氷叢分家のなりすまし   作:仁絵乃羊

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轟家の子どもたち

 凍彦の引き取られた氷叢本家の(やしき)は、旧くて大きかった。木造で、広々とした庭園を持つ、超常前の趣きのある格式高い様式が守られていた。

 対してエンデヴァーが一代で築きあげた轟家の邸は、立派でも歳月をあまり感じさせない。建物も庭も和の伝統様式を踏まえつつ、実用的な勝手を重んじて造られている。

 たとえば、訓練場と題された別棟があったり、建材には耐火木材を用いて〝個性〟に耐えうる構造になっていたり。

 それから、木造の母屋とは違う漆喰塗りの離れが、訓練場とは別にもう一棟。

「……気になるか?」

 焦凍に問いかけられて、これは試されているのかもしれないと思った。

 凍彦の知るはずのないこの屋敷について、俺は知っていることがある。うっかりそんな素振りを見せてしまえば、取り繕うのは難しい。

「本当に心配はないんだよな?」

「ああ。親父は仕事でいねえし、仮に帰って来ても問題ねえ」

「……信じてるよ」

 

 ところでどうして轟邸を訪れることになったのかというと、話は爆豪とやり合ったすぐあとまで遡る。

 

 保健室の世話になって教室に戻ると、荷物が残っているのは凍彦の机だけだった。

 伏せて筆箱で押さえてあるレターパッドは購買で買ってきたもの。一枚目の最初に「拝啓」としか書けていない。凍彦はオールマイト宛の手紙を途中で放り出して喧嘩を売りに行ったのだった。

「うん?」

 レターパッドの下にノートの切れ端が挟み込んである。

 記されているのは0から始まる数字の羅列。携帯電話の番号と思しきもの。

 署名はない。

(誰だ、こんなことする奴)

 野次馬が押しかけたこの日に限ってはクラス外の可能性まである。緑谷、飯田、麗日のいつもの顔ぶれと、切島、上鳴、梅雨ちゃん、八百万は連絡先を交換してあるから違う。

 委員長と副委員長が把握しているから、クラスの誰かならどちらかが仲介してくれるはずだ。ただ、その発想が出ないほど社会性に難があるとすると話は違ってくる。

 あんまりな話だが、それで思い当たる人物が一人いた。

 

 メッセージアプリの友だち追加から検索してみれば見つかった。

 ユーザー名は轟焦凍。

 

 念のため飯田にメッセージを送る。

『電話番号の下4桁がXXXXの人ってクラスにいる?』

 さほど待たないうちに返信が来た。

『その番号なら轟くんだな』

『ありがとう。さすが委員長頼りになる』

 飯田からはインゲニウムの「任せてくれ」スタンプを送られた。

(なあ、燈矢。焦凍はちゃんと仲間を頼れるようになるのかな……俺は心配だよ……)

 友だち追加のボタンをタップして、俺は溜息を吐いた。

 待ち構えていたみたいな速さで、申請は承認された。

 

『明日放課後時間あるか』

『予定空けとくよ。書き置きびっくりした。委員長に聞けばいいのに』

『思いつかなかった。もしかしてまだ学校か』

『そうだよ。まだ用が済んでない』

『爆豪と何してるんだ』

『それは終わった。ただの喧嘩』

『おまえ喧嘩とかするのか』

『今回だけね。次からは話せるようになってるといいなあ』

 やや長い間があった。入力中という表示が出たり消えたり、そうして迷った結果は短い文になって届いた。

『何をしたんだ』

『焦凍に真似してほしくないことだよ』

 

 次の日、約束どおり放課後を空けておいた凍彦は、焦凍からの予期せぬ頼みごとに首を傾げてしまった。

 

「『氷結』の使いかた?」

「ああ」

「俺が焦凍に教えるの? 逆じゃなくて?」

「USJでおまえがやったのは、今の俺にはできねえことだった」

「USJ……って、これ?」

 手のひらにじわりと力を集めて、ゆっくりと円柱を伸ばす。

 教室ではささやかな手遊び程度しかできない。

 焦凍は眉根をわずかに寄せて不満そうな顔を作った。

「もっと速かっただろ」

「ああ、それ。速さはね、相澤先生がいないと出せないよ」

「先生?」

「訓練を見てもらってて、その関係で禁止されてるんだ」

 

