担当トレーナーたる鷹木と、担当ウマ娘たるタキオンの間での決断こそ定まったものの、それだけで済まされる事態ではない。
もはやアグネスタキオンは、昨年のホープフルステークスも、今年の皐月賞も勝った、名実ともに文句なしのGⅠウマ娘なのだ。彼女が出走するレースの予定は世間の関心事でもあり、ウマ娘レースを中心に回る社会を無視して休養に入るわけにいかない。
そこまでは鷹木も覚悟していたのだが、ある日呼び出された理事長室にて聞かされた内容には異を唱えざるを得なかった。
「記者会見に出席して、俺がタキオンの長期休養について説明を行うのまでは分かります。でも、何故タキオン自身が記者会見に出なけりゃならないんですか、彼女は脚の治癒に専念しなきゃいけない状態なんですよ。」
気弱であることについてはいつも通りな鷹木でありながら、身を乗り出して理事長に反論することに一切の躊躇は無かった。
無論、ウマ娘やトレーナーの姿を数多見て来た秋川理事長とて、鷹木がそのように述べることは全く予想外ではない。
「炬眼、常にウマ娘のためを考えトレーナーの本質を見失わぬキミの意見には、私も意を同じくするところだ。だが、世間は納得しないだろう、レース後の様子を見る限り、タキオンが脚を悪くした様は明瞭ではないのだから。」
「……その程度で済んだからこそ、今が脚を治すため大事な時期だというのに……。」
秋川理事長の表情も、渋いままであった。鷹木を説得する立場ではあれど、当然のことながら理事長自身もウマ娘を記者会見に出席させる決定は積極的に下したものではないのだろう。
理事長に代わり、傍らに立っていた駿川たづなが言葉を引き継いだ。
「トレーナーさん、もしもあなただけが記者会見に出席し、一方的にタキオンさんの活動休止を告げてしまっては、タキオンさん自身の意思は見えず、担当トレーナーが一方的に決めたことだ、という印象を世間に与えてしまいます。」
「……そう、ですね……。」
「オペラオーさんが引退した際の、骨折のためやむを得ない状況とはわけが違います。見解を発表しないままでいても、無敗の三冠ウマ娘の再来を望む世間は、まだ走れそうなタキオンさんを東京優駿へ出走させない決定を下したトレーナーさんへ、強い不信感を抱くでしょう。」
たづなの口調は柔らかではあったが、理事長が言いづらい内容を代わりに告げる必要があった分、内容は厳しいものとなっていた。
トレーナーがどれほど覚悟を固めたつもりであろうとも、そこにいかなる評が下されるかは第三者が抱く認識次第である。担当ウマ娘が活躍し、世間の話題の中心へと上りつめるほどに、その担当トレーナーに与えられる毀誉褒貶も甚だしいものとなる。
トレセン学園には、ウマ娘と並び、トレーナー達をも護る義務があった。その上では沈黙を貫いても、トレーナーだけが会見しても、良い結末は見込めない。
理事長としては苦渋の決断であったろう。
「配意、会見会場ではタキオンの脚の負担にならぬよう、万全を期す!車椅子や松葉杖など補助具を用意させるのは勿論、医師を常駐させ、タキオンの体調次第では会見も中断する。私とたづなも同席することが決まっている。条件を呑んでくれるか、鷹木トレーナー?」
「……分かりました。タキオンの容態を第一に、であれば……。」
鷹木が首を縦に振ったのは、秋川理事長の言葉が信用に値するものだと判断できたためであると同時に、理事長や駿川たづな自身も十分すぎるほどに重責を負っていることが理解できたためでもあった。
記者会見の手配は速やかであった。対応が遅れればそれだけ、批判の付け入る隙が増えてしまう。
会見会場は、トレセン学園からは少々距離がある都心、各メディアの記者たちも容易に到来出来る位置の貸しホールが選ばれた。
普段からトレセン学園から記者たちに向けての会見があるたびに用いられる会場ではあるので、準備をするスタッフたちも手慣れたものであったが、鷹木としてはタキオンの脚への負担が気がかりなままであった。
移動のバスの車内にて、段取りの打ち合わせの合間合間で視線を向けてくる鷹木に対し、当のタキオン自身は完全にリラックスしきった表情を向けていたが。
「どうしたんだいトレーナーくん、緊張感を和らげる薬品でも欲しいのかい?持ってきてはいるのだが、非常に甘ったるい味だから胸焼けを併発しないか気がかりなものでねぇ。」
「持って来てはいるのかよ。」
全く普段と変わらぬ調子をキープしているタキオンとのやり取りは、確かに鷹木の緊張をある程度和らげる効果があった。
