その年の皐月賞は、フルゲート、すなわち最大出走数である18名のウマ娘によるレースとなった。
先月の弥生賞にて、アグネスタキオンとの競走を回避するため出走を見送るウマ娘が相次ぎ、たった8名だけによるレースとなったのとは対照的な光景である。
クラシック三冠の最初の一戦、皐月賞はウマ娘にとって特別なレースのひとつなのだ。万に一つでも勝機があるのなら、出走しないわけにはいかない。
もちろん大きなレースとなれば恒例、実況席にも解説役としてお馴染みとなったウマ娘界の大看板、スペシャルウィークの声が皐月賞の開始前から中山レース場に響き渡っている。
実況アナウンサーとの掛け合いも板についたものとなっており、一大レースを見に集まってくる幾万人もの観客を出迎える風物詩とまでなっていた。
〈さぁ、皐月賞の観客の皆さんも続々と観戦スタンドに詰めかけている光景が実況席からも見えます。解説のスペシャルウィークさん、この光景を目の前にすると、今年の皐月賞もいよいよ、と言ったところですね!〉
〈はい!最も速いウマ娘が勝つ、クラシック路線の第一線、チャンピオンレースですから!いやー、私も勝ちたかったなぁー、何しろセイちゃんとキングちゃんがすごく強かったもんですから。〉
〈今から5年前の皐月賞といえば、巧みなコース取りとペース配分によって勝利したセイウンスカイ、そしてほぼ肉薄するところまで迫ったキングヘイローの激走が未だに印象に残る名レースです。とはいっても、あの時、三着となったスペシャルウィークさんの後ろは3バ身も開いていたため、やはり非常にレベルの高いレースだったと言えるのではないでしょうか。〉
〈そりゃあもう期待されてたもんですから私もはっちゃきこいたんですよ、でももう5年も前かぁ……あんまり年が経ったのを実感しちゃうと、今年の皐月賞を走る子たちの若々しさが眩しくなっちゃうかもです!〉
レース現役を引退した直後から各メディアに顔を出し、レースの解説役としても活躍し続けているスペシャルウィークは、確かに現在のウマ娘レース界隈を牽引する存在として名実ともに総大将の貫禄を備えつつあった。
彼女の同世代、黄金世代と呼ばれる他の面々が、故障による長期療養や骨折の発覚による引退に見舞われているのとは違い、スペシャルウィークが数多くの激戦を経験したうえでなお負傷や故障とも無縁の頑丈さを誇っているのもまた対照的であった。
後世まで語り継がれるウマ娘は、一度や二度のレースでの勝利だけではない、長きにわたって走り抜く頑健さをも備えている。
ウマ娘用控室の並ぶ廊下まで響いてくる実況とスペシャルウィークの声を聴きながら、鷹木は室内のアグネスタキオンが勝負服に着替え終わるのを廊下の壁に背をもたせ掛けて待っていた。
そんな彼の元に、一名のウマ娘の足音が近づく。完全に俯いていても、トレーナー業を続けていれば、足音の主が人間かウマ娘かの違いは容易についた。
「よぉ。ここに居ンだろうなと思った。」
「……エアシャカール。」
無駄な言葉を費やすのを厭うエアシャカールは、タキオンが出走する皐月賞が目前に迫る鷹木を前にしても、くだくだしい激励の言葉など口にしない。
3年前の皐月賞を制したエアシャカールも、これまでアグネスタキオンと鷹木トレーナーの為していた練習量が当然ながら十分と見て、今さらになってアドバイスを与えるつもりなどないらしい。
ただ彼女は黙って、いつも持ち歩いているノートPCの画面を開き……当然ながらそこにはParcaeのシミュレーション結果が映し出されていた。
「見ろ。コイツに今回の皐月賞のシミュレーションを実行させた結果だ。本来なら、本番直前のトレーナーに見せるもんじゃねェかもしれないが。」
「いや、レース直前とはいえ、参考になるものならトレーナーとして受けいれよう。ただ、この結果は……。」
鷹木が目を向けた先、画面内にはアグネスタキオン一着の文字が並んでいた。
