探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 発走時刻が迫り、パドックでの出走ウマ娘の紹介が進む有馬記念。オペラオーが引退した後もレース場を華やがせるウマ娘たちの名が呼びあげられるたび、喝采がレース場を揺るがせる。例年と変わりない、一年の集大成とも言うべき大舞台……だが、前々よりアドマイヤベガにまつわる違和感に気付いていた鷹木とアグネスデジタルは、観戦席から既に明確な異変を目にすることとなる。
 やがて有馬記念のレースが始まった時、誰もその詳細を知ることのない不穏の影が、見えざる手をターフへ翳すのであった。


その影とウマ娘は いつも貴方の中にあることを

 有馬記念の舞台、暮れの中山レース場を盛り上げるのは、レースそのものばかりではない。

 

 ウマ娘レースの実況を行うアナウンサーそして解説を担当するゲストが、レースが開始される前から繰り広げる軽妙なトークが、レース本番を待ちわびる観客たちを時には笑わせつつ、会場の熱気を高め続ける。

 

 殊に、有馬記念ほどの一大レースともなれば、ほとんどの観客たちは恒例の大物ゲストが現れることを楽しみにしていた。

 

〈出走の時が迫りつつあります、12月23日、中山レース場、有馬記念!ウマ娘レースの一年を締めくくるこのレース、しかし今年は様々な波乱が私たちの記憶にも新しいところであります。さて今回も皆様お待ちかね、あの方を実況席にお招きし、解説の担当をお願いいたしております。どうぞよろしくお願いします。〉

 

〈はい!スペシャルウィークです!いやぁ、今年もいよいよですね!来ましたね、有馬記念!!〉

 

 スペシャルウィークの声がレース会場全体に響き渡り、会場からは本番も始まっていないというに歓声が沸き起こる。

 

 黄金世代を中心で牽引し、今やURAの顔とも呼ぶべき存在となったスペシャルウィーク。引退後のウマ娘が全てタレント的な活動に移るわけでは決してないのだが、スペシャルウィークの場合はその知名度と活躍から是非にと勧誘する声が大きかった。

 

 ただでさえその一年を代表する優駿たちが集う有馬記念、さらに今は引退してしまった黄金世代ウマ娘の解説が加わるとなれば、ウマ娘ファンにとっては夢のような空間となることに間違いはない。

 

 何よりも、彼女自身の明るい性格、そしてお喋り好きな性質が、自らこの道を選ばせていた。

 

〈今年のウマ娘レースは、本当に様々な波乱、そして名場面が見られました。私としましても、どこからお話すればといったところですが、スペシャルウィークさんはいかがでしょう、まずひとつ、今年の名シーンを挙げるとするならば。〉

 

〈えぇー、私も選べませんってぇ!去年無敗のオペラオーくんがやっぱり強かったのも、メイショウドトウちゃんがついに勝ったのも、シャカールくんがまた一着を獲れたのも、デジタルちゃんが香港カップで勝ってきたのも、アドマイヤベガさんやナリタトップロードくんが活躍していたのも、ぜんぶ同じぐらいの名シーンですよ!〉

 

〈トークに出そうと考えていた内容の、ほぼ全てを言ってしまわれましたね!〉

 

 アナウンサーからのツッコミで照れているスペシャルウィークが、実況席の様子を映し出しているスクリーンに現れ、会場からは再びの拍手とともに笑い声が上がる。

 

 アグネスデジタル、そしてオペラオーと通話中のタブレットと共にトレーナー用ブースに顔を出した鷹木。もちろん彼の耳にもスペシャルウィークの言葉は届いていた。

 

 オペラオーを担当していた彼としては、"ついに年間無敗の世紀末覇王が敗れた"ことばかりを、今年のトピックとして挙げなかったスペシャルウィークの言葉選びが有難いところであった。その表現は、オペラオーが引退した後も、有馬記念を前に一年を振り返る記事においても、メディアによっては散見されるものだった。

 

 黄金世代という強敵揃いの中で走り抜いてきたスペシャルウィークが、レースで活躍を見せるウマ娘に偏った評価を下すことなど、そもそも有り得ないことだったが。

 

〈しかし何と言っても我々の記憶に新しいのは、アグネスデジタルの香港カップ制覇でしょうか。ちょうど、この中山レース場にも応援に来られているとのことですよ!〉

 

〈えっ、ホントに?カメラさんが今探して……あっ、いたいた!おーい、デジたーん!〉

 

