〈本日、18時からの開催が予定されておりました皐月賞のウイニングライブは、中止となりました。悪しからずご了承ください。〉
その日、皐月賞後のウイニングライブの中止がアナウンスされた時、観客席にはどよめきと落胆の溜息が響いた。
レース後、ファンたちはウマ娘たちの健闘を称え、ウマ娘たちは観戦しに来たファンたちへの感謝を伝えるために実施されるウイニングライブ。それが行われない場合があるとすれば、理由は大きく二分される。
まず、レース中の事故により、現役復帰が絶望的となってしまったウマ娘が出た場合。それがどれだけ人気度下位のウマ娘であっても、存在を捨て置いて祝勝の宴を開催するわけにはいかない。
世間の記憶に強く刻まれているのは、サイレンススズカの引退原因となった5年前の秋の天皇賞の件である。
実はそのレースで勝利したオフサイドトラップにとってはデビュー6年目でようやくつかんだ悲願のGⅠ勝利でもあり、またそれが秋の天皇賞勝利における最年長記録でもあり、今なお破られていないのだが……「沈黙の日曜日」と称されたその日、ウイニングライブが行われないことに対しては、苦情が1件たりとも入らなかった。
3年前の京都記念にてケイズドリームが骨折した時も、昨年のフューチュリティステークスにてタガノテイオーが骨折した時も……幾万人と詰めかけた観客たちは、ウイニングライブの中止に文句は言わなかった。
〈いやーでも今回の場合はね、誰かが大怪我をしたから中断、ってわけじゃないぶん良かったですよ!本番の大舞台でのレース、何が起こるか分からないものですから。〉
〈本当にそうですね。スペシャルウィークさん自身も、様々な局面を体験されてこられましたし。〉
実況解説席に残っていたスペシャルウィークは実況アナウンサーとともに、観客たちが帰っていくまでの時間をトークでつなぎ、彼らの不満が沸き起こってこないよう努めていた。
ウイニングライブが行われない理由の、もう一つは……担当トレーナーの判断により、センターに立つべきウマ娘をステージに上げることが拒否された場合である。
バックダンサーとなるウマ娘ならばいざ知らず、そのレースにて一着となったウマ娘、すなわちウイニングライブではセンターで踊り歌うはずのウマ娘を、他の者で代替するわけにはいかない。
この皐月賞で一着となったウマ娘は、アグネスタキオン。
その担当トレーナーである鷹木は、アグネスタキオンをウイニングライブに参加させないとの決断を運営側へ通達していた。
〈スペシャルウィークさんはどう見られましたか?レース直後のアグネスタキオンは怪我をしている様子はなく、普通に歩くことは出来ていたようですが……。〉
〈歩くだけなら問題なくても、やっぱり腱を痛めたように見えましたね。左脚を庇うような歩き方になっていたので、やっぱりここは無理をさせるべきじゃない、との判断は妥当だと思います!〉
実況席では、観客たちの大多数が抱いているであろう思いを代弁するかのように実況アナウンサーが尋ね、スペシャルウィークが答える形式にてやり取りが続いている。
単に観客たちの不満を宥めるためという意味合い以上に、スペシャルウィーク自身が理解を広めたいと考える部分でもあった。
ある意味、ウイニングライブはレースを終えたウマ娘が、負傷とは無縁の状態にあることを確認するための舞台でもある。ステージ上で元気いっぱいの姿を見せられるのは、身体を壊すほどに酷使して走っているわけではないことの証明であった。
一般には大した症状に見えない程度の負傷であっても、処置が遅れれば劇的に悪化してしまう恐れは十分にある。その恐れを見極め、今後の判断を下すのが、担当トレーナーの仕事の中でも特に重要な部分なのだ。
〈たしかに、一度大きな怪我をしてしまうと、レース本番の舞台に戻ってくるのが難しくなるという事態は、現役ウマ娘の中でも珍しいことではありませんからね。〉
〈はい、アグネスタキオンちゃんにはじっくりと体を治してもらって、また元気な姿をターフの上で見せてくれればと思います!〉
実況アナウンサーとスペシャルウィークのがレース場に響く中、まもなくアグネスタキオンを乗せた救急車が、中山レース場を出発して間近の病院へと急行した。
鷹木の判断は、誤りではなかった。スペシャルウィークが実況席から見抜いた様も、間違っていなかった。アグネスタキオンは、左脚の腱を痛めていた。