それだけであれば、驚くべきことではない。先日オペラオーに会いに行った時も彼女からタキオンは充分に勝てると太鼓判を押されたし、鷹木自身もタキオンほど完成された走りを見せるクラシック級ウマ娘は他に知らないためだ。
意外な着順で言えば、ジャングルポケットが三着となり、これまで地道に努力を続けていたダンツフレームが二着となるだろうという予想が少々意外ではあったが、シャカールが見せたかったのはそこではない。
「アグネスタキオンが勝利する時、二着との差が5バ身。Parcaeはそう予測した。俺も実際にタキオンと併走したから分かるが、奴が本気を出せばあり得る結果だ。」
「本気を出して走れば……だな。」
5バ身差。地方レースならばいざ知らず、GⅠレースともなればそうそう大きな着差が生まれることはない。
皐月賞に限れば、5バ身もの差をつけて勝利した例は27年前、伝説的なウマ娘、トウショウボーイがテンポイントに対して見せつけた圧勝が有名である。トウショウボーイはその異次元の速さを以て、背に翼が生えているかのようだとまで称された存在だ。
あるいは18年前、かのシンザンを継ぐ者として現れたミホシンザンもまた、5バ身という圧倒的なリードで皐月賞を勝利している。神のごときウマ娘、シンザンの血を継いだ最高傑作、その苦難に満ちた栄光への道程の第一歩であった。
アグネスタキオンも、本気を完全に出しきって走れば、その伝説的なウマ娘たちと同じ域にまで到達しうるとParcaeは示しているのだ。それは、レースとなればどうしようもなく走らずにいられない、ウマ娘の本能に照らし合わせればなおのこと、ますます魅力的な選択だった。
だが、そのシミュレーション結果を示しているエアシャカールも、それを知らされた鷹木も、表情に明るさは無かった。
「その後、どうなるかについては……さすがにParcaeは教えてくれないか。」
「あぁ。Parcaeに出来ンのは、レース結果の予測だけだ。けど、分かってンだろ?ンな走りを実行させたら、タキオンの脚はぶっ壊れちまう。」
鷹木は言葉で返答することもなく頷いた。そのことは、前々から分かり切っていた。だからこそ、そうならないように今日という日まで必死に手を尽くし対策を講じ続けてきたのである。
エアシャカールは改めて鷹木の表情へ視線を向けたが、暗くはあれど、そこに迷いや戸惑いが見いだせないのを確認し、多少なりと安堵を浮かべたようだった。
「タキオンの走りたいように任せちまってたら、レース後に二度と走れなくなるどころか、自分の脚で立てなくなっちまうかもしれねェぜ……ってアンタに伝えるつもりだったんだが、杞憂だったか?」
「もう、そのことはタキオンとも十分に話し合ってる。もちろん、実際にどうするのか、ここで言うわけにはいかないが……」
鷹木は周囲を見回し、ガランとした廊下に誰もいないことを確認したが、やはりそこから先を喋ることはしなかった。
どんな拍子で、誰に聞かれるとも知れないのだ……タキオンには、本気を出させないことを約束させた、という決定事項を。
エアシャカールはノートPCをパタンと閉じた。鷹木が口に出さずとも、シャカールは充分に相手の意図を察することが出来る程度に聡明であった。
「分かった。今日のレース、多少は安心して見せてもらえそうだ。余計な心配だったな。」
「いや、気にかけてくれてありがとう。ますます、俺とタキオンが下した決断は間違いじゃない、と確信が持てたよ。」
「ふぅン、そうかそうか、やはり私に対する観測者を選んだ、私の選択が間違いではなかったということだねぇ!」
いつの間に着替え終わっていたのか、勝負服姿のアグネスタキオンが控室の扉を開けて現れていた。