 あまりにも目立つ担当ウマ娘の傍に居つづけていたため、カメラに映りこんで衆目に晒されることには鷹木もそろそろ慣れてもいい頃だった。が、やはり中山レース場の大スクリーンに自分が映っているのを目の前にしては、ぎこちない笑みを顔に貼り付けるしか出来ないのが鷹木であった。

 

 一方のアグネスデジタルは、自分の方にズームしてきた中継カメラに向かって一切の狼狽もなく身を乗り出すように手を振り、満面の笑みのまま湧いている観客席を振り返って大きく手を振り返していた。

 

 そこまでで済めば鷹木もカメラが通過するのを待つだけでよかったのだが、タブレット画面の中のオペラオーも大人しくしているはずがない。

 

〈鷹木!このボクの姿は画面に映っているんだろう?もっときちんと掲げたまえ、ボクの姿も観衆に待ち望まれている!!〉

 

「えっ、お前は別に名前を呼ばれていないんだが。」

 

「貸してください、鷹木トレーナー!私デジたんが、オペラオーさんの姿を掲げます!需要がないわけないですよ!!」

 

 鷹木が決して持ち合わせていない自己肯定感の塊たるオペラオーと、デジタルの躊躇のない行動力が、会場に更なるどよめきと歓声を生んだ。

 

 タブレット画面に収まっている以上、オペラオーの姿はごく小さくしか映っていないはずだったが、満足に音も伝わらないその画面の中からも、世紀末覇王のやかましさは実況席にまで伝わったらしい。

 

〈っと、おや、アグネスデジタルさんが掲げておられるのは、通話中のタブレットですね。テイエムオペラオーさんもまた、間接的に一緒に観戦されているようです!〉

 

〈有り余ってる元気が溢れて来そうですね!私も入院中のオペラオーくんを一度お見舞いに行きましたけど、普段と全然変わらず明るくて、朗らかで、私の方が元気を貰っちゃいましたよ!脚が治ったら、私と一緒にレースの実況解説を頼んでみても面白いかも!〉

 

〈それは、かなり賑やかな……豪華なことになりそうですね、実況席が。もちろん、ご自身の承諾を得られればの話ですが……。〉

 

〈いや、そりゃもう、きっと来てくれますって!〉

 

 沸き立っている観客席を前に、実況アナウンサーはオペラオー自身の同意もないことに確約は出来ないとの姿勢を一応は慎重に示していたが、スペシャルウィークはほぼ確信を得たように宜っていた。

 

 それはオペラオーをずっと見てきた鷹木でも容易に想像できることであったし、何よりも現にタブレット画面から姿を見せているテイエムオペラオーが全力で賛同していた。

 

「ひょわああ、もしもオペラオーさんとスペシャルウィークさんが、実況席に並んで座っていたら、凄いことになりそうですよぉ!」

 

〈あまりにボクが喋りすぎて、スペ先輩の声をかき消さないように気を付けなければね!それよりもデジタル、そろそろパドックに皆が姿を現す頃じゃないかい?〉

 

 オペラオーが言及すると同時に、実況席の方でも少々巻き気味でトークを締めくくっている。

 

 僅かに顔を出すだけでレース開始前のタイム配分が乱される面々が、実際に実況解説の場に揃った際の司会進行の難しさを思えば、鷹木はアナウンサーの心労が感じ取れるようであった。

 

 続々と出走ウマ娘の紹介が進んでいく、11月のアルゼンチン共和国杯で勝利したトウカイオーザ、エリザベス女王杯で一着を獲ったトゥザヴィクトリーが人気度を高めていたが、上位陣はほぼ決まっていた。

 

〈続きましては4番人気、ナリタトップロードです!このウマ娘も息の長い、覇王テイエムオペラオーとしのぎを削り合い、なおも安定した走りを続けています。もちろん実力も申し分なし、今年の阪神大賞典では二着に8バ身差をつけての大勝が人々の記憶に刻まれています。〉

 

〈京都大賞典での接触事故ではヒヤリとしましたけれど、翌月のジャパンカップでは無事に出走して3着にまで食いついてます、この有馬記念でも期待されるところですね!〉

 

 勝負服に着替えたナリタトップロードは、まさに完成された状態にありながら、先ほどレース場へ入っていく所を見送った時とほぼ同じ調子をキープしているようでもあった。

 

 焦りや力みとは無縁の、常に落ち着いた走り。だからこそオペラオーとドトウが一着二着を独占し続けていた時期も、安定して上位の戦績を残し続けることが出来ていたのだ。応援の声を張り上げるデジタルは当然ながら、タブレット画面から響くオペラオーの声がスピーカーを一時音割れさせて無音状態となっている。