 けれど、その流れで訓練場の申請をしに行った職員室に、相澤先生の姿はなかった。

「彼ならヒーローの仕事で早退しましたよ」

 土曜日にはよくあることらしい。現代文のセメントス先生がそう教えてくれた。

 

「どうする、焦凍。先生いないと俺は実演できないけど」

「なら(うち)でいいだろ。学校でなくても」

「えっ……家って、轟邸? エンデヴァーと鉢合わせたりしない?」

「あいつのことは気にしなくていい」

「そう言われても、不興を買ったら人生詰みかねないからな」

「クソ野郎がおまえに何かするようなら、俺にも考えがある」

 

 そういうわけで、こんなところまでホイホイついて来てしまったのだ。

 避けて通りたかった場所だが仕方がない。凍彦は焦凍の味方で、焦凍の意向を最優先にしないといけないのだから。

 

 立派な母屋の大きな玄関扉が引かれると、奥からパタパタと慌てた風な足音が飛び出してきた。

 赤い毛の混じる白髪の若い女性。焦凍の頭のように色が分かれているのではなく、ところどころに赤色の束が紛れている。轟家の長女であろうその人は、大人しげな風貌に溌剌とした表情を浮かべ、眼鏡の下の瞳を期待にきらきらと輝かせていた。

「おかえり! お友達もようこそお越しくださいました!」

「ただいま」

「お邪魔します。はじめまして、氷叢凍彦と申します」

 深々と腰を折ると、彼女もぺこりと頭を下げた。

「焦凍の姉の冬美です。はじめまして、弟がお世話になっております。氷叢くん、お夕飯はご一緒してくれるんだよね」

「はい。お言葉に甘えて」

「嬉しい! ゆっくりしていってね。張り切って支度するから、学校での話とか色々聞かせてほしいな」

 冬の名を頂く轟家の長女は、春の陽のようにあたたかで眩しい笑みを満面に浮かべて、奥の間へと戻っていった。

 

「パワフルなお姉さんだね」

「ああ……ちょっと、びっくりした」

「普段はそうでもない感じ?」

「わかんねえ。あんま話さねえから」

「焦凍は家でも無口なんだな。お兄さんは?」

「夏雄兄さんは大学の近くでひとり暮らししてる」

「そっか……それは……寂しいな」

「寂しい?」

「うん」

 これだけ広い屋敷にたった三人。一緒に暮らしている父親からも弟からも無関心を向けられる冬美が憐れだ。

 それは、嘘でも優しかった父と、意地悪でも気にかけてくれた兄に、すっかり絆されている俺だから思うこと。

「焦凍は、寂しいのがわからない?」

 問いかけると、焦凍は眉間に皺を寄せた。侮られたとでも思ったのかもしれない。

 初日以来の反感を買ってしまったかと思ったけれど、返された言葉はくぐもっていて、芯がなかった。

「……わかんねえ」

「そっか。それはいいことかもね」

「いい……のか?」

「寂しいのはつらいから、知らないのはさいわいだよ」

 

 

 焦凍の部屋に荷物を置いて、凍彦は体操服に、焦凍は私服のトレーニングウェアに着替えて裏庭へ出た。趣のある前庭とは異なる更地で、運動場(グラウンド)ほどではないが充分に広い。焦凍が居残り訓練をしないのは、なるほど自宅にこれだけの環境があるからかと納得する。

「知りたいのは、大質量を素早く形にする方法で合ってるかな」

「ああ……やってみたら、真っ直ぐ伸ばすのもできなかった」

 焦凍がだだっ広い空間に向かって手を翳し、勢いよく氷柱を伸ばした。

 しかし押し出す速度が重力に負け、軌道は緩やかなカーブを描いて下垂した。尖った先端が3mほど先の地面に突き刺さって止まる。

「早さが全然足んねえんだと思う」

「足りてないね。ちょっと聞くけど、これ人に向ける予定ある?」

 焦凍は頭を振った。

「いや、攻撃に使うなら相手を直接固めるほうが危なくねえし」

「だよねえ。よかった」

 