重篤な断裂を引き起こしていなかったのは、やはり事前の打ち合わせ通り、全力で走らぬ選択を採ったおかげであろう。
だが、レース終了から時間が経ち、ハッキリと左脚のふくらはぎが赤く腫れ、熱を持ち始めているのは、軽度とはいえ筋組織に損傷があることを示していた。
タキオンの診断を行った医師は、鷹木に検査結果を印刷した紙面を渡し、口早に要点を告げる。
「エコー検査の結果、軽度の炎症が確認されました。あれほどのレースの中、完全に腱が切れる損傷にまで至っていなかったのは幸いですな、手術を行うほどではありませんが、抗炎症剤を投与しつつ安静にしてもらって、様子を見ましょう。」
「本当にそれで治るんですか?タキオンは、これからクラシック路線のレースも予定しているんですが。」
食い下がる鷹木トレーナーの顔を、医師はチラと見た。
鷹木の浮かべている表情が、焦りよりも不安によって大きく占められていることを確認できたため、彼は再び視線を逸らした。
焦りのあまり、担当ウマ娘を無理に走らせるようなトレーナーではない、と確認できることが重要であった。
「症状の進行度合いを見ない限りは、何とも。しかし、治癒が不完全な状態で走らせては再発の恐れも高まるので、トレーナーさんにおかれては慎重な判断を要するとだけお伝えしておきます。」
「……分かりました。」
病室のタキオンは、様々な検査を終えて既にリラックスした様子で、スマホの画面に目を通していた。
つい先ほどまで、皐月賞の勝利ウマ娘として何万人もの観衆が響かせる大歓声を浴びていたのが夢の出来事であるかのように、今のタキオンは静かな部屋のなかで独りきりであった。
「タキオン、スマホを見るのもそこそこにして、今はゆっくり体を休めるんだ。」
「いやはや君も医療スタッフも大袈裟に騒ぎすぎだねぇ。私はさしたる怪我を負ったわけでもないというのに……トレーナーくんと事前に定めておいた作戦の通り、走ったおかげでね。」
鷹木もまた、タキオンの脚に起きた異状が大したものではない、と信じておきたかった。
枕元に見舞い客用のスツールを引き寄せ、腰掛ける。消毒液の匂いが染みついた、合成皮革の貼られた座面に触れるたび、ウマ娘担当トレーナーには共通して苦い思い出がよみがえる。
タキオンは、走れなくなったのではない。本気では走らない、全力を出さずに勝つ……という、競争相手には若干なりと礼に欠くものの現実を見据えた作戦が功を奏し、負荷の蓄積による骨折は免れたのだ。
枕元の鷹木からも、タキオンが見ているスマホ画面は覗き込めたが、タキオンはあえて画面に映っている内容を隠そうとはしなかった。
「見たまえ、こんな不愛想な私に対しても、流石に一定数は怪我の容態を案じるコメントが流れている。」
「ホントだな。ファンサービス皆無のお前を気遣う言葉が送られるだなんて、世の中捨てたもんじゃない。」
「……だが、もっと多い声は、『アグネスタキオンは日本ダービーに出走できるのか』という疑問についてだねぇ。」
それは、ウマ娘レースがファン数によっても成り立つ興行である以上、不可避の声でもあった。
皐月賞にて、アグネスタキオンはダンツフレームやジャングルポケットと僅差の勝利を示した。しかし、ウマ娘レースを見続けている観客たちの眼も侮れない。
「私が本気で走っていなかった件については、すでに露見しているようだねぇ。我ながら速度調整は完璧だと思ったのだが、流石にレースしながら演技する経験は私にもないからねぇ。」
「あくまで、観客たちが憶測を言い合ってるだけ……と言いたいが、画像を見返しても、これはハッキリ分かってしまうかな……。」
タキオンの脚が無事であるかどうか、その一点だけに集中していた鷹木は、今になってタキオンの構えるスマホの小さな画面内にて、そのゴール時を捉えた写真を落ち着いて眺めることが出来た。
ゴールする瞬間のタキオンは顔をあげ、ハッキリと加速を止めて減速を開始している体勢となっていたのだ。
並んでいるダンツフレーム、すぐ後ろまで迫っていたジャングルポケットが、完全な前傾姿勢で必死に食い下がってる様と比べれば、違いは一目瞭然であった。
「次こそ、アグネスタキオンの本気の走りを見たい。これだけ余裕のアグネスタキオンなら、クラシック三冠も十分あり得る……そんな声が溢れるのも無理はないか。」