 

 鷹木は、画面の向こう側、オペラオーが入院している病院に騒音被害が出ていないかと心配だった。

 

〈こちらは3番人気となりました、アドマイヤベガであります。こちらもナリタトップロード同様、常に競い合い続けてきたライバルの関係、デビュー当初から見る者を魅了し続けてきた、最終コーナーから伸びてくる末脚は今年の有馬記念でも披露されるのでしょうか。〉

 

〈ずっと一緒に走ってきた好敵手たち、ひとりが引退してもまだ走り続けようとする覇気は、こちらにまで伝わってきそうです!〉

 

 スペシャルウィークとしては、自分自身が引退した後もレース現役を続けたキングヘイローにグラスワンダー、セイウンスカイの存在と重ね合わせる思いもあったろう。

 

 しかしトレーナー用ブースから観戦している鷹木は、アドマイヤベガの脚よりも目の色に視線が向きがちであった。理由は言わずもがな、あのデジタルとの併走練習での出来事が記憶から離れないためである。

 

 今のところ、パドック上のアドマイヤベガは、普段と変わらぬ様子であった。星の輝きを湛えたような、深く落ち着いた暗赤色の瞳であった。

 

〈さて、いよいよ観客席も盛り上がってきたところではありますが、2番人気の紹介へと移りましょう!先月のジャパンカップでは劇的な勝利を見せました、エアシャカールです!〉

 

〈去年のジャパンカップからは本当に長い一年だったと思います、あの勝利を獲るためにずっと走り続けてきた、その成果が出たのが今年のジャパンカップ!この有馬記念でも期待させてください、シャカールくん!〉

 

 昨年のジャパンカップはテイエムオペラオーの無敗が続いていた頃ではあったものの、上位を占める先輩ウマ娘たちにも追いつけることなくシャカールは14着に沈んでいた。

 

 今年に入っても大阪杯で惜しくも二着、春の天皇賞はオペラオーが、宝塚記念はドトウが獲り、同期のアグネスデジタルが偉業を打ち立てる影で、ずっと勝てないままの時期が続いていたエアシャカール。

 

 だからこそ、彼女の言う"ロジカル"な作戦が生きたのが先月のジャパンカップだったろう。一着に届かぬ経験を積み重ねたうえで、ついに勝ち筋を見出したのだ。

 

〈さぁお待たせいたしました、今年度の有馬記念、文句なしの1番人気はこのウマ娘、メイショウドトウ!執念の先、栄冠を遂に掴んだウマ娘、大多数のウマ娘ファンが、勝ちはほぼ間違いなしとの太鼓判を押しています!〉

 

〈そりゃ、あれだけ強いんですから!先行の位置、一番競り合いが激しい場所で前に突出して勝ちきるのは、実力がある証ですよ!今までずっと見てきたら、そう考えますって!〉

 

 オペラオーが居ないから1番人気になった、などという言い方はスペシャルウィークの口から出てこなかった。

 

 メイショウドトウの立ち姿は、やはり堂々としていた。トレセン学園に入って4年目も終わろうとする時期にもかかわらずオドオドした雰囲気は抜けていない、そんな日常の姿は微塵も匂わせることの無い姿だった。

 

 多くの観客たちが、メイショウドトウはその名に相応しい勇猛なウマ娘だと信じているのも、自然と引き締まった口元が証となっていた。

 

〈美しいよ!ドトウ!ドト……ォ!!……せてくれ、ドトウ!!〉

 

「お、オペラオーさん、音割れどころか、タブレットの画面が割れそうな勢いなんですが!?」

 

 タブレットの画面越しに全力の声援を張り上げているのだろうオペラオーは、デジタルが抱える腕の中でビリビリと震えていた。自分にとって最大の好敵手が、晴れ舞台に立っている光景は彼女にとっても晴れがましいものに違いない。

 

 が、鷹木はメイショウドトウの存在感に目を一時奪われつつも、自然と視線はアドマイヤベガの方へ吸い寄せられていった。

 

 彼の目を奪ったのは、魅力というよりも、未知なる存在、現象への警戒に近かったかもしれない。

 

 鷹木は確かに見たのだ、アドマイヤベガの影があまりに黒々としている様を。

 

 快晴の空から日差しを浴びてパドックに現れるウマ娘たちの影は、年末ということもあり午後3時を過ぎれば足元に長く伸びている。とはいえ芝の上で光は乱反射し、地面に落ちる影も会場の盛況を吸い込んだかのようにターフの色で薄っすら染まっている。

 