 凍彦は安堵の息を吐き、次いで首を傾げた。

「でも、それじゃあ、なんでこんな非効率なこと真似しようと思ったの?」

「おまえにできて俺にできねえことはなくしておきたい」

「それは……無理だろ。焦凍は左で氷を使えないんだから」

「……だとしても、右だけで〝一番〟になるんなら、おまえに勝てねえようじゃ話になんねえ」

「『氷結』だけで?」

「ああ。もう左は使わねえ……絶対に」

 焦凍は自分の左腕を掴み、爪を立てて強く力を込めた。自罰的な暴力だ。

 ほとんど動かない凍彦の眉がわずかに(しか)む。

 

「いまいち腑に落ちないな。炎も使えるのが焦凍の強みなのに」

「だとしても、親父の〝個性〟には頼らねえ」

「……その言い草は、おまえの〝個性〟が可哀想だよ」

「〝個性〟が……?」

 左腕を苛み続ける焦凍の右手を引き剥がす。さほど力は入っていなかった。けれど膚には爪の形の窪みができていた。その痕を撫でるように手を当てる。凍彦のひんやりとした温度で痛みが紛れるように。

「おまえの〝個性〟はエンデヴァーの意思に従うのか? 違うだろ」

 

 〝個性〟には意思がある。

 

 父の主治医(ドクター)が〝個性〟移植の研究をしていて、談義を小耳に挟む機会があった。遺伝的にほぼ同一な一卵性多生児であっても、〝個性〟を移し替えると不具合を引き起こすらしい。

 ドクターは1%に満たないDNAの差異や、施術ミス——〝個性〟因子の取り残し等が原因ではないかと論じていた。

 ——〝個性〟が嫌がっているのでは?

 俺が何の気なしに口を挟むと、父は愉快そうに口角を吊り上げた。

 ——〝個性〟そのものが意思を持っていると? 面白い。僕らとは異なる見解だ。

 臓器移植で多数の例が報告されているように、人間の細胞には記憶や性格が蓄積されていて、移植後に発現する場合がある。〝個性〟因子も体組織の類であり、細胞に比してその性質が強いというのが父とドクターの仮説だった。

 俺は自論の正しさを証す材料を持たなかったので、それ以上は言葉を控えた。

 

 けれど、知っていた。()()()()()は〝個性〟に蝕まれていた。()()という概念を理解したとき、唐突に気がついた。持って生まれた氷の〝個性〟は、()()()が炎と揃いで具えるはずだったのだ。間違った人間が掠め取ってしまったから、〝個性〟に恨まれてしまったのだと。

 

 焦凍の〝個性〟は違う。氷と炎のどちらも、焦凍のために(あやま)たず生まれてきた。

 触れている腕を引き寄せて、指の背に額を寄せる。炎を秘めたあたたかな手に祈る。

 

「無理に使わなくていい。嫌いなままでいい。けど誤解しないで。その〝個性〟は焦凍の〝個性〟なんだよ。エンデヴァーのじゃない。そいつはおまえにしか従わない。おまえのためだけに生まれて、おまえだけに尽くしているんだ」

 

 本当はちゃんと使ってほしい。ヒーローは危険に身を晒す仕事だ。使えるものを惜しんでいたら命を失うかもしれない。

(エンデヴァーは怖くないのか、子どもが死ぬこと……二人も三人も同じだとでも?)

 ぎゅっと手を握って顔を伏せている凍彦の頭上に、ぽつりと声が降ってくる。

「……あのとき」

「あのとき?」

(ヴィラン)に左の隙を突かれた。氷叢が……吹っ飛ばされたあと」

 不意打ちに失敗して溺れていた間のことだ。今こうして無事でいるとはいえ、やはり危険な目にはあっていたのだ。事細かに説明されたわけではないから、被害が軽微に済んだことと、弔と黒霧が逃げ果せたことしか凍彦は知らなかった。

「一瞬、何も考えられなかった。気がついたら炎を使ってて……失望した。誓約ひとつ守れねえほど、弱かったのかって」

「……そっか。嫌われても憎まれても、おまえのものだって認めてもらえなくても、焦凍を守ろうとしてくれたんだな」

 左手を労りながら面を上げると、焦凍は眉を落として途方に暮れていた。

 

