れ、そう言った。

 明け方近く、あの事件の悪夢に魘されて飛び起きたとき、また彼はオレの耳元で「生きていくのは辛かろう」と囁いて現れた。

 驚いて叫びそうになったオレに、彼は困ったように微笑む。すっかり背も伸びたオレとは違い、彼は全く変わっていないように見えた。

 

「……泥棒?」

「違うよ。……大きくなったね、景光。俺のこと、覚えているだろう?」

「……覚えてる。でも、ボクはお兄さんのこと知らない」

 

 警戒しながらそう言うと、彼は感心したように頷いて、しかも賢くなった、と嬉しそうに笑った。そして少し考えて、どうしようかな、と少し困ったように首を傾げる。

 

「とにかく景光、俺のことは誰にも言ってはいけない」

「……どうして」

「俺のことが見えるのは景光だけだからさ」

「……え?」

 

 よく見ててご覧、と彼はベッドの傍にある勉強机に手を伸ばす。

 カーテンの隙間から差し込むわずかな光の中で、彼の手はやけに青白く見えた。その大きな手が木製の机の板目をなぞる。そのまま、つぷんと指先が机に飲み込まれた。

 

「……!」

「俺はね、人間ではないんだよ」

 

 少し意地悪そうに彼は口角を上げた。オレをからかうように、その手は何度も机をすり抜ける。

 思わずオレはベッドから立ち上がり彼に近づいた。躊躇なく手を伸ばす。

 

「……触れる」

 

 彼の腕に触れる確かな感触はあった。しかし同時に気付く。彼の肌からは、体温というものが全く感じられない。

 

「……人間じゃ、ない? ……幽霊?」

「幽霊というとちょっと違う気がするが、まあそんなことはどうでもいいんだ。わかっただろう? 俺は人間じゃない。普通の人間は俺を見ることはできないし、触ることもできない。景光は違うようだけどね」

「……ボクだけ?」

 

 にこりと微笑みで返された。霊感なんてものは皆無だったし、そういうものを信じてもなかったオレだが、実際に見た以上は信じるしかなかった。

 

「だから、俺のことは誰にも言ってはいけない。俺は景光が他のひとといるときに現れるつもりはないけれど、もしそんなことがあれば俺のことは見えないふりをすること。お前の生が、俺のせいでもっと辛くなるのは嫌だからね」

 

 慈愛に満ちた瞳で彼はそう言い、オレをまたベッドに戻らせた。横になったオレに布団をかけ、ぽん、ぽん、と規則的に胸元を叩く。

 

「生きていくのは辛いだろうに、お前はよく頑張るね。頑張ってしまうのだね。さあ、まだ起きる時間までもう少しあるのだろう? また夢に襲われたら俺が助けてあげるから、目を閉じなさい」

 

 不思議なもので、すぐにひどい眠気に襲われる。まだ聞きたいことがあるのに、と降りてくる瞼に抗おうとすると目元を掌で塞がれた。ひんやりとした暗闇の外から、おやすみ、と言い聞かせるような声が聞こえる。

 落下していく意識の中で、オレはかろうじて一言だけ絞り出した。

 

「なま、え、は……?」

 

 一瞬躊躇ったような気配のあと、トワでいいよ、と声が聞こえた気がした。

 

 *

 

 それからトワは、辛いことがあったり、落ち込んでいたりするとき、そして事件のことを調べているときに決まってオレの前に現れた。

 そっと背後に立って、耳元でお決まりのセリフを吐いていく。

 

「生きていくのは、辛かろう」

「……それ、いい加減やめてくれないか?」

「うわ、可愛くない反応だ」

 

 大学への進学を考えるころには、そう軽口を返せるほどにトワの存在に馴染んでいた。

 トワが言った通り、彼のことは親友にも教えていない。ゼロならオレの言葉を笑い飛ばすようなことはしないとは思ったが、どちらかというと心底心配してオレを病院に連行しかねなかった。確かに、そんなものは幻覚だと言われてしまえば否定できないのも事実だ。

 相変わらず何年たっても年をとらない青年は、そのときのオレよりも少し年上の顔でやれやれと腕を広げた。

 

「相変わらず悪夢で飛び起きるくせに、起きているときはこうも生意気なんだから」

「うるさいな。いったいオレを何歳だと思ってるんだ」

 

 俺から見ればまだまだ子どもだよ、と微笑むトワ。

 若い顔をしながら老成したような雰囲気を醸し出す彼は、いったいどれだけの時間を過ごしてきたのだろう。

 

「……なあ、トワ」

「何だい」

「トワはいつから存在するんだ?」

 

 もしかしたらこれはデリカシーのない問いだろうか。

 口に出すと同時にそう思ったが、トワは特に気にした風もなく、そんなに昔じゃないよ、と軽く返した。

 

「せいぜい二十年くらいじゃないかな。あまり覚えてはいないけれど」

「……その間、トワのことが視えたのはオレだけ?」

「いいや。他にもいたよ、何人か」

 

 いた、と過去形でトワは言った。へえ、と何気ない風に相槌を打ったが、内心をよぎった感情は悟られてしまっただろうか。

 トワはいつものように凪いだ表情で、その心のうちはわからない。

 

