4月に突入し、トレセン学園も新たな年度を迎え、新入ウマ娘たちの活気が敷地内には溢れている。
その日は朝から、鷹木は警戒を緩めることが出来なかった。言わずもがな、タキオンの予測される行動が不穏に過ぎたためだ。
「タキオンの奴をノーマークにしておくと、絶対に新入ウマ娘たちに絡みに行くはずだ。阻止しなければ、トレセン学園に入ったばかりの子たちが最初の一日を、安穏に過ごせるように……。」
こういう時のために、アグネスタキオンの位置情報を受け取れるアプリでも彼女のスマホに入れておきたいものだったが、トレーナーとトレセン学園生という立場で、公然と出来ることではない。
それに、タキオンならば自らの位置情報を知らせるアプリを入れられたところで、それを逆に利用して鷹木を惑わせる程度のことはするだろう。
そういったわけで鷹木はタキオンがいつも通り練習場に来ることを期待して待っている他に無かったのだが、予想通り彼女は姿を現さなかった。
「もう皐月賞の出走に向けて、無駄な時間を使ってる余裕なんて無いのに……やっぱり、新入学生のところに行ったな、アイツ!」
3月の末から、トレセン学園に顔を出す新入りたちへ向ける視線が好奇心に満ち満ちていたタキオン。
彼女の思いを、鷹木も理解できなくはない。定められた運命を覆すほどの力を有するウマ娘、タキオン流に言うところの“特異点”たる存在が、新たな世代のウマ娘たちの中にも見いだせないかと興味津々なのだろう。
それに、4月になって確かに新入りのウマ娘たちが入学してきたこと、その事実自体が重要でもあった。
2月の京都記念、3月の阪神大賞典、それぞれが去年と全く同じ出走ウマ娘、全く同じレース展開と着順を繰り返したという事実。このことに気づいているのがアグネスタキオンと鷹木、そしてエアシャカールだけであり、世間では全く騒ぎになっていないという現状。
まるで、自分たちだけが時間の檻の中に閉じ込められたかのような錯覚までも抱く状況にて、去年は存在しなかった事物、今年でなければ遭遇し得ない対象を確認できることは、一種の救いでもあった。
「会えるのが嬉しいって気持ちは分かるが、だからといって新入生に絡みに行っていいわけじゃない。入学式に乱入しにいったりしてんじゃないだろうな……!」
時刻を見れば、まさに入学式の真っ最中であった。とはいえ、今のところ目立った騒動は起きていないらしい。
秋川理事長のよく通る声が響く大講堂の中では、見たところ新入ウマ娘たちが整然と席に着いて式次第をおとなしく見守っていた。
息せき切って講堂入り口にまで駆け込んできたトレーナーを、警備員が訝しげに見つめ、そしてそれが鷹木トレーナーであると気づいて苦笑とともに軽く会釈した。
「あ、あはは、た、タキオンがいつも通り、下手な騒ぎを起こしていないか、気が気でなくて……し、失礼します……。」
さすがのアグネスタキオンも、後輩たちの入学式へと乱入騒ぎを起こすほど考え無しではないのだ。
しかし、タキオンの所在を掴めていない現状に変わりはない。汗を拭きつつ、心なしか去年よりもスタミナがついて息切れしづらくなった自分の肉体の成長にも気づきつつ、いつも通りに校舎内を駆けずり回る鷹木。
またアグネスタキオンの担当トレーナーが、タキオンを探して走り回っている……と在校生ウマ娘たちからも苦笑を向けられつつ、タキオンがちょくちょく根城にしているらしい理科準備室も覗き込むが、そこにもタキオンの姿はなかった。
マンハッタンカフェもアザレア賞間近、アグネスタキオンも皐月賞が迫る今、部屋に出入りする者自体が居ないのか、カギは開きっぱなしであるのに床には埃が積もっていた。
昨年の春、タキオンとタップダンスシチーが空き教室を占拠する権利を勝手に取り合ってレースしていたのが、もはや遠い過去のこととなっていた。