 しかし、アドマイヤベガの足元からは、まるで宵闇の暗がりをそのまま切り取ったかのような、真っ暗な影が伸びていた。

 

 そのシルエットも、ウマ娘の中では標準的な体型のアドマイヤベガに似ず、ずいぶんと華奢で、儚げな雰囲気のウマ娘のもののように見えた。仮にアドマイヤベガの亡くなった妹が現れたとしても、あそこまで体型が似ていないはずがない……。

 

「鷹木トレーナー?」

 

「あ、あぁ、すまない、ぼーっとしていた。もうじき、始まるな。」

 

「はい……。」

 

 アグネスデジタルから急に話しかけられた鷹木は、視線を傍らへと戻す。話しかけられていたことに気づかず、無視してしまっていたかとの慌てが、先ほどまでの奇妙な現象から意識を外させた。

 

 が、当のアグネスデジタルも、アドマイヤベガが纏っている妙な雰囲気に勘付いていたらしい。鷹木と同じものを見ていたかは定かでないが、有馬記念本番を直前に控えたアグネスデジタルにしては、興奮の少々冷めた目の色を示していた。

 

 抱えているタブレット画面の中では、先ほど騒いだオペラオーが看護師から強めに注意を受け、謝罪をしている珍しい光景が繰り広げられていたため、両名の意識は共にそちらへ吸い寄せられた。

 

〈あぁ、すまない、病室だものな、声は抑えるから……いや、その、タブレットは取り上げないでくれ、今から大事なレースが始まるんだ、あぁ、頼む、ホントに済まないと思ってる……〉

 

「オペラオーさんがガチめの説教されてるの、見ることになるとは思いませんでしたよ。」

 

「本当に、アイツを見ていると、いろいろな角度から予想外の連続が飛んでくるからな。」

 

 観戦する場に居る自分たちにとっても、この有馬記念が一大事であることには間違いない。

 

 それゆえにアドマイヤベガについての奇妙な違和感、出走前のウマ娘について不穏な憶測を口に出すことは避け、アグネスデジタルも鷹木も中山レース場のコースへと目を向けたのであった。

 

 レース出走前のゲートイン自体は、当然ながらどのレースにおいても等しく円滑に進む。本番直前のウマ娘が、最高のパフォーマンスを発揮できるようにとの配慮は、あらゆるレースにおいて十全であることに変わりない。

 

 が、有馬記念ともなれば、ゲートへ向かっていくウマ娘たちの一歩一歩には、否応なしに重い響きが付与されているようであった。一年の集大成、ウマ娘にとっては今まで幾年も続けてきたトレーニングの成果を出しきる本番直前なのだ。

 

 出走ウマ娘たち自身の足取りは決して淀みなく、だからこそゲート前の空間には異様なまでの緊迫感が濃縮されている。ゲート周辺で控えている中でも新米の準備スタッフには、それに耐えきれず顔を蒼ざめさせている者も居る。

 

 もしもウマ娘たちの瞳のぎらつきや極限まで研ぎ澄ました集中がそのまま客席にまで届けば、幾万人もの観衆は重苦しく黙してしまうだろう。

 

 だからこそ、実況アナウンサーと解説担当のスペシャルウィークはトークを途切れさせなかった。

 

〈いよいよゲートインとなります、さぁ、遂に有馬記念の出走まで秒読みというところですが、いかがでしょう、スペシャルウィークさん!〉

 

〈そこは解説無理ですよ、だって、みんな勝ちそうじゃないですか!分からないです、走ってみなきゃ!〉

 

 いかにもスペシャルウィークらしい返答に会場からは笑いが湧き起こり、レース直前の緊迫感を観戦スタンドは熱気と共に受け止めた。

 

 観戦席の最前列であるトレーナー用ブースに居ても、鷹木とアグネスデジタル、そしてタブレットでの通話越しのオペラオーからは向こう正面に位置するウマ娘たちの表情が見えるはずもない。

 

「なにも、問題はないよな……。」

 

〈何を案じているんだい、鷹木。ボクの好敵手たちは、間違いなく一点の曇りもない素晴らしいレースを披露してくれるよ!天上から注ぐ陽射しをそのままに、中山のコースを彩るだろう!〉

 

「ですね!オペラオー先輩の言葉に裏付けられれば、ますます楽しみです!」

 

 妙な緊張感のために顔色を薄れさせている鷹木の傍ら、アグネスデジタルは画面越しにオペラオーから受け取った言葉に頷いていた。あるいはオペラオーも、鷹木とデジタルが気づいていたことを察していたのかもしれない。

