ハツミは誰かに揺り起こされ、深い眠りの中から急速に引き戻された。
「誰?今何時?」
「もう朝八時だ」ロボットの顔がのぞき込んでいた。ロボット?ああ、そうそう、ええとたしか……ガンボットだ。ハツミは思い出した。
ほんの一瞬しか眠っていないように感じたけど、よほど眠りが深かったのだろう。窓からはすっかり上った太陽の光が差し込んでいた。
ハツミは毎朝やるように反射的に携帯を取り出して開き、画面を確認すると「うげっ」と声をあげた。パパとナオミから合計二十件くらいの着信とメールが入っている。パパとはまだ口をききたくなかったので、ハツミは「ごめん、友達の家に泊まった。もうじき帰る」とだけ返信しておいた。次いでナオミに電話する。着信音が二回鳴らないうちにナオミは出た。
「あんたどこにいるの?いったい何してるの」いつもおっとりしたナオミには珍しい激しい口調で彼女はまくしたててきた。
「ごめんごめんごめん、心配させちゃって」
「心配したどころじゃないよ、わたしのママなんか半泣きだったんだよ?」
ナオミのママは、昨晩あのあとハツミのパパに電話してくれたそうだ。それで、年頃の女子は難しいからとかなんとか上手い事言い含めて、今夜一晩はうちでお預かりしますから安心してください、と請け合ったらしい。
「なのにいつまで待ってもあんたは来やしないしメールも電話もよこしゃしないから、うちのママ、何かあったら私の責任だ、ってもうおろおろしてパニクって大変だったんだから。それでうちも一睡もできなかったんだからね!」
「ほんとごめんね」ハツミは平謝りするしかなかった。「でもさ。聞いて、凄い話があるのよ」
「何?」
「ワニ人間。見たのよホンモノ!物凄い近くで」
「うそ。どこで?いつ?」
ハツミは、今までのことをかいつまんで伝えると、家に帰って一息ついたらすぐにナオミの家に向かうことを約束して電話を切った。ワニ人間に誘拐されそうになって生還した子供などアリゾナ、いやアメリカ広しといえども自分ひとりだろう。このネタで、もうこの先半年くらいはクラスの話題を独占できるに違いない。
「出発しよう」ガンボットは電話の間中黙って横に立っていたが、ハツミが電話を切ると促した。「周囲を偵察したが連中はもういない。安全に移動できるはずだ」
「ちょっと待って、喉乾いた」ハツミはかすれた声で言った。「あんた水持ってない?」
「持っていない」ガンボットは素っ気なく答えた。「俺は水は嫌いだ。水に濡れると故障のおそれがある」
「そ、そうなの?」ガンボットの断固とした口調にハツミは面食らった。だが、相手はロボットだということを思い出した。機械というのは石頭だから、何もかも説明してやらないと分からない、とパソコンの授業で習ったっけ。
「ええっとね、それはわかるんだけど、人間の子供の身体は七割が水でできてるの。で、毎日水を飲まないと命にかかわるの。わかる?」ハツミは 丁寧に教えてやった。
「知っている」ガンボットはそっけなく答えた。「君がこの隠れ家に来ることは想定していなかったから水は用意していない。だが町まで歩けば手に入るだろう。それまで耐えられるか?」
「うん、大丈夫……了解」映画に出てくる召使ロボットみたく「はいどうぞ」とミネラルウォーターを差し出してくれると期待していたのに。ハツミは、がっくりとうなだれた。
「その前にトイレ。あと髪整えるから待ってて」ハツミは靴を履くと、そう言い置いて階下に降りた。
カウンターの後ろにトイレの扉を探し当てて開けると、トイレの中はクモの巣だらけだった。顔をしかめながらクモの巣を払うと、用を足し、水が流れないことに気づくと、ハツミはますます顔をしかめトイレから出てそっと扉を閉めた。
トイレの扉の横にある洗面台も、やはり水は出ない。洗面台の上にある曇り切った鏡を見ながら髪型を整えていると、ガンボットが降りてきた。
