エアシャカールは個別練習場にて独り、ノートPCの画面を睨んでいた。
担当の結城トレーナーと、同じく彼から指導を受けているアドマイヤベガ、マンハッタンカフェはここに居ない。彼女らは来月の阪神大賞典の日が近づく前に、桂崎トレーナーが担当するナリタトップロードのもとへ併走練習をしに向かっていた。
同じレースで競い合うアドマイヤベガとナリタトップロードは、お互いの作戦を明かさぬようにするために、少なくとも3月に入れば一緒に練習することは避けねばならない。
また、マンハッタンカフェも3月上旬の弥生賞が近いため、先輩ウマ娘たちの実力を間近で実感する機会を逃さず練習に励んでいる。
そういうわけで、エアシャカールだけが結城トレーナーの有する個別練習場に残っていた……別にシャカールも一緒に練習へ向かっても良かったのだが、今の彼女は専念したい別問題を抱えていた。
「ネオユニヴァース……アイツが来るか、大阪杯に。」
昨年、クラシック級はもちろん、シニア級も宝塚記念以降の名だたるレースの勝利は、ゼンノロブロイとネオユニヴァースによってほぼ全て持っていかれている。
今年度からシニア級へと上がるロブロイとユニヴァースは、ますますもって本格化した身体能力を発揮することだろう。彼女らと同じレースにて競い合うこととなったウマ娘にとっては、最大の脅威となるだろう。
ネオユニヴァースが大阪杯への出走を表明している一方で、ゼンノロブロイは日経賞への出走を宣言していた。
「京都記念に来なかったってことは、どっちかには顔を出すとは思ってたけどよ……。」
エアシャカールはあくまでロジカルに競争相手の分析を行おうと努めてはいたが、ユニヴァースの名に対する警戒を自ら消すことは出来なかった。
かつてであれば、強敵が集まってくるレースへと赴く事にエアシャカールは高揚感をむしろ抱いただろう。いや、もちろん現在とて、今のところ勝てる目処の立たない相手を前にして、恐れなど抱いていないとシャカール自身は主張するだろうが。
単なる強さだけではなく、ネオユニヴァースがやはり異質な存在であったことも、エアシャカールの胸中に高まる警戒心を鋭くさせただろう。
「ダメだ、やっぱりParcaeでのシミュレーションにエラーが出る。どのレース条件だろうが、ネオユニヴァースのデータを入れた途端にエラーを吐きやがるのは何なんだ。」
それは前年度から引き続いている、原因不明の現象であった。
Parcaeは元より、プログラムしたエアシャカール自身にも理解不能な挙動を示すシミュレーターである。クラシック級の年以降、シャカールが勝利するレースの再現を実行できなかったり、今年以降のレース項目を追加できなかったり。
今年度のレーススケジュールから直接入力できずとも、多少手間はかかるがレース場や出走者などの条件を手動で打ち込めばほとんどの場合、シミュレーション自体は実行できた。
例外としては、やはりネオユニヴァースやゼンノロブロイといった、桁違いの戦績を昨年叩き出したウマ娘を含めてのレース結果予測が不可能であることだったが。
「やっぱり、マジにありえるのか?タキオンの奴が言ってた……」
「……特異点、たるウマ娘の存在、だねぇ。」
背後から響いた、聞き覚えのある声とともにシャカールは顔をあげ、振り返る。
個別練習場の扉は開いており、そこからアグネスタキオンが覗き込んでシャカールの方へと目を見開き、笑みを投げかけていた。彼女の背後には、引き留めきれなかったのだろう鷹木トレーナーの困り顔も見える。
シャカールが入り口を開けっぱなしにしていたにもかかわらず、勝手に踏み込んでこないだけ、タキオンなりに遠慮した振る舞いではあった。エアシャカールは再び彼女に背を向け、声だけを投げかける。
「入ってきていいぞ、今は結城トレーナーもアヤベもカフェも居ねぇし、オレも別に走ってもいねェんだからよ。」
「エアシャカール先輩なら、走っておらずともお忙しいのではないかと考えていたのだけれどねぇ。ネオユニヴァースくんの名前も聞こえていたことだし?」
「しっかり盗み聞きはしてンのかよ。遠慮してんのかしてねェんだか、分からねぇ奴だな。」
エアシャカールからの許諾を得たことで、今度はまるで遠慮なく堂々と練習場へ踏みこんでいくタキオン。
鷹木は言葉を挟んでいなかったが、彼がかなり遠慮がちの足取りであることは、背を向けているシャカールの耳に届く足音から知れた。
タキオンがここを訪れたのは、シャカールに会うためであることも明白だった。レジェンド的人物である結城トレーナーと、その担当ウマ娘の動向など、タキオンのリサーチから漏れるはずもない。
「それにしても、今日のレースは楽しみだねぇ。ダンツフレームくんが、アーリントンカップを走るのだからねぇ!きさらぎ賞に引き続きGⅢレースへの出走だ、これに勝てば彼女の能力も本物と称して問題ないだろうねぇ!」