 

 大型ディスプレイに映し出されている中継映像でも、ウマ娘たちの顔つきはごく小さく映されるばかりであり、仮にアドマイヤベガが例の異様な状態を示していたとしても、確認することはできなかった。

 

〈ゲートイン完了……スタートしました!!ホットシークレットが少々出遅れたか、トゥザヴィクトリー果敢に前へ出て先頭!2番手にはアメリカンボス、その外3番手の位置にはダイワテキサス、1バ身差で4番手にシンコウカリドです。外からはメイショウドトウが並んで最初のコーナーへと入っていきます。その後をナリタトップロードが中団の外目につけて、エアシャカールは中団のウチを回っています。〉

 

〈ドトウちゃん綺麗な位置取り、それに直線からコーナーへ入る時の脚運びもスムーズです!トゥザヴィクトリーくんが皆を引っぱってペースを作っていますね、先頭集団もベテランぞろい……これは、後方からの差しも十分に来そうです!〉

 

 特定距離でのタイムを聞くまでもなく、スペシャルウィークの目は既にレース全体のペースを見越していた。

 

 むろん、ハイペースで進むと逃げや先行のウマ娘がスタミナを残せず、後方から差す作戦が決まりやすいという傾向もある。が、どちらかというとゆったりしたペースでありながら、なおもスペシャルウィークは差しが来そうだとの見解を示していた。

 

 レース中の先頭争いが激しく、相手に抜かれない位置を常に取り続ける必要が生まれると、先行ウマ娘のスタミナ消費が更に増えるという側面もある。ドトウが走る先行の位置には、アメリカンボスとダイワテキサスも並んでいた。

 

「アメリカンボスもそうだが、ダイワテキサスはもうデビューから7年目に突入しているんだよな。それでもまだ、この大舞台で、先行争いを続けられるだけの脚を持っているのか……。」

 

〈あぁ、ボクも、ドトウも、ダイワテキサス先輩とは幾たびも競った!紛れも無い実力を有するウマ娘さ!〉

 

「ひょぇぇ、そんな大ベテランと競いながら先行争いをして、なお勝算があるっていうんですか、ドトウ先輩は……。」

 

 既に世界の舞台を制したアグネスデジタルとはいえ、やはり自分が苦手とする長めの中距離レースである有馬記念にも出たいという思いはしっかりと抱えているのだろう。

 

 いつものひょうきんな口調はそのままに、彼女はいつになく真剣な視線を、スタンド前直線に入ってくるウマ娘集団たちへじっと注いでいた。

 

〈その後方からはイブキガバメント、メイショウオウドウ、さらに遅れましてトウカイオーザが後方2番手の位置、最後方にホットシークレット、その外に並んでアドマイヤベガという形で、一周目スタンド前に入りました……さぁ、私の実況が届いておりますでしょうか、大歓声であります、暮れの中山の風物詩、レース場を揺るがすがごとき大歓声のなか、ウマ娘たちが一気に駆け抜けていきます!〉

 

〈この歓声!まだまだスパートをかけるには遠いんですけれど、これを聞くと一気に熱くなるんですよ、なんというか、魂が!この熱量を、向こう正面からまた抱えて戻ってきてもらいたいですね!〉

 

 まさに2年前、実際に有馬記念を走っていたスペシャルウィークの言葉は、更に観客席を沸かせ、中山レース場の活気をますます盛り立てた。

 

 鷹木は、やはり目の前を駆けていくウマ娘たちの存在感に圧されつつも、アドマイヤベガの顔つきへと視線を向けずにいられなかった。

 

 最後方に位置し、じっと前方までの間合いを窺い続けているアドマイヤベガ。幾度も本番を経験し、洗練された脚運び、迷いのない位置取りとペース配分は安定していたが、既に異変は見いだされていた。

 

 彼女の眼の色は、僅かながら変化していたのだ。暗赤色から、徐々に明るく、橙、そして黄色へと。彼女の足元に伸びる影はますます黒く、もはやアドマイヤベガと地表を対称にして漆黒のウマ娘が出現したかのごとくだった。

 

 アグネスデジタルも、その現象の異様さにはっきり気づいた。それはアドマイヤベガの影ではなかった。

 

 アドマイヤベガの体型とは全く似ていない、驚くほど線の細い、華奢なシルエットだった。

 

「鷹木トレーナー……?今の、見間違いじゃないですよね?」

 

「……たぶん。」

 