「ねえ、隠れ家って言ってたけど、これあんたの隠れ家なの?」ハツミは髪をとかしながら尋ねた。
「俺の、ではない。俺が所有しているわけではない。だが隠れ家として利用している」
「利用?」ハツミは疑わし気に聞き返した。「それって犯罪じゃないの?不法侵入とかなんとかいう」
「ゴキブリやネズミやタヌキは廃墟を住処として利用することがある」ガンボットは落ち着き払って答えた。「人間でないものには不法侵入は適用されない。俺も人間ではない。だから不法侵入は適用されない」
「へえ、そうなんだ」髪を手でとかしながらハツミは驚いて言った。「じゃあわたしは?」
「君には適用されるかも知れない。だが目の前に長らく誰にも使われていない家があるのに、石だらけの荒地でコヨーテを警戒しながら子供が野宿するというのは不合理だ。君が後で実際に罪に問われるかどうかはわからないが、俺は君の生命状態を最善に保つことを考慮して判断を下した」
ガンボットは淡々と続けた。「俺のプログラムはあらゆる法違反の可能性を防ぐため未成年の生命を危険に晒すほど柔軟性がないわけではない」
「ええっと要するに……機転をきかせたって、やつね。ロボットにしちゃなかなかやるじゃん」 ハツミはやっと髪型に満足した。「おまたせ。いこ」
ハツミが廃墟から出ると、空は抜けるような快晴だった。北のほうに見当をつけて歩き出すと、ガンボットは後ろからついてきた。
「おなかすいちゃった。早く帰って朝ごはんたべたい」ハツミは気持ちのいい朝の陽ざしを浴びながらのびをした。
「そうだ。君は早く食事をとったほうがいい。それと、これから気温が急激に上がるだろう」
「そうだね、でもどうして?」
「君は水分をとっていないし朝食も食べていないから、衰弱する可能性が、若干ながらある。俺におぶさっていったほうがいいと思うが」
「いいよいいよ」ハツミは苦笑いし手を振って打ち消した。夜中ならともかく、朝っぱらから、人に――じゃなかったロボットに――おんぶしてもらって家に帰るなんて格好悪すぎる。
だが、ポツンポツンと灌木が生え、ゴロゴロと大小の岩が転がる荒地をしばらく歩くとハツミはもう疲れてきた。ペースがどんどん落ち、ガンボットが先に立つ形になった。
「おなかすいた」ハツミは呻いた。「ねえ、本当に何か食べ物持ってない?」
「持っていない」ガンボットは即座に答えた。「もしかすると岩の下に食用できる虫がいるかも知れない」
「ふざけないで」ロボットを睨みつけると、ハツミはまた黙って歩き始めた。
それから三十分以上も歩き続けると、やがて荒地のはるか向こうに市街地が見えてきた。やった、とばかりにハツミは顔を上げた。遠くに見慣れた住宅地を認めると、ハツミは走り始めた。やっとなつかしい我が家に近づいてきたのだ。
「あれ?」もうじき二十四番通りが見えてくるはずのところで、ハツミは奇妙なことに気が付いた。
百メートルほど向こうに、いつの間にかできたのか、鋼鉄製の骨組みにカーキ色の丈夫そうなキャンバス布を張り付けたフェンスが、行くてを阻むように横一直線に立っている。
ハツミは一瞬戸惑って立ち止まると、また歩き始めた。一体なんだろう。昨日まではこんなもの、なかったのに。
近づくにつれて、ハツミはますます戸惑った。フェンスは右を見ても、左を見ても、見渡す限りの長さで続いている。後ろから追いついてきたガンボットに、ハツミは聞いてみた。「ねえ、あのへんな壁、なんだと思う?」
「あれは軍事用の即席フェンスだ」ガンボットは言った。「折りたたんだ状態でトラックの後ろに積載されていて、一方の端を地面に固定しながらトラックを走らせると、たった数秒で百メートル以上の長さのフェンスが設営できる」
「なんであんなものがあるんだろう」
ハツミの質問にガンボットはしばらく沈黙していた。
