本領発揮できぬままアザレア賞を走り終えたマンハッタンカフェが、無事に戻ってくることをわざわざタップダンスシチーはわざわざ確認しにいく必要もなかった。
走りの最中、脚に異状があれば、それは明確に走行フォームのいびつさとなって表れるためだ。絶不調な状態でのレースとなってしまったカフェだが、脚運び自体に異変は無い。少なくとも脚の故障を起こしていないだろうことは明白だった。
それよりも、タップは自らのレースに向けて万全を期すことに集中すべきであった。
「Just leave it to me、わたしの走りを目に焼きつけりゃあ、アンタもきっとまた燃えてくるぜ、カフェ。」
ウマ娘にとっては、どんな励ましや慰めの言葉よりも、走る光景を見せることそのものが一番の活力源となる。
タップダンスシチーにも、それが本能的に理解できていた。マンハッタンカフェ自身とわざわざ約束を交わさずとも、彼女は体を休めてウイニングライブのバックダンサーとなる準備を進めつつ、タップダンスシチーのレースを見るだろう。
発走まで残り1時間を切り、本番直前の最終調整を終えてゼッケンと運動服姿に着替えたタップダンスシチーは、大阪―ハンブルクカップのパドックに姿を現した。
〈今回は2番人気となりました、タップダンスシチーの登場です。昨年、トレセン学園入学からわずか2か月という異例の早さでデビューを果たし、その後は次々とレースに出走して本番経験も十分、昨年末の天竜川特別における安定した勝ちっぷりも印象に残っています。今回も、その堂々たるストライドで栄冠を手にするのでしょうか。〉
大柄な長身でポージングを決め、アメリカ出身ウマ娘らしい朗らかな笑顔を観客スタンドへと向ければ、たちまち歓声が沸き起こる。
オープン戦や特別レースへの出走が主となっていたタップダンスシチーには、既に一定数のファンがついていた。従来の逃げや差しといった作戦に縛られない、自分のペースを貫いて常に勝ちを狙いに来るスタンスが評価を浴びつつあったのだ。
1番人気こそ過去にテイエムオペラオーとも競った経験もあるタガノブライアンに譲ったが、現状最も勢いのあるウマ娘としての人気票はタップダンスシチーに集まっていると言ってよいだろう。
歓声に沸きかえる観客スタンドの様相とは裏腹に、片桐はトレーナー用のブースにてじっとタップの状態を凝視していた。
「脚への体重の掛け方、問題はなさそうですね。本気のスパートに突入した際の負荷にだけは、気をつけておかなければ。」
マンハッタンカフェとは対照的に、メンタル面では全く揺らぐそぶりすら見せないタップダンスシチーであったが、昨年の10月からほぼ1カ月スパンで本番レースへと出走し続けている。
ウマ娘の中でも殊に頑丈な体格を誇るタップも、故障と無縁というわけではない以上、担当トレーナーとしては気の抜けない状況ではあった。
前のレース後のコース整備が簡易に行われた後、いよいよ大阪―ハンブルクカップの発走時刻を迎える。
〈全ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました、ほぼ揃った綺麗なスタートとなりました。まずは果敢に前へと出て行きましたタガノブライアンが外からスーッと上がって行って現在1番手、その後には最高傑作マックイーンの意思を継ぐメジロサンドラが2番手であります。ほぼ並ぶ形となりましたビッグバイキングが3番手、バンブーマリアッチ、サニーサイドアップと続きまして、2番人気タップダンスシチーは前から6番手といったところです。〉
やはり序盤から速度の出しやすい阪神レース場のコース、スタート直後から我先にと前を目指すウマ娘が先頭に殺到していく。
そんな彼女らを前に見送りながら、タップダンスシチーは中団やや後方に位置どっていた。これも後ろに下げた位置から追い上げようとする作戦ではなく、自分にとってベストのペースをキープした結果である。
