抱いた肩は、息を呑むほどに頼りなく、少しでも力加減を間違えれば壊れてしまいそうに思う。
今のは……なんだったんだ。
走馬灯のようにカナリーの記憶、そして想いが流れ込んできた。
濁流に飲まれるかのごとく圧倒された俺は、気づけば“家族”を餌にカナリーへ迫っていた。
結果としては良かったのかもしれない。
心が衰弱した者に付け入るのは、常套手段の一つなのだから。
問題は、俺がそれを無意識に行ったことだ。
幻想の奥で垣間見たカナリーと同調した。
その境遇に共感を覚えたのは初めてじゃなかったが、確かに心が繋がったと感じ、歯止めが効かなくなった。
自分の心境を、いかにも冷静に振り返りはしたが現実は――。
「い……痛い。苦しいよ……」
平穏とはほど遠い惨状だった。
カナリーの熱を、柔らかさを、心を求めてますます腕に力が込もる。
冷たい頬が触れ合い、鼻先にかかる金糸のような髪の香りが脳を痺れさせる。
「……どうして?」
くぐもった疑問の声と同時に、肩へ呼気の熱が広がった。
俺は動揺したのかもしれない。
カナリーの体温を欲しながら、その熱に一人の人間を意識した。
我ながらおかしな言い回しだと思うが、端的にそう思えたのだ。
役を演じる俺の相手は、演者じゃない。
そんな今さらな、あたりまえの事実。
わずかに体の力が抜け、ほんの隙間程度、カナリーとの距離が生まれる。
未だ腕の中にカナリーはいてくれたが、うかがうように俺を見上げ、同じ疑問を繰り返す。
「どうして、わたしなの……?」
精彩を欠いた瞳は揺らぎもせず、カナリーは苦しげに呻いているかに見えた。
もはや“聖女”じゃない。
光の眩しさに顔を背けることはない。
疑問の答えにも、頭を悩ませる必要なんてどこにもない。
ただ一言、好意を伝えれば足りるはずだ。
“好きだ”と。“愛してる”でも、なんでもいい。
今のカナリーには、薄っぺらい甘言を並べ立ててやることが救いにもなるんじゃないか。
――そう思うのに。
そんなことわかっているのに、一向に俺の口は言葉を紡がなかった。
すぐにも泣き出しそうなほど顔を歪めたカナリーが、今度は俺の腕にきつく爪を立てる。
この場に“偽物”はもう俺しかいない。
そこらの女と成り下がったはずのカナリーは、俺の身にぎりぎりと指を食い込ませて震えていた。
堕ちた自分と同じところへと、まるで俺を道連れにするかのように。
引き裂かれた“レグルス”の皮が、ずるずると剥がされていく感覚に、俺は……。
「……わからない」
たった一言を口にした。
話にならない。
0点だ。
何が寝取り屋だ。
つくづく俺には、なんの才能も無いのだと認める他ない。
目を見開いて硬直するカナリーへ、言い訳がましく続ける。
「君が一緒なら……――あんたとなら、俺は俺のままでいられる気がした」
何度かカナリーに対して抱いた本心だったが、やはり口説き文句としてはまるで駄目だ。
カナリーの救いになるどころか、自分が救われたいとでも言わんばかりの身勝手。
俺はどうなってしまったのか。
頭では理解しているのに、まったく制御出来ない自身が歯痒くて俯いた。
ふと押さえつけられていた腕が解放され、胸にカナリーの額が軽く触れる。
「……だから、わたしと家族になりたいの?」
「ああ」
「……本当は他にも理由がある?」
「……ああ」
「その理由は? 言えない……?」
「…………」
もぞりと身じろぎしたカナリーが、黙りこくった俺を見上げてくる。
すべて見透かすような瞳に、もう言ってもいいかなんて思えた自分が恐ろしかった。
いや、わざわざ語らずとも、これでは目的ありきに近づいたと自白したも同然だ。
「馬鹿だね、レグルス。全部しゃべっちゃって」