「やだなあ、家に帰るのに遠回りしなきゃならないじゃん」ハツミはこぼした。「家に着く前におなかすいて死んじゃうよ」
ハツミとガンボットがさらに進むと、壁は水も漏らさぬようにびっしりと隙間なく建っていることがわかった。向こう側には二十四番通りがあるのだろうが、キャンバスに阻まれて向こうがどうなっているのかはまったく見えない。
ふたりは壁の目の前にまで来た。ハツミがキャンバスに手をかけて押すと、中に大小の石がぎっしり詰め込まれているのが感覚でわかった。
「なんなのこれ一体?」ハツミは言った。「なんでこんなこと?誰かが攻めてくるわけでもあるまいし」
「国境線が復帰した、ということか」ガンボットがつぶやいた。
「なにそれ?」ハツミは聞き返した。
「まだ断言はできない。だがここはちょうど、国境廃絶前にはアメリカとメキシコの国境だった場所だ」
「ねえだからなにそれって聞いてるんですけど」ハツミは焦れた。「国境なんてもうとっくの昔になくなったんじゃないの?」
だがガンボットはそれ以上何も言わなかった。
ハツミは首を振るともう一度あたりを見回した。壁に沿って五十メートルほど東側にパトカーが一台止まっている。ハツミは小走りに近寄ると、パトカーに寄りかかって立っていた警察官に手を振った。警察官は吸っていたたばこを地面に投げ捨てるとゆっくりと歩いてきた。
「すみません。わたしサンルイスに帰るとこなんですけど」ハツミはせき込むようにして尋ねた。「この壁ってどこから通り抜けられるんですか?」
だが、口ひげを生やした肥満体の男の警官はきょとんとした顔をしていた。英語が通じないのを見てとるとハツミはスペイン語に切り替えてもう一度同じことを尋ねた。
「おじょうちゃん、悪いがこの壁は通れないんだよ」警官はすまなそうに言った。
「通れない?どういうことですか?」ハツミは一瞬相手の言っていることが理解できなかった。
「これはそもそも俺たちがやったんじゃない。アリゾナ州政府の仕事さ」警官は仕方ないという風に肩をすくめた。「ワニ男たちが大量発生したせいでね。州の住民がおびえているので、壁を作って通れないようにしたとさ」
ハツミはまだ半信半疑だった。「でもそれじゃ困るんです。私の家はこのすぐ先なんです。パパも心配しているし、家に早く帰らないと」
警官はパトカーに戻ると、無線で何か話し込んでいたが、また戻ってきた。首を振っている。「おじょうちゃん、本当に気の毒だが、壁を越える方法はないんだよ」
「ないって……」ハツミは絶句した。
「理由はワニ男がうろついているからってだけじゃない。奴らが持っているウィルスが危険だとかで、アリゾナ州政府は当面誰も南からの人間は通さないそうだ」
「そんな、そんな」ハツミは地団太を踏むように地面を蹴って叫んだ。「それじゃ家に帰れない。わたしにどうしろっていうの?」
「巡査、彼女はミュータントではないよ。見ればわかるだろう」いつの間にか近づいてきたガンボットが警官に話しかけた。
「何だこいつは?」警官は面食らってガンボットの顔をまじまじと眺めた。
「ハロウィンはまだ来ていないぞ?」
「ガンボットっていうロボットです。私の命を救ってくれたの」ハツミは説明した。
「とにかく俺たちが決められることじゃないんだよ」警官は言った。「なにしろ向こうさんは、ワニ男のウィルスに感染すると自分もワニ男になるとか、ワニ男がどんどん増えるとか言って、もうすっかり震え上がっちまって絶対に国境を開けようとはしないんだ」
「そんなバカな話があるものか」ガンボットが遮った。「ミュータントが未知のウィルスを持っているというならわかるが、ウィルスに感染して人間がミュータント化するなどありえない。奴らと人間とは完全に別種の生物だ」
