探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 弥生賞での圧勝劇は、そのレースを観戦した者たちばかりを湧かせ、勝利した当のアグネスタキオン自身や、鷹木トレーナーの表情は晴れきらぬままであった。鷹木に関しては、タキオンの思惑を担当トレーナーたる自分が掴み切れていないもどかしさが故であったが。タキオンは、密かな決断に踏み切ろうとしていた。弥生賞にて全力を出して走った時、限界の先が僅かに覗けたのだ。彼女に助言するトレーナーが居なければ、タキオンは決断を実行に移していただろう。


限界の先は、観測し得ないはずだった

 弥生賞を圧勝して帰って来たタキオンの表情に喜びが見られぬどころか、むしろ若干沈んだ雰囲気である様を見ても、鷹木は今となっては意外に感じることなどなかった。

 

 タキオンが彼女自身に求めるところは、特異点たる証。

 

 仮に運命のようなもので選手生命の行く先が定められていたとしても、その限界に従うことなく超えて、走り続けられるとの証である。

 

 後続を大きく突き放して余裕のある勝利を披露できたのは、ひとえにタキオンの能力が優れているがためである。

 

 しかし、それはタキオンに言わせれば必然の結果に他ならず、敗北の運命を塗り替えて得た勝利には程遠い……といったところだろう。

 

「いやいや考えてみてくれ、あれだけの圧勝を実現できる脚がある時点で、ウマ娘としては何も文句の付け所がないだろ。」

 

「定期的に世間一般の価値観と私の思考を照合する機会を与えてくれるトレーナーくんの言動には感謝しているよ。」

 

 レース後の精密検査結果を受け取り医務室から練習場へと向かう廊下にて、鷹木に対しほとんど抑揚のない感謝の言葉をタキオンの声が呟く。

 

 その場で安易な結論を見出そうとする言説に対し、タキオンが全く聞く耳を持たぬことなど分かり切っていた鷹木は、暫し口を噤んだ。

 

 世間一般で認められている価値観は、確かに悩みの解決を試みた際の終着点として安泰ではあったが、構築してきた思考や探求を全て度外視した結論の出し方に違いなかった。そうであればこそ、誰しもが終着し得る結論なのだから。

 

 完全に無視してしまうことなく、せめて鷹木がタキオンの悩みを和らげようとした意図だけは汲んで、お座成りながら返答を口にする程度にはタキオンも成長していた。

 

「すまない、タキオン。だが少なくとも、現時点での戦績とトレーニング時のデータこそが、現状の判断材料ってことは事実だろう。仮説の外に、不安要素は無いんだ。」

 

「……トレーナーくんに対する感謝には、もうひとつあるんだ。私に、本気で走っていいとの保障を与えてくれたことだねぇ。」

 

 今度は鷹木に対する直接的な返答ではなかったが、今、律儀な返答は思考の言語化プロセスにおける遠回りだとタキオンは判断したのだろう。

 

 すなわち、よりタキオンの本心に近しい発言であるのだと判断できた。

 

 これからの将来ではなく、これまでの経緯を振り返るような言い回しであること……特に「与えてくれた」と過去形を用いていることに鷹木は大いに引っ掛かりながらも、彼女の言葉を促すのみの相槌に己の発言を留める。

 

「あぁ、確かにそう伝えたが。」

 

「私が独りで走りを研究している期間……主にトレセン学園に入学する前には、決して採り得なかった選択だよ。負荷の蓄積によっていずれ迎える限界が、他のウマ娘よりも私には早く訪れるだろうことなど、分かり切っていたからねぇ。」

 

 限界を迎えさせはしない、少なくとも今年のみならず来年のシニア級まで走り切れるよう、担当ウマ娘の状態をしっかり管理するのがトレーナーとしての務めだ……そんな言葉が喉元まで出掛かったが、鷹木は黙ってタキオンの言葉を聞き続けていた。

 

 鷹木が口にする程度の内容など、タキオンには容易に想定できる。そんなことよりも、タキオンが告げる内容をこそ、担当トレーナーとして余さず聞き入れるべきであった。

 

「トレーナーくんが、常にレースで全力を出せとの一辺倒な判断を下さない人間であることは、私のデビュー戦で知れている。」

 

「まぁ、そう、だな。あのデビュー戦の後は、競争相手のトレーナーから若干の顰蹙を買ったと思うが。」

 

 アグネスタキオンが初戦から勝利で飾ったデビュー戦において、最終直線を全速力で駆け抜けようとした彼女に対し、鷹木は速度を緩めるよう指示を飛ばしていた。

 

 タキオンならば本気で走らずとも十分に勝てる相手ばかりであったし、その三週間後にはGⅠホープフルステークスへの出走が控えていたのだから、担当トレーナーとして消耗を抑えるよう指示することは妥当な判断であった。

 

 結果的に、ほとんど力を抜いて流すような走りでありつつも3バ身の猶予を以て勝ったタキオン。

 