「……本当にな。呆れすぎて死にたくなってくる」
目を丸くしたカナリーが、直後に吹き出した。
目尻の涙を指で拭い、精いっぱいの笑顔で言う。
「わたしも」
花が咲いたような笑顔は徐々に
泣きじゃくる子供をあやしたことはないが、たぶんこんな感じなのかもしれないとその背を撫でる。
きっとかつての孤児院では、皆の面倒を見ていたカナリーが担っていた役目だろう。
「……いいよ。わたしは聖女どころか反逆者になっちゃったけど、そんなわたしにまだ価値があるってあなたが言うなら」
「前に、カナリーが言っただろう。誰かに影響を与える生き方こそ価値があるって。俺をこんな風にしたのはあんただ。だから――」
「それじゃあ……死ねないね。お互い」
暗に“俺にも価値がある”と言ってくれて、赤くなった目を細めるカナリー。
強く抱きしめるも、痛いとも苦しいとも言わなかった。
手を引いて立ち上がり、十は並ぶ簡素なベッドの一つへと導く。
少しの逡巡ののちベッドに腰かけたカナリーが、「あ」と何かを気にして辺りを見渡す。
「ミシェルさんは?」
「ミシェル……? あの若い兵士のことなら別の寝室で休んでる。不眠不休でここまで来たそうだから、しばらく起きないはずだ」
「……そう。……うん、わかった」
尤も彼は眠りが浅いらしく、夜明けには起きると豪語していたが。
そして夜明けと共にこの部屋を訪ねる手筈になっている。
強く念を押したのは、言うまでもなく寝取りの“証人”とするためだった。
「……寒いね」
呟くカナリーの隣に腰をおろし、肩を抱き寄せる。
頬に垂れる髪を背中の方へ流してやれば、ゾッとするくらい美しい横顔が、薄暗闇に白く映えた。
微かに震える唇に、指を這わせる。
乾いた涙の跡が残る頬を撫でると、カナリーが顎を少し上向きにして瞳を閉じる。
念願が叶い、依頼が果たされる瞬間だというのに達成感なんて微塵も無かった。
何に対するかもわからない後悔だけが渦巻いて、吹っ切るように硬いベッドへ二人して身を沈ませる。
同情でも傷の舐め合いでも、なんでもよかった。
何もかも忘れてしまいたくて。
白い息を重ね合わせることだけに、仄暗い喜びを見出して。
たぶん、きっとお互いにそうなのだと感じていた。
◇◇◇
微睡みの中、仰向けで窓を見上げている。
凍結した窓は室内との気温差で曇っているが、外にまだ闇が広がっていることくらいはわかる。
でも、間もなく夜は明ける。
露出してる顔だけはヒリつくような寒さを感じるものの、シーツに二人分の体温が籠もっているおかげで体は暖かかった。
「……カナリー」
返事の代わりに、シーツ内で繋いだままの手が、きゅっと握られる。
全身で包まれるように抱きかかえられた左腕は特に熱く、その熱が伝わっているのかカナリーの肌はしっとり汗ばんでいた。
起きているなら、と話しかける。
「気になっていることが一つあったんだ。賊に襲われたとき、あの馬車で。刺したのは……本当はヨタじゃないのか?」
「ん……どうしてそう思うの?」
「なんとなく」
前後のヨタの発言や、不自然な雰囲気。
何より俺はあのときヨタの短刀を確認している。
短刀に刻まれた印は、ここで見た食器や、モアが愛用していた茶器と同じものだった。
鍛冶師を夢見ていた“シッティ”の作だ。
つまりヨタが持っていた短刀は、本来カナリーの所有物。
賊を刺して動転するヨタを憐れんで、得物をそっくり交換したというところだろうか。
もっと言えば、そんな推察を抜きにしてもカナリーが人を殺めるとはどうしても思えなかった。
一緒に過ごす時間が長くなるほどに、セリンの所感と同じ結論に至ることを知った。