ロボットのずけずけとした物言いに警官は顔に困惑の表情を浮かべたが、ガンボットは構わずに重ねて主張した。「それこそデマというやつだ。そんな非合理的なことをあんたら人間は信じるのか?」
だが警官はうるさいやつだなとばかりに首を振って片手をあげた。「とにかく俺たちに言われても困るんだ」
「じゃあ誰に言えばいいんですか?」ハツミは必死で食い下がった。「アリゾナの担当者につないでください。私が自分の住所と電話番号を言えば身元がわかるでしょう?」
押し問答を続けていると、もう一台のパトカーがやってきた。年かさの白髪頭の男性警官と、縮れた髪をポニーテールにした若い女性警官が降りてくる。
「お願いです、アリゾナ州の警察の人と話しをさせて」ハツミは彼らに懇願した。「私の家はすぐそこなんです」
白髪の警官が両手を広げ肩をすくめた。「おじょうちゃん、そういう要請は何度もあって、我々も向こうと話をしようとしたがダメだったんだ。今後いつ通行を再開するかは、これからアメリカとメキシコの上層部で協議して決めるそうだ。アメリカもメキシコも国家非常事態宣言を出している。こんなことはここ数十年間なかったことだ」
「その協議って、どれくらいかかるの?」ハツミは聞いた。「何日くらい?」
「わからない」白髪の警官は首を振った。「とにかく、アリゾナ側は恐ろしく強硬な態度をとっている。これまでワニ男の問題を放置してきたと言って、我々メキシコ人を激しく非難している。それで、この壁を越えるものは誰であれ催涙弾で鎮圧してメキシコ側に強制送還すると言っているんだ」
「でも、でも」ハツミは諦めなかった。「例えば、もしも壁の向こう側に私の身元を知っている大人を呼び出して、その大人が向こうの警官に話をしてくれれば通してもらえますよね?」
「さあな。うまくいけばね」白髪の警官は肩をすくめ、もう一人の男の警官と顔を見合わせた。「ただ、今は向こうに行くのはちょっとお勧めできないな」
ハツミは相手の話を最後まで聞かず、ポケットから携帯を取り出した。もう気まずいなんて言ってられない。パパに電話して迎えに来てもらおう。だが携帯の画面を見ると、市街地から離れ過ぎているのかアンテナは一本も立っていなかった。
「ああもうっこんな時に」ハツミはもう少しで携帯を地面に叩きつけそうになった。「ねえおじさん、警察の無線機か何かで、私の家に連絡できませんか?」
そのとき白髪の警官がハツミを制するように片手を挙げ、次に人差し指を自分の口に押し当てた。
「どうしたの?」
白髪の警官は壁の向こう側に顎をしゃくった。遠くから パーン パーン という銃声が散発的に聞こえてくる。
「正直言って今向こうに行くのはお勧めできんよ」白髪の警官は言った。「聞いた話じゃあサンルイスの町全体がパニック状態で、何人かワニに喰われた人間もいるらしい。奴等を駆除するためにアリゾナ州外からも応援の警官隊が駆けつけてるそうだ」
「むしろしばらくこっちにいるほうがいいと思うぞ」若い方の警官も言った。「皮肉なもんさ、アメリカ側は今ほとんど戦争みたいな騒ぎなのに、今朝からメキシコ側はこの周辺でワニ男は一匹も出ていないんだ」
「戦争って」ハツミは絶句した。だったらなおさらこんなところにいるわけにいかない。家族のところに戻らなきゃ。
そのとき、女性警官が近寄ってきた。「ねえおじょうちゃん、あなたのことは私達が保護してあげられると思うの」彼女は体をかがめてハツミの顔を覗き込んだ。「国境の前で待ち続けるよりもまず寝るところが必要でしょ?私たちの町にちゃんとした児童保護施設があるわ。そこに連れて行ってあげる」
「保護施設?そんなのいや」ハツミは叫んだ。「信じられない。家はあとちょっとなのにどうしてこんな壁に邪魔されて施設なんかに入る羽目になるの?」
「君らが彼女を抱え上げて壁の向こう側に降ろせば済む話だろう」ガンボットが再び口を挟んだ。「あるいはナイフでキャンバスを切り裂いて石を取り除けば彼女自身で越えられるんじゃないか」
