深まる寒さの和らいだ、ある暖かい午後のことだった。D.U.を訪れていた錠前サオリは、どうせなら挨拶でもしていこうか、なんて気を起こして、シャーレの先生の勤め先へ立ち寄っていた。
エアコンの快適さを享受することにも慣れ始めたサオリだが、今日の陽気をますます助長されるようで、溜息をついた。眉間に軽く皺を刻みながら白いコートを脱ぎ、腕に抱える。
当番の仕事でやってくる他の多くの生徒と同様、サオリもまた、入館許可を発行されている。学生証を翳せば、すぐさまゲートが道を開けてくれた。もはや意味をなさなくなったアリウスの学生証も、モニターのひび割れたスマートフォン共々、まだ捨てるわけにはいかなかった。エレベーターを抜けてオフィスフロアにやってくれば、そこから先は足が道を覚えている。
「……?」
いざシャーレの執務室の前まで来ていれば、「お休み中」なんて手書きの札がドアノブに下げてある。それにも関わらず、ドアが半開きだ。人の気配を探る。誰もいないのだろうか。不穏な静けさだった。半ば無意識にライフルを肩から下ろし、サオリはドアを押した。
「…………」
息を殺して、耳を澄ます。音を立てないように、抜き足、差し足、忍び足。半歩以下の歩幅で少しずつ前進しながら奥へ。
「あっ」
この部屋の管理者は、静かに寝息を立てていた。ソファーに寄り掛かり、無防備にも眠りこけている。ブランケットがソファーの端に畳まれたままで、誰かのプレゼントなのか、モモフレンズのクッションが腿の下で潰れている。まさか事切れているまいな、と観察してみれば、彼の胸郭は呼吸に合わせて上下している。念のために手首に軽く触れてみれば、脈もあった。
「……昼寝中か」
肺で緊迫させていた空気をふうと吐き出し、サオリは銃の安全装置をかけ直した。パソコンのモニターは暗転したままになっているが、ファンの回る音が微かに聞こえている。暖房の風が吹いてきて、サオリの前髪を揺らした。「呑気なものだ」と内心で呟き、サオリもソファーに腰を下ろした。先生を起こしてしまわないよう、慎重に。
数分そうしていたサオリだったが、元々大した用もなく立ち寄っただけだ。すぐに帰ろうと思って立ち上がろうとした瞬間、思う所があって、また尻を沈めた。
――あまりにも不用心だ。
この大人には、望みを武力で叶えようとする攻撃性も、多少の銃弾はものともしない耐久力も備わっていない。流れ弾でも浴びようものならそれだけで致命傷だ。銃弾を撃ち込んだ張本人だからこそ、サオリにはそれが良く分かっていた。だからこそ、こうも隙だらけな先生に、怒りとも不安ともつかない焦燥感を覚えた。
ここにやってくる生徒の全てが、先生に味方するとは限らない。彼の存在を利用して、己の利益とする――たとえば、人質に取って連邦生徒会へ脅しをかけるとか――そんなことはサオリも容易に考え付く。
彼の指揮は、寄せ集めの生徒たちを百戦錬磨の小隊へと変貌させてしまう。サオリは身をもってその脅威を実感していたし、それとは逆に、彼の指揮を受けて戦った時の不思議な心強さも記憶に新しい。それを武力として利用することができれば、どれほど強力な集団を形成できることだろう。
――先生を悪用させるわけにはいかない。
今日はアルバイトの予定もない。誰かが来るまで、あるいは先生が目覚めるまで、番犬を務めよう。どうせ昼寝なら、すぐ目覚めるに違いない。そう考えて、サオリはソファーに深く座り直した。今日の出費を家計簿アプリに入力しながら。
十分経ったし、そろそろか。
いや、あと十分ぐらいか。
時計と先生の横顔を視線が往復しつつ、ゆったりと時間が過ぎていく。サオリは時折手を翳し、濃紺に彩った爪を見上げた。あまり丁寧に扱っていなかった割に、マニキュアは剥げていない。生活費を稼ぐ手段が、肉体労働からサービス業へ変わり始めたおかげだった。
サオリがある程度安定して仕事に就けるまで協力してくれた先生がこの爪を見たら、どんな反応を示すのだろうか。きっとお人よしな彼のことだから、好意的なコメントの一つでもしてくれるに違いない。そんな期待に微かな火照りを覚えていると、サオリの聴覚が足音を捉えた。
* * * * *
「やっほー! 先生いる?」
――この声は……!