「なんで、そんな……」

「焦凍の味方は俺にとって仲間だよ」

「……〝個性〟を人間みたいに言うんだな」

「べつに悪い思想じゃないだろ。さあ、訓練の話をしよう」

 ぱん、と手のひらを打ち鳴らす。

「提案なんだけど、焦凍、左を使うのやめよう」

「……やめる? 左を?」

「氷を融かすのにまだ使ってるだろ。それをやめてしまおう」

 

 凍彦は自分の右手に力を込めて、ヒトの頭ほどの透明で無垢な氷塊を作りあげた。30秒ほどの時間をかけたそれを掲げて言う。

「これは最近できるようになったばかりなんだけど」

 次の瞬間、氷は白く濁ってパァン! と弾け飛んだ。

 焦凍の目がまあるく見開かれる。

 砕けた氷は砂粒とはいかないが、小指の爪より小さな欠片になって地面に散らばった。

「氷塊の中にごく小さな粒をたくさん作って、内側から砕いたんだよ。これを実践するためには、氷の内部を肌感覚で把握する練習と、同時並行的に氷を生成する練習が要る。同時並行的にっていうのは、こういうことね」

 細かな氷片を振り落とした手から、より細かな雪もどきをぶわっと舞わせる。

「集中をわざと散らすのと、力を込めないのがコツ。氷塊を砕くだけなら雪みたいなディテールはいらないから、そんなに凝らなくていい」

 

 凍彦は笑った。いつも通りにぎこちなく、わずかに口角が歪むばかりの顔で。

「念を押しておくと茨の道だよ。焦凍にとっては手付かずの開拓になる。今までの慣いを手放すわけだから、短期的な弱体化は免れない。二週間後の体育祭、もし爆豪と真っ向勝負するようなことがあれば……負けちゃうだろうな。彼は強いよ」

 焦凍はぐっと歯噛みをして、葛藤する顔を見せた。『炎熱』に頼ることも、決別して負けることも、エンデヴァーの正しさを証すようで不本意極まりないことだろう。

「さあ、選んで、焦凍。俺の口車に乗って父親の思惑を外すか、他人の言いなりを厭って炎を使うか。どちらを選んでも、俺は焦凍の味方だよ。それは変わらない。どうする?」

 

 迷っていたのは、ほんの一呼吸にも満たない間だった。

「……俺は、クソ親父を否定したい」

「うん」

「あんな話のあとで、使えって言われんのかと思ったら違って……氷叢が何をしてえのかわかんねえけど、やってやる。俺は俺の意思でおまえを選ぶ」

 目にはギラギラと闘志が燃えている。

「その上で、誰にも負けねえ」

「いいね! 弱気になるよりずっといい!」

 それから日が暮れるまでずっと、凍彦と焦凍は『氷結』を使い続けた。

 

 

 訓練が終わる頃にはなんと風呂が沸いていた。

 広々とした木の風呂だ。湯船に肩まですっかり浸かると、芯まで冷え切った身体がじんじんと痛みを錯覚する。

「あー……ヤバい……寝そう……」

「泊まって帰るか?」

「泊まらない……」

 勝手に落ちてくる瞼を叱咤して顔を揉む。

「ちょっと混乱してる……なんで俺、焦凍んちで一緒にお風呂入ってんの」

「訓練で冷えたからだろ」

 斜め向かいに浸かっている焦凍がきょとんと罪のない顔をする。湯船は贅沢に三人でも入れそうな大きさで、湯の中でぶつかったりはしない。

 ほどよく鍛えられ均整のとれた身体が晒されていることに違和感ばかりおぼえる。ぺらぺらで肋の浮いている凍彦との格差があんまりだ。いや、

「そうだけどそうじゃなくてさぁ……」

 頭を振って、湯船の縁、濡れて赤みを帯びた木肌に寄りかかる。

 