 拍手は湧き起こりつつも、デビューの成否を懸けたレースにて“本気を出さなくて良い”との指示を大声で叫んだ鷹木へ、周囲から白い眼が向けられたのは言うまでもない。

 

「トレーナーくんが抱える苦労については慮らぬでもないけれどねぇ、おかげでますます、私に対して本気を出すよう指示する際のトレーナーくんの決断に、信憑性を見出せるようになったのも事実だねぇ。」

 

「俺じゃなくても、トレーナーは皆、同じ判断をするとは思うけれどな。GⅠのホープフルステークス、そして皐月賞の優先出走権を得られる弥生賞。確実に勝ちたいレースばかりだ。」

 

「私の脚に対し、多大なる心配を抱え続けるトレーナーくんが、そのリスクを呑んででも下す判断だからこそ信頼できる、と言うべきだったねぇ。」

 

 並んで話し歩きながらも、鷹木が目を通している書類の束を軽くはたきながら、タキオンは言葉を補う。

 

 先ほど医務室にて受け取ったその書類は、もちろんタキオンの全身の精密検査結果が記されていた。トレーニングメニューから食事内容まで、事細かに鷹木が見続けたおかげか、一切の異状は見られない。

 

 検査結果の報告からは一応の安堵を得られはしたものの、それは実質のところ思考の根本に潜み続ける不安を薄く覆い隠したに過ぎなかった。

 

 タキオン自身は、その検査結果にほぼ興味を示していなかった。視線は真っすぐ前を見たまま、喋り続けている。

 

「私とて、脚が限界を迎えるまでの期間を長引かせたいとはいえ、一度も本気でのレースを経験することなく終えたいとは考えていないさ。だからこそ、全力で走っても脚が壊れない、そして全力を出すに値するレースだ、と二重の保障を見出し得るトレーナーくんの判断を頼みとしているわけだねぇ。」

 

「去年、ホープフルステークス出走の直前にも、言ってくれていたな。少なくともクラシック級のGⅠレースは獲っておきたい、って。」

 

 すなわち、目指すところは来月の皐月賞。

 

 もちろん弥生賞で圧勝を見せつけたタキオンには、最優先で出走権が与えられる。能力的にも全く不安要素はない、皐月賞と同じ条件である中山の芝2000mであれほどの強さを発揮したタキオンは、世間からも皐月賞での優勝候補筆頭に挙げられている。

 

 タキオンが望んでいた通りの舞台が、まず一つ、現実と化すのは時間の問題であった。

 

「ホープフルステークスでは、万が一、無理があると判断すれば全力を出すのは控える……と私は告げたが、結局、ジャングルポケットくんの闘志に当てられて、本気で走ることとなってしまったねぇ。」

 

「悪いことじゃない、結果的に脚に異状はなかったんだし。本気を出していないと見られれば、また担当トレーナーである俺に冷たい視線が刺さったかもしれないしな。」

 

「私が言いたいのは、そこじゃないねぇ。私は、本気で走り、全力の競走相手と勝負したから、見えたんだ……既に定まった、未観測の結果が。」

 

 ホープフルステークスの直後も、タキオンは似たようなことを喋っていた。

 

 その時も、鷹木の思考力でタキオンの考えていることを完全に理解できたとは言い難かったが、ぼんやりとは把握したつもりであった。

 

「まるで、今自分が走ったから勝ったんじゃなくて、とっくに決まっていた展開をなぞったようだ、と感じたんだったか?」

 

「あぁ、そう感じていたのは、先日の弥生賞を走るまでのことだ。今は違うねぇ、私が見ていたのは、先の展開だった。」

 

「先の……?」

 

「私が出し得る限界に、限りなく近づいたから見えたのだろうねぇ。限界とは読んで字のごとく、私が行きつく先そのものだ。走り終えたレースが過去の記録になっているのは当然のことだった、見えたのは次のレース……皐月賞の光景だ。」

 

 この時点で、鷹木の脳内はかなりの混乱に見舞われていた。

 

 単に、走り切ったレースについての不安を抱えているのだと片付けられる問題であれば、まだタキオンが多少突拍子もないことを言い始めたとしても、受け止めるだけの態勢は保てただろう。

 

 だが、まだ走っていない、未来のレースの光景が見えるのだと主張されてしまっては、考え過ぎだと片付けるのにも無理が出てくる。

 

「えっと……皐月賞って、来月の、タキオン自身が出走する予定の、か?」

 

「そう言っているじゃないか。思えば、これこそネオユニヴァースくんが言うところの“観測”というものかもしれないねぇ。彼女ほどハッキリと情報を受け取れはしなかったが、ごく感覚的に、来月のレース、ゴール板の前を駆け抜けていく私を知り得たのさ。」

 

「そ、そう……か……。」

 

 鷹木は未だ明瞭な返答が浮かばず考え込む一方であったが、ネオユニヴァースの名前が出たところだけは自身の中にも同意を見出した。

 