(Chill,dude.Hold your shoes.焦って追ってったら全部ムダになっちまう、わたしには分かってんだ、この速度、このペースならスタミナをちょうど使い切る頃にゴールラインを越えてる。)
タップダンスシチーの体躯が、身長も胴回りも大柄であったこともまた、彼女の作戦を成功へと近づける要因であった。
堂々たる体躯の彼女をマークする競争相手こそ居れども、敢えて間合いを寄せてプレッシャーをかけようとする者は居ない。下手をすれば、寄っていった側が跳ねのけられそうな圧がタップの体躯には備わっていた。
〈さぁ1コーナーを抜け2コーナーへ、中団以降は内側にヒシマジェスティ、その外並んでメイショウバチカン、さらに2バ身開いてまた横並びでサンフェザント、そしてロロが最後方、全体やや詰まった形の集団となりました。先頭は向こう正面へと差し掛かる所ですがタップダンスシチーがじわっと前に出始めたか、6番手から5番手へと順位を上げています。〉
セオリー通りに走っていれば、まだ最初のコーナーを抜けきったあたりから加速するウマ娘はいない。向こう正面も安定した位置取りで走り続け、最終コーナーの前後から仕掛けどころを牽制し合う駆け引きが始まるのが普通だ。
が、タップダンスシチーはそのようなセオリーに従う走りをする気は無かった。
(悪ぃが、先頭の連中の考えは丸わかりだ。スローペースに持ちこもうったって、わたしは正確に速度を維持して走ってんだからな。)
通常ではあり得ないタイミングで順位を上げ始めたタップダンスシチーに対し、観客席からはどよめきがあがるが、それは決して破天荒な走り方ではない。
幾度も片桐トレーナーと繰り返した練習の成果、タップダンスシチーが一定の速度を保ち続けて走っているため、全体がスローになりつつある様が浮き彫りとなったに過ぎない。
〈向こう正面を抜けてタップダンスシチーは更に前へと出る、現在3番手!バンブーマリアッチもそろそろ仕掛けだしたか、タップダンスシチーと並んでいる!さぁ先頭は変わらずタガノブライアンですが、後続との距離はじわじわと詰まってきたぞ、メジロサンドラは2番手を死守、ビッグバイキング3番手で粘っている!タップダンスシチーは既にコース外側へと出して前を狙う勢い!〉
最終コーナーへと向かうにつれ、大歓声の響き渡る観戦スタンドが近づいてくる。ウマ娘たちの走りに、ますます熱が入る区画だ。
むろん、タップダンスシチーは常に速度を維持し続ける作戦であるため、ここから敢えて加速するというわけではない。最後の最後、ゴール前で追い越せる相手が居るならば、余力を振り絞るつもりではあるが。
とはいえ、やはり体の中の熱量が自ずと上がるのを感じるタップダンスシチー。
自分のすぐ内側のコースを走るウマ娘とぶつからないギリギリの間合いへ神経を注ぎつつ、トレーナー用ブース内にいる片桐の方へと目を向けた。
(What's the heck?……どうしたんだ、Trainer?)
熱狂の渦と化している観客スタンドとは全く対照的に、片桐は真剣そのものな表情であった。それだけであれば、担当ウマ娘を出走させたトレーナーとしては当然の姿である。
しかし片桐の表情は、単に真剣というよりも、より深刻な色味を帯びていた。それは極度の不安に染まっているようでもあった。
〈さぁ4コーナーを抜けて直線へ!タガノブライアン流石に厳しいか、後方集団へと呑まれていく!先頭はメジロサンドラ!ビッグバイキングがウチ側に並ぶ、中からサニーサイドアップが上がってくるが、外からタップダンスシチー!タップダンスシチーが並んだ、やはり安定感のあるストライド!まだ余裕がありそうだ、先頭に並んだ!〉
「ダメだ!タップ、走りを緩めて!!」
(Huh……?)