「中継を仲間と一緒に楽しく観戦したいなら、オレのところじゃなくて結城トレーナーと一緒に居る連中の方に行けばいいだろ。お前がお気に入りのマンハッタンカフェも、あっちに居るンだからよ。」
「おや、私はシャカール先輩に用事があって来たんだ、わざわざ伝えるまでもなく察されているものと思ったがねぇ。」
言いながら、鷹木の運んできたパイプ椅子に腰かけてシャカールの隣席を占めるタキオン。結城トレーナーの有する個別練習場に幾度か通っている内に、この場での鷹木の振る舞いも固定化されていた。
シャカールは、そんなタキオンと担当トレーナーの振る舞いにいちいち視線を向けることなく、変わらずPC画面を睨み続けていた。
タキオンが着席するまでの間にも幾度か条件を変えて試行を繰り返していたのだが、やはりネオユニヴァース、ゼンノロブロイ、この両名のデータを入力したシミュレーションは常にエラー画面へとたどり着く。
「こっちの条件でも、ダメか。別に、実際じゃあり得ないレース条件でシミュレーションすることだって、可能なはずなんだがよ……」
「なるほど、ならばますます、ネオユニヴァースくんとゼンノロブロイくん自身の存在が特異点であることが原因、と考えるべきかもしれないねぇ。ところでシャカール先輩、今さらなのだが、Parcaeは過去のレースデータをしっかり保存しているのかい?」
「あぁ?そりゃまァ、保存が目的のプログラムじゃねーが、過去のレースデータを学習させてシミュレーションに役立ててンだから、記録は出てくるだろうよ。」
単純な距離ごとのタイムだけでは、実際のレース結果を詳細に予測することは出来ない。
コースの起伏やコーナーと直線の配分、天候と芝状態、さらにレース中の位置取り、人気順によるマークのされやすさやブロックされた際の動きなど、レース結果に関わる要素は無数に挙げられる。
シミュレーションを正確に実行するため、エアシャカールの作り出したParcaeは過去のレース展開と結果を全て学習しており、ある意味ウマ娘レースの歴史そのものを内包した仮想現実の一種とも呼べるプログラムとなっている。
特にその点に絡んで、タキオンは今、知りたいことがあった。
「……京都記念は、Parcaeで再現できるだろうか?」
「あぁ、こないだの。今年に入ってからのレーススケジュールは相変わらず追加できねーけど、ちゃんとデータを入れれば行けるだろうよ。トップロード先輩のデータも、アヤベ先輩のデータも、Parcaeのシミュレーションをバグらせることはなかったし。」
「私が知りたいのは、去年の京都記念についてだねぇ。去年の分であれば、Parcaeの中に入っているかな?」
「そりゃああるだろ、確かマックロウが勝って、アグネスフライトの奴が二着で、トップロード先輩が三着になった時のだな。」
エアシャカールの言葉を聞きながら、タキオンはここに来て初めて鷹木と目を合わせた。
鷹木はシャカールとタキオンの会話を邪魔せぬよう沈黙を続けていたが、タキオンの目の中に覗かれた不安の色を受け止めるように、小さく頷き返す。
シャカールはと言えばPCのキーボードを叩きながらではあったものの、タキオンの纏う雰囲気が急に変わったことを察したらしく顔を上げた。
「……んだよ。オレがなんか変なことでも言ったか?」
「シャカール先輩、マックロウが勝利した京都記念の、さらに前年度の京都記念は誰が勝っているかねぇ?」
「そりゃテイエムオペラオーだ、オペラオーが年間無敗の記録を作った年、最初に勝ったレースなんだからよ……」
「……テイエムオペラオーが年間無敗の快挙を達成したのは、今から3年前だねぇ。マックロウが勝利した京都記念が、今から2年前。去年の京都記念は……どうなっているんだい?」
タキオンの言葉に対し、エアシャカールはすぐさま言い返すつもりで口を開きかけ……そのまま言葉が出てこなかった。
やはりシャカールも、今の今まで異変に気付いていなかったのだ。去年の京都記念についてのデータは、Parcaeの中にも存在しなかった。
まるで最初からそうであったかのように、京都記念に関してのみ、1年ズレた記録が表示されていたのだ。
「えっ……いや待てよ、オペラオーが年間無敗を達成した、その翌年にも最初に京都記念を走ってたんじゃねーか?」
「違う。翌年のオペラオーは大阪杯からの始動だった。ドトウやトップロードとではなく、トーホウドリームとの激戦だった、間違いなく覚えている。」
ここで初めて鷹木が口をはさんだ。他ならぬテイエムオペラオーを担当していたトレーナー本人からの証言には反論の余地もなく、シャカールは再び口を閉ざす。
世紀末覇王、テイエムオペラオーが刻んだ年間無敗という軌跡。その誤魔化されようのない区切りによって、記録内での1年のズレを明瞭にシャカールにも気づかせるに至った。
