探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 いかに自分の担当ウマ娘の勝利が喜ばしいものであれ、レースに全力を注いだ結果、身体を壊すようなことだけは最も忌避すべき結末である。これまでも、数多のトレーナーたちが細心の注意を払ってトレーニングを実施し、レースへと出走させながらも、担当ウマ娘に訪れる理不尽な命運に涙をのんできた。
 間もなく皐月賞の日を迎えるアグネスタキオン。彼女自身は、自分が皐月賞を最後に引退してしまっても構わないとまで考えているようであったが……自分ひとりが責任を負うべきではありながらも、鷹木には助言を得るべく頼る先があった。


未だ先は照らさずとも、光明は背に

 トレーナーが担当ウマ娘に不安を与えることなどあってはならない。殊に鷹木のような小心者にとって、それは常時留意すべき鉄則である。

 

 だから今日、タップダンスシチーの担当トレーナー、片桐から一時的に譲られた練習場にてタキオンが走り回り、日暮れだというのに今から実験を開始しようとする彼女を何とか言い諭して寮へ帰らせるまで、鷹木は表情を曇らせまいと努めていた。

 

 しかし、独りきりになれば、鷹木の表情は見る間に曇っていった。今日だけで、レースへと向かうウマ娘の現実を見せつけられたような状態であった。

 

「タップダンスシチーだけじゃない、マンハッタンカフェも長期休養に入るんだよな……。」

 

 今日の大阪―ハンブルクカップのレース終了直後、脚の故障の判明したタップダンスシチーが、しばらく練習やレース出走を控えて治療に専念する旨については先ほど片桐トレーナーから伝えられた通りである。

 

 カフェについては結城トレーナーから直接聞いたわけではなかったが、しかし鷹木自身がトレーナーとしての目で見ても明らかに、次のレースへ出走させられる状態ではなかった。

 

 マンハッタンカフェは身体的にのみならず、精神的にも休養を必要としていた。彼女の不安の在り処については、まだ明らかではなかったが。

 

「彼女たちだって、レースに出られなくなったってワケじゃない。十分に英気を養えば、また本番の舞台に上がれる、でも……いよいよこれからって時期に出鼻をくじかれる、わけだからな。」

 

 鷹木がその日の分の残り仕事を終え、トレーナー寮に帰る時も、考えは巡り続けていた。

 

 当然、彼の懸念の中心にあったのはタキオンのことであった。筋肉がつきすぎない故に絶妙な速度調整が可能である代わり、華奢なタキオンの脚は故障のリスクと常に隣り合わせであり、練習や本番で走る回数を重ねるほどに限界は近づいてくる。

 

 さらには、タキオンの言葉を信じるならば、次の皐月賞に関する不吉な予感も無視できない。

 

 弥生賞にてゴールする瞬間、自らの行き着く先を幻覚のように感じ取ったタキオンは、自分が皐月賞を最後に引退するという予感を受け取ったと言っていた。

 

 むろんタキオン自身の中でもそれは明確な事実としては認められていないのだろうが、最近の彼女は自分の後を託すウマ娘を探し求めているかのように、自分以外のウマ娘へと向ける関心を強めているようでもある。

 

「そうさせる気は無い、タキオン。お前は皐月賞の後、日本ダービーの出走を目指すんだ。そして秋には菊花賞も……今世代のライバルも強力だが。タキオンの脚なら、三冠だって現実的だ。」

 

 自室で遅い夕飯を摂り、シャワーを浴びて髪を乾かしている時にも、ことあるごとに鷹木の口からは独り言が漏れ出ていた。脳内を巡り続けている思考が、抑えきれぬ感情と共に思考の水面下から顔を出すたびに、鷹木の声となって表れるのであった。

 

 それだけ、鷹木の中で膨れ上がる不安がどうしようもないほどに強まっていることの証でもあった。

 

「俺が今やっているのは、ただのごまかしだ……不安要素を残してることは否定できない。このまま、タキオンの皐月賞へと向かうことはできない。」

 

 寝床に着いた後も、眠れぬのを良いことに鷹木は必死で考え続けた。

 

 やがてカーテンの外の空が白み始めたころ、一つの決断と共に鷹木は充血した眼のまま起き上がり、トレセン学園とアグネスタキオンへ一報を入れることとなる。

 

「俺の想定通りの行動を続けていたって、運命からは逃れられない。既存の俺ではまるきり、考えてもいなかった決断を下さなければ。」

 