「いや、懐かしんでる場合じゃない、どこに行っちまったんだよ、タキオンの奴……。」
「ククク……混沌(カオス)に惑う迷える子羊(ストレイ・シープ)よ、迷宮(ラビリンス)を抜け出でんとアリアドネの糸をご所望かな?」
タキオンもカフェもいないはずの理科準備室の中から、何者かの声が響いて、俯いていた鷹木はビクッと跳びあがりながら顔をあげた。
むろん、どうせ誰も使わない埃臭い部屋、タキオンが勝手に根城にするため解錠しっぱなしにしていたため、誰か他者が入り込むことは十分に可能である。
だが、どうせ誰も入らないような掃除の行き届いていないような部屋だからこそ、わざわざそこに身を潜める者自体が怪しかった。もしかすると校外から不審者が侵入したのかもしれない、と鷹木は身を固くしたのである。
「だっ、誰だ……?」
「我が名を尋ねるか、この鮮烈なる輝きを―――お前のイデアは酩酊せずにいられるかな、あるいは酩酊する資格もないか?……さぁ恐れろ!戦慄け!!幕を開け!この世界(ガイア)に刻もう―――破滅と狂乱の戦史(クロニクル)を……儚くも荒々しき神話(ミュートス)を!!刹那の眩い輝き(ギムレット)を以て、俺の求めるワタシは―――『タニノギムレット』の存在意義(レゾンデートル)は開始する!!」
「…………へ?」
鷹木が茫然としたのは、むろん相手が滔々と述べた口上があまりに珍妙であったことも原因にはあったが、その口上の主の姿を目の当たりにしたためでもあった。
埃臭い部屋の薄暗い隅から歩み出てきたのは、明らかにこの4月、新年度入学ウマ娘としてトレセン学園に入って来たウマ娘であった。何やら貫禄だけは充分に備わっていたが、その制服が新品同様であったことからそうと知れたのである。
すなわち、このタニノギムレットと名乗るウマ娘は、今はまだ入学式の真っ最中だというのに、入学初日からそれをすっぽかして、勝手に校舎の中をうろつき、勝手にこの理科準備室に入り込んでいたことになる。
手元のタブレット画面でタニノギムレットの名を検索し、確かに今年入学したウマ娘のリストの中に居ることを確認しつつ、鷹木は問い質す。
「えぇと……タニノ、ギムレット……今年入学したウマ娘だな?今はまだ入学式が続いている、講堂に戻って理事長の話を聞きに戻ったほうがいい。」
「俺は我が魂(プシュケー)を偽る気は無い……全てを貫く鮮烈なる破壊(カタストロフィ)、それがギムレットの美を形作る―――破壊の裏にこそ再生(ルネサンス)は存在するのだ。禁忌(タブー)を拒め、牢獄(タルタロス)より深い、燃えるような爪跡を現在(いま)に刻め……!!あぁ、神が求めど俺は戻らない!」
鷹木が、他のトレーナーよりも呆れた表情を浮かべる時間が短かったとすれば、それは彼がこれまで担当してきたウマ娘たちの影響によるだろう。
独自の世界観を元にした確固たる理屈を以て、学園での決まり事に対しても従順ではない振る舞いは、テイエムオペラオー、そしてアグネスタキオンにも、多少なりと理屈に差はあれど共通した特徴であった。
タニノギムレットが言いたいのは、入学式に出席するために費やす時間があるのならば、自分の手でトレセン学園での体験を得たい、といったところだろうか。
確かに、彼女は入学式に出席しなかった代わりに、タキオンが勝手に実験室として扱っているこの理科準備室にたどり着いたのだから、現在の行動でなければ実現し得ない発見をしたことには違いない。
この状況を見つけてしまった鷹木は、アグネスタキオンに加えて新入学生たるタニノギムレットをも世話しなければならなくなった、という事実も間違いなかったが。
「理性(ロゴス)を象徴するかのごとき備えだ―――しかしこれらの主は秩序(コスモス)へ疑いを向けているのだろうか?あぁ、探求へ捧ぐ友愛(フィリア)、いや衝動(パトス)を感じる!」
