暮れの中山レース場は本番までまだまだ時間が空いていたが、はやくも押しかけた観客たちでごった返していた。
1年を通し走り続けたウマ娘たちにとっても集大成となるレース、有馬記念。出走条件の中にファン投票が含まれていることもあり、名だたるウマ娘レースの中でも格別の賑わいに溢れることとなる。
一昨年と昨年は、テイエムオペラオーの担当トレーナーとしてこの場所を訪れていた鷹木。だが今年は、あくまでただの一観客に過ぎない。
そも、有馬記念という大舞台に参加すること自体、オペラオーを担当する以前は夢のまた夢だったのだ。3年前の有馬記念は、片桐トレーナーが勝手にトレセン学園の裏庭へと大型モニターを持ち出し、そこにパイプ椅子を並べて即席の観戦場を作ったのであった。
当時、まだトレセン学園に入学する前だったアグネスデジタルと、初対面を果たしたのもその時のことであった。
「思い出すほどに、運命的な出会いでしたねぇ。まさか、有馬記念の日にトレセン学園を覗きに行って、翌年から一時代を築くウマ娘の先輩たちにお会いできるとは、あの時のデジたんは思いもしませんよ。」
「そういえば、なんであの場所に居たんだ?有馬記念の日は、トレセン学園も中継会場を一般開放しているのに……いや、理由は言ってくれてたか。」
今は桂崎トレーナーの手伝いという立場で、鷹木は関係者のみが立ち入れるエリアに居た。手伝いとは言っても、万が一のアクシデントに備えて手助けする要員として居るだけであり、ほとんど出走直前のウマ娘を応援しに来たのみである。
出走ウマ娘たちが到着する専用入り口にてナリタトップロードと桂崎トレーナーの到着を待ちながら、同じく先輩ウマ娘にエールを送りに来たアグネスデジタルも並び立っていた。
数々の勝敗を乗り越え、今や海外レースからも勝利を獲るまでにもなった彼女は、今さらながらに3年前の初対面時と比べ大きく成長したようだった。その豊富な語彙力から淀みなく紡がれる喋りと、なぜ勝てるのか不思議なほどに小柄で華奢な体格は変わりなかったものの。
「えぇ、私あの頃から、我を忘れてはしゃいじゃう節を自覚してましたからね。入学を控えた学園のど真ん中で鼻血を出して気絶でもしたら、内申点に響くのではとの懸念があったもんですから。」
「んな大げさな、とは思ったが、レース中継を観戦して実際にそうなった時には俺も驚いたよ。」
「その節はご迷惑をおかけしました、デジたんもあれから3年、耐性を付けましたのでご安心を。今日の有馬記念を目の前にしても倒れずにいられるかは、別問題ですけれど!」
3年前とは違い、今のアグネスデジタルが出血して倒れた、となれば国内どころか世界中を騒がせる特大級のニュースにもなりかねない。
出来れば耐えてもらいたい、と鷹木は言いかけて、しかしデジタルが有馬記念を存分に堪能するのを阻害するわけにもいかないと考えなおして口を閉じた。
ちょうど、出走ウマ娘専用の入り口に到着したバスから、ナリタトップロードと桂崎トレーナーが降りてきたタイミングでもあった。レース本番の時刻が近づくにつれ忙しく歩き回るスタッフが慌ただしさを増していく中でも、出走ウマ娘の到着には皆足を止め、彼女らのために道を開けている。
応援の言葉を贈りに来たはずなのに、いざ当の相手を前にして何の言葉も浮かばずにいる鷹木。トレセン学園でも日頃言葉を交わしている間柄ながら、かくも改まった場で緊迫感と共に面すれば、声を掛けるのも躊躇する畏れ多い相手のようにも感じた。
至極当然ながら、アグネスデジタルが迷いなく声を発した。
「トップロード先輩!いよいよ有馬記念、本番、ですね!このデジたん、推しウマ娘の勝利を心の底から祈願するファンの一員として、魂込めて渾身の応援させていただきます!」