タキオンにとっての関心事は、レースでの走りを通してウマ娘の限界に至ること、定められた運命をいかに乗り越え、特異点に至るかということ……それに尽きていたため、記者会見が目前に迫ったところで大した緊張感など無いのだろう。
精神状態が、今なお腫れの引かないタキオンの脚に悪影響を及ぼさないかとの鷹木の憂慮は、今のところ懸念の段階に収まっていた。
大勢の記者が待ち構える会見会場へと入り、無数のライトやカメラ、マイクを向けられた状況に立たされても、アグネスタキオンの表情に緊張の色は表れなかった。
思えば、ウマ娘レースの観戦スタンドの方がよほど観客の数も多く、大歓声に包まれて表情ひとつ変えぬ彼女が、今さら数十人程度を前にして緊張するはずもない。
記者たちへの一礼もそこそこに用意された椅子に腰かけ、背もたれにゆったりと体重を預けているタキオンにシャッター音とフラッシュが集中している傍ら、立ち上がった秋川理事長がマイクを持ち口を開いた。
「誠恐、お忙しい中お集まりいただき感謝する!この度は、当トレセン学園に在籍するウマ娘、アグネスタキオンより重大な発表がある!」
記者たちは、秋川理事長の声が響き渡ると同時に静まり返った。
前置きがごく短く終わり、間もなく本題に入ることは明白であったためだ。この時期に、皐月賞を勝ったばかりのウマ娘に関しての発表内容を、聞き逃すことは出来ない。
速やかに席に着いた秋川理事長とは対照的に、タキオンは椅子に座ったまま、ゆったりとした動きでテーブル上のマイクを引き寄せる。
彼女が座ったままの状態で記者会見に臨むことは、鷹木が指定した通りの扱いであった。
その姿勢のまま、タキオンは興味のない事についてはいつも通りに、単刀直入に今回伝えるべき核心へと突入していった。
「私はレース出走を休止する。次の日本ダービーには出ない。現状の決定事項は、以上だ。」
一瞬の沈黙のち、記者たちの集団のなかにどよめきが巻き起こる。
無論レースの直後、ウマ娘が怪我や不調のために休養に入るのは珍しいことではない。現に、いかにも予想外の報せに驚いたかのごとく振舞っている記者たちの中にも、ある程度今回の発表内容を予測していた節はあるだろう。
とはいえ、あまりにもタキオンの口調があっさりとしたものであり、その調子で重大な事項をサラッと告げられたことに対するリアクションとしては、あながちオーバーでもなかった。
鷹木の背を走る冷や汗は、いよいよ滝のごとく増していった。
タキオンの負担を増やすまいと考慮した結果、タキオンは最低限のことだけを喋ればいいという段取りではあったが……言葉足らずな説明を聞きますます情報に飢えた記者たちを前にして、対応すべき責は自分にもあった。
さっそく、気の早い記者から質問の声が上がる。
「あの、休止の原因は何でしょうか!タキオンさんが日本ダービーに出走することは、全てのファンに待ち望まれているはずですが!」
「質問の時間は後ほど設けますので、その際にお聞き下さい。これよりアグネスタキオンの担当トレーナー、鷹木から詳細な説明を行わせます。」
駿川たづなが物腰柔らかな、しかし奥に静かな迫力を伴った声で早々に記者からの勝手な質問を制する。
さすがの存在感を前にして、沸き立っていた記者たちの集団も改めて静まった。これから説明を行わねばならない鷹木にとっては、ますます緊張させられるシチュエーションであったが。
鷹木もマイクを手にした際、席からは立ち上がらなかった。タキオンのすぐ隣に座り、彼女の状態を視続けられる位置に居る事がトレーナーとして第一であった。
「アグネスタキオンの担当トレーナーを務めさせていただいております、鷹木と申します。このたび、自分とアグネスタキオンとの間で綿密な話し合いの場を持った結果、アグネスタキオンがウマ娘レースを休止するという決定に至ったことを、改めてお伝えいたします……。」
それ以降の文言は、むろん事前に喋るべき内容を用意した通りではあったが、鷹木は視線を一度も手元に落とすことなく話し続けた。
タキオンの脚に、筋繊維の損傷が原因とみられる炎症があること。その炎症は、今なお引く気配がなく、腫れが収まっていないこと。手術を行う程ではないが、完治がいつになるかは不明であること。脚の状態が元に戻るまで、トレーニング自体を無理に再開させられないこと……。