 そのやり取りは、目の前をウマ娘たちの集団が通過していく興奮に大歓声を上げている観衆によって容易くかき消された。通話中のタブレット画面から、オペラオーが相変わらず声援を送る声も続いており、通話越しには確認できなかったのだろう。

 

 何か途轍もなく不穏な予感はせりあがってきたものの、有馬記念という一大ステージを中断させることなど今さら出来ず、またそれをするほどの根拠も無い。

 

 鷹木も、アグネスデジタルも、今までとは別の意味で手に汗を握って、レースの成り行きを見守る他になかった。

 

〈先頭は変わらずトゥザヴィクトリー、2バ身ほど開いてシンコウカリド、2番手へと上がってきております。3番手はアメリカンボス、ウチを進み、その外側にダイワテキサスがぴったりとつけている。そして5番手、メイショウドトウが更に外から落ち着いた走りを見せています。メイショウドトウの後ろにつけるはエアシャカール、差しの作戦にしては中団やや前方へと寄っているでしょうか。〉

 

〈シャカールくんは、こないだのジャパンカップで最終直線に向いたところから一気に駆け上がる走りをものにしましたからね!今のところ申しぶんのない位置取りで進んでます、いや、全員同じくですけど!これ、最終スパート、どうなっちゃうんでしょ!?〉

 

 実際のトレーニング風景を見たわけでもないのに、スペシャルウィークはエアシャカールが幾度も繰り返して練ってきた作戦を、まだ全体の半分ほどしか進んでいない本番の走りで既に見抜いていた。

 

 それもまた現役時代の経験が為せる技であったが、そんな彼女をもってしても最終直線での攻防は予見できないと言う。それこそまさに、ウマ娘レースの極致であった。

 

 人気度で上位陣を占めているウマ娘は、いずれも自分の得意とするペースや位置取りをキープし、理想通りの走りを実践できていたのだ。この走り方が出来れば勝てる……その状態でウマ娘たちが競い合えば、残すはレースの女神による采配のみが待つばかりとも言えた。

 

〈いいよ!トップロードくん!美しいよ!すなわち勝てるということだ!三女神も照覧あれ!〉

 

「オペラオー……お前は仮に実況席に呼ばれたとしても、解説は期待されなさそうだな。」

 

「珍実況ばかりが残されそうで、それはそれで人気が出そうですけどね!」

 

 鷹木は先ほど思考をよぎった不穏さを振り払うように口を開き、アグネスデジタルもまた応じていた。

 

 きっと、11万人の観衆の大声援が、1分ちょっと後には勝者を讃えている。この有馬という大舞台を、何物も阻害し得ないはずだ。

 

〈1コーナーから2コーナーへ、回っていくところでありますがウチをついてメイショウオウドウがじわじわと上がってまいりました、ダイワテキサスが5番手となっております。続いてテイエムオーシャンもウチ側を上がってきた、すぐ外を1番人気メイショウドトウが回っている、さぁ直線に向きました、メイショウドトウのすぐ後ろまでエアシャカールが、こちらも徐々に徐々に距離を詰めている!〉

 

〈バ群全体が前後詰まって来てますよ!後ろから差しを狙う子達が着実に前を狙える位置にまで来てます、ここから目を離すの厳禁ですよ!〉

 

 全てのレースで好成績を残したウマ娘たちが集い、しかも今レースでは目立ってマークされている者もおらず、あらゆる出走ウマ娘が理想的なペースで脚を運んでいる。

 

 先頭から最後尾までの間合いが詰まってくるのも、差しの作戦が順当に機能しつつある証に違いなかった。中山レース場は2コーナーを回りきれば、最終直線での坂を除いて上りはない。おのずからスピードも増し、先行するウマ娘たちは追い立てられつつある。

 

〈アヤベさん!あぁ、なんと軽々と脚を進めていくんだ、そこから更に発揮されるだろう末脚を思えば、ボクは戦慄いてしまうよ!〉

 

「たしかに、本当に軽々と走っていく……。」

 

「先頭との距離も詰まって来てますし、というかアヤベ先輩、既に加速を始めてません?」

 

 まだ向こう正面を走り切っていないにもかかわらず、確かにアドマイヤベガは最後尾をもはや脱していた。

 

 最終コーナーを回りながら加速していく作戦はアドマイヤベガの十八番であったが、その加速を更に早いタイミングで開始することは、容易な選択ではない。

 

 しかし、重力からも空気との摩擦からも解き放たれたように、みるみるスピードを上げていくアドマイヤベガの脚の軽さは、無茶を感じさせる走りではなかった。

 