「凄く贅沢な応援だね、私の方がデジタルのファンになりたいぐらいだってのに。」
トップロードの言わんとするところは、急に声を張り上げたアグネスデジタルの存在に気づいた周囲のスタッフからの視線が集まっていることでも、十分に伝わった。
世界の舞台で頂点に立ったばかりのデジタルの方が、世間的な印象としては評価の上がるウマ娘であったかもしれないが、自分の現状がどうであれ関係なくウマ娘の応援に全力を傾けるデジタルのブレなさが明白となった場面ではあった。
鷹木もデジタルに遅れながら、トップロードや桂崎トレーナーに声を掛けようと口を開きかけたが、それを遮るようにあまりにも聞き覚えのある、喧噪の中でも良く通る声が響いた。
〈おぉ、やはりデジタルは入り待ちだったようだね!いつものように可憐な声援の花束で周囲を満たしているのだろう、ありありと目に浮かぶよ!〉
「……オペラオー?」
「ひょおぉ!?そのお声は紛れもなく、オペラオー先輩!しかし、いずこに!?」
トップロードは笑みを浮かべながら、小脇に抱えていたタブレット画面を鷹木とアグネスデジタルの方へ向ける。
おそらくバスでの移動中、トップロードがオペラオーへと通話をかけていたのだろう。画面には、背景に入院中の病室の壁を見せつつも、いつも通りの覇王スマイルを披露しているテイエムオペラオーの顔がデカデカと現れていた。
〈やぁ、デジタル、そして鷹木トレーナー!後ほど、君たちにもボクの声を聞かせようと思っていたのだが、トップロードくんとのお喋りが随分弾んでしまってね!〉
オペラオーがトップロードを通話相手として選んだことには、相応の理由があったろう。
この有馬記念に出走するウマ娘のうち、アドマイヤベガやエアシャカールは本番前の集中を乱されることを嫌うタイプである。一方、メイショウドトウは彼女らほど神経質ではないにせよ、余計なことで気を散らしてしまうと予期せぬドジを誘発してしまいかねない。
自分の声がやかましいことはオペラオーも自覚の上で、レース直前にて過度の緊張を和ませ得る相手となれば、ナリタトップロードだろうと彼女は判断したのだ。
そして、直接的に頼むのは、さしもの覇王も少々気恥ずかしかったろう……現在入院中のオペラオーが、通話越しにでも鷹木やデジタルらと一緒に有馬記念を観戦したいという願いを、トップロードならば十分にくみ取ってくれるだろうことも。
トップロードは、オペラオーのやかましい顔が画面に映ったタブレットを鷹木へ差し出しながら告げる。
「出迎え、ありがとう。それじゃあ私たちは行ってくるから、鷹木トレーナー、このタブレットを預かっててもらえるかな。」
「いいのか?桂崎トレーナーの私物だったら、中に貴重なデータとかは……。」
「僕の私物ではないよ、トレセン学園の備品としてあとで返しておいてくれたらいい。じゃあ、行こうか、トップロード。」
「私の声援、必ずや届けます!きっと、勝ってくださいね!」
〈キミの覇道に栄光のあらんことを!〉
桂崎トレーナーに伴われレース出走ウマ娘用の準備区画へ入っていくトップロードへ、アグネスデジタルはタブレット画面の中のオペラオーと共に声援を送る。
この両名の声の華やかさは一般の観客とはやはり一線を画すもので、出走ウマ娘を見送るために一時作業の手を止めていただけのスタッフたちの間からも、つられたように拍手の音が上がった。
〈しかし、世界の栄冠を手にしたデジタルの玉座には、レース観戦スタンドの座席は余りに狭くないかい?〉
「満員の客席に余計な混乱を引き起こさないよう、空いているトレーナーブースへと特別に入れてもらえる手筈にはなっている。」