「焦凍のパーソナルスペースはもっと広いと思ってた」

「パーソナルスペース……?」

「他人を不快に感じはじめる物理的な距離。爆豪が特に広いよな。目が合うだけで威嚇される。口田、障子、常闇、青山……女子だと八百万、あと耳郎とか広め」

「そんなもん相手によって変わるだろ」

「だからだよ。焦凍にこんなに許されてると思ってなかった。きょう一日ずっとびっくりしてる」

「そうなのか」

「うん。俺もだけど焦凍も顔に出にくいから、自分の考えとか気持ちとか、ちゃんと言葉にして伝えたほうがいい」

「……必要か? 仲良しごっこしてる余裕はねえんだが」

「いやいや、必要だよ、仲良しごっこ!」

 俺はぎょっとして身を乗り出す。

 

「クラスの皆もヒーローになるんだよ。雄英ブランドのエリートに。焦凍にその気がなくても長い付き合いになるの。いざチームアップになったとき……いや、それ以前に、馴れ合いを避けて強さだけを追い求めるのはさ」

 大事なことなのでひと呼吸置きつつ、真っ直ぐそらさず見つめる。

「エンデヴァーの流儀だろ。いいのか?」

 焦凍は目を見開いて固まってしまった。言われるまで気づいていなかったらしい。

 深く息を吐く。友だちを作ろうとしない様子をちゃんと訝っていればと、己の鈍さを反省する。

「わかった上で同じ轍を踏むなら構わないけど、否定したいのはやりかただろ。〝個性〟だけ否定してやりかたはそのままって、あべこべだよ。あとは……そうだ。俺にできることはできるようにするんだろ。仲良しごっこ、俺はできるぞ」

 

 焦凍がむっと口を窄めた。怒る元気があるようで何より。

「……氷叢が何考えてんのかわかんねえ」

「俺だって焦凍のことはわかんないよ」

「一を話したら十を見透かされてる気がする」

「ありがちな錯覚だな。焦凍が一つ話してくれるまでの長い時間も、人は多くの考えや気づきを積み重ねてる。それが一気に出てるだけ」

「俺が話をしないせいだって言うのか?」

「それと、俺が無闇に考えすぎるから、相乗効果かな」

 焦凍はまだ納得しきれていない顔だった。

 もしかすると凍彦という人間に興味を持ちはじめているのかもしれないと思う。今まではクラスメイトや親戚、同じ『氷結』の使い手という括りだけで見ている節があった。それを抜きにして、ひとりの人間として見るようになったのだとしたら困った。

 一週間前なら喜ぶところだ。けれど、弔と父が動きはじめた今となっては歓迎しかねる変化だった。

 

 

   §

 

 

 轟家を訪問した次の日だ。

 日曜日は一週間分の買い出しを済ませないといけないので忙しい。ドラッグストアで洗剤を買って一度帰り、スーパーへ行って食品類を籠に放り込む。

 そんなとき、聞きおぼえたばかりの声に名前を呼ばれた。

「あれ……氷叢くん?」

 赤の混じった特徴的な白髪に、眼鏡をかけた灰色の瞳。凍彦より少し低い背丈で、薄手のカーディガンを羽織った身体は女性らしい起伏に富んでいる。見紛いようもない。

「冬美さん! 轟家もスーパーでお買い物などなさるんですね」

「あっはは! するよー、スーパーで買い物。氷叢くんはおつかいかな」

「いえ、俺はひとり暮らしをしているので」

「ひとり暮らし!? 高校一年生よね?」

「それはまあ、焦凍と同学年ですから」

「大変じゃない? 雄英のヒーロー科、授業も長いのに……」

「そうですね。慣れてなお時間のやりくりに悩みます。仕方のないことですが」

「やっぱり……なのに、きのうは焦凍の訓練に付きあってくれてありがとう」

「いえ、こちらこそ。お夕飯をご厄介になれたおかげで、時間いっぱい有意義に過ごせて助かりました」

 昨夜もお礼合戦のようなやりとりをしたばかりなのにと苦笑する。やはり表情筋はあまり動かないのだけれども。

 

 それから冬美は凍彦の買い物籠に目を留めて、ほんの僅かに目を険しくした。入っているのは卵と牛乳、鶏胸肉の大容量お買い得パック、それを覆い尽くすカット野菜の山。見る人が見ればおざなりな食生活に察しがついてしまう。