 眠らずに夜通し考えていたせいで、一種の異様な興奮状態に鷹木が陥っていたことは否めない。

 

 が、今日もまた漠然とした不安を抱えたまま、その不安を別な感情や理屈で糊塗して隠し、タキオンのトレーニングを行っても、将来に立ち込める暗雲を晴らせはしない。

 

 同期のウマ娘が立て続けに2名も長期休養へと踏み切った事実を受け、実はタキオンもまた鬱々として眠れぬまま寝不足の朝を迎えていたのだが、鷹木から送られて来たメッセージをスマホ画面に見つけて目を覚ましていた。

 

「『今日のトレーニングは、中止。ゆっくり休息していてくれ』……だって?皐月賞までに残り1週間だというのに、何をトチ狂ったんだいトレーナーくん……。」

 

 口ではそう言いつつも、曇っていたタキオンの表情はみるみる明るさを取り戻していった。

 

 もとより自己中心的な性情は、こういった時に役立っていた。スマホを枕元に放り投げ、大あくびをひとつかました後に、タキオンは再びボスッと頭を布団に預けて、今度は安んじた眠気へと間もなく誘われていく。

 

 皐月賞に纏わる漠然とした不安を鷹木が自分と共有し続けていることはタキオンにも十分理解できていた。鷹木が、その突破口を探りに行ってくれる。

 

「ふぁ……ぁーあ……まぁ、さほど期待はしないがね……。」

 

 誰に聞かれているわけでもないのに、いつも通りの調子で強がりを口にしたタキオンは、1分と経たぬうちにスヤスヤと寝息をたてはじめていた。

 

 一方、トレセン学園から一日の外出許可を得た鷹木は、夜を徹して考え悩んでいたせいで眠れていないことを後悔しながら、朝の通勤ラッシュで満員の電車内に揺られ揉まれていた。

 

 4月になり人が密集すれば急速に蒸し暑さを増す時期、春というのに冷房が掛かっている車内で汗ばみ、すし詰めとなったサラリーマンたちの口臭を嗅がされながら、鷹木は耐えていた。

 

(きっと、タキオンも眠れていないはずだ。だから今日は、彼女が十分に睡眠時間をとり、俺が現状打破のカギを探りに行く。この決断に間違いはない。)

 

 そう考えることでトレーナーの矜持を胸中に握り締め、どうにか目的の駅で降りるまで耐え忍んでいた。

 

 いつもくよくよと思い悩みがちな鷹木が、その日に限って決断を実行に移すまで早かったのは、会える約束をまず取り付けられないだろうと思っていた相手に、想定外のスムーズさで話が通ったためだ。

 

 むろん、あと1週間で皐月賞本番を迎えるタキオンのためを思えば躊躇している暇が無い、というのも鷹木の脚を急かせた大きな理由である。

 

「ここか……都会のど真ん中で、会うことになるとはな。」

 

 トレセン学園は広大な敷地面積を有する以上、中央とはいえ都心から離れた位置に存在する。

 

 普段からトレセン学園の近郊かウマ娘レース場の存在する街しか活動範囲にしていないほとんどのトレーナー連中にとって、大都会の街並みは慣れぬものであり、鷹木もまた例外ではなかった。

 

 見渡すかぎりターフの広がるレース場とは全く対照的に、人と車がせせこましく行きかう舗装された道路が縦横にビル群の隙間を走っている。

 

 このような場所では、気兼ねなくウマ娘たちのびのびと走るどころか、人が小走りで駆けるだけでも他人にぶつかり、睨まれるか舌打ちされるかするだろう。都会の雰囲気にのまれながらも、鷹木はトレセン学園という場所が現代においてどれほど恵まれた環境であるか改めて認識していた。

 

「……ちゃんと道を確認しないと。いい大人が迷子になって、迎えに来てもらうわけにもいかない。あちらも、せっかく時間を取ってくれたんだから。」

 

 待ち合わせの場所は、大型の複合商業施設……相当な床面積を誇る建築物だったが、やはりトレセン学園よりは狭い……の一画であった。

 

 様々な専門店や百貨店の入った商業施設には、娯楽施設やスポーツジムも備わっている。

 

 最近のスポーツジムは、人間向けのみならずウマ娘基準のトレーニング設備を準備する場所も増えてきた。ウマ娘レースの熱が高まると同時に、社会人ウマ娘のレースが開催される機会も格段に増している。

 

