獣人。王宮の反乱分子。
少しの間でいいから一切の追加情報を遮断して、頭を整理したかった。
そう願うも、俺の願いなど叶ったためしが無いことを思い出す。
孤児院へ戻る道中、ふと人の気配を感じて反射的に身構える。
馬をいさめる男は所在無い様子で、格好は見覚えのある王宮兵士のものだ。
「……おい、こんなところで何を」
顔にも覚えがあったので声をかけたが、間違いない。
共に遠征へ参加した兵士。
前哨基地と化したあの村で、ミルバスに処刑されそうになった兵だった。
「よ、よかった! やられてる仲間を何人か見かけて、もう全滅したのかと……!」
縁起でもない台詞を口にしながら、若い兵士は抱きつきかねない勢いで駆け寄ってくる。
身を引きつつ手で制し、もう一度たずねる。
「何をやっている。あんたは王宮へ帰ったんじゃないのか」
「そ、そのつもりだったけど、あんた達が出発してすぐ、王宮から伝令が来たんだ!」
「伝令?」
「カナリー様は今どこに!? 俺、絶対にお伝えしなきゃって!」
一人、馬を走らせて来たのだと言う。
嘘を語っている風には見えなかったし、何より尋常じゃない焦りように、こちらの焦燥感まで煽られてしまう。
よほどの出来事があったのだと伝わった。
「何があったんだ」
「それは――……すまない。カナリー様に直接お話しなければ」
「……わかった。案内しよう、こっちだ」
顔を輝かせた兵士はその後、言葉通り申し訳なさそうに頭を何度も下げる。
カナリーの噂を流してしまったことに対する、贖罪の意識もあるのだろう。
おそらく酒の席でのたわいない、些細な一言が、カナリーを売ったも同然の結果に繋がってしまったのだから。
だからこそ、むしろ信用できると思えた。
「カナリー様、戻りました! カナリー様!」
声をかけながら扉を叩いていると、やがてかんぬきの持ち上がる音が聞こえた。
扉を開けた直後、姿を見せるカナリーの髪がはためき、悲痛に歪んだ顔が間近に迫る。
「あ――」
まさか胸に飛び込んでくるのかと思うほど勢いづいた体を、ふと押し留めるカナリー。
まるで己を律するように。
揺れた視線が、たぶん俺の後ろにいた兵士を捉えたからだ。
口惜しくも、カナリーを受け止めるべく少し広げていた両手を下げる。
色恋には火が点く瞬間があり、それが今だったという気がしてならない。
もしこの兵がいなければ、この場でずっと関係は進展したかもしれなかった。
「あの……よく、ご無事に戻ってくださいました。どうしてあなたがこちらに? ゴヴィン様は……」
「詳細はのちほど俺から。彼は大事な要件を伝えに来てくれたそうです。話を聞いてみてください」
立ち位置を兵士に譲ろうと、背を向ける。
入れ替わった兵は緊張の面持ちで、直立したまま声を張り上げる。
「ご、ご報告いたします! ……その、どうかお気を確かに――」
「待って」
強い制止の声が一瞬カナリーと結びつかず、思わず振り返った。
「レグルス……あなた怪我をしたの?」
「え、と……いえ、大した傷では」
兵士の目があるにも関わらず、“聖女”を忘れたカナリーの口調に驚く。
俺との馴れ合いが露呈してもいいのか?
今の発言程度ならミスとも呼べないものだが、それとなくたしなめておいた方がいいだろうか。
そんな思案を巡らせていると、つかつか歩み寄ってきたカナリーは、おもむろに俺の腕を取る。
「きて」
有無を言わさず手を引かれ、普段まず目にすることのない強引さに戸惑った。
「いや、待て、待ってくださいカナリー様。俺は大丈夫なので先に話を」
「いいから。あなたも早く中へ」
孤児院の扉を閉めたカナリーは、ダイニングの蝋燭を集めて持ってくるよう兵士へ指示を出す。
細く、冷えた指は俺の腕をしっかり握ったままで、どうしてか居心地の悪さを覚えてしまう。
「……カナリー、彼の目もある。過度に接触するのは避けた方がいい」
「関係ないよ。聖女だからって、護衛してくれてる人の身を案じるくらい当然でしょ。ごめんね気づくのが遅くて。傷は痛む?」
「……多少は」
本来、喜ばしいことだ。
兵士を気にしたところで、依頼の期限はほとんど残されていない。
依頼達成の証拠として、どのみち第三者に寝取りの事実を認識してもらわなければならないのだから、今さら関係性を怪しまれても構わない。
実際、たしかな手応えを感じていた。
カナリーの心が俺へと傾いている実感がある。
腕からそっと引き剥がして、あらためてカナリーの手を握ると、少しの躊躇いを見せたあと指を絡めてくれる。
「…………」
後ろからついてきている兵士は、確実に目撃しているだろう。
民衆にとって高嶺の花、手が届かないはずの存在から懇意にされているという自負が、優越に似た快感を生み出し背すじがぞくりと震える。
本当の色恋になど興味が失せていた俺自身、少年のように胸を高鳴らせていた。
外見に優れていて、中身は知れば知るほど親しみを覚える。
身分は言うまでもないが、それを笠に着ることもない。
もし共に生きることが可能なら、こんな俺でも自然体で笑えるかもしれない。
カナリーは、そう思わせてくれる女だった。