タキオンがこの部屋に持ち込んでいた様々な実験道具、フラスコや試験管の乾かしてある台などが気になるのか、タニノギムレットは少々うるさすぎる独り言と共にしげしげと眺めながら、この部屋を一向に離れる気配を見せない。
この手のウマ娘に対し、同じことを繰り返し伝えようとも聞く耳を持たれないことは鷹木も重々承知していたため、別なベクトルからの説得を試みることにした。
「あー、実は、その実験道具をこの部屋に持ち込んでいるのは、俺の担当ウマ娘、アグネスタキオンなんだ。学園から実験室として認められたわけじゃなくて、タキオンが勝手に自分の趣味で使っているだけなんだけどな。気になるのなら、後で彼女に紹介してあげてもいいから、今は入学式の講堂に戻らないか?」
「タキオン―――アグネスタキオン?……かの凍れる川(エーリヴァーガル)のごとき白衣のウマ娘の名が、そうだというのか?彼女の姿を、俺は見た―――風の神々(アネモイ)に導かれるがごとく、揺蕩い歩み去る姿を。」
「えっ、タキオンの姿を見たのか?」
そうなってくると話は変わってくる。
タキオンに紹介してやるという口約束を交換条件にタニノギムレットに大人しく入学式へと戻ってもらおうとしていた鷹木であったが、逆に鷹木が求めている情報をタニノギムレット側が掴んでいたのだから。
多少情けない構図ではあったが、担当ウマ娘のために全てを捧げるべくして働いているトレーナー、鷹木はギムレットに頭を下げぬわけにいかなかった。
「そっ、その……タキオンがどこに行ったのか、教えてもらえないか?えぇと、そう、ここに居たことは黙っておくし、気が向かないのなら入学式にも行かなくていいからさ。どうせ欠席していても必要な書類や注意事項は送られてくるんだし。」
「ククク……いかなる言葉(レター)を紡ぐかと思えば、平身低頭して取引とはな。だが―――ワタシの躍動する鼓動(エラン・ビタール)が聴こえるか!いいだろう!暗夜に惑うならば来い、光をもたらす者(ルシファー)の導きに!」
言い回しは個性的に過ぎ、新入生とはとても思えないほどに態度もデカいタニノギムレットであったが、根本では困っている相手を放っておけない性格であるらしい。
そんな彼女の雰囲気に、ごく凡庸なトレーナーである鷹木が呑まれずに済んでいたのは、以前テイエムオペラオーを担当していた経験のおかげであったろう。
オペラオーもまた、独特な言い回しを以て自らの発言とともに悦に浸るタイプのウマ娘であった。参照していたのは神話そのものではなく、あくまでオペラの一節であったが。
鷹木がタキオンの居場所を一刻も早く知ろうとしていることを分かっているのか、スタスタと早歩きで向かうギムレット。
「なんか、歩き慣れた場所みたいにしてトレセン学園の敷地を移動できるんだな。入学前に、見学する機会はあったかもしれないが。」
「ここに俺が来たのは、初めてだ。陽光の元へ連れ出された冥界の番犬(ケルベロス)のごとく―――吼えたてる衝動が先ほどから抑えられないのが証拠だ……!」
「そ、そうか、じゃあ、誰かにトレセン学園の敷地内について事前に教えてもらっていたのかな?」
「あぁ……俺の母もトゥインクルシリーズを駆けた戦士(エインヘリヤル)だったからな。」
親がレースの舞台を経験したウマ娘であれば、その子もまたレースの道を必ず選ぶ、というわけではない。
むしろウマ娘レースの道を志したことのある親は、自分のたどった道があまりにも辛く、勝利の栄冠の輝きこそ捨てがたくとも、やはり我が子に同じ苦労を味わわせたくないと考えることも少なくないためだ。
すなわち、今こうして自分の親と同じくレースの道を志して入学してきたタニノギムレットは、相当な覚悟を固めているということになる。
