沈黙の中、エアシャカールは改めて画面に表示されたParcaeのシミュレーション結果を見直していた。何度見返しても変わりのない結果を、改めて繰り返し確認することなど普段の彼女は決してやらないだろう。
そのシミュレーション結果は構成要素の殆どが、見事なまでに今回実際に行われた阪神大賞典と一致していた。着順のみならず、着差、コースの外側ウチ側といった位置取りに至るまで、完璧に。
ただ一点、アドマイヤベガではなくジャングルポケットが二着となっていた点だけが異なっていた。
暫く何も喋れなかったのはタキオンも鷹木も同様であったが、先んじて喋りはじめたのはタキオンの方だった。
「シャカール先輩、Parcaeでのシミュレーションは、レース出走ウマ娘たちの身体データを学習させた上で演算された結果だったはずだねぇ?すなわち、可能性世界そのものの再現であると見て良いのではないかな?」
「……いや可能性はゼロだろ、阪神大賞典はシニア級以上のウマ娘じゃなきゃ出走できねェ。ジャングルポケットは今年からようやくクラシック級だ、阪神大賞典に出走してた可能性は万に一つも無ェよ。」
しゃがれかけた声でありながら、すかさず反論するシャカール。相変わらず声を出せぬままの鷹木も、どうにかその説に頷く事だけは出来た。
ジャングルポケットが今年の阪神大賞典に出走できる条件がそもそも整っていない……というのが現状、Parcaeによって算出されたシミュレーション結果について不正確であると指摘できる唯一の材料である。
とはいえ、アドマイヤベガをジャングルポケットに置き換えただけで、完璧に現実と同様のレース結果がシミュレーションされてしまうことは事実であった。
そのレース結果が、2年連続で全く同様に阪神大賞典にて訪れたことも。
タキオンはめげずに、自身の突拍子もない仮説を喋り続ける。
「これはこの世界と可能性世界における我々の出生年のズレが関係しているのではあるまいか!いや、そう考えればむしろジャングルポケット君が今年の阪神大賞典に出走している可能性についても説明がつく!覚えているだろうかトレーナーくん、カフェも可能性世界においては去年の春の天皇賞に出走していたのかもしれない、と私は仮説を立てていたねぇ!」
「あぁ、確かにタキオン、そんなことを言ってたような……」
目の前で確認できた事実のインパクトが強すぎて、他の記憶についての印象は薄れかけていたが、去年からタキオンが口にしてきた論拠の無い仮説が繋がりつつあることは、ぼんやりとながら鷹木にも理解できつつあった。
去年の春の天皇賞、現地京都レース場にて走っているアドマイヤベガを見たマンハッタンカフェは「あれは、私だ」と微かながらハッキリと呟いていた。
年代に関する奇妙なズレを覚える事例は他にもあった。昨年クラシック級で活躍を見せていたネオユニヴァースが本来タキオンたちの先輩にあたるウマ娘であるはずなのに、むしろタキオンの方が先輩であるように感じる、と告げたこともある。
現実を現実のままに受け取っていれば、何ら疑念を抱く必要のないことは少なくない。だが、明らかな異変を見出してからは、タキオンの奇妙な仮説に鷹木も妙な説得力を見出すようになっていた。
「シャカール先輩のプログラムは実に正確だ、だからこそシミュレーション結果に信憑性がある!可能性世界を乱す不確定要素、特異点たるウマ娘の影響が条件から省かれていれば、現実として確定したレース結果をかくも正確に再現できるのだからねぇ。」
「いや、やっぱ正確じゃァねェよ。レース結果や着順まで実際のレースと同一なのは確かだ、気持ち悪ィぐらいにな。だが、やっぱり阪神大賞典で実際に二着になったのはアドマイヤベガ先輩だ、ジャングルポケットじゃねェ。繰り返しになっちまうが、その点についてだけは、Parcaeが不正確だ。」
見出した異変に説明を与える方向で思考を進めていきがちなタキオンに対し、シャカールのロジカルなスタンスは変わらなかった。
いかに説明がつくからといって、非現実的な理論に頼ることはせず、あくまで現状確定している事実のみを判断材料とする。
偶然と片付けるにはあまりにも綺麗に現実と一致した阪神大賞典のシミュレーション結果には説明がつけられずとも、ジャングルポケットがそこに出走していない、というのは揺るぎようのない事実だった。