サオリは体を起こし、床を踏みしめた。ライフルを手に取ろうとした瞬間、聞き覚えのある声の主が、見覚えのある白とピンクのカラーリングと共に視界に入ってくる。
「サオリ……!」
「聖園ミカ……!」
かつて命のやり取りをした相手を目にして、戦意が高揚した。だが、急激に込み上げるアドレナリンを堪えて、サオリはすぐに銃を手放した。後から聞いた話だが、結果的には同じ目的のために彼女と共闘したのだ。もはや銃を向ける理由もない。それはきっとミカも分かっていたのだろう。サブマシンガンは彼女の肩から下がったままだった。
「何してるの、こんな所で」
「お前こそ、何をしに来た」
「私? D.U.に用事があって、そのついで」
「……私と同じか」
「サオリも、先生に会いに来たの?」
「挨拶ぐらいしておこうと思っただけだが――見ての通りだ」
「……あはっ。スヤスヤ~☆」
「こんな無防備な所を放置しておくわけにもいかないだろう」
「それもそうだね~」
白い羽根を揺らしながら、ミカが近寄ってくる。
「休み中と札が架かっていたようだが」
「見たよ。でもシャーレまで来ておいて、すごすご引き返す生徒なんていなくない? ここに先生がいないならまだしもさ」
「……はぁ」
その通りだ、と思ってしまう自分に、サオリは溜息をついた。そんな彼女にはお構いなしとばかりに、ミカもソファーに腰かけた。二人で先生を挟む位置取りだ。ミカは身を寄せて、先生の緩んだ頬を指先でつついて遊んでいる。投げ出された手の甲をじっと見つめたと思ったら、指の本数でも確かめるみたいに、一本一本を摘まみ上げては「ふーん」だの「へー」だの言っている。
「先生って女爪なんだー。形が揃ってて綺麗だなー」
「手が荒れてないのは、やっぱり戦わないからなのかなぁ」
「あは、掌おっき~☆」
「ね~、まだ起きないの?」
――口を閉じていられないのか、こいつは。
サオリが呆れ果てていると、ミカはやがてポーチを取り出し、何やらゴソゴソやり出した。サオリにも覚えがあるマニキュアセットが出てきた。まさか、と思っていると、ミカは躊躇なく先生の手の甲を膝に乗せ、ベースコートを塗り出した。
「お前、何をしているんだ」
「見れば分かるでしょ? 綺麗な爪してるから、もっと綺麗にしちゃおうかな、って」
「先生の手を、か……?」
「だって、こんなにぐっすり寝てて退屈なんだもん」
ミカの手つきは手慣れたものだった。一つの指が乾くのを待つ間、他の指に取り掛かり、ぼんやり眺めている間にマニキュアのボトルの蓋が開く。
「もしかして、全部塗るつもりか?」
「そうだよ。サオリはやらないの?」
「くだらん」
「ふーん。じゃあ、両手とも私の色に染めちゃおっかな☆」
「…………っ!」
勝ち誇る笑みが、サオリに火を点けた。ジリジリする苛立ちのままに、鞄を開く。起こしてしまわないよう慎重に先生の右手首を掴み、膝に乗せた。その瞬間、先生が身じろぎして、二人で顔を見合わせる。また彼が寝息を立て始めたのを合図に、堰き止めていた息を送り、ミカが作業に戻る。
「なーんだ。サオリもオシャレなの持ち歩いてるんじゃん」
揶揄うようにミカが笑う。サオリはそれに答えず、生爪に筆を走らせた。先に施術を済ませてマウントを取ろうとでもいうのか、お喋りなミカも言葉少なになって――奇妙な沈黙が執務室に満ちていく。時おり先生がいびきを立てるたびにミカは口元を緩めていたが、それに釣られるのは何かに負けてしまうような気がして、サオリはマスクの内側で努めて唇をきりっと結んだ。
そうして二人が手作業に没頭していると――新たな足音が近づいてきた。