画面越しにトップロードの背を見送ったオペラオーは、先ほどから気にしていたのだろうことを尋ねる。
確かに、無名のウマ娘だったころと同様にアグネスデジタルは振舞うわけにもいかない。いまでこそレース関係者だけが立ち入れるエリアで、この場を囲んでいるのは運営スタッフばかりであったが、それでもデジタル自身が浴びる視線の多さは鷹木も実感しているところである。
香港カップで勝ってきたウマ娘を一般観客と同じ扱いにするわけにもいかず、トレセン学園からは付き添いの鷹木も含めてトレーナー用の最前列ブースを準備されたのであった。
「いやはやぁ、このデジたん、最前列の席をいただけて有難いかぎりです!」
〈いや、世界の舞台を制した勇者には、まだもっと相応しい座があるはずじゃないか!かつて結城トレーナーと共に上がった、あの特別観覧席には入れないのかい?〉
少々微妙な話題になるため、敢えて触れる者の居ない内容にも躊躇なく踏み込んでいくオペラオー。
中山レース場の特別観覧席は、あらゆる観戦スタンドの中でも、物理的にも値段的にも最も高い場所に存在する。何物にも遮られることなくレース場を一望できるバルコニーを備え、飲み物や軽食も望めば即座に用意されるサービスまで備わっている。
そんな特別席は、チケット代さえ支払えば得られるものではなかった。皇族や国賓でなければ、URAにとっての重要人物、すなわちレジェンドたる結城トレーナーおよびその関係者でなければ立ち入ることさえできない。
空きがある場合は、結城トレーナーから誘いを受けることもあった鷹木やオペラオーであったが、毎年の暮れの有馬記念においては政財界の有力者たちが結城トレーナーを囲むのが通例となっており、下々の者たちが割って入る隙など無い。
さらには、これはウマ娘としてはさらにデリケートな話題となるのだが……名家や代々優駿を輩出してきた血筋、それこそサンデーサイレンス系のウマ娘でもなければ、有力者たちに囲まれる場にはまず招かれることもないだろう。アグネスデジタルはもともと、アメリカからふらりとやってきた、華奢な体格のオタクウマ娘にすぎなかった。
そういった内容に下手に触れることなく、いかにして婉曲的に伝えるべきかと鷹木が迷っているところ、アグネスデジタルはさほど迷いなく口を開いた。
「これだけの戦果では、まだまだってことでしょう!私も、香港カップを制して満足してるつもりはありません、来年にはまた海外のレースを目指そうかと計画中でして!」
〈おぉ、香港の黄金を掴んだだけではまだ飽き足りぬというのか!ならば、望むがままに駆けるがいい、新世紀を切り開いた勇者の軌跡の続きを見せてくれ!〉
傍から見る者が下手に思考を巡らせずとも勝手に会話を完結させていく、この輝きが形を取って現れたかのようなウマ娘たちからふと目を逸らした時、鷹木は関係者用入り口のすぐ外に立っている影に気づいた。
長く伸ばした黒髪……ウマ娘の場合は青鹿毛と呼ばれる色に、デジタルと同様に小柄な姿、頭の上に大きく突き出ている耳は間違いなくウマ娘のものであった。真ん丸く見開いた両目には黄色い光を湛え、出走ウマ娘たちが入っていく準備区画をじっと見据えている。
「……。」
〈おや、デジタル、キミの背後に、立ち尽くしているウマ娘が見えるよ?〉
「え?どちらさんでしょ、こちらまで入って来られていないってことは、私同様に応援に来られたウマ娘さんでしょうかぁ。」
鷹木が胸元で抱えているタブレットの画面内では、必然的に鷹木が見ているのと同じ方向に見える存在にオペラオーも気づいていた。