タップダンスシチーはその時点で、完全に先頭を捉えていた。走ってきたペースも練習時の通り、全くスタミナ残量にも無理はない。
そのまま1番手を奪い、一着でゴールすることも十分に可能だとタップは感じていたが、それを片桐の叫びが遮った。
彼の言っている事を、ゴール直前のほぼ極限状態に陥った精神ではすぐに理解することはできなかった。が、いつも冷静かつ皮肉屋で、ニヤニヤした笑みを浮かべていることの多い片桐が、今はなりふり構わぬ必死の形相で叫んでいたのだ。
タップダンスシチーは、速度を緩めた。今はレースの只中、急に止まるわけにはいかない。
脚から力を抜いた時……ハッキリと、右脚のふくらはぎあたりに、締め付けるような痛みが走った。
(マジか……。)
〈残り200を通過!ここでタップダンスシチー失速!タップダンスシチー、何があったのでしょうか、まだ余裕はありそうだが走りを緩めた!先頭は再びメジロサンドラ、サニーサイドアップも懸命に後を追う、ビッグバイキングも3番手で粘り続けている!タップダンスシチーが下がり、かわってヒシマジェスティが上がって来た!メジロサンドラ先頭!メジロサンドラ、今一着でゴールイン!〉
美しい葦毛を靡かせてゴールしていったメジロサンドラの後方、タップダンスシチーは五着でのゴールとなった。
悔しさを感じる前に、タップダンスシチーには戸惑いと僅かな不安が湧き上がってきた。
片桐が先ほど叫んだ内容と、自分がたった今感じた脚の痛みが、不気味なほど明確に脚の故障を示していた。
痛みは歩けなくなるほどではなかったが、トレーナー用ブースの柵を飛び越えて即座に駆け寄ってきた片桐は彼女の右腕に肩を貸し、体を支える。
かつてメイショウドトウを担当していた片桐の観察眼は、レースの興奮が最高潮に達する只中で、タップダンスシチーの走りに生じた僅かな異変を見逃さなかったのだ。
「痛いのは右脚でしょう。体重をこちらに預けてくさい。」
「It's not so big deal、そんな大袈裟にしなくていいぜTrainer、ちょっとだけ痛みがある程度だからさ。」
「ダメです、僅かな無理もしてはいけません。もうレース主催には連絡を入れています、すぐ救急車がここに来ますから、それまで体重を預けていてください。右脚には体重をかけないで。」
「救急車って、わたしは普通に歩けるんだが……」
「遠慮だなんてタップらしくありませんね。出走ウマ娘が要求できる当然の権利なのですから、行使させてもらうだけです。何よりも、ここであなたの選手生命が断たれることの方が恐ろしい。」
よどみなく、理路整然と喋り続ける片桐トレーナーの前に、タップダンスシチーも言い返すことなく黙ることにした。
トレーナーに肩を貸されている自分の方を心配そうに見てくる、先ほどまで競っていたウマ娘たちのほうにも笑顔を向けようとしたが、自分の口角が引きつっているのはその時に気づいた。
右脚の痛みは、レース時の興奮状態が覚めてくるほどに激痛へと変わっていった。
「My bad,すぐに来てくれてありがとうな、片桐トレーナー。わたしひとりじゃ、ゴールした後もしばらく普通に歩き回ってたかもしれない。」
「いいですから、今は不用意に喋らないで。すぐに病院に搬送してもらって検査です、勝利目前だというのに私の指示通りに走りを緩めてもらって良かった、処置が間に合えば、引退という最悪のシナリオを辿らずに済むはずです。」
片桐トレーナーの方も、タップダンスシチーの脚への不安ゆえか、常の冷静さを失って喋りに熱が入っているらしい。
その言葉は、痛みのために冷や汗を流し始めたタップを安心させるためであると同時に、自分自身の抱える不安を払い除けるためでもあったろう。
間もなくやってきた救急隊員たちに対しても、片桐トレーナーは持ち前の理屈くさい喋りを怒涛の勢いで垂れ流し、多少うるさがられながらもタップダンスシチーの搬送を丁重に行う旨を約束させていた。
タップダンスシチーに脚の故障が見つかり、暫くの間は休養に入る件がトレセン学園に伝わったのは、その日暮れの頃であった。
同期トレーナーのよしみで、鷹木には先んじて病院に居る片桐から連絡が入っていたが。
〈いやどうも、中継番組を見てたらタップの身体を支えている私の姿がガッツリと放送されちゃってるじゃありませんか、なんともお恥ずかしい。〉
「そりゃ仕方ないですよ、それに恥ずかしがることでもないでしょう。世間的にも担当ウマ娘の事を第一に心配するトレーナーとして評価されてることですし。」
〈こんなヒロイックな真似が似合う人相じゃないんでね……さて、タップも長期休養となってしまったことですので、鷹木トレーナーには一つ提案があるのですが。〉