その姿を鷹木が眩しく感じたのは、このところ、白衣を羽織った姿のタキオンを見る機会自体が少なくなっていたためでもあろう。勝手に占拠した実験室に籠っている時間よりも、練習に打ち込む時間がタキオンの毎日の大部分を占め続けていた。
だからこそ、完璧に仕上がったバ体を、拠れや皺もない、綺麗に洗い立てた白衣モチーフの勝負服で包んだアグネスタキオンの全身に、知らず鷹木が見惚れてしまったのも無理からぬことであった。
「どうしたんだいトレーナーくん、まるで高周波交流電圧が印加された第18族元素における容量性結合現象を目の当たりにした猫のような顔をして。」
「な、なんて?」
「まァ、タキオンが絶好調だってのは分かンだろ。頑張ってこいよ、皐月賞。」
皐月賞ウマ娘たる先輩、シャカールからの珍しい励ましの言葉を受け、タキオンは笑みと共に頷き、悠然とパドックへ向かう廊下を歩き去っていく。
その表情に不安はなく、同時に最後を確信した捨て鉢さも無かった。大舞台に赴き、なおも走り続けるため、自分自身を制御する。
自分の興味の対象にだけ目を向けていた、去年の入学間もないころのタキオンと比べれば、随分と大人びて見えた。ウマ娘は1年もあれば、ここまで内面が成長するものか、と鷹木はレース前だというのに早すぎる感銘を覚えずにいられなかった。
パドックでの紹介も順当に進んでいく。1番人気アグネスタキオン、2番人気ジャングルポケット、そして3番人気はダンツフレーム。
18名の出走ウマ娘の中、アグネスタキオンとジャングルポケットが人気度上位を独占するのはほぼ必然だったが、彼女らほど目立たずともダンツフレームが3番人気にまで食い込んでいるのを見て、鷹木は改めてその実力を認識した。
「……戦績を見れば、当然のことかもしれないけどな。ダンツも後ろから伸びてくるタイプのウマ娘だ。」
なにしろ、ダンツフレームはデビュー初戦ときさらぎ賞でしか負けていないのだ。その結果も、両方とも二着である。これまでの6戦のうち、一着が4回、二着が2回という、学園においても飛び抜けた戦績であることに間違いはなかった。
その上に居るのは、タキオンに対する1敗しか負けを経験していないジャングルポケット、そして現状無敗のアグネスタキオンだけである。
皐月賞のファンファーレが、例年を超えるほどの大歓声で迎えられたのも当然のことであった。
〈さぁいよいよ出走の時が近づいてまいりました。圧倒的な人気を集めたアグネスタキオンにはもちろん注目が集まりますが、2番人気のジャングルポケットは最ウチの1枠からの発走です。解説のスペシャルウィークさん、今回のレースはどうご覧になりますか?〉
〈やっぱりタキオンちゃん、強いと思いますよ!私も弥生賞の映像を確認しましたけれど、コーナーと直線の走りを変えず、あんなになめらかに加速出来るウマ娘は今まで見たことないですし!でも、3番人気のダンツフレームちゃんはパドックでもかなり落ち着いてましたし、こちらにも期待ですね!〉
〈1番人気アグネスタキオン、2番人気ジャングルポケットの影に隠れる形ではありますが、3番人気ダンツフレームもまた非常に優秀な戦績を誇るウマ娘です。今年の皐月賞はかなりハイレベルなレースとなりそうですね。〉
それに、皐月賞を前にして……正確には、ダンツフレームがアーリントンカップを勝利した後、鷹木はトレーナー間でささやかれている噂を耳にしていた。
戦績は充分に揃い、GⅢも勝ち、いよいよ次に目指すはGⅠ皐月賞。そこまで来たダンツフレームに、未だに専属の担当トレーナーがつかぬままであるはずがない、と。
これまでは練習グラウンドにて集団担当のトレーナーからの指導を受けていたダンツであったが、ダンツ自身が決めずとも流石にそろそろ担当トレーナーを学園側からもあてがわれておかしくない状況であった。
そして才能に溢れた同世代のウマ娘たちに対抗すべく、ダンツフレームの担当となるのは、あの結城トレーナーではないか……ここまでが、現在のトレセン学園における噂の範疇である。