いずれも重要度では同列に並ぶ内容であり、説明として後回しにしたくないものばかりであった。
仮に鷹木が何の用意も無く説明を求められれば、いかにタキオンが大変な状態に陥っているか伝えようと必死になるあまり、冷静にこれらを順序立てて説明することは難しかっただろう。
「日本ダービーにつきましては、あと1カ月弱ほどの期間しかありません。全く怪我の無い状態であっても出走に向けての調整は厳しいスケジュールです、怪我の再発の恐れも鑑みれば、日本ダービーにアグネスタキオンが出走することだけは確実に不可能である、との判断を下しました。」
冷や汗と緊張感を絞り出さんばかりの状態で喋り終えた鷹木は、それでもタキオンの担当トレーナーとして世間に不信感を与えまい、と声を震わせずにどうにか言い切った。
それでも、秋川理事長や駿川やよいほどの毅然とした態度には至らなかったためだろう。こちらにマイクやカメラを向けている面々の間には、ふたたびざわめきが沸き起こりつつあった。
事実上の進行役を務めているたづなの声が、再び彼らの喧騒を遮った。
「では、これより質問を受け付けさせていただきます。質問のある方は挙手を願います。質問回数はお一方につき一度のみとさせていただきます。」
続々と手が挙がる。殊に若手と見える記者たちは、他所の記者を押しのけんばかりに身を乗り出して挙手している。
こういった場においても、これまで数多のウマ娘たちの記者会見に同伴してきたたづなは対処に慣れていた。鷹木が説明を始める前、先走って勝手に質問を発言した記者を真っ先に指名する。
後回しにしてしまうよりも、記者から投げかけられるであろう質問内容がこちらの予測内に収まっている内に処理しておくべきであるためだ。
「アグネスタキオンは皐月賞での勝利時、かなりの余裕を残しているように見えましたが、それでも次のレースに出られないほどの状態だと仰るのでしょうか?他のウマ娘に比べて、かなり負担の少なそうな走り方をしていましたし、今も普通に歩いて記者会見に来られていますが!」
やはり、と言うべき質問内容であった。皐月賞のゴール時の写真を見れば、誰しもが思い浮かぶことである。
皐月賞の結果を報じるニュース記事には、どの出版社もこぞってゴールする瞬間のタキオンの姿を画像で載せていた。他の競争相手、ダンツフレームやジャングルポケットなどは前傾姿勢で懸命に最後の足掻きとばかりに苦悶の表情を浮かべている一方、タキオンは背筋を伸ばして顔をあげ、悠々と減速を始めているのだ。
『タキオン、余裕の勝利』『無敗の三冠、再来か』との煽り文句には、鷹木は顔をしかめざるを得なかったが。ともあれ、予測された通りの質問に対し、返答を迷う必要はない。
「皐月賞の最後、速度を出しすぎずに勝つよう指示したのはトレーナーである自分です。脚に掛かる負荷の大きさを検討した結果、全速力で走ると骨折に至る可能性が高いと判断しました。タキオンが、今後もウマ娘レースを続ける道を断たぬための決断です。」
「しかし、全力の勝負を行わないというのは、他の競走ウマ娘たちに対する失礼にあたるのでは!」
「質問回数はお一方につき一度です、他の記者さんに順番を回していただけますか。」
有無を言わせぬ語調で駿川たづなの声が割って入り、目を多少ぎらつかせていた若い記者はすごすごと引き下がった。
とはいえ、他の記者たちからの質問もまた似たり寄ったりではあったが。
「タキオンさんの休止期間はいつごろまで続くのでしょうか!脚がいつ治るのか分からないということは、実質無期限休止と見てよろしいでしょうか!」
「皐月賞だけを勝って、クラシック路線の他のレースに出ないというのは、他のウマ娘から三冠の夢をただ奪うだけの行為ではありませんか!」
「鷹木トレーナーは、タキオンさんのデビュー戦でも本気で走らぬよう指示を出されたそうですが、ウマ娘が全力で走る姿を観客の皆さんに見せるおつもりがないのでしょうか!」
次々に挙手されては飛んでくる質問に対し、鷹木が、時には秋川理事長みずからが、出来得る限りの返答を行っていく。
鷹木の隣で、タキオンがあくびをかみ殺している、小さく息の漏れる音が聞こえた。さすがの彼女も、殺到する記者たちの前で大あくびを披露するほど無神経ではないが、それでも退屈さに我慢できなかったのだろう。
どの質問も、わざわざ答えを求めるまでもなく、分かり切った返答しか予測されない類のものばかりであった。若手のインタビュアーばかりが手を挙げていたためでもあったろうが。