〈間を突いてイブキガバメントも上がってくる、ダイワテキサスも譲らず3番手、トウカイオーザも後方から前方へと距離を詰め始めた、混戦の様相を呈し始めましたが、ここでアドマイヤベガ、アドマイヤベガが仕掛けた!何という早いタイミング、しかしまるで風のごとく、最終コーナー大外を回っていきます!〉

 

〈あのコーナーを攻略しながらの加速が、更に進化してる!?これが最終直線に向く頃にトップスピード入るとしたら……誰も追いつけませんよ!?〉

 

 コーナーを走る上では、コースの半径を考慮しても最ウチを回っていくのが最も距離が短く、スタミナ消費も抑えられる。

 

 それ故にこのレースにおいても、ウチ側をコンパクトに走り、そして直線に向いた際に遠心力で集団がばらけた隙をついて前に出るという作戦を取るウマ娘がほとんどだった。エアシャカールなどももちろん、その作戦ゆえにウチ側を走っていたのだ。

 

 だが、アドマイヤベガは彼女らとは一切干渉しない、大外をぐんぐんと上がっていった。まるで地上の砂塵を遥か足下に照らす、天上の星のごとく。

 

 それだけに、最終直線へと接近してくるウマ娘の中でも、アドマイヤベガは最も観客席の近くを走ることとなった。鷹木とアグネスデジタルは、ハッキリと目にした。

 

 以前併走練習を行った時と同様、アドマイヤベガが全く別のウマ娘のような顔つきへと変貌している様を。彼女の足元に伸びる影が、獰猛に歯をむき出している様を。

 

「この変貌は、何なんだ……?」

 

「アヤベ先輩、あんな大回りで、順位上げて行ってます!直線向いたら、誰にも捉えられないんじゃないですか!?」

 

〈いや、並みのウマ娘じゃないんだ、全員が!最終直線、まだ勝負は残っているさ!〉

 

 オペラオーの言の通り、最終コーナーを回り切るのはアドマイヤベガも、ウチ側を回ってきた集団も同様であった。

 

 そこからの爆発力は、もちろんスタミナを存分に残していたウマ娘たちも劣ってはいなかった。

 

〈ナリタトップロードも外を回っている、前へと出る構えか、トゥザヴィクトリーが懸命に後続を突き放す、さぁ正面の直線へと向いた!アメリカンボス追い上げる、ウチからシンコウカリド、そして、外を突いてメイショウドトウ前へと出た!その後方からエアシャカール、ナリタトップロード隙間から上がってくるが、大外を上がってきたアドマイヤベガ!!最後方から、とんでもない加速だ!〉

 

〈は、速、速い!全然、加速を緩めないの!?〉

 

 大歓声と熱狂の中、スペシャルウィークの叫びとアナウンサーの実況がこだましている。

 

 確かに、有馬記念への出走まで漕ぎつけたウマ娘たち、容易に抜き去られる面々ではない。だが、アドマイヤベガの末脚は直線に向いて更に加速していた。おそらく、ゴール前の上り坂でも失速しないだろう。

 

 目の前を駆けていくアドマイヤベガを、鷹木は呆然と見送った。いかに根拠のない話だったとしても、彼女が何か彼女ではない存在にとり憑かれていた、と今なら断言できただろう。

 

「一度も見たことはない、こんな走り……。」

 

「あのまま、ゴールしちゃうんでしょうか!?」

 

 アグネスデジタルも、ハッキリとは口に出さなかったが、何か不吉な摂理、結果が迫ってくるような予感がひしひしと胸元に迫ってくるのを覚えていた。

 

 アドマイヤベガが、全く別のウマ娘のような顔つきで、一度も見せたことの無い走りで、この有馬記念を勝ったとき……彼女は、アドマイヤベガではない何かとして、栄冠を戴くのではないだろうか。

 

 あまりにも現実味がないながら、実感だけは伴ったその予感は、アグネスデジタルの顔を珍しくも蒼ざめさせていた。

 

〈いや、まだ決まらないよ!ご覧!〉

 

 タブレット画面からオペラオーの声が響く。

 

 既に、アドマイヤベガは内側を進んでいた集団を置き去り、エアシャカールの末脚をも凌駕し、先を行くナリタトップロードにも並んで抜き去っていた。その先に、メイショウドトウがいる。

 

 メイショウドトウは"まだ"アドマイヤベガよりも前にいたのだ。

 

〈残り200mを切りました!エアシャカールは前に出ているが、ウチに並ぶナリタトップロード、アドマイヤベガがみるみる上がっていく!先頭はメイショウドトウ、メイショウドトウがまだまだ行く!外からアドマイヤベガ、外からアドマイヤべガ!ドトウか!ベガか!並んだ、アドマイヤベガ並んだ!メイショウドトウが先か!〉