「私にとっては、そのようなこと、どうでも良いのだがねぇ。むろんジャングルポケットくんやダンツフレームくんは、日本ダービーの頃は更に能力を鍛えているだろう。私が全力で走らざるを得ない状況となるのなら、十分に歓迎するが。」
タキオンはいつも通りに間延びしたマイペースな喋り方でつらつらと言葉を並べていたが、メンタルが絶好調な時と比べ、言葉数が少なくなっていることに鷹木は気づいていた。
僅かであれ、タキオンは現状に不安を抱いている。
そのことに自分が気づいている様を、鷹木は示すまいとした。タキオンは自らの内面を見透かされるような真似を、全く好まない。
「クラシック三冠ならば昨年のネオユニヴァースくんが、その特異点たる才覚を発揮して見事に達成したが、しかし彼女も無敗ではない。無敗三冠となれば、かの皇帝シンボリルドルフが為した19年前までさかのぼるねぇ。」
「レースのことを考え始めると、また熱が入ってしまうぞ。」
「失敬だねぇ、幼子じゃあるまいし。気に病み過ぎだよ、さほど重症ではないと医者が言っているというに。」
それでも当然のことながら鷹木としては、アグネスタキオンの脚が治るのかどうかが最大の懸念点であった。
単に熱が入り過ぎて軽い炎症を起こしているだけならば、その日のうちに熱が引いてもいいはずだ。……しかし、翌日になっても、医師の診断は変わらなかった。
「完全な腱の断裂ではないものの、筋繊維を痛めている状態だと思われます。普通に歩くだけであれば問題ありませんが、強い負荷がかかるトレーニングや、レースへの復帰は、当分控えてもらうべきでしょう。」
「当分、というのは、いつごろまで……」
「それは、常にタキオンさんのことを見ておられる担当トレーナーさんの方が、明確に判断できると思われますな。」
少々投げやりに聞こえる診断結果ではあったが、鷹木は言い返すことが出来なかった。
確かに、タキオンの脚に異状がある様は、彼女の脚運びを普段から見ている鷹木であればこそ、ハッキリと見て取れたのだ。
入院着から制服に着替えて病室から出てきたタキオンの歩き姿は、やはりほんの僅かながら体重を右脚に寄せ、左脚を庇っていた。
世間を賑わせたばかりの皐月賞ウマ娘、タキオンの姿が一般の目に触れて混乱に巻き込まれるのを避けるため、トレセン学園が手配したバスが既に病院の送迎口についていた。
バスに揺られながら学園に帰りつくまでの間に、鷹木の肚は決まっていた。
「タキオン。」
「……何だい?」
「日本ダービーには、出走させられない。いつ脚が治るかハッキリしたことが分からない以上、無理にトレーニングを行うことも出来ない。」
鷹木が話している間も、タキオンはバスの車窓の枠に頬杖をついて、外を眺めていた。
中山レース場からトレセン学園へと戻る道は、交通騒音防止の壁面を備えたバイパス道路が殆どを占め、おせじにも窓からの眺めが良いとは言えない。
だが、タキオンはずっと視線を窓の外へ向けたままであった。鷹木の言葉に対しても、返答するまで数秒の猶予を要した。
「まぁ、もとよりそのつもりではあったからねぇ。にしても面倒ではないかい?世間様の期待を裏切る選択じゃないか、彼らは無敗の三冠ウマ娘の再来を望んでいるというに。」
「気にすることじゃない。タキオンがまた無事に走れるようになるための選択だ。」
こればかりは、普段の弱気な鷹木であっても譲りはしない決断であった。
そして、運命が定めた道を外れなければ、タキオンを無事に走らせ続けることなど出来ない、との確信も抱いていた。
タキオンならば無敗クラシック三冠ウマ娘になれるかもしれない……鷹木とてトレーナーの端くれ、そんな輝かしくも虚ろな期待に惹かれぬわけではなかったが、そんな情動の赴くままに進んだ道の先が、破滅的な結末へと至る予感は、怖すぎるほど明瞭に抱かれた。
「タキオン。俺たちは、ひとつ乗り越えたんだ。引き戻されるわけにはいかない。」
「……確信には、早すぎる気がするけれどねぇ。」
鷹木は明確な言葉を用いなかったが、意図するところをタキオンは速やかに読み取っていた。容易に魅力が提示される選択を採り、必然が促すままに進めば、運命には抗えない。
レース場を前にすれば、走らずにいられないウマ娘の本能的な衝動。その衝動に、タキオンは立派に逆らってみせたのだ。
今度は、鷹木が、担当ウマ娘に栄冠をもたらしたいというトレーナーの本質的な欲求を、抑え込むべき時であった。