「そうよ、お願い」ハツミは大人達の顔を交互に見上げて言った。「お願い。わたしを向こう側にいかせて。一生のお願いだから」
だが、三人の警官たちはみな一様に残念そうな顔をするばかりだった。
「そんな」ハツミは絶望的に目を見開くと、がっくりと膝をついた。
「絶対にだめなんですか?向こうにいる誰かにみつからないようにそうっと壁を越えたらいけないんですか?」あきらめきれないハツミは弱々しい声で尋ねた。「迷惑はかけません。ただ、ちょっとだけあっち向いててくれるだけでいいんです」
だが警官達は首を振った。
「やれやれ、人間というものはロボット以上にロボットらしいものだな」ガンボットは誰に言うともなくつぶやいた。
「おじょうちゃん、今は仕方ないの」女性警官が手を伸ばしてハツミの肩に置いた。「私達ができるかぎりのことはしてあげたい。でもここを越えることだけは無理なのよ。こんなところにいつまでもいたら干からびちゃうから、私と一緒に行きましょ?」
「いや」ハツミは彼女の腕をはねのけると、西の方向に向かって走り出した。少しでも家のほうに近づきたい。だが何か叫び声が聞こえて振り向くと、女性警官と若いほうの男性警官が追いかけてきた。
捕まったら施設に入れられる!そう思ったハツミは思わず叫んだ。
「ガンボット、わたしを逃がして!」
パトカーの傍らに立っていたガンボットはばね仕掛けのように走り出した。警官たちをあっと言う間に追い抜いて、ハツミに追いつく。ガンボットはハツミを片手で抱え上げると、さらにスピードをあげた。
「うわわわ」ロボットに抱えられたハツミは顔に凄い風圧を受けておもわず声をあげた。ジェットコースターに乗っているような速さで進んでいる。後ろを振り返るとみるみる警官たちが遠くなっていった。
一分もすると警官たちはゴマ粒みたいに小さくなっていた。やがて速度をゆるめたガンボットはハツミを降ろした。パトカーが動かないところを見ると、車で追いかけるほどの事件でもないと彼らは判断したらしい。
ふたりはブロクラタの市街地に入りそのまま西に向かって歩き続けた。だが、疲れ切ったハツミは住宅と商店の間にある公園を見つけると、倒れこむようにしてベンチに座り込んだ。
「もうどうしたらいいの?」ハツミは泣きながら顔を手でおおった。勝ち気なハツミは滅多なことでは泣いたりしなかったが、こればかりはもう涙をこらえきれなかった。
ガンボットは手を伸ばすとハツミの背中を軽くさすった。
「ありがとう。あんた優しいね」ハツミは手で自分の目をぬぐった。
「泣いている人間にはこうするようにと命令されている」
「あんたさあ、たとえ本当のことでもそういうのは口に出して言わないほうがいいよ。イラっとするんですけど」ハツミは注意した。
「俺に考えがある」ガンボットは言った。「誰にも見られずに国境を越えられる道がある。ここから少し旅をする必要があるが」
「今、何て言った?」ハツミは意味が理解できずに聞き返した。
「誰にも見られずに国境を越えることは可能だと言ったんだ」
「どうやって?」
「アリゾナ東端近くのビスビーという町に廃鉱がある。その町から国境をはさんだすぐ差し向かいにあるメキシコ側に貯水池があり、その貯水池の脇から伸びている地下用水路が鉱山の古い坑道につながっているんだ」
「どうしてあんたがそんなことを知ってるの?」
「俺自身がそこを通ったことがあるからだ」
「なんでそんなとこを通ったの?」
「前にも言ったように、俺は廃墟や見捨てられた施設を隠れ家として利用している。うまくすれば電源も手に入るからだ。それで俺がそういう場所に行くと、どうしたわけかミュータントどもが先客として居座っていることが多い。奴らも考えていることは同じなんだろうな」