そう告げられてもなお、タキオンは自らの理屈を述べることにめげない様子だったが。
「では、シミュレーションに不可能性を与えていた要素は、アドマイヤベガ先輩ということになるねぇ!思えば、アドマイヤベガ先輩もまた特異点たりうるウマ娘だ、いや、彼女が引退することなく走り続けるよう望んだ世紀末覇王テイエムオペラオー、かの巨大すぎる特異点から影響を受けた結果と言えようか?」
「ンなロジカルじゃねェ理屈で簡単に説明がつくかよ。……それに、アヤベ先輩は何も気づいてねぇ。気づいちまってたら、平気に過ごしてられるはずがねェけどな。自分が全身全霊で走り抜いたレースの結果が、去年と全く同じ、まるで既に決まっちまった展開をなぞったみてェなもんだった、だなんてよ。」
一年前と同じレース結果が繰り返されていることに関しては、世間一般の観衆以上に、実際に走ったウマ娘たち自身が気づきようもないのは当然だったろう。
彼女らは、現実に、本気のレースを行い、その結果を受け止めているのだ。予め決めた順位になるように、手加減して走るようなことなど、決してしない。そんなウマ娘は、GⅡレースどころか、中央ウマ娘レースの舞台に届きすらしないだろう。
阪神大賞典に出走したアドマイヤベガも、ナリタトップロードも、本気でレースした結果が順位に現れていると心の底から信じているし、それは事実ではあるのだ。
一年前と全く同じ結果になっているという、非現実的な偶然を伴いながらも。
今度こそエアシャカールはノートPCを閉じて立ち上がり、練習コースの方へと歩み去っていった。
「俺が相手になれる話はここまでだ、ご自慢の仮説とやらを語りてェんなら、そっちのトレーナーさんを相手に他所でやっててくれ。この練習場にグダグダと居座られても困る……ここに来た口実通り、俺と併走練習したいってんなら別だが。」
「あぁ、もちろんだとも!もちろんトレーナーくんには飽きようが関係なく私の理論を聞いてもらうし、シャカール先輩とも併走をさせてもらいたいねぇ!」
チラとタキオンは振り返り、鷹木が慌てて頷いたのを確認してからシャカールに続いてウォーミングアップを始めた。
去年の入学当初、隙あらばサボりに向かっていたタキオンとは打って変わった姿であった。あの当初は自らの脚に訪れる寿命を少しでも引き延ばすため、消耗を抑えようとする思考が優先されていたのだろうが。
専属の担当トレーナーたる鷹木が、タキオンの脚に蓄積する負荷を入念に計算、練習量を管理するようになったことで、実際に走る機会を惜しむ必要が無くなったというのもタキオンの練習に対する姿勢が変化した一因だろう。
しかし、今はそれ以上に、可能性世界によって……ウマ娘の走りが向かう先の運命を予め決めてしまっているのかもしれない、ここではない世界によって、自分たちの走りが縛られていない証を欲しているのだろう。
アグネスタキオンも、そしてエアシャカールも。
「Parcaeに我々の現状のデータを入力して、どちらが勝つかシミュレートさせるというのはどうかねぇ、シャカール先輩?」
「今ウォーミングアップしたばかり、ッてのにか?手動でデータを打ち込むのには時間がかかンだよ、タキオン、お前も待ってらんねェだろ。」
「あぁ、それに十分に予想は可能だ。この場で、我々が競うことは、ウマ娘レースの歴史で予定される類の出来事ではないから、きっとエラーが表示されるだろうねぇ。」
それはタキオンにとっての願望も含まれた予測であったろう。
自分は易々と可能性世界によって予測されるウマ娘ではない。去年のホープフルステークスの結果は、Parcaeによって忠実に再現されてしまったが、それから後の鷹木トレーナーとの鍛錬によって、運命を乗り越えるだけの力を身につけたはずだ……そう信じていたいのだ。
運命を乗り越えられなければ、弥生賞にてゴールする瞬間に限りなく近づいて見えた、自分の行き着く先……皐月賞を最後に引退してしまう未来を、受け入れざるを得なくなる。
「条件は芝の2000mだ、京都記念の後にお前とやった併走と同じだ。あンときは弥生賞を控えてたがタキオン、もう次は皐月賞だろ?今度こそ、本気で来い。」