3年前の京都記念では、テイエムオペラオー。2年前の京都記念では、マックロウ。昨年の京都記念、不明。今年の京都記念で、ナリタトップロードが勝利している。
現時点でシャカールが確認できる記録は、それだけであった。
「マジかよ……どうなってやがンだ、オレはてっきりトップロード先輩が1年前のリベンジで、今年の京都記念に勝ったんだとばかり思ってたんだが。」
「トップロード先輩は、去年の京都記念でも勝利しているはずだねぇ。それも、今年と全く同じ着順、着差のレースを行った結果として。」
「はァ?ンなワケがあるかよ……けど、俺が思ってた去年の京都記念が、本当は2年前の京都記念だってンなら……どうなってやがる?」
タキオンは返答代わりに、小さく溜息をつく。そんなことはあり得ない、という思い込みが正確な現状把握を遠ざけていたのだ、常にロジカルなシャカールの思考からも。
自分の気づいた異変が勘違いではないこと、そして共有できる相手が更に増えたことについて、問題解決は見えぬもののタキオンはようやっと僅かばかりの安堵を増したのだろう。
一方、鷹木はウマ娘の様子を見るトレーナーとして、エアシャカールの目の色の中にみるみる不安が広がっていく様の方に注意を向けていた。タキオンが更に何かを言おうとするのを彼にしては珍しく遮り、言葉を挟む。
「エアシャカール、心配しないでいるのも難しいかもしれないが、きみの認知能力がおかしくなったってことじゃないはずだ。現に、世間では全く騒がれていないだろ?世の中の大多数が、この本来あり得ない事に、まるで気づいていないんだよ。」
「あぁ、普通は気づかねェだろ、普通は……オレも今、変な夢を見てる最中じゃねェかと本心じゃ思ってンだよ。そのうち目覚まし時計の音が響き始めて、ベッドから飛び起きるんじゃねェかって……。」
エアシャカールの胸中に、急激に広がった混乱と不安は易々と収まりそうにもなかったが、鷹木の声かけは多少なりと功を奏したらしい。
元来のメンタルの強さもあるのだろう、シャカールはノートPCをパタンと閉じ、パイプ椅子から立ち上がってぐんと伸びをした。何かを考えるように頭を掻きながら歩き回っている内に、顔色だけは平生のものへと戻っていく。
「確認出来ちまったモンはしょうがねェ、俺はすっかり記憶違いをしていたが、記録にあンのが2年前の京都記念のデータだけだってのは間違いねェんだ。で、去年の京都記念が、今年の京都記念とまるきり同じだった、ってこったな?」
「さすがはシャカール先輩だねェ、取り乱すこともなければ、認識を拒絶することもないとは。その通りだよ、そして私は今回の件を、単なる時間軸のループだとは考えていないのだよ。現に今年でなければあり得ないレースは実施されているのだからねぇ、まさに私と同世代の、クラシック級ウマ娘のレースなどがそれさ。すなわち時間軸の異変ではなく、これは可能性世界による干渉の結果ではないかと……」
「あー、待て待て、一気に言われても整理できねェ、さすがのオレもようやく状況を呑んだところなンだ。」
シャカールが再び難しい表情を浮かべたため、タキオンも語りたくてたまらなかったのだろう内容を、一旦中断して口を噤む。
とはいえ、鷹木もタキオンが喋りかけていた内容について、シャカールがいかなる見解を出すのかは気になっていた。去年と全く同じ展開のレースが存在する一方で、去年の時点では入学していなかったウマ娘たちが参加するレースもまた、今年間違いなく実施されているのだ。
文字通り、一生に一度しか参加機会のないレース、クラシック級ウマ娘たちのレースは、二年続けて同じメンバーで行われることなど、絶対にありえない。
沈黙の中でシャカールはしばらく頭を抱え続けていたが、こちらはタキオンのように非現実的な仮説には易々と踏み込むつもりはないようだった。
「ロジカルに捉えれば、現時点はっきり言えるのは、去年の京都記念についての記録が見当たらないって点だよな。つまり、データベースへのハッキングを疑う方が現実的だ。去年と全く同じ展開、ってのはタキオン、お前の記憶が正しければという前提付きだろ。」
「私の記憶は正しいとも!去年の京都記念の記録ならば手を尽くして漁ったさ、そして見つからなかったねぇ!シャカール先輩、そこで止まっていては探求は進まないのさ、この異常事態の根源を探る方へと、気づいた我々は進まなければならない!」
「悪ィが、オレは実際にデータを突き合わせて確認するまで、信じる気は無ェ。何やら異常なことが起きてるってのは認めるが、去年の京都記念についての正確な記録を探す方を優先させてもらうぜ。」
せっかく、同じ問題について探求する同志を得たと思いかけていたタキオンは不満げであったが、しかしシャカールの言わんとするところも確かではあり、それ以上言い返すことはなかった。