* * * * *
「あなた達……先生から離れなさい!」
白狐の仮面。太い尻尾。黒ずくめの制服。赤いインナーカラーの黒髪。お尋ね者の狐坂ワカモだ。
「しーっ。先生が起きちゃうよ!」
「え? あら……」
警戒心を表すようにピンと狐耳を立てるワカモに、ミカが人差し指を立てた。ワカモの放つプレッシャーなど全く意に介していないのは、己の実力への自信ゆえだろう。それはサオリも同じだった。
「あなたは、ブラックマーケットの……」
「錠前サオリだ。見知らぬ間柄でもないだろう、狐坂ワカモ」
「えっ、サオリってそんな所に出入りしてるの? あ……そっか……」
ミカがぱっちりした目を伏せた。
「もっといい住処を見つけるまでの繋ぎだ。お前に同情される筋合いはない」
「嫌な言い方~」
「いいのか? 手が止まっているぞ? 残りの爪を全て頂くぞ?」
「むか~っ……!」
さぞかし意地の悪い薄ら笑いだろう、とサオリは半ば自嘲していた。
「それで、何をなさっているのです?」
「う~ん……イタズラかなっ」
「こいつを図に乗らせたくない」
「あらあら……」
目線をぶつけ合う二人を見て、ワカモが含み笑いした。コツコツブーツを鳴らして、ソファーに近づいてくる。眠る先生の顎へ、猫を愛でるように指を伸ばし、前髪を軽く持ち上げると、ワカモは手を遠ざけた。
「ふふ……面白そうです」
まさかこいつも――とサオリが予感すると、まさにその予感通りに、ワカモも鞄を漁りだした。だが両手は既に塞がっており、サオリ自身はもちろん、ミカも譲るつもりは全く無さそうだ。ワカモの出方を窺っていると、取り出されたのは、細い筆。化粧瓶が後を追うように掌へ収まった。
「……安らかな寝顔。ささやかですが、魔除けのまじないを施して差し上げましょう♪」
「えっ、顔!? 顔はまずくない?」
「両手の爪を弄るのも大差ないでしょう」
「一体何の集まりだ、これは……」
「クーデターの首謀者と、テロの実行犯と、脱獄した七囚人?」
「……不良の集団か。ロクでもないな」
「全くですね」
これだけの危険人物が集まっていながら、ここで砲火を交えればどうなるかは、三人とも分かっている。エデン条約よりもよっぽど強力な不可侵条約の張本人は、イタズラをされているにもかかわらず、呑気に眠っている。皮肉なぐらいに平和な空気の中、右手は濃紺に、左手はピンクに、目元には紅まで引かれていく。
「……できたっ」
「こちらもだ」
「えっ、早くない?」
「装飾は施していないからな」
負けん気を起こしていたことは伏せて、サオリは先生の右手をそっと離した。マットな質感の濃紺が、骨っぽくてゴツゴツした手の爪を覆っている。ほんの僅かに身を乗り出してみると、ミカが塗っていた左手の爪は、彼女の髪色のような淡いピンク色だ。ラメが施されて、キラッと光を反射していた。超速乾性のマニキュアはもうすっかり乾ききっており、指先でつついてもビクともしない。最も遅れて作業を始めたワカモも、一通りの作業を終えたようで、筆と瓶が仕舞われていく。上の目蓋を縁取るように、赤いアイラインが引かれていた。
さて、いまだ目を覚まさないこの大人をどうしようか。
三人で顔を見合わせていると、ソファーの体が動いた。
* * * * *
「……ぅん、ん~……」
瞼が薄く開き、ゆったりと瞬きを繰り返しながら、先生が目を覚ました。サオリと目が合い、反対側を見て、正面を見て、素っ頓狂な声があがる。
「こっ、これは一体!?」
「おはよう、先生」
「あぁ、ミカ、おはよう――って、おわっ!?」
先生が左手に気づき、また悲鳴が上がる。