ある種のこんな願望や幻想を押しつけてしまうほど、とっくに俺も信者へと染められていたんだな。
「ううん……やったのは、わたし。ヨタ様は関係ないよ」
「そうか」
深く追求はしない。
カナリーが望んだことなら、暴くつもりは無い。
「ね。……それだけ?」
「え?」
「もっと他には無かった? 気になったとこ。わたしの体……とか。びっくりしたでしょ」
言いながらカナリーは、シーツを鼻の位置まで持ち上げる。
これじゃ体を視認することは叶わないが、わざわざ確かめなくとも裸を見たときの衝撃は覚えてる。
驚きのあまり、しばらくあ然と立ち尽くしたのだから。
「……何か事情があるんだろうと。でもそれを今聞き出すのは無粋だと思った。カナリーも、俺の体にある傷跡について詳しく聞いてきたりはしなかっただろ」
「そっか……優しいね。でも、そうだよ。わたしのこれは、おまじないみたいなものなんだって」
まじない――……というより、あれは。
いや。剣も素人の俺だが、魔術は段違いで素人以下だ。
何者かになりたかった俺は過去、足掻く過程で手広く魔術にも臨みはした。
けれど剣以上に、身についたことが一つも無い。
それこそ神にでも選ばれた才能が、魔術を扱うにはものをいう。
「わたしは罪を、重ね過ぎちゃったね」
「…………」
罪とは、いったい何だ。
賊を殺したこと、豊かな生活を求めて家族を王宮に呼び集めたこと、男と肌を重ねたこと。
責められるほどの罪か? 悪いことなのか?
カナリーを貶めた俺や、依頼者の方がよほど罪深い人間だろう。
たとえば王宮でカナリーの家族を皆殺しにした人物。
正直に言って気持ちは理解出来る。
恐れていたのだ。
カナリーを。
その笑顔の裏に、ありもしない陰謀を血眼になって探し求めた。
孤児院で繋がった人物を炙り出し、諸悪と断じて処分した。
カナリーをずっと疑っていた俺と同じだ。
放つ光が鮮烈過ぎて、直視出来ないから影を求める。
きっとあるはずだと。
自分と同じはずだと。
信心深く、神を信じながら――誰も神のような人間は信じない。
「……レグルス?」
頭を振って、体を起こした。
もう考えても意味はない。
時間もない。
すぐに朝日が差し、ミシェルが訪れる。
寝取りの依頼は完了となり、報酬を受け取ればそれで終わりだ。
その後カナリーがどうなろうと関係ない。
二度と会うこともない。
不安げに俺を見上げる、カナリーの手を握りしめる。
「今すぐここを出よう」
言葉もない様子で、カナリーがじっと顔を見つめてくる。
意味がわからないんだろう。
俺だってそうだ。
自分が何を言い出したのか、はっきりと理解出来ていない。
「出るって……? まだ夜も明けてないのにどこに行くの?」
「どこか遠くへ。助けた商隊の中に知り合いがいる。安全に国外まで移動できるルートも知ってるかもしれない」
「ま、待って、朝になったらセリン達を探すって――」
「王宮に戻ったらあんたは死罪だ!」
焦りから、声を荒げた。
窓の外は少しずつ白み、時間の猶予がないことを告げてくる。
「皆の安否を心配してる場合じゃないだろう! まずここを出て商隊を探そう! セリン達が一緒にいたら、俺一人で向かって――……カナリー?」
握った手を引いても、カナリーはベッドの上から微動だにしない。
どころか逆に、腕を引き込まれてしまう。
「ありがとう。でも、行けないよ」
頬へ添えられたカナリーの手が、気難しく刻まれたしわでも伸ばすかのように顔を撫でる。
「どうして……っ。頼りないかもしれないが、俺は本気なんだ! あんたと一緒なら、俺は本気で生きていけるって……だから――」
「うん。“家族になろう”って言ってくれたこと、嬉しかった」