「皐月賞ウマ娘の先輩に言われてしまうと、そうせざるを得ないねぇ。私がそうである可能性はあまり高く見積もれないのだが、ウマ娘として特異点になる兆しを見出せるならば吝かではないねぇ。」
鷹木は、表情を緊張させて見守る他に無かった。
タキオンにとって、運命を乗り越えることは単なる勝利を得ることだけではなく、脚の故障のリスクを抱えながらも走り続けることなのだ。
だからといって、双方が完全に乗り気となっている中に割りこんで「練習段階で本気で走るのは控えろ」などと口をはさむことは出来なかった。
担当トレーナーとして出来ることは、別に見出していた。
「おい鷹木トレーナー、早いとこコースの計測システムを起動させてくれ。」
GⅠウマ娘用の個別練習場には、トレーナーがいちいちストップウォッチを手に取ってタイムを計らずとも、事前に設定したコース上をウマ娘が走るのに合わせて自動で各区間ごとのタイムを記録するシステムが備わっている。
しかし、鷹木は今回に限ってそれを起動させていなかった。彼にしては珍しい明確な意思表示として首を横に振りつつ、ストップウォッチを手に取った。
「今回は、俺に計測を任せてもらえないか。いや、計測システムの方がよっぽど正確にタイムが出るといえば、そうなんだが……」
「思いあがったものだねぇ、トレーナーくん。キミの干渉が、私やシャカールに可能性世界からの逸脱を実現させ、特異点たらしめるとでも考えているのかい?」
呆れたようなタキオンの言葉に対し、鷹木はようやく気弱な苦笑を取り戻しながらも頷いた。
ウマ娘の歴史が、仮に別世界のレース結果によって確定されているとするならば……専属のトレーナーとして彼女らを導き、共に歩む存在が、その歴史を乗り越える一因にもなりうる。
タキオンの奇天烈な仮説を間近で聞かされ続けた鷹木にも、担当ウマ娘の脳内に並ぶ無根拠の理屈が芽生えていた。
自分たち独自の理屈についての説明を、鷹木もタキオンもそれ以上口にしなかったが、シャカールの理解を得るには十分だったらしい。納得こそしてはいなかったが。
「んじゃ、俺にとっちゃ圧倒的に不利な併走ってことになるじゃねェか。タキオンの担当トレーナーの意思が、干渉してくるってンなら。」
「悪いねぇ、しかし花を持たせてもらうには十分な力量差だろう?順当に考えれば、ようやく今年クラシック級に上がる私よりも、歴戦のベテランたるシャカール先輩のほうが実力が上ということになるのだから。ところでトレーナーくんは、どちらが勝つと考えているのかねぇ?」
「もちろん、タキオンだ。……あ、いや、シャカールの実力も、軽んじてるわけじゃないんだけど……」
担当トレーナーとして迷わず言うべきセリフを放った後、シャカールからの鋭い視線が突き刺さると同時に弁明を始めるあたり、鷹木の本質は変わっていなかった。
ともあれ、ウォーミングアップを終えて双方の身体も闘争心も十分に熱された。
「位置について……用意、スタート!」
スピーカーから流れる機械音声ではなく、鷹木の声が練習場に響く。
綺麗なフォームで同時に駆け出したタキオンとシャカール、以前と同様に先行の位置についたのはタキオンであった。後続のシャカールは、数バ身おいてタキオンの背を追うペースへと早々に落ち着ける。
「弥生賞前と変わらないペースでタキオンには指導を続けていたが、シャカールの方は若干ペース配分を変えたか?」
基本的に、大舞台のレースを前にして走りの作戦を変えるウマ娘はそうそういない。
本番で集中力を乱す要素を少しでも減らすため、そして前を塞がれるなどの想定外の展開にも対応しつつ、いちいちスタミナとペースの配分に思考を回さずに済むようにするため、勝利へ向かうための方針を揺るがせるような真似はしない。
しかし、今走っているシャカールは明らかに以前よりも速いペースで足を運んでいた。
「おそらく、シャカールが次に出走する大阪杯のため、理想的なペースは以前の練習で見せたもののはずだ。もしかして、タキオンのために別なペース配分を披露してくれているのか?」
言動はぶっきらぼうでありながら、後輩ウマ娘の妄言に幾度も付き合う程度には面倒見の良いエアシャカールらしい判断ではあった。
向こう正面に至れば、その前回との違いはますます顕著となった。シャカールは追い込みというより、どちらかというと差しの位置へと入ってきていた。