 専属のトレーナーをトレセン学園卒業後も有することのできるウマ娘はごく僅かであり、ほとんどは社会人としての勤めを続けながら個々での鍛錬に励むことになる。

 

 そのスポーツジムの受付カウンターにて面会する相手が居る旨をスタッフに伝え、鷹木はほどなくして個別のトレーニングスペースへの扉が並ぶ廊下へと通された。

 

 やはり彼女は、ここでもVIP待遇となるのだろう。

 

 あるいは、根が真面目な性格ゆえに、純粋にひとりだけで鍛錬に集中したいと希望したのかもしれないが。

 

 スタッフによって開かれた一室、空調のよく効いた部屋の中で、窓から午前の陽射しを浴びつつウマ娘用ランニングマシンの上で駆ける彼女が居た。

 

「……約束の時間にはちょっと早かったか?オペラオー。」

 

「……あぁ!霧のせいか?ボクは夢でも見ているのか?待っていたよ、鷹木!しかしどうして、そうも不安げに蒼ざめているんだい?ハンマーを取り落としそうになっているドンナーのごとく、楽しいフリすらできないのかい?」

 

 ランニングマシンを止め、まるでステージの大階段から降りてくるかのように大袈裟な身振りとともに、鷹木の元へと歩み寄ってくるのは、ほかならぬテイエムオペラオーである。

 

 一昨年、引退の原因となった骨折のため入院している彼女を鷹木が見舞いにいって以来、ほぼ1年半ぶりの再会であった。

 

 むろんオペラオーがスペシャルウィークに並んで大レースの実況解説を担当していた様は鷹木も見ていたし、オペラオーもまたタキオンの担当トレーナーとして奮闘している鷹木の様を知っていたかもしれないが、直接会う機会はなかなか無かった。

 

 正確には、鷹木が会おうとしていなかっただけ、ではあるが。

 

「そんなに俺の顔色は悪くなってるのか?オペラオー。」

 

「いやなに、単なる寝不足だとは思うけれどね!しかしラインの黄金のごとき、キミの瞳の輝きは褪せかけているじゃないか!一体どこの小人が、その輝きを盗んでしまったんだい?」

 

「さすがにオペラオー相手に隠し事は出来ないな。あぁ、どうしても俺ひとりじゃ解けない悩みがあって、相談しに来たんだ。」

 

 オペラオーの言動が、お気に入りのオペラからの引用を度々挿む奇怪なものであることは相変わらずであったが、鷹木は普通に会話できていた。

 

 当然ながら、ずっとオペラオーを担当し続けていた頃の感覚が、今も鷹木の中に残っていたためである。その感覚を胸中から蘇らせつつ、鷹木はオペラオーが現役時代とほぼ変わっていない様を見ていた。

 

 その精神も、肉体も、まるでつい昨日、かのジャパンカップを走り抜いたばかりであるかのような状態だったのだ。

 

 実際には、オペラオーは骨折を治癒するまでの入院生活ののち、身体能力を取り戻すためのリハビリを経て、鍛錬へと繋いでいたのだろうが。

 

 ちょうど休憩に入るところだったのだろう、オペラオーは鷹木にも座るよう促しつつ、トレーニングルームの隅にあるベンチに腰掛け飲料ドリンクを口にした。

 

「もちろん、僕が応じられる相談ならば気兼ねなく持ち掛けてもらってかまわない!それにしても、今日はよく会いに来てくれたね!ボクはもう鷹木の声を聴く機会が無いのかと感じ始めていたよ!」

 

「前に会った時もそれ言ってなかったか?……まぁ確かに、俺はオペラオーに会うのは目標達成してからだ、だなんて勝手に自分ルールを作ってたんだが。」

 

「おや、その目標とやらは何だい?もしや、担当ウマ娘をGⅠ勝利させること、ではあるまいね。既にアグネスタキオンはホープフルステークスを制しているじゃないか!何とも将来有望な後輩だよ!」

 

 確かに、鷹木の当初思い描いていたのは新たな担当のGⅠ勝利を手土産に、テイエムオペラオーに再会すること、であった。

 

 しかし、想定以上にアグネスタキオンの能力は優秀過ぎた。鷹木は、自分がオペラオーにつりあうほどのトレーナーになったことの証を求めていたのだが、そうなれば自分の中だけで目標は変更せざるを得なかった。

 

「あぁ、タキオンは本当に強いウマ娘だ。少々性格には難があるけどな。……俺は、あの子をジャパンカップで勝たせることを目標にしている。」

 