レース本番の雰囲気を実感する目的で、自主的にレース場へと見学に来るウマ娘はしばしば居る。いくらトレセン学園に所属しているウマ娘でも、あるいは学園入学前となればなおさら、関係者のみに制限されたエリアには踏み込めないのだが。
アグネスデジタルは、敷地外から見つめるしかなかった3年前の自分に、その青鹿毛のウマ娘を重ね合わせたのだろう。そそくさと近寄って声を掛けにいく。
唐突にデジタルが寄ってきたことで、そのウマ娘は初めて自分が視線を浴びていたことに気づいたようであった。
「もしかして、出走前のウマ娘さんの見学ですか?これから到着する方の中には、私も知り合いのウマ娘さんがおられますし、詳しくご紹介いたしましょうか!」
「いえ……ただ、見ていただけ……ですので。」
そのウマ娘は、小柄な身体の割には存外に低い声の持ち主であった。
あるいは、鷹木が普段から高らかに響き渡るウマ娘の声を聴き慣れていたため、そう感じただけかもしれないが。タブレット画面の中のオペラオーも、黄色い目を伏せたウマ娘へとやかましく声を掛けている。
〈確かに、いずれ自分が大舞台へと向かうだろうことを予見し、本番の空気を知っておくのは良いことだ!鷹木、有馬記念の本番へと赴くウマ娘たちが、入っていく場所を指さして示してあげたまえ!〉
「あ、あぁ、トレセン学園からバスで到着したら、まずあの入り口へ……。」
「……知っています。」
相変わらず低い声で、ごく短くのみ返答する小柄なウマ娘。この場に居合わせているのが鷹木だけであれば、この場は気まずい沈黙で満たされていただろう。デジタルやオペラオーは、流石の交流スキルをもってその後も何やかやと話しかけていたが。
画面越しに語り掛けてくるのがオペラオーであることも、目の前にいるのがアグネスデジタルであることも、今のウマ娘であれば気づかぬはずがない。
それでも、真っ黒な髪をなびかせた見知らぬウマ娘は、自分にとって将来の先輩となる彼女らにはさほど目を向けず、じっとレース場への入り口へ視線を注ぎ続けていた。
……まるで、彼女にだけ見えている応援相手を見送っているかのように。
やがて、そのウマ娘は予兆なく背を向けて、立ち去っていく。有馬記念へウマ娘たちが懸ける思いのたけを熱烈に長々と語っていた最中のアグネスデジタルは、慌てて呼び止めた。
「あ、もう見学はいいんですか?そうだ、良ければ私たちと一緒に観戦しません?こちらの鷹木トレーナーさんが、トレーナー用の観戦ブースを確保してくださってるんです!」
「お言葉は有難いのですが、私は帰って自宅で中継を見ます。」
正直なところ、3年前にアグネスデジタルを即興の観戦会場に招き入れた時とは状況が違う。有馬記念が行われる中山レース場、そのレース本番の敷地内に、本来許可されていない部外者を入れることは鷹木の独断で為せることではなかった。
それゆえに、アグネスデジタルの誘いを断り、真っ黒な後ろ髪とコートの背がスタスタと遠ざかっていくのを、鷹木は口にこそ出さなかったものの内心ホッとして見つめていたのである。が、顔には出てしまっていたらしい。
「もー、鷹木トレーナーもこういう時呼び止めないと、ですよぉ。きっと、片桐トレーナーなら周囲のスタッフさんたちに黙ってるよう告げて、あの子を引っ張り込んでましたよ。」
「あぁ、片桐ならやりかねないが……偉いさんに怒られないかとの緊張と、レース本番の雰囲気に同時に呑まれて、俺の方がデジタルより先に失神しそうだ。」
〈ハーッハッハッハ!そうだろうね!デジタル、あまり鷹木を追い立てないでやってくれ!さぁ、ボクらも有馬記念の観戦へ向かおう!磨き上げられた玉石たちに、いざ会いに行こう!〉