ストレリチアと冬優子
近頃気になり出したことがある。
わりとどうでもいいことだ、それは彼――プロデューサーのデスクの上に、小さな鉢植えが置かれていたこと。とても古い、深緑が日に焼けて明るく優しい緑に変色しているものだった。
それは私がここにお世話になり始めた頃から、あるいはその前からあったのか、今では聞いてみないとわからない。ただ今月に入ってから、その存在感が増したような気がした。
そしてなんとなく、鉢植えから伸びる葉に霧吹きで水を与えてる彼の姿がいつの間にか目につくようになった。大した怪しさはないけれど、それが私の気を引いたのは確かだった。
我が子を慈しむように、または小さな生き物を愛でるように、私達に向けるものとはまた違った眼差しがそれには注がれていて、表情は仕事中の張り詰めたものとも、アイドルたちに接するときのひょうきんな笑みでもない。ただその時間だけのものだった。
「あんた意外に好きよね、そういうの」
ある日、私は何食わぬ顔でそう聞いた。
「え?ああ……どうなんだろうな」
彼は鉢植えから伸びる葉から一度目を離して私を見てとぼけたような様子でいた。そしてまた視線を戻して、いつものように「ははっ」と空笑いを漏らした。
「なんだろう?でも、大事なんだ……と思うよ」
彼が自身の言葉に疑問を持ちながら話すのは珍しかった。
「ふうん、そう」
「ホントのところはもう……今はもう、よくわからないんだけどさ」
彼の笑みはどこか少し寂しげだった。この小さな鉢植えにそれだけの思い出があるというのだろうか。
――ますます興味を惹くじゃないの。
私は腕組みをしながら手入れを続ける彼を眺めていた。
「ストレリチアっていうんだ」
彼は布で優しく葉の雫を拭いながらそう言って笑った。
私は訝しげなまま首を傾げた。
「それ、花は咲くの?」
「咲く」
「ただのおっきな葉っぱしかないみたいよ……ほんと?」
「もう二年になるけど……きっと咲くはずさ」
「怪しいわね……」
「咲くよ……たぶん」
互いに沈黙して、ただその鉢植えを眺めた。
「まあいいわ、お花世話もいいけど、せっかくの休憩時間なんだからあんたもやすみなさいよね」
「ははっ、気づかいありがとう。でもこうしてるのが一番安らぐんだよ。冬優子に気にかけられて、こいつも嬉しいと思うよ」
「妙なこと言わないでよ……」
気付けばレッスンの時間が差し迫っていて、その日は鉢植えどころじゃなかったけれど、花に興味を持った私を知った彼が子供みたいに話し出し始めたものだから、会話を断つのも少しためらいがあった。
「水やりさ、冬優子もやってみるといいよ」
「いや、いいわ」
「そうか?結構癒やされると思うんだけど……」
彼は少し残念そうにしながら陽の良く当たる場所へ鉢植えを移動させた。
「まあ、気が向いたら教えるよ。手入れの仕方も」
そう言ってデスクへ戻ってくるとレッスン室の鍵を取り出して、私に手渡した。
時間がないのも分かってて引き止めていたのだとしたら、少しズルい男だと思う。
「……ふゆはいいの」
私は踵を返して、鍵を握りしめながらつぶやくように言った。彼はきっと後ろで疑問を持った目を私に向けている。
本当は、私も残念だった。
「だって、枯らしちゃ悪いもの」
◯
小学生の頃だったか、教室の季節の花の世話を先生に任されたことがあったのを思い出した。
――花が好きそうだったから?
そんなことはない。ただ物分りのいい良い子どもを演じていて、そのせいか花の世話をやりたがらなかった同級生たちに押し付けられたようなものだった。
私は事も無げに毎日毎日、誰もが忘れるぐらいに毎日、花瓶の水を変えて過ごした。気付けば先生に褒められることもなくなっていたけど、別に構わなかった。
そんなこともあったけれど、きっとそれは良い習慣なっていた。彼の言う「癒やされる」という言葉はまったくその通りで、いつしか私は自分自身をその花を重ねるようにして日々を過ごしていた。
毎日毎日手を抜くことなく世話をすれば、萎びることも、時が来るまで枯れることもない。今思えば励ましの言葉なんていらないぐらいに、花は私の生活を支えてくれていたような気もする。
でも物は壊れるし、人は老いて、花はいつしか枯れる。そんなことは当たり前のこと。
流行りのウイルスだったか、高熱が出て学校を休まなければならなかった日があった。母に体調を悟られないようになんとか努力をしてみたけど、それはもちろん、難しい話だった。
今思えば馬鹿みたい。病院に連れ出そうとする母を拒んでまで、私は花の世話をしようとしたのだ。それほどあのときの私には大切なものだったのだろうか。今では理解に苦しむけれど。
土日休みが入った次の週、いつも通り登校して教室に入った瞬間のことは、今も恥ずかしいぐらいに覚えている。
あのときの私は泣いていたのだろうか。
萎びた茎と茶色くなった花弁を見て、私は教室を飛び出した。また体調が悪くなったと保健室で嘘をついて母の迎えで家に帰ってしまった。
教室の同級生や先生は、花が枯れていることなんて気付きもしないで放課後を迎えるのだ。そう思ったらなぜだか涙が止まらなかった。そんな昔話。
ただ、それだけの話。
○
次の週も、彼はストレリチアの世話をしていた。私もそれなりに調べてみたけれど、そこで知ったのは別のことだった。
――きっと彼は、この観葉植物を世話するのが初めてなのね。
「その花、これ以上はもっと大きな鉢植えじゃないと育たないみたいよ」
私からそう言えたら良かったけれど、なぜかそれをしなかった。
「おお、冬優子!」
彼はまた嬉しそうにはしゃいで、花の世話をしている。
「はあ……どう、咲きそうなの?」
「少し背が伸びた気がするんだ、葉っぱも大きくなって……もうすぐ咲くのかも」
「うそ、ほんと?」
「わからないけど、そんな気がするんだ!」
上機嫌な彼に対して、私は違った。
ストレリチアの鉢植えを見て「窮屈そうだ」と心の中で哀れんだ。
小さな箱の中で精一杯形を保とうと努力している。
それは世話をしてくれる主に、私を賞賛してくれる相手に、報いる為?
いや、それはただそこでしか生きられなくて、それでもなお、自分だけは美しくいようとする強さ。
「あぁ……」
私はこめかみに指先を当て、ため息をついて落胆した。
――また重ねてしまった。
「冬優子……?どうしたんだ」
彼が気分が悪そうな私に問いかけた。
「なんでもないわ……咲くといいわね、花」
「心配無用!きっと咲くさ」
私はレッスン室に向かう途中に後悔した。
「はあ、言えば良かったのになんで?」
「その鉢植えじゃ駄目だって」
過去の憂愁が、私を意地悪にさせた。
どんなもん?