「なんと壮大な目標だ!恐れを克服した勇気だけが、作り上げられる言葉だ!しかし妙に遠いじゃないか、実現するのは今年の秋以降だとはね!」

 

 クラシック級のレースを制覇することも勿論大きな目標ではあったが、ジャパンカップを目標に掲げた鷹木に、オペラオーはあえて理由を尋ねなかった。

 

 鷹木が考えていることを、オペラオーはおおよそ察せたのだ。テイエムオペラオーの引退が決まったのは、ジャパンカップである。

 

 それはずっと苦節の続いていたエアシャカールが久々の勝利を得たレースでもあったが、やはりオペラオーの担当トレーナーにとっては、「ジャパンカップ」は悔しさが根底に残り続ける響きでもあるのだ。

 

「それでも、鷹木、キミは抱えていたこだわりを振り切ってでもボクに会いに来てくれた。よほどの不安に見舞われたようだね!ボクがキミにまとわりつく靄を呼び寄せ、雷をもって晴らせればよいのだが!」

 

「タキオンのことについてだ……あの子は、皐月賞を最後に自分の脚が限界を迎え、早々と引退するのではないかと予感している。正直、俺自身も、その不安を拭い去りきれない。」

 

 言い終えてから鷹木が顔を向ければ、オペラオーは真剣な表情を浮かべていた。

 

 常より朗らかであり、奇矯な振る舞いの目立つ彼女も、やはり根が真面目である。それゆえか、鷹木が抱えているだろう不安の内実についても、既に把握できている様子であった。

 

 口を付けていた飲料ボトルのキャップを締め、それをバッグの中に仕舞ってからオペラオーは口を開く。

 

「ボクのことをずっと見ていた鷹木、キミならば分かるんじゃないかい?ボクもまた、連戦ゆえに骨折や故障のリスクを常に伴わせていたが、あれだけ走り続けることが出来ていた理由を。」

 

「オペラオーは、いつも僅差での勝利を続けていたよな。スタミナの管理、速度調整の上手さもあるが、やっぱり着差に拘らず勝ちの最低限を確保することで、体に無理な負担を掛けないで走っていられたんだ。」

 

「そうとも!アグネスタキオンもまた、同様の走りが可能ではないのかい?ボクの見る限り、彼女の並外れて優れた脚をもってすれば、十分な余裕があると思うのだが。」

 

 無論、それは鷹木の中にも既に浮かんでいた案のひとつではある。

 

 しかし、アグネスタキオンがレースに求めるものとはまるきり相反する作戦であった。タキオンは、ウマ娘にとっての限界の先、運命に縛られたレース展開を超えうる存在、特異点となることに最大の価値を見出している。

 

 既にネオユニヴァースやゼンノロブロイがそれを実現したと思しき戦績を披露しているが、今なおタキオン自身が特異点となるのを諦めてはいないだろうことは、練習時の走りを見るにつけても明白であった。

 

「タキオンは、本気で走った時にだけ、自分の限界の先が覗けると言っているんだ。彼女の身体について常に心配している担当トレーナー、すなわちこの俺が『全力で走っていい』と保証を与えるからこそ、それが実現するとも言ってくれていて……。」

 

「担当ウマ娘自身が望むにしても、将来的に走ることが出来なくなる道を、選ばせるべきではないね。」

 

 鷹木の目の前で、テイエムオペラオーはやはり真剣そのものな表情を崩していない。

 

 が、その目の中には案じるような色が浮かんでいた。後輩ウマ娘であるアグネスタキオンのことよりも、鷹木自身のことを案じる思いが強いようでもあった。

 

「ボクはタキオンに直接会ったことはないけれど、走りを見ていれば分かるさ、彼女は非常に賢いウマ娘だ。キミが、ウマ娘から必要とされるトレーナーであることを望んでいるのも、タキオンには分かり切っていることだろう。そして、どのように言えば、鷹木というトレーナーに、自分の思い通りの判断を下させることができるか、タキオンは既に知り尽くしているだろう。」

 

「……タキオンは、そんな……」

 

 鷹木はオペラオーから言われたことを否定しかけたが、まもなく口を噤んだ。

 

 オペラオーの表情には、ここで初めて目に見える変化があった。鷹木に重荷を背負わせてしまったことへの、僅かな申し訳なさが覗かれたのだ。

 