その独特過ぎる口調の影で隠れてしまいかねなかったが、鷹木はタニノギムレットの左目……右目は何故か眼帯で隠されていた……に、尋常ならざる輝きが秘められているのを見た。
鷹木が彼女の顔へ視線を注いでいると、立ち止まったギムレットは前方を指さした。
「あれだ。かのウマ娘にとっての理想の姿(イデア)、勝利と栄光、その化身(インカーネーション)に、かくも実力を備えた者でさえ縋りたくなるものか。」
「あっ……タキオン、何故、そんなところに?」
そこは、鷹木の中で全くタキオンの居場所として候補に上がらなかったロケーション、三女神像の前であった。
普段から科学者を気取り、自身の唱える仮説も少々突飛なものとはいえ、非科学的な要素には関心を向けることの無いタキオンが、三女神像の前で祈っている。
いや、正確には首を垂れ、立ちつくしてじっとしている、と表現した方が正しかった。
そんな姿を、鷹木が目の当たりにするのは久々の事であった。去年は担当しているウマ娘が居なかったため、偶然見なかっただけかもしれないが……オペラオーは現役の間、毎年4月になるとあのように三女神の前でじっと立ち尽くしていることがあった。
ともあれ、皐月賞への出走も近いタキオンの身体に不調があっては一大事である。鷹木は迷わず歩み寄っていき、タキオンの肩を揺さぶった。
「タキオン……タキオン!おい、しっかりしろ、具合でも悪いのか?」
「……うん?おや、トレーナーくん、何だい血相を変えて……あれ?私はいつの間に、三女神像の前に立っているんだ?」
「さっきまでの意識がないのか?まさか徹夜で実験でもして、寝不足にでもなっているんじゃないだろうな。」
そうは言ったが、ここまでタキオンとの付き合いが長くなれば彼女の状態は一目で分かる。
血色は良く、寝不足の気配はなかった。いつも通りに余裕ぶった笑みを浮かべているタキオンだが、先ほど自分が三女神像の前に突っ立っている状態を認識した瞬間は、確かに驚きの表情を浮かべていた。
鷹木もタキオンも僅かな混乱と戸惑いに見舞われて、互いの顔を見合わせたまま暫しの沈黙が流れる。その静寂を破ったのが、ギムレットの高笑いであった。
「ハッハッハ!!定めの鎖(フェイト)は断たれていなかったようだ―――ならば俺は行こう!長い旅路へ、至上の破壊(デストロイ)とビターズを!ワタシに酩酊する才能の持ち主を―――求めに!この海洋(オケアノス)の果てに、理想郷(エリュシオン)はあるのか……!クックク……ハァッハッハッハ!!」
「が、学園の備品は、破壊しないでくれよ……?」
鷹木の気弱な声がきちんと届いたのか否かは不明のまま、彼女は機嫌良さそうに笑いながら、入学式の行われる講堂とは別方向へと歩み去って行ってしまった。おそらく、自分の気の向くままに歩き回り、トレセン学園内の探検を続けるつもりなのだろう。
母親がレースの舞台を目指した学び舎に自らも入り、そして今度はギムレット自身の物語が始まろうとしているのだから、それだけ上機嫌になるのは理解できた。
「……しかし、随分変わり者なウマ娘だったねぇ。あれが今年の新入生かい?はてさて、あんな調子では、きちんと教室で授業を受け、トレーニングを続けられるのか怪しいものだねぇ。」
「お前が言うな、去年の新入ウマ娘の中で一番の変わり者だったのに。いい加減に練習場に戻るぞ。」
個性的すぎる新入ウマ娘の背を呆れ顔で見送るアグネスタキオンを、さらに輪をかけて呆れた顔で鷹木が叱り、練習場へと共に向かう。
思えば、入学当初はとてもトレーナーの言うことを聞いてくれそうになかったタキオンと、こうして共にレースへ向けて準備を進められるまでにはなったのだ、1年かけて。
とは言っても、あの濃すぎる個性の新入ウマ娘を仮に担当することになったとして、自分がきちんと導けるのかと問われれば……首を縦に振るまでには大層躊躇するであろう鷹木であった。