タキオンとの距離も、じわじわと詰めている。周囲のウマ娘の走りを冷静に分析し、最適なペース配分を判断することを得意とするタキオンにとっては、どのような走りが相手であれ関係ない、はずであった。
「……いや、タキオン、まさか焦ってるのか?」
エアシャカールが間合いを詰めてくるほどに、タキオンの脚が徐々に速まっていく。
むろん、タキオンの得意とする走りのためであれば、まだ最終コーナーにも差し掛かっていない状況で加速することは悪手だと分かるはずである。
が、幾戦ものレースを経験したシャカールによって、背後から掛けられるプレッシャーは、いつも冷静であるはずのタキオンの脚を急かしていたのだ。
「理屈じゃ分かってるはずだが、これは経験不足か。本番のプレッシャーは、実際に走らなきゃ分からないよな……」
むろん、現状では同年代のウマ娘を相手取るレースに出る予定しかない。
が、いずれシニア級以上の相手とも競う時が来れば、純粋な足の速さやペース配分の巧みさの他に、位置取りや距離詰めなどの駆け引きも無視できない。
想定よりもスタミナを消費しながら最終コーナーを回っていくタキオンを見ながら、鷹木は今後の課題を明らかとしてくれたシャカールにも感謝しつつ、それでもここでの勝ちが厳しくなったタキオンに苦い表情を向けていた。
「タキオンも、気づいたか。あそこまで急かされた上で最終直線に来てもスタミナが十分じゃない、全力の走りは出せないだろう。」
エアシャカールが外側から並びかけてくる。万全の状態であればすぐにでも引き離しにかかれるはずのタキオンは、そのまま並ばれ、シャカールに追い抜かれる……かのように見えた。
が、タキオンは並び続けていた。スタミナは限界であり、現状以上の速度が出せないことが明白であってもなお、歯を食いしばってシャカールと並び続けていた。
もはやシャカールの支配する盤上に身を置いていることをタキオンも理解していただろうが、鷹木の与えた予想へと懸命に脚を急がせているのだ。
「まだ粘れるのか、タキオン……あんな泥臭い勝負も、出来るんだな。」
これまでずっと、タキオンの想定通りに運ぶレース展開、そして余裕を残した勝負しか本番では経験してこなかった鷹木にとっては、かなり意外な展開であった。
練習段階で勝てなかったことは、例えばデビュー前のマンハッタンカフェとの練習においてもありはしたが、その時のタキオンは既に自分に十分な余力が残っていないことを見越して、食い下がるような真似はしていなかった。
こうして、勝ちの目がごく薄い状態であっても懸命に歯を食いしばって先頭争いをし続ける姿を、鷹木は初めて目にした。
「フィニッシュ、そこまで!……タキオン、見事……と言いたいところだが、体勢有利でシャカールが勝ち、か……?」
「ハァ、ハァ……ったく、そこで自分の担当ウマ娘が勝った、って言えねェのがお前らしいな、鷹木トレーナー。」
やはり想定通りにレースを運んだシャカールは、ゴール直後から息を切らしつつも、会話できる程度の余裕はあった。
一方で、スタミナ切れを起こし、自らの最高速を思うように引き出せないながらも、最後まで勝ちを諦めずに粘り続けていたタキオンは、しばらく肩で息を続けて言葉を発せぬ状態のようであった。
そんなタキオンの姿を、もちろん鷹木が目にするのは初めてであった。
「本当にありがとう、エアシャカール。きみのロジカルな詰め方が無ければ、タキオンが勝てないかもしれない状況でも本気を出し続ける展開は、実現できなかったかもしれない。」
「フン、これで奴の言う“可能性世界”とやらも眉唾物だってのが知れたんじゃねェか?で、結局どっちの勝ちだったんだ、俺か、タキオンか。」
「えぇと……ほとんど同時だったから……分からない。」
走る前にシャカールから提案された通り、コースの計測システムを起動させていれば、この結果も確定していたのかもしれない。
だが、鷹木のストップウォッチの表示は、シャカールとタキオン共に同じタイムが記録されていた。相変わらずタキオンがゼェゼェと息を切らしてるのを後目に、シャカールはストップウォッチを覗き込み、肩をすくめて鷹木から離れてドリンクのボトルを取りに行く。
どんな可能性によっても予測され得ないこの併走の勝敗は、未確定であることが相応しいのだとシャカールも判断したのかもしれなかった。