「現に今、皐月賞にダンツフレームが出走している以上、担当トレーナーが居ないってことはないだろう。期間は短くても、既に結城トレーナーからの指導を受けてきているかもしれない。」
レジェンド級トレーナーがダンツフレームを担当している。
その可能性は、タキオンが果たして本気を出さぬままに勝てるのか、鷹木に新たな不安を植え付けていたのであった。むろん、タキオンに対しては不安の所在など努めて隠していた。
仮に先月辺りに結城トレーナーの担当が決定したとしても、そこから1カ月と経っていない。いかに優秀な指導者がついても、ウマ娘自身の走りや身体は急に成長するわけではないのだ。
むろん、ダンツフレームが元来有する身体能力とて、無碍に出来ない域に達していたが。
〈速くなければ戦えない、強くなければ超えられない!そしてこの大歓声に応えなければ、勝つ資格はない!全ウマ娘、ゲートイン完了しました!伝説の始まりを一瞬たりとも見逃すな!皐月賞……スタートです!ゲートが開きましたが、最ウチ枠で、ジャングルポケット姿勢が崩れたか!ちょっとスタートに難がありました!好スタートを切ったのはシュアハピネス!これを追ってミヤビリージェント、そしてスキャンボーイと接近していきます。〉
〈18名の出走ですから、中団以降はかなり密集しちゃってます!巻き込まれると厳しいかもですが、アグネスタキオンちゃんは上手く中団の前につけてますよ!〉
実況アナウンサーが、スタート直後に大きく姿勢を崩して出遅れたジャングルポケットに気を取られている一方、流石にスペシャルウィークはレース全体の流れを早くも掴んでいた。
ジャングルポケットが出遅れることに関しては、確かにロスとしては痛いものの、もとより追い込みを得意とするウマ娘はレース後半の伸びが勝負である。
鷹木は、最初の直線を駆け抜けていく集団の前方、逃げウマ娘たちのすぐあとにつけたタキオンの位置取りの巧みさを目にして、小さく拳を握り締めていた。
「よし、そこなら良い、タキオンの得意な位置だし、集団に呑まれずに済む。」
スペシャルウィークが指摘した通り、最大出走数である18名に達したレースは、凄まじい密度の集団が最初の直線へと駆けていくことになる。
当然、1コーナーを有利な位置で攻略するために位置取り争いも激化する。後方に位置どったダンツフレームは集団の中で、ほぼ接触されるかのごときギリギリの状態で身動きが取れずにいた。
速度は抑えていても、接触事故を起こさぬよう神経を使うだけでも相応の体力消費となる。この時点で、ダンツフレームはかなりの不利を受けていた。
〈1コーナーへと入っていきます、やはり先頭はシュアハピネス、2番手にウチからミヤビリージェント、外につけましたのはスキャンボーイです。その後ろ、先頭の3名を見る形でここに1番人気アグネスタキオンがつけています、かなりの好位置をキープして悠々と進んでいきますアグネスタキオン。その外シルヴァコクピットがピタッとつけていますがその後方グループはドッと固まりましてビッグハンター、そのウチ側にテイエムゴーカイ、ウマレナガラノはさらに後方、そしてジャングルポケットは前から14番手といった形です。〉
〈スタート時に出遅れましたが、集団でのブロックに巻き込まれていないのは大きいですよ!ジャングルポケットちゃんは直線が強みですから、コーナーはじっくり攻略していきたいところです!〉
既にジャングルポケットも、最終直線での加速の爆発力だけに賭けるばかりの走りではなく、他のウマ娘たちの位置取りを見切ってペース配分するだけの判断力は身につけている。
出遅れたところからじわじわと上がっていき、ちょうどダンツフレームの後方外側から追い抜ける位置にまでつけていた。
「あの位置ならジャングルポケットはブロックされづらいな、最後は警戒だが……タキオン、大丈夫か、想定以上のハイペースだぞ?」