「……気になるかい?」

「何が?」

「過去、俺のことが視えたひとのこと」

 

 そう聞かれると、何となく頷きにくい。

 しかし気になるか、と言われればそりゃ気にはなる。今のところトワはオレがひとりでいるときにしか現れたことはないが、これだけやすやすと不法侵入を繰り返しているところを見ると、やはり本当に視えるひとはごくごく僅かなのだろう。

 そのひとりであるオレも、トワは視えるがトワ以外のひとではないものを見たことはないし、きっと霊感があるとかそういうわけでもない。なのに、トワのことは視える。そこに意味があるのか、ないのか。あるとしたらどんな意味があるのか。トワのことが視える、ほかのひとの話を聞けば少しは何かわかるかもしれない。

 返事をためらっている間に、トワのほうが先に口を開いた。

 

「教えてあげない」

「え、」

「勝手にひとの噂をするのはよくないね。だから秘密だ」

 

 そう、トワは笑った。少しだけ困ったような雰囲気があったのは、多分気のせいではない。

 お前が考えていることはわかるよ、とトワは続ける。

 

「何故俺が視えるのか、不思議になってきたのだろ?」

「……トワは、その答えをもっているのか?」

「さあ……どうだろうね。けれど、仮説はあるよ。だから、その仮説に沿うように動いてみてる」

「仮説?」

 

 するとトワは、いつもの優しい笑顔のままで、人差し指をたてた。そっと指を唇にあてて、そのまま唇だけを動かす。音のない声でも、トワが唇だけで何を言ったのかはすぐにわかった。もはや、あまりにも聞きなれた言葉。

 ――生きていくのは、辛かろう。

 

「俺はね、……きっと、死神のようなものなのだと思う」

 

 その言葉だけは確かに音を残して、そのままトワの姿はゆらりと揺らぐ。ひとつ瞬きをする間に、トワの姿は消えていた。

 言い逃げされたようで少し苦々しい気持ちになりつつも、蜃気楼のようなトワの存在が少し輪郭を持ったような気がした。死神というひどく不吉な存在を自称したというのに、オレはそれを自然に受け止めているどころか、どこかそれを喜んでいるような自分に気付く。

 死神だというのなら、――トワは、いつか俺を殺すのだろうか。

 

 *

 

 それからまた数年、トワは現れなかった。現れないことに気がつく暇がなかったほど、慌ただしく、そして神経を尖らせていた数年だった。

 久しぶりに目の前に現れた彼は、変わらぬ顔、変わらぬ言葉をオレに向ける。

 

「生きていくのは、辛かろう」

 

 そろそろ本当に辛くなってきただろう、と気の毒そうに言う彼に、ひどく腹が立った。彼の相手をしている暇はなかった。

 

「トワ、お前に構っている暇はないんだ。消えてくれ」

「嗚呼、ご挨拶だ。……随分と、荒んだ目をするようになった。それだけ、苦しんだのだろうね」

 

 警察学校を卒業し、警察官になった。公安に配属されたオレに任されたのは、世界的犯罪シンジケートへの潜入。

 それがどれだけ危険で、どれだけ重くて、どれだけ苦しいものかはわかっていた。それでも堪えてみせると誓った。信頼できる幼馴染みとフォローし合いながら上手くやってきた。この手を汚すときだって、笑ってみせた。

 それでも、努力が報われるとは限らない。

 

「景光、俺はお前のおかれた状況も、何をしようとしているのかもわかっているよ。だから来たんだ」

 

 俺は、死神のようなものだと言っただろう?

 その言葉を聞いたとき、オレの心臓がどくりと音を立てた。

 

「お前は、死ななくてはならなくなってしまった。そのスマホと一緒に、永遠に口を閉ざすために」

「と、わ……まさか、」

「嗚呼、違う、違う。俺が何かをしたわけではないよ。俺はただ、みていただけ。お前が死への道を辿るのをね」

 

 音もなく、トワはオレの目の前に立った。いつもの柔らかな笑み、そこには確かに慈愛と慈悲の色が見えるのに、その奥には人間らしからぬ硬質な冷たさが見えた。凍土の深くから取り出された氷のような、深く、重い、何か。思わず寒気を覚える。

 そっと頭に乗せられたトワの手は、ぞっとするほど冷たかった。

 

「お前はよく頑張ったよ。こんなつらい世界で、よくここまで耐えしのいだね。とてもとても、偉い。本当にお前はすごい子だよ」

 

 だから、とトワは続けた。蜜のように甘い言葉だった。

 

「だからもう、おやすみ。お前はもう、力を抜いていい。お前の奥底で響く声に、聞こえないふりをしなくていいんだ」

「な、…………」

「ねえ、景光、」

 

 ――生きていくのは、辛かろう?

 

 

 




ずいぶん昔に書いて放置していたのを供養。
結末をどうするつもりだったかあまり覚えていませんが、わりとギャグに走ったはずだし景光は死なない流れで考えてたはずです。
気が向いたら頑張って書く。

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