 冬美はその()()()だった。特に意外でもない。昨日振る舞われた料理の腕前など、贔屓目だがランチラッシュにも引けを取らなかった。

「もしよかったらなんだけど、夕飯だけでも食べにこない?」

「え、今日ですか?」

「いつでも、なんなら毎日でもいいのよ! 氷叢くんがいると焦凍が楽しそうでね、私も嬉しいんだ」

「楽しそう……ですか?」

 学校での様子を見るかぎり、凍彦が近くにいるのといないので雰囲気が違うということはない。俺が焦凍の機微に疎いだけという可能性はあるけれど、そんなことがあるだろうか。よほど注意深く観察しているつもりなのに。

「家での焦凍って、どんな感じなんでしょう」

「とっっっても静か!」

「学校でもそうですね……必要のないお喋りは省いていく感じ……」

「学校でもそっかー……!!」

 

 あははと笑い飛ばす冬美の声は明るく元気いっぱいだ。

「それで、どうかな、お夕飯」

 けれど、ぽっと出の他人にこんな申し出をするのだから、その内心には深刻なものが窺える。

 ただの世話焼きであれば、轟家は他にも食客を抱えているはずだ。小学校の教師をしていると聞いた。困っている子どもと知り合う機会など、これまでにも多くあったに違いない。

 わざわざ凍彦の世話を焼こうとするのは、焦凍に——家族に影響力を持つ友人だから。あの寂しい家を変えるかもしれないと希望を見出してのことか。

 なんとかしてやりたいと思う。冬美とは知り合ったばかりだけれど、焦凍と同じ、あの哀しい家に生まれた子。大事な人なのだ。

 思うけれども、首を縦には振れない。

「お申し出はありがたいばかりなんですけど……そこまでお世話になるなら、そちらの家長さまにお話を通さないわけには。俺の身の上のこと、焦凍から聞いていませんか?」

「少しだけ。母方の親戚だって聞いてるわ」

 それはほとんど何も説明していないということだ。もしかすると、初日に捲し立てた凍彦の言葉を、焦凍が理解しきれていないからかもしれないが。

 俺は瞬時に思考を巡らせて、開示すべき情報の取捨選択をする。

 

「冬美さんは大奥さまのお孫さまに当たります。ですが家同士の取り決めで、当家は轟家に干渉してはいけないことになっているんです」

「えっ……お父さん、お母さんの実家にそんな約束をさせてたの……」

 冬美の顔が驚きを浮かべ、それから哀しげに曇って力なく視線を落とした。そんな約束で親戚付き合いを絶ってさえいなければ、母御が心を壊すことも、兄御が命を落とすこともなかったかもしれないのだ。

 けれど、エンデヴァーの判断はそう悪いものでもなかった。本来なら。

 凍彦は冬美の視線を掬うように手を差し伸べ、顔を上げるように促す。

「何も不当ではありませんよ。お立場を思えば必要なことです。何せ氷叢は身内意識の強い一族ですから、そちらを同様に見做して不埒を働く者が出ないともかぎりません」

 たとえば、身売りをした娘や血の混じった子どもを呪い、加害を企てたりだとか。逆に昵懇になろうとする者もいたかもしれない。子どもが幼いうちに許嫁を当てがうなどが常套だ。氷叢の血を取り込んだ轟家を分家のように扱うなら、轟家は一族内で最も有力な一派であり、繋がりを太くしたい相手となる。良くも悪くも氷叢は血を貴ぶ。

「轟さまはご本人なりにご家族を慮っておられたのだと、それが裏目に出てしまったのだろうと、俺は推察しております」

 

 父親に対する憎しみを窺わせない冬美には、彼を悪しざまに言うべきではない。

 そんな打算の上で選んだ言葉だった。

 そんな空々しい言葉だったのに、冬美の灰色の目が見る見る潤んで、涙を一粒溢れさせた。

「ごめ……ごめんなさい、ちょっと……びっくりしちゃって」

「すみません。不用意に触れるべき事柄ではありませんでした」

「いいの、いいの! ……嬉しくて……そんな風に誰かに言ってもらえるなんて、思ってなくて」

「……轟さまは、情のないかたではないと思いますよ。()()()()()()()()()のためだけに離れを建ててしまうようなかたですし」

 白い漆喰に固められた別棟のことを思う。

「灰寧兄のことも知ってるんだ……」

「はい。燈矢さんのことも」

 轟家の長子と次子は双子で、名前を燈矢と灰寧といった。

 