タキオンに並ぶライバルであるジャングルポケット、ダンツフレームが共に思い通りの走りとなっていない一方で、タキオンは位置取りこそ良かったものの序盤からかなり飛ばす展開となっていた。
それも必然ではあった。少しでも速度を緩めれば、密集している集団に飲みこまれ、余計なスタミナ浪費となってしまう。
それはタキオンにとっては選手生命を脅かす負荷にもなりかねない。アグネスタキオンは、自ら最適なペースをリアルタイムで見出して実行しているのだ。
〈先頭ではシャワーパーティーがシュワハピネスに差を詰めていって並んでいる、スキャンボーイとミヤビリージェントも3番手争いで完全に並んでいる、アグネスタキオンは冷静に5番手の位置をキープ、今のところ他のウマ娘と競り合う様子はありません。先頭まではおよそ6バ身、後を追う形でビッグハンターであります。スタートしてから1000mを通過、1分を切って59秒8、これから第3コーナーへと向かいます!〉
〈最後のスパートに備えてちょっとペースは落ち着きましたが、ここまで先行ウマ娘たちはかなりの速さで引っ張って来てます!スタミナはどこまでもつんでしょうか!〉
勝てるか否か、という点に関しては鷹木はじわじわと確信を得始めていた。
向こう正面に入るまではペースが想定以上であったが、3コーナーへと突入する前あたりになるとゴール前の攻防がどのウマ娘の脳裏にもよぎるためか、全体のペースは若干落ち着いた。
タキオンもそれを見越して、5番手という位置を変えぬままに脚を緩める猶予が生まれた。
「いいぞ、無理なく行け。ジャングルポケットもダンツフレームも、集団をかわすために大きく動かなければならない、タキオンは焦らずに前へ進めればいい。」
タキオンの考えていることはもちろん鷹木には直接伝わらない。
しかし、レースの状況を見さえすれば、その場に置かれたタキオンがどう判断しそうか、手に取るように分かった。これこそが、担当トレーナーがウマ娘の走りを理解することに他ならなかった。
〈カオリジョバンニが行っている、最ウチからはテイエムゴーカイが上がろうとするところ、後方からウマレナガラノ、中団へ接近、のこり800を切りました!ダンツフレーム、集団に囲まれていましたが何とか外に出たか、ジャングルポケットもすぐ後に続いている!徐々にゆったりとしたペースとなりましたが先行集団の位置取りは変わらない、しかしアグネスタキオンが早くも外に出て上がっていく位置につけています!〉
〈わっ、これは、来そうですよ、タキオンちゃん!ここまで全く無駄のない走りですから、スタミナはかなり余裕あるはずです!本気を出せばぶっちぎりじゃないでしょうか!〉
それは鷹木トレーナーや、長らくウマ娘レースを見続けてきた実況アナウンサーでなくとも、一般の観客たちにも見て取れるところであったろう。
スタートで出遅れたジャングルポケット、レースのあいだ周囲の競争相手達にブロックされ続けたダンツフレーム、彼女らとは異なってアグネスタキオンは上手く立ち回り、全くマークされることなく思い通りのペースで足を運んでいるのだ。
「だからこそ……タキオン、羽目を外すんじゃないぞ……!」
鷹木の脳内には、さきほどシャカールから告げられたParcaeの予測が再び浮かんできていた。
アグネスタキオン、5バ身もの大差で皐月賞を勝利。現に今、タキオンのライバルたる面々がことごとく不利な状況に陥っているレース模様を見れば、それは充分に現実的な予測だと感じられた。
その予測通りにレースが運んでしまったが最後、アグネスタキオンは脚を故障し、走り続けられなくなり、この皐月賞を最後にウマ娘レースを引退することになるだろう。
何の根拠もない中、鷹木はその不吉な予測に確信を抱いていた。故に、タキオンと予め定めた通りの作戦へ、全てを預けた。