ガンボットは右手の人差し指を立てて銃の形をつくった。「だからそういう場合、まず俺は奴らを狩る。やつらを完全に掃除したあと、今度は俺がその場所を利用させてもらうというわけだ。その坑道もそうやって見つけた」
「あんたってけっこうワルなんだね。それで廃墟とかに異常に詳しいんだ」すっかり泣き止んだハツミは興味を惹かれた。「でもさ、人間が誰もその抜け道を知らないなんてどうしてわかるの?あんな壁造るくらいならそういう場所も全部警官がいるんじゃないの?」
「可能性としてゼロではない。だが限りなく小さいだろう」
ガンボットは地面にしゃがみ込むと、再び人差し指を突き出し、今度は土の上に図を描き始めた。まるで測ったように正確なアリゾナ南部の地図だった。
「これはメキシコ側にある貯水池だ」ガンボットは横一直線に引いたメキシコとの国境線のすぐ下にある小さな四角の集まりを示すと、そこから右上に、国境線を越えてまっすぐ線を引いた。その先には同じような形の、しかしもっと大きな四角の集まりがあった。
「もともと地下用水路はアリゾナ側にあるこの貯水池につながっていたらしい。だが俺は用水路から逸れて鉱山につながる道を偶然見つけた」ガンボットは、さっき引いたばかりの直線の中ほどから、真上に向かってもうひとつの線を引いた。「落盤で偶然できたらしく、それはまったく整備されていない、単なる岩の裂け目のような道だった」
「そこを離れる際、坑道と用水路をつなぐ細い出入口を細かい石でふさいでおいた。だからアメリカ側の坑道からはただの行き止まりにしか見えないはずだ」ガンボットは、理解しているかどうかを確認するようにいったんハツミに顔を向けたあと、話を続けた。
「メキシコ側には用水路を警備する理由などどこにもない。あの警官たちの態度を見ればわかる。だからアメリカ側の警備だけを気にすればいい。だがアメリカ側の人間たちには坑道と用水路を結ぶ抜け道があるなんて知るよしもない。多く見積もってもアメリカ側にある用水路の出口に警備を張り付けるだけだろう」
「そっか、そこを通れば誰にも見られないで国境越えられるわけね」ハツミは納得した。家に帰れるかもという希望を取り戻し、元気が湧いてきた。
「ほぼありえないとは思うが、万が一アメリカ側が地下用水路の中まで警備していて、坑道への入口よりメキシコ側にも警官がいた場合は別の方法を考えよう」
「うんわかった」だがハツミは別のことで急に心配になってきた。
「ねえ、でもそれって今度こそれっきとした犯罪なんじゃないの?」ハツミは社会の時間で、かつて国境があった時代は国境を勝手に越えることは法違反として取り締まられていたと習ったことがあった。「廃墟を使わせてもらったら後をきれいに片付けてさよならっていうのとワケが違うんじゃ?」
「越境を取り締まる法律は外部の住民が勝手に移住してくるのを防ぐのが元々の目的だった。だが君は自分がもと居たところに帰るだけだ。なんの問題もない」
ガンボットは人間じみたしぐさで自分の頭を指さしてみせた。「だいいち国境なんて昨日できたものだから俺のプログラムには組み込まれていない。だからそもそも俺にとっては存在していないのと同じだ。俺はそんなものには縛られない」
ハツミは、迷いや躊躇いといったものが微塵も感じられないガンボットの言いっぷりに感心した。「俺はそんなものには縛られない、か」ハツミはロボットの口真似をしたあと、ふうとため息をついた。「一度でいいから言ってみたいなあ、そんなセリフ」
「もし君がそうして家に帰りたいというなら俺は協力する。ただし結果までは保証できないが」そこまで言うとガンボットはハツミに返答を促した。「君の意志次第だ。俺といっしょに行くか?」
「うん」ハツミは答えた。まさかこれが一生涯忘れられない大冒険になるとは、このときハツミには知る由もなかった。