 

   §

 

 

 遡ってUSJ襲撃の翌日、臨時休校となった木曜日のこと。

 雄英高校の会議室には、捜査資料を携えた塚内警部が招かれていた。こざっぱりとして清潔感のある男だ。階級の割に若く見える。

「確保できなかった二名、死柄木および黒霧について、20代から30代の個性登録を洗ってみましたが該当者なしです。無戸籍かつ偽名ですね……個性届を提出していない、いわゆる裏の人間」

 資料の写しを配布してあらましを掻い摘んだ塚内に、マスクとテンガロンハットで顔を隠した教師が苦々しい声を返す。

「何もわかってねえってことだな……早くしねえと、死柄木とかいう主犯の銃創が治ったら面倒だぞ」

 彼は三年生担当のスナイプ。ワープゲートで逃げ果せようとした死柄木を狙撃し、深手を負わせることに成功した功労者だ。

 

「死柄木について何もわかっていないのはその通りですが……彼が言い残した『氷の〝個性〟のハイネ』には、関連性が不明ですが該当一件」

 ぺらり、各員の手元から書類を捲る音が響く。

 塚内が名前を読み上げる。

「轟灰寧。10年前、兄の燈矢とともに危難失踪宣告を受け、享年13歳」

「……これはさすがに無関係だと思いてえな」

 呻くような声を上げたのは誰だろうか。誰もが同じ気持ちであったに違いない。

「故人……しかも襲撃を受けた1-A轟焦凍の実兄。父親はナンバー2ヒーローのエンデヴァーとは……」

 仮に『氷の〝個性〟のハイネ』が轟灰寧であった場合、トップヒーローの子どもが(ヴィラン)の手にかかり、10年もの長きにわたって見過ごされてきた可能性が浮上する。あってはならない事態であり、スキャンダル。同時に失踪している轟燈矢についても再調査が必要だ。

 

「なぜ死柄木が生徒に疑惑をかけたのかも不明です。撹乱の可能性もありますが……イレイザーヘッドによると、死柄木はその名前について執着を見せたそうですね」

『ええ。連中とその名前の関係について問いただしたところ、自分たちではなく自分のとわざわざ訂正してきましたよ』

 病院にいる相澤はタブレット端末によるリモート参加だ。被害クラスの担任として、また死柄木と直接対面し、事件発生当初から居合わせた当事者として臨席を望まれていた。

『資料が見られないんで教えてください。轟灰寧の危難……個性事故ですか。冬の頃の』

「そのとおりだが、なぜそれを?」

『疑いをかけられた生徒……氷叢から、妙に符合する発言を得ています。13歳の冬に個性事故を起こして死にかけたと。そのような事故の記録があるか、警察のほうで調べておいてください』

 

「おい相澤、どういうわけだ? おまえの生徒と、生きていれば23歳の故人が同一人物だとでも?」

 左頬に十字傷のある顔を顰めて疑問を呈したのは、筋骨隆々の男性教師、一年B組担任のブラドキング。

 相澤は画面越しに淡々と答える。

『調べてみればその可能性は潰せる。普通に考えてあり得ない話だ』

「あり得ないと言うならなぜわざわざ」

『だからこそ、もしそうだとしても、氷叢凍彦として保護された子どもは23歳の轟灰寧とは名乗れない。末恐ろしいくらい目端の利く生徒です。信じてもらえないことくらい試さずともわかったでしょうよ』

「ム……」

「イレイザーヘッドは彼が気づいてもらうために情報を落としたと考えているのか」

『仮定の話は可能性が残ったときにしましょう。今時間を割くのは合理的じゃない』

「わかった。裏を取っておく」

「その氷叢くんの様子はどうだい?」

『まだ目を覚ましませんが、容態は安定してるそうです』

 会議は実りの乏しいまま進んでいき、やがて看護師に呼ばれて相澤は中座することになる。

 

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