しかし、質問受付時間の終盤、ベテランと見える女性記者が放った質問を前に、タキオンも鷹木も姿勢を正すこととなる。
ショルダーバッグを掛け、白のスーツ姿が印象的な彼女は、他の素人同然の新米記者とは異なり、きちんと所属する社名と自分の姓を名乗ってから質問を述べた。
「月刊トゥインクルの乙名史です。鷹木トレーナーはアグネスタキオンさんの脚が無事であることを想定し、日本ダービーに出走する際のプランも定めておられたことと思われますが、どのような作戦を予定されていましたか?」
たった一度の質問で、複数の事項についての確認を取る、記者としての手腕を感じさせる発言だった。
たしかに鷹木が担当トレーナーとしてアグネスタキオンの無事を最優先で考えているのならば、皐月賞を無事に乗り切り、日本ダービーに出走するという流れも皐月賞前に想定していて然るべしだ。
レースにたらればは禁句だが、しかし担当トレーナーが既に方針を定めているべき時期であったことについては間違いない。
何しろ、1カ月弱しか間がないのだから、皐月賞を走り終えてから初めて日本ダービーに向けた対策を講じ出していては遅い。乙名史と名乗る記者は、レースに出走するウマ娘の実情についても熟達しているらしかった。
この質問に答えられれば、鷹木が最初から皐月賞さえ獲れればよい等とは考えていなかったとの証明になり、本気で走らせなかったのは次のレースに出走することを第一に考えての判断だったという言説も実証される。
逆に、答えられなければ……抱かれる懸念や邪推の方が真であると証明されてしまう。
先ほどまで退屈そうだったタキオンが、急に目をイキイキと輝かせながらニヤニヤしだしたのを横目で見つつ、鷹木はマイクを手にした。
もちろん予め決めておいた回答内容にはない返答であったが、これはトレーナーとしての本業である。
「日本ダービーの行われる東京レース場芝2400mは、長い直線のため最大の脅威となるのはジャングルポケットの加速です。他の出走ウマ娘も彼女を警戒するため全体がスローペースになることが見込まれますが、タキオンが出走できるのならば序盤から先頭を追い立て、ジャングルポケットに最終直線まで足を溜めている余裕を与えない作戦を予定しておりました。」
「タキオンさんならばスタミナ残量にも十分に留意して進められるとの判断ですね、ご返答ありがとうございます。」
乙名史記者は、質問ではなく終わり際の挨拶として述べた内容に、鷹木が我知らず頷いたところまで確認して着席した。とことんまで、情報を引き出す優秀な記者の在り方がそこにあった。
それ以降もチラホラと記者たちから手が挙がるも、結局はどれも大差ない内容ばかりに終始し、記者会見は終了した。
カメラのシャッター音が鳴り響く会場を後にして、鷹木は冷や汗を拭って今にでもその場にしゃがみ込みたい思いでいっぱいであったが、担当ウマ娘を支えるべきは自分であると思い直し、タキオンに声をかけた。
「タ、タキオン、脚は大丈夫か、あれだけの記者に囲まれて、気分は悪くなってないか……?」
「レース場の大歓声と比べれば無いも等しいさ、私は何ら問題ないねぇ。それよりもトレーナーくんの方が大丈夫かい?すっかり顔色を失ってしまっているじゃないか。」
タキオンはむしろ、機嫌を良くしているようだった。原因はもちろん、鷹木がアグネスタキオンを日本ダービーに出走させる想定を有していたことを、あの記者たちを前にして存分に証明したためだろう。
それに……鷹木の述べた内容は、タキオンに実際に自分が走っている光景をイメージさせる助けも与えたようだった。
「しかし酷な質問をするものだねぇ、あの乙名史という記者は。この私自身は皐月賞だけでも十分だと思っていたのだが、今になって日本ダービーに出られないことを悔いる思いが出てきてしまったじゃないか。」
「俺はずっと悔いている、タキオンを活躍させられないことを。だが、皐月賞で脚を壊してしまっていたら、それこそ悔いが永遠にまで延びるところだったんだ。」
「……あぁ。トレーナーくんに止められなければ、ウマ娘の限界にばかり見惚れていた私は、私の脚を顧みなかっただろうねぇ。」
直接的に感謝の言葉を述べないのは通常通りのタキオンであり、だからこそ鷹木を安堵させる振る舞いであった。
タキオンが素直な物言いをするときはいよいよ彼女の心が弱っている状態であり、そうでない今は本来の調子を取り戻せている何よりもの証だった。