指に。髪に。頬に。唇に――。
もっと触れてみたいと、本能が欲している。
その願望が間もなく叶うかもしれないと、みっともなく顔に熱を持たせているのだ。
同時に……どうしてなのか。
高揚する気持ちとは裏腹の、水底へ沈み込むような気分も味わっている。
“そのとき”を望みながら、永遠に来てほしくないと願っている。
張り裂けそうな胸の痛みだけが、必死で答えを訴えている気がした。
兵士が集めた蝋燭に日が灯り、礼拝堂は昼間と見紛うほどの明るさを得る。
建物の中心に位置する、窓もないこの場所なら外へ漏れる光の心配はいらないだろう。
「レグルス、服を脱いで」
二人きりのときに聞きたい台詞だったが、同じ空間には兵士もいる。
何より今のは、傷の縫合のために発せられた言葉に過ぎない。
勿体ぶっているつもりはなく、ただ従わないでいたらカナリーが兵へ声をかける。
「あなたも手伝ってくれますか?」
「え……は、はい!」
「いやいい、自分でやる! ……脱ぐから」
こうなっては仕方ない。
汗と血がすっかり乾き、異常な冷たさの上衣を頭から脱いだ。
カナリーと兵士が、同じように息を呑む。
裸を見られることに恥じらいがあるわけじゃない。
違う……ある意味恥ずかしくて、出来れば人前に肌を晒したくなかった。
一瞬だけ見下ろした自身の肌は、体だけは歴戦の兵士と違わないほどに傷だらけだ。
実力と見合わない、刻まれた何十もの切創、裂創、変色して戻らない皮膚。
苛烈な訓練を施してなお、ゴヴィンに言わせれば剣の素人。
それが恥ずかしくてたまらなかった。
無言のままカナリーに背を向け、跪いた。
俺の背中の体温が低いのか、さっきよりも暖かい手が触れる。
カナリーの指先は、ゴヴィンにつけられた傷とは離れた場所を優しくなぞっている。
「……こんなに。頑張ったんだね……」
返事はしなかった。
周りを囲む蝋燭の揺らぎが幻想的で、水神の像を前に頭を垂れていれば、まるで祈りを捧げている心境になる。
硬い床に下ろした膝の痛みもいつしか忘れ。
針の痛みすらも、祈りと共に神へ捧げているかのような――。
平穏を迎えている自分が不思議だった。
縫合は手慣れたもので、糸を切る音をパチンと響かせると、カナリーが静かに問う。
「……お待たせしてすみません。それで、どういったお話なのでしょうか?」
「……は。ですが、その……」
兵士はちらちらと横目で、どうやら俺の存在を気にしてるらしい。
あらためて聞かせていいものか、迷っているんだろう。
ということは、話はカナリー個人に関わる可能性が高い。
「この場で構いません。聞かせてください」
迷いのないカナリーの言葉が思いのほか嬉しく、同様に浮かれている自分にまた嫌気が差す。
着実に距離は縮まっているのに、どうしようもない不安が募り、苛立つ。
わけがわからなかった。
「では、お伝えします。カナリー様方が出発されてすぐ、駐留する村へ王宮より伝令が届きました」
「はい」
「王宮で反乱を企てている者が見つかったと。庭師をしていた男です」
未だ背に触れていたカナリーの手が、小刻みに震えて反応した。
皮膚に爪が立ち、やがて力がフッと抜けたのがわかる。
「それで、その庭師は? 処刑……されたのですか?」
「は、はい。おっしゃる通り、処刑が実施されたと聞きました」
「そう……ですか」
ある程度の覚悟はあったのかもしれない。
声は弱々しく、力無いものだったが、カナリーが取り乱すようなことはなかった。
追い打つように、兵士が続きを告げるまでは。
「――庭師だけではありません。侍女や兵士、料理番や石工などの職人、果ては騎士に至るまで……見つかった反乱分子は
けたたましい音に振り向くと、崩折れて座り込むカナリーの側に、縫合に使われた鋏や針が散乱していた。
桶に張られた水が波打ち、血に濡れた布が水面を泳ぐように漂っている。
九十一……? 九十一名も処刑された、だと?
「み、ミルバス様は、カナリー様を捕縛するよう兵に命じてました! 戻れば捕まってしまいます! なんとしても、これだけはお伝えしたくて……!」
冷たい雫が頭に落ち、思わず立ち上がる。
大量の蝋燭で室温が上昇し、石壁には水滴がいくつも垂れ下がっていた。
水に濡れた礼拝堂が、かつての姿を取り戻したかの如く鮮明に映し出される。
俺はまた幻でも見ているのだろうか。
見渡せば、礼拝堂に群れる子供達。
その中にはカナリーもいて、熱心に祈りを捧げている。
何人、いるのだろう。
“八十……人、くらいかな”と。
あのとき、曖昧に誤魔化したのが気になっていた。
九十一人というのは、近い数字だ。
でも、だからといって、まさか。
まさか、
……なんのために。
反乱分子。
馬鹿げてる。
おまえは……本当に、カナリー。
王宮を乗っ取るつもりで――……。
見下ろした先でカナリーは、激しく憔悴していた。
大きく見開いた瞳は闇色に染まり、半開きの口は神託を紡ぐ役割を放棄している。
礼拝堂などという、格好の場所にして。
何度も目にして脳に焼きついた、祈りを捧げる聖女様の姿はそこに無かった。
カナリーが水神の像へ顔を向けることは、一度として無かった。