 

〈まだ粘ってる!まだ!勝てる!!〉

 

 実況席のスペシャルウィークに、鷹木やアグネスデジタルが感じ取った不穏さが伝わっていたかは定かではないが、その時の叫びはハッキリとメイショウドトウの方を応援していた。

 

 本来公平な立場から為すべき実況解説であったが、スペシャルウィークの声援はごく自然に、アドマイヤベガに並ばれかけたメイショウドトウの背を後押ししていたのだ。はっきりと不吉を感じ取っていたわけではなくとも、ウマ娘として見えていたのはアドマイヤベガの異様さだったろう。

 

 メイショウドトウは、眼前に迫りくるゴールライン、そして真隣りに並びつつあるアドマイヤベガの足音を聞いていた……いや、その足音は、決してアドマイヤベガの走りには聞こえなかった。

 

(この先頭は、譲れません。)

 

 その思いは、あらゆるレースで抱いたのと言葉の上では同じだった。

 

 だが、内実はまるで違っていた。この有馬記念の栄冠を、たった今自分と競っているのが、アドマイヤベガと同じ姿でありながら、アドマイヤベガではない別のウマ娘だと気づいたとき、ドトウはますます譲るわけにはいかない……と持ち前の意地をますます硬くした。

 

 彼女は、自分とともに走り続けたライバルたちのことが、ただただ大切だった。何をやってもドジばかりだった自分と、共に競い合い、研鑽を続けた仲間であり、最大の好敵手たるテイエムオペラオー、ナリタトップロード、そしてアドマイヤベガのことが大好きだった。もちろん、ずっとトレーニングを見続けてくれた片桐トレーナーのことも。

 

 だから奪わせるわけにはいかなかった。アドマイヤベガにとり憑いた"何か"に勝てる脚を、メイショウドトウは持っていた。

 

(これは、私たちの時代です……私たちが紡いだんです!)

 

 どうしてそんな言葉が思考の中から飛び出てきたのか、ドトウはレースが終わった頃にはすっかり忘れていた。

 

 ただ、アドマイヤベガの尋常ならざる差しを、執念を込めたドトウの末脚が更に突き放したとき、アドマイヤベガの足下にぴたりとついていた漆黒のウマ娘のシルエットは怯んだように揺らぎ……アドマイヤベガ本来の影がドトウに遅れてゴール板前を駆け抜けていた。

 

〈メイショウドトウだ!メイショウドトウ、並ばれましたがハナ差で一着!メイショウドトウ勝利しました!本年度の宝塚記念以来、2度目のGⅠ勝利であります!二着はアドマイヤベガ!最後、物凄い追い上げを見せましたが、またしてもドトウの執念が勝ちを獲る形となりました!スペシャルウィークさん、いかがでしたでしょうか!〉

 

〈いや、最後、ホントに……熱かったですね!毎年、何が起きるかわかんないです、有馬記念は!〉

 

 メイショウドトウは、耳をつんざくような大歓声を浴びながら、ゆっくりと減速していく。

 

 観客席の方からは、ひときわよく通る声のアグネスデジタルから涙混じりの叫びも届いた。振り返れば、鷹木トレーナーがほぼ放心状態のようになって座り込み、涙と鼻水で顔じゅうベトベトしているアグネスデジタルの抱えたタブレット画面からは、オペラオーが何か叫んでいたが音割れと周囲の大歓声のために何も聞こえない。

 

 次いでドトウは、つい先ほど自分の真隣りを走っていたアドマイヤベガの方を振り返った。

 

 アドマイヤベガは、既にいつも通りの顔つきに戻っていた。目を閉じて長く小さい息を吐き出した後、開かれた目の色も落ち着きある暗赤色である。彼女は、ドトウの走りを讃えてパチパチと拍手を贈った。

 

「さすがね、ドトウ。今度こそ、私が差し切れると思ったのだけれど。」

 

「い、いえ、アヤベさんも凄かったですぅ……。」

 

 目の前に立っているのは、紛れもなくアドマイヤベガであった。レース中の、まるで全く違うウマ娘と競い合っていたかのような感覚は、極限状態にあった精神が引き起こした錯覚であるかとも思われた。

 

 そしてドトウにとっては、そんな勘違いを引き起こすことも日常茶飯事であり、結局彼女の実感は誰にも告げられることなく、レース後のウイニングライブの頃にはすっかり記憶から消え去っていたのであった。

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