懇願してもカナリーには届かず、再びシーツへと押し倒された。
「……抱きしめて、レグルス。もっと、強く」
やめろ。
こんなことしてる場合じゃ――。
直後、部屋の扉が控えめにノックされて、動きが止まる。
物音を立てまいと、呼吸まで潜めようとする俺をよそに、カナリーは平然と耳を疑う言葉を発する。
「どうぞ」
「は。失礼しま――……」
馬鹿な。もう止めようがない。
無情にも扉は開き、寝癖の目立つ頭で姿を見せたミシェルは、ベッド上の俺とカナリーを一目して硬直した。
無理もない。
聖女と、ヨタの護衛とはいえ兵士ですらない俺が一糸纏わぬ姿で同衾してるのだ。
混乱を表した複雑な表情で、ミシェルは後ずさる。
「あ……あの……だっ、誰にも言いません! ち、誓って誰にも!」
扉は開け放ったまま、ミシェルはどことも知れず走り去ってしまった。
これで全部、終わってしまったことを意味していた。
寝取りの仕事も。
カナリーとの時間も、全て。
「……よかったね。言わないでいてくれるって」
「言うよ。絶対」
真逆の感想を口にして、カナリーは少し楽しそうにも見える。
心境そのままに虚ろな顔をしていたであろう俺とは、何もかも違った。
心持ちも、覚悟も。
カナリーと二人で孤児院を出ると、朝日が大地を白く輝かせていた。
雪にはくっきりと、馬の蹄の跡が残っている。
昨夜、味方が生き延びているなら領主の屋敷で夜を明かすはずだとミシェルには伝えていた。
彼が屋敷へ向かったと示す跡だろう。
空を見上げたカナリーが、白い息を吐き出す。
「ここで、お別れですね」
何も言葉は出なかった。
飾った台詞も気取った文句も、もはやなんの意味もない。
自ら死地へ赴く馬鹿な女を止める言葉が、あるなら教えて欲しいくらいだ。
一緒に生きようと提案はしたが、一緒に死ぬ気なんか俺には無い。
「……そんなに辛そうな顔をしないで、レグルス。でも、もし苦しんでくれるっていうなら……きっとそれがあなたへの罰」
罪深い人間に対する罰としては、軽過ぎる。
そもそも苦しんでなどいないし、どうせ気の迷いだったとすぐ思い直すに決まってる。
「これ以上苦しまないで、わたしのことは忘れて。……なんて、格好いいこと言えたらいいんだけど。……やっぱりね、ちょっとだけ、嬉しかったりもするんだよ。聖女のくせに、ごめんね」
二人のときは、聖女の仮面を外すよう頼んだのは俺だ。
だから、あやまらなくていい。
接した期間、何度も魅了された笑顔を残して、カナリーは歩き始めた。
「わたしはわたしの罰を、受けなきゃ」
まっすぐ朝日に向かって。
聖女の肩書きを失おうとも、褪せない光。
所詮、俺には直視不可能だったのだと、カナリーに背を向ける。
ビダの村を離れ、雪道を一人、歩く。
まっさらな雪原は見た目の美しさに反して過酷だ。
何か気を紛らわそうと、自然、昨夜のカナリーを脳裏に描き出す。
「――……っ……」
まだいくばくも進んでないのに、息が上がる。
鼓動が速まり、胸が痛む。
仕事と割り切るには甘過ぎた夜が、鋭い凶器へと反転して心臓を抉る。
たまらず立ち止まり、膝を雪に落とした。
顔から雪面に突っ伏し、窒息寸前まで意識を凍りつかせる。
いっそのこと、この場で息の根が止まってくれても構わなかった。
奇行に走った後、びしょ濡れになった顔を拭いもせず地面に横たわる。
濡れた顔面が風で痛み、太陽と青空が歪んだまま固まっていく。
とっとと忘れてしまった方がいい。
カナリーもそう言っていた。
だが絶対に忘れることなど出来ないと確信がある。
たとえカナリーから目を背けても。
眩しいほど輝く朝日が、そうさせまいといつまでも頭上にあったから。