 おそらく意味の通っていることを喋っているのだろうが、言い回しが難解であるがために言いたい内容をすんなりと受け取ることが出来ないのは、今まさにタキオンと交わしているこの会話にも共通するところとなっていた。

 

 本気、全力を出し切ってゴールへと向かう極限状態。幻覚……と表現しては語弊があるが、自分の走っている様を平常とは大きく異なる形でとらえることは、十分にありうるだろう。

 

 鷹木はそう考えることにして、ようやっとタキオンへ明確に言葉を返した。

 

「じゃあ、タキオン。弥生賞でゴールした瞬間に見えたっていう……皐月賞でのタキオン自身は、一着でゴールできていたのか?」

 

「もちろん。なんら新鮮味の無い勝ち方ではあるけれどねぇ。」

 

「そうか、じゃあ弥生賞での走りが、むしろ今後の自信に繋がった、と考えてもいいんじゃないか?今後のレースで勝てるビジョンが見えるってのは、それだけ自分の勝ち方がハッキリと分かってるってことだろうし……」

 

「そこで脚に限界が来て、レースを引退するところも見えたねぇ。」

 

 鷹木は思わず立ち止まり、タキオンの方を見た。

 

 タキオンもまた、真っすぐに鷹木へと視線を向けていた。鷹木が、タキオンの身体検査結果に目を通している間も、ずっとタキオンはこちらを真っすぐ見つめていたのだった。

 

 普段の彼女とは、隔たりのある振る舞いだった。大抵、アグネスタキオンは、会話相手と目を合わせない。彼女が興味を抱く対象、探求の価値ある存在にのみ視線を向けつづけることが殆どだ。

 

 間違いなく、タキオンは鷹木に聞いてもらいたがっていた。

 

 自分の脚が、いよいよ皐月賞にて限界を迎え、引退に追い込まれるという運命、ほぼ確定した事実であるかのように見てしまったことを。

 

 彼女の瞳の中に不安の色が覗く様を、鷹木が明確に受け取る前に、タキオンは顔を逸らしていつものニヤニヤ笑いを作り直していたが。

 

「まぁ、少なくとも皐月賞を走り切る所までは保障された、というわけだ。私としては文句はないねぇ、限界を超えて特異点へ至るウマ娘に私が成りうるか否か、最後に試すには十分すぎる場ではある。私が到達できずとも、レースへ向かう生活を切り上げれば早々に研究へと没頭できるわけだ。」

 

「まだ、決まってないだろ。」

 

 ごく短い、ありきたりな言葉しか鷹木は口に出来なかったが、彼なりに思考をフル回転した結果ではあった。

 

 それはタキオンの探求に付き合ってきた者でなくても言えることではあった。将来のことなど、未来のレース結果など、実際に走らなければ分からないし、その結果訪れる命運も現状では定まっていない。

 

 しかし、タキオンの担当トレーナーとして共に歩んできたからこそ……タキオンの考えていることを、心底から信じ切っているわけでなくとも懸命に把握しようとし続けてきたからこそ、伝えられる言葉があった。

 

「タキオン、皐月賞で脚に限界が来て引退するという未来が事実だとしたら、それを先んじて今知ることが出来たってのも事実だ。予め知っているなら、対処できる。もったいぶらず教えてくれて助かったよ……俺は担当トレーナーとして、タキオンがレースで活躍し続ける以外の選択肢を取る気は無い。」

 

「……ずいぶん、簡単なことのように言うじゃないか。」

 

「担当ウマ娘に、将来の道を難しく見せるのはトレーナーのすることじゃないからな。」

 

 鷹木なりに懸命に選び抜いた言葉も、実際に自分の声に出して言ってしまえば随分と軽く、単純な理屈を並べただけのように感じられた。

 

 タキオンも表情にこそ呆れたような色を浮かべはしていたが……先ほどまで影が溜まっていた目元に、体温の高揚を示す血色がハッキリと戻りつつあった。

 

「やれやれ、トレーナーくんに相談を持ち掛けるたび、私は後悔する羽目になるねぇ。悩み楽しみたかったパズルに、単純な解法を与えられるのは何やら口惜しいじゃあないか。」

 

「後悔を繰り返したうえで、相談を持ち掛けてくれる程度には悪しからず思ってくれてるってことか?」

 

「去年、初めて会った時には、こんな減らず口を叩くトレーナーだとは思わなかったのだけれどねぇ。私に似てしまったのかねぇ?」

 

 確かに鷹木は、本来の気弱で小心者な性格があるゆえに、周囲に影響を及ぼされやすい性質も備えているらしかった。

 

 2年前まで担当していたオペラオーほどのメンタルに至るには未だ遠かったものの、答えの出せない悩みに対しタキオンのごとく独自の理屈で無理矢理にでも突破口を開く思考は身につきつつあった。

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