目の前には、コーヒーミルを回す少女が居た。
華鏡よさりは今日も悪夢を見る。
「うぉりゃああああ!」
目の前で少女が手挽きのコーヒーミルをゴリゴリと回している。
時間は昼下がりの午後と言った具合だろうか、夢の中だからか、こういう時間と言う概念は周囲の背景がそういう時間設定と言うだけで、時間概念の関係性はない。
声量に見合わず、光景が地味なのは、コーヒーミルだからだろう。
目の前でコーヒーミルを必死に回しているのはカキョウヨサリ、華鏡よさりを本歌様と呼ぶ、写し身である。コピー、贋作、レプリカなど、こういった言葉には以外にも類語が多いのだが、目の前にいる空色サイドテールのうさ耳少女の事を華鏡よさりは「写し身ちゃん」と呼んでいる。
なお、カキョウヨサリがエプロンを着用しているのはカフェと言う設定が優先されたのか、それとも何かしらの願望が優先されたのか、原因は不明だ。
平和な夢だ……と華鏡よさりは思う。
訳の分からない悪夢が多い中、こうも静かな悪夢は今までなかったのではないかとすら感じる。そもそも、これが悪夢かどうかさえ怪しいところなのだが、彼女が座っているカウンターの奥にはフから始まってンで終わる5文字の名前をした全身タイツの男が、マスターらしきエビフライ頭の男に「アイスミルク、ダブルでね」などと言ってミルクを注文している。だから、これは悪夢に違いない。
さらに言えば、背後のテーブル席に包丁を頭から生やした少女と、頭に豆らしき物をはやした少女か少年か分からない人物がおり、それはもう高くジェンガを積み上げている。そう、ただただ積み上げている。どういう訳か分からないが、何処からかやってきたエビフライ頭の黒服がアタッシュケースをパカっと開けて差し出し、そこからジェンガのブロックを取り出して積み上げて続けている。
この無茶苦茶やっている悪夢は気にしたら負けなのだ。
この夢は、写し身ちゃんが珈琲を淹れてくれているだけの夢だと思わなければならない。
豆を挽き終えた写し身ちゃんはサーバーにドリッパーとペーパーフィルターを乗せ、挽きたてのコーヒー粉を淹れ、ドリッパーを軽く揺すって均す。そして、ドリップポットを片手に、少しだけお湯を注いで蒸らす。
この蒸らし工程はお湯と珈琲を馴染ませるために行われている他、炭酸ガスが放出される為、表面が膨らんでくる。
ちなみに珈琲は紅茶と違って、淹れ方が数多く存在している。英国人ならば泥水に掛ける苦労と労力が理解できない程度の皮肉を言うかもしれないが、本当に数多くの淹れ方が存在している。
まず、メジャーなペーパードリップ、それ以外にもフィルターが金属の物であったり、ネルというウール繊維のフィルターであったりする物の他、紅茶のように容器にコーヒー粉を入れ、お湯を注いでそのまま抽出し、その後にろ過するフレンチプレス。粉と水を別々にセットし、気圧差を利用して抽出するサイフォン。さらには高温高圧で抽出するマキネッタなどが存在する。マキネッタで抽出された珈琲をエスプレッソと呼び、別にエスプレッソマシーンを用意しなくとも、エスプレッソを楽しめたりする。なお、イタリアではエスプレッソに大量の砂糖を投入し、ドロッドロの状態にして飲むとかなんとか。
閑話休題、コーヒーが蒸らし終わると、中心からゆっくりとお湯を注ぐ。速度もお湯を入れる量も一定で、丁寧に「の」の字を描きながらコーヒーをドリップする。
写し身ちゃんがドリップし始めると、芳醇な珈琲の香りが漂い始める。おそらく、珈琲の香りが最も強く表れるのはこの淹れている瞬間なのだろう。目を瞑ってみれば、実に味わい深い時間ではないかとさえ思えた。
土臭さとも言えるやや苦みを帯びた中に、フルーティーな香りが混じっている。思いをはせれば、珈琲農場が思い浮かばれる。一面に広がるコーヒーノキ、土の香りは焙煎されただけだろうか? その土地の香りを含んでいるのではないかと思わせる。コーヒーノキになるのは赤い実で、フルーティーな香りはそこから来ているのだろう。
「どうぞ!」
そんな香りを楽しんでいると、写し身ちゃんが珈琲を提供してくれた。
コーヒーカップとそれが載せられているソーサーは陶器だった。煤竹色という茶色をくすませた地味だが落ち着いた色の物だった。嬉しいのは白い兎の染付が施されているところだ。イラストのように可愛いというよりは、手書きだろうか、とても味わい深い絵柄をしていた。
「ありがと、写し身ちゃん」
提供された珈琲に角砂糖を入れ、角砂糖の断末魔を楽しんだ後にスプーンでかき混ぜる。そう、角砂糖の断末魔を堪能してからかき混ぜるのだ。そして、ミルクを入れる。するとどうだろうか、ミルクは珈琲の中を漂うように舞い、目で楽しませてくれる。
目で楽しみ、香りが鼻腔をくすぐり、そして口に含んでその味を楽しむ。一見無駄に見えるかもしれないが、実際、これと言った意味はないが、料理を食べて美味しい、楽しいと言った感覚に非常に近く、目で、鼻で、舌で楽しむというのは、大切な物なのだ。そうでなければ、世界はとてもつまらない物になってしまうのだから。
苦みはミルクで角が取れ、まろやかな味わいと砂糖の甘みとフルーティーな香りに包まれる。まさに、至福の時と言う物だろう。
「本歌様、後ろ~」
そう言いながら、写し身ちゃんは逃げるようにそこからいなくなる。
「なに―――」
ガシャーンと言うべきか、それとも、ドシャァーと言うべきか、それは雪崩のように華鏡よさりを飲み込んだ。
何が? ジェンガである。高く、高く積み上げられた崩れさり、それが華鏡よさりを襲ったのである。
ジェンガに襲われたという感覚だけはあったが、衝撃は無かった。
気づけばベッドの上、夢から覚めていた。
鼻腔をくすぐったコーヒーの香りはどこへやら、彼女は日常へと引き戻されたのであった。