鷹木としては、いよいよこれから活躍するという担当ウマ娘がその矢先、故障を発症してしまった件について何と言葉をかけようか悩んでいたところであった。
しかしこの片桐という男を相手する場においては、欠けるべき言葉を悩んでいるような余裕などあるはずもなかった。
殊に、片桐から提案を持ち掛けられる時には、常にその裏の糸を警戒しておかねばならない。あれこれと脳内に用意していた慰めの言葉も吹きとんで、鷹木は緊張感を声を露わにして答える。
「……なんでしょう。」
〈そう身構えないでくださいよ、そちらの損になる話じゃないんだから。いつもタップダンスシチーの練習に使ってる空き地、あるでしょ。しばらくタップが走る練習はできなさそうなので、そちらにお譲りしようかなと。〉
タップダンスシチーがいつも練習しているのは、トレセン学園の校舎裏にあたる、木立や茂みに囲まれた広々とした草地である。
それは以前、片桐が秋川理事長からの許可を得て、トレセン学園の敷地内にあったかつての芝の養生地を使わせてもらっているものであった。物置という体で、エアコンやテレビを備えた専用の休憩室までプレハブで建ててある。
確かに、損な話ではない。自分の担当ウマ娘専用の練習場が、トレセン学園の敷地内に存在するのならば、それ以上に恵まれた練習環境はない。
が、鷹木はすぐに片桐の狙いに気づいた。それは、実際に何度か片桐の様子をその練習場に見に行っていたため気づけたことであった。
「……いや、ちょっと待ってください。これから春夏を迎えて、雑草とかの処理も大変になると思うんですが……。」
〈まぁ、なんとかなりますよ。私も去年の夏は、どうにかしたんですから。草刈り機なら物置に入れてあります、使ってもらって結構ですよ。〉
そう、理事長との口約束こそあれど、なかばトレセン学園の敷地内を勝手に使っている以上、その芝地の整備は自力で行わなければならない。
自分の所有する土地ではない以上、除草剤を勝手に撒くわけにはいかず、結果的に片桐は昨年、真夏の炎天下で大汗をかきながら草刈りを続ける羽目になったのだ。
「要するに、タップダンスシチーが治療を終えて戻ってくるまでの間、俺にその練習場の整備を頼みたいってことでは……。」
〈まぁ、ありていに言えば、そうなりますかね。しかしアグネスタキオンさんは喜ぶんじゃありませんか、のびのびと自分のためだけに使える練習場と、自由に振舞える休憩室があるわけですし。〉
ハタと振り向く鷹木。タキオンに聞かれては碌なことにならない、と声を潜めてここまでの通話を行っていたのだが、ちょうど練習の休憩時間中だったタキオンは満面の笑みでこちらを向いていた。
彼女がこちらに向けるスマホ画面には、既に片桐から送られてきたのだろうメッセ―ジが表示されている……『タップダンスシチーが退院するまで、練習場を好きに使ってもらって構いません』と。
相手の目論見に気づいた時には、既に先手を打たれている。片桐という男の手腕には、毎度のごとく鷹木は敵わぬ思いを抱かされていた。
「……分かりました。必ずタップダンスシチーが練習場に戻ってくることを願う意味でも、例の練習場の管理、引き受けさせていただきます……」
〈おっと、そういう名目でお願いしたほうが、鷹木さんには受け容れてもらいやすかったかもですね。ともあれ、よろしくお願いしますね。〉
タップダンスシチーの脚の検査結果が、復帰が絶望視されるほどの症状ではないことが判明したためでもあったろう。飄々とした調子で通話を締めくくった片桐の声が聴こえなくなると同時に、タキオンは鷹木の元へ寄って来た。
もうすでに、あの広大な空き地を我がものとして好きに出来る状況を前にワクワクが抑えられないといった様子のタキオンは、いつになく目を輝かせていた。
「トレーナーくん!そちらにも同様の連絡が来たようだねぇ!タップくんの練習場、私は一度自由に使わせてもらおうと思っていたのだよ!これからすぐに、あのど真ん中にテントを張ろう!大規模に散水し、太陽光線の散乱角に生まれるアレキサンダーの暗帯を観測する実験を行おうじゃないか!」
「なんでだよ。もう日が暮れてんだよ。お前はあと1週間ちょっとで皐月賞に出るんだよ。」
おそらくマンハッタンカフェもこれからしばらく本番レースには出ず、タップダンスシチーもまた長期の休養に入る。
さらにはタキオンまでもが皐月賞でどんな故障を発症するとも知れない不安までもが迫る鷹木の現状であったが、マイペースなタキオンや片桐からの働きかけのおかげか、その日の薄暮を暗く感じることはなかった。