 優れたウマ娘の脇でお飾りとならぬ、ウマ娘に必要とされるトレーナーになりたいという思いは、確かに世紀末覇王テイエムオペラオーをまだ経験も未熟な鷹木が担当していたときに醸成された思いであった。

 

 タキオンは過去にも、敢えて自分がトレーナーを必要としているという論を鷹木の前で語ったことがある。その時の鷹木は、タキオンが想定している通り、悪しからぬ思いを表情に十分出していたのだろう。

 

 オペラオーは、物事の本質を見抜く目を曇らせてはいなかった。むしろ年齢を重ねて、その眼には更なる磨きがかかったのかもしれない。

 

「鷹木、キミの思いも分かっているさ、タキオンは決してトレーナーを思い通りに操って嘲弄しようとしているわけじゃない。彼女ほど走りに対して真摯なウマ娘も類を見ないだろう。ボクも彼女のレースを見ている、ウマ娘の走りにウソはない。」

 

「……だよな。」

 

「だからこそ彼女は、担当トレーナーであるキミに、全力で走ることを止めてもらいたくないんだ。キミほど慎重で、担当ウマ娘の怪我について神経質なまでに気を配るトレーナーも居ない。タキオンは、限界の先を見たいのだから、トレーナーの慎重な判断とは相容れないことなど明白だろう?」

 

 オペラオーの言葉が硬さを和らげながらも紡がれていく隣で、鷹木は徐々に項垂れていった。

 

 自分は、担当ウマ娘のことを第一に考えているつもりであった。アグネスタキオンというウマ娘のことを理解したつもりでもあった。

 

 が、タキオンの望む通りに判断を下すことが、ウマ娘の担当トレーナーとしてあるべき姿でないことは……今さらながらに、分かり切っていた。

 

 自分というトレーナーが、タキオンというウマ娘から必要とされている状況が、心地よかっただけじゃないのか?

 

「鷹木。タキオン自身がいくら望もうとも、皐月賞を全力では走らぬように伝えたまえ。彼女はとてつもない才能の持ち主だ、本気を出さなくても勝てる。自分の身体を壊してでも、限界の先を見たいという思いが抱かれるのも必然だ、けれども……自分の脚を壊し、走れなくなった時の後悔は、何にも替え難い苦痛に他ならない。」

 

「……あぁ。」

 

「アグネスタキオンには、競争相手との間合いを見計らい最低限の勝ちへと速度調整するだけの能力がある。そして鷹木、キミにも、そんな彼女が長く走り続けられるよう導く能力がある。頼んだよ……ウマ娘が走るのを諦めるのは、死ぬときだけだ。」

 

 テイエムオペラオーが、今なお走りから離れる事なく、おそらく仕事の入っていない時間が僅かでもあれば、このスポーツジムで身体を鍛えているのだろうことは、彼女の言葉の重みを増させた。

 

 鷹木が口の中で籠った声で返答するのを聞き、オペラオーは立ち上がる。

 

 先ほどまでのランニングマシンでの走りでは、汗をかくほどの運動にもならなかったのだろう。着替える必要もなく、オペラオーは上着を羽織り、帽子を被りバッグを抱え……ただそれだけで洒落た外出着の姿になっていた。

 

 最低限の着こなしで、シチュエーションに合わせたコーディネートを完了している。現役から離れたテイエムオペラオーは、ますます社会人として洗練された振る舞いを身につけていた。

 

「さて、済まない、次の予定の時刻が迫っているのでね……おお!鷹木の輝く眼差しが、ボクに迫ってくるじゃないか。その眼、星のような輝き、ボクを虜にしてしまいそうだ……ごくわずかな隙間でさえ、その眼差しを見つけてしまいそうだよ!」

 

「そこまで目をキラキラさせてるつもりはないけどな、いい歳こいた大人が。けど、俺の目を開かせてくれてありがとう、大いに助かったよ、オペラオー。引き留めてしまって済まないな、忙しいだろうに。」

 

「いやいや、これから行くところの相手は多少遅れても構わないからね!ボクの自伝劇の編集作業をしに行くだけだから!ではごきげんよう!キミとタキオンの抱く栄冠が永からんことを!輝きながら愛し、笑いながら死のう!」

 

 オペラオーの独特過ぎる別れの挨拶が響き渡り、スポーツジム内の他のスタッフらは戸惑いと共に顔を見合わせている。

 

 聞き慣れた彼女の物言いを、ごく自然に受け入れることができていたのは、鷹木だけであった。

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