「右手も見てみろ」
「うおっ、ええ!?」
「はい、あなた様。お顔をご覧ください」
「わぁーーーっ! 百鬼夜行の顔!?」
ワカモに差し出された手鏡を覗き込んで、もう彼の眠気はすっかり拭き飛んだようだった。屈託なく笑うミカと、お面の下でクスクス笑うワカモに釣られて、サオリもマスクの内側で笑みを浮かべていた。
「もしかして、これ、三人が?」
「はい。あなた様が、あまりにも安らかにお休みになっているもので……」
「入口に『お休み中』って札をかけてたんだけど……」
「それ見たからって引き返すわけないじゃん」
「それに先生。施錠していなかっただろう。いくら何でも不用心すぎる」
「……ああ~。仮眠室に入ろうと思ってはいたんだ。でも、ドアを閉める前に、ソファーで――はぁ。そうだね。これじゃ言い訳だ。サオリの言う通りだよ」
先生は観念したように肩の力を抜いた。
「あなた様。目元のクマが、少々目立っておりました。ちゃんと休息を取れておりますか?」
「ああ、うん。それは大丈夫だよ。一時期よりはよくなったから。……それより」
先生が、サオリと、ミカと、ワカモと、それぞれ目を合わせた。
「何とも不思議な組み合わせだね」
「みんな不良生徒だよ」
「……まぁ」
「間違いでは、ありませんわね……」
「……この三人で争いになってなくてよかったよ」
「それはまぁ、うん」
「ここで撃ち合いになっては、あなた様が巻き添えになってしまいますゆえ……」
はにかむ先生に、サオリは何も言わなかった。もしもそうなったら、なんて想像すると、こめかみを汗が伝うようだった。
先生と談笑する二人を眺める。
サオリが思っていたよりも、聖園ミカは社交的だ。
狐坂ワカモも、噂に聞いていたより大人しい。
この和やかな雰囲気には自分がそぐわないような気がしてきて、サオリはコートを羽織った。ライフルを肩に担ぎ、ソファーを立ち上がる。元々軽く挨拶をする程度の用で立ち寄ったのだから、と自分に言い聞かせて立ち去ろうとすると、やっぱり先生はサオリに声をかけてきた。
「お昼を食べていなかったから、ちょっとカフェにでも行こうと思って。サオリもどう?」
「食事には困っていない。施しは不要だ」
「これの報酬ってことで、どう?」
濃紺に塗られた五本の爪が、サオリを引き止めた。
「不良生徒の悪戯だぞ?」
「サオリの悪戯なんて、お金を払うだけの価値があるよ」
目弾きの紅を引かれた目元が、緩む口元に釣られて笑っている。それでもなお躊躇するサオリを、自分の爪が見上げていた。
「……分かった。お言葉に甘えさせてもらう」
観念する思いでそう告げると、サオリは自分の肩が軽くなったような気がした。自然と同席することになったミカもニコッと微笑んでいたが、ワカモの表情は、仮面に阻まれて読み取れなかった。うっすらと敵意を抱かれているような気がしないでもなかったが、先生が中心にいる間は、少なくとも何も起こらないだろうという確信があった。
「さて、行こうか。四人なら一つのテーブルに収まるし、ちょうどいいね」
「本当に『そのまま』でカフェに行っちゃうんだ、あはっ」
「うふふ……お化粧がよく似合っておりますよ、あなた様」
執務室を施錠して踵を返す先生に、ミカとワカモは、腕を組まんばかりに距離を詰めている。それでも、肌の色やシャーレの白いジャケットから覗く色は、紺色の爪が最も目立っている。
「……ふふ」
マスクの中で、サオリはこっそりと口元を吊り上げていた。
終わり
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