〈3,4コーナーの中間に向かって、さぁアグネスタキオンがゆっくりと動き出した!その後ろでバ群がひと固まりになっていきます、最後の最後までアグネスタキオンは呑まれなかった!しかし大外からジャングルポケット!ジャングルポケットがコース外側に出して、こちらもじわじわと上がって来た!そのウチ側に並んでダンツフレーム!集団に揉まれ続けましたがどうにかダンツフレームも抜け出した!〉
〈いやあそこから抜け出してくるのはコース取りが上手いですよ!ジャングルポケットちゃんも、直線向いたら本領発揮ですよ!〉
スペシャルウィークの声はジャングルポケットとダンツフレームの姿を応援してはいたが、しかし黄金世代として数々の激戦を駆け抜けた彼女自身、どのウマ娘が勝つかは既に見切っていた。
ダンツフレームは執拗な周囲のウマ娘のブロックから、必死の思いで前に抜け出たところであった。
人気度上位のウマ娘をマークしようとする動きはどのレースでも存在するが、序盤からハイペースで飛ばしたタキオンについていけなかった面々は3番人気ダンツフレームへのマークに集中したのである。
そしてジャングルポケットは最後方からの集団を大きく迂回する大外のコースで上がってくるところである。スタート直後のタイムロス、大回りさせられる距離のロス、これらが痛くないはずもない。
「行ける、行けるから、タキオン、落ち着けよ、ウマ娘の本能に呑まれるなよ……!」
レースに勝ち、そしてタキオンに怪我をさせないための作戦を確立させた鷹木に、あと出来ることは祈ることだけだった。
勝利を、ではない。
運命が、タキオンからレースを奪わぬことを。
〈最後の直線に向いた、アグネスタキオン先頭だ!ジャングルポケットも来た!200の標識を通過!最後の坂にかかって、アグネス先頭!アグネス先頭!ジャングルポケットが追いすがる、ダンツフレームも来ている!並んでいる!並んでいる!これは接戦だ!並んだのはダンツフレーム!ジャングルポケットも来るが、あと少しの差が縮まらない!ダンツフレームが並び続けているが、しかしアグネスだ、アグネスだ!アグネスタキオン、先頭でゴールイン!勝ちましたアグネスタキオン!!〉
〈これって、まるでオペラオーくんみたいな勝ち方……おめでとう!上手すぎる走りでした!タキオンちゃん!〉
大接戦に湧く観客席が歓声を轟かせている一方で、やはりスペシャルウィークはアグネスタキオンの採った作戦をその場で見抜いていた。
だからこそ“速い”ではなく“上手い”と評したのだろう。アグネスタキオンは、2番手にまで上がって来たダンツフレームの速度に合わせ、彼女がちょうど追い抜けない程度の位置をキープしたままゴールしたのだから。
スペシャルウィークは更に、その作戦を指示した鷹木トレーナーの意図までも、理解してしまったかもしれない。ここで自分の担当ウマ娘を骨折させないように、全力を出さず走るよう伝えた判断を。
一方の鷹木は、ゴール直後からタキオンの足取りへ、全身の神経を集中させて視線を向け続けていた。
「本当に上手かった、タキオン、僅差での勝利に留めたな……しかし、お前の脚は……歩き方がいつもと違う、ほんの僅かだけだが……!」
相変わらず、観客席からの歓声には素っ気ない態度を示し、スタスタと地下バ道へ帰っていくアグネスタキオン。
少なくとも予感されていた最悪の悲劇だけは、回避できたのだとは分かった。
骨にヒビでも入っていたら、あるいは腱に断裂でもあれば、レース中の興奮状態が収まると同時に脚には痛みが走り、自力で歩いていくことなど出来ない。
だが、普段から細心の注意を払ってタキオンの脚を見続けている鷹木には、彼女が左足に体重を掛けないよう、庇うような歩き方になっている様がはっきりと見て取れたのだ。
鷹木はトレーナー用のブースを駆け出て、タキオンが向かったウマ娘用控